朝9時半。ほとんどのウマ娘たちのトレーニングは9時から開始されるので、この時間はもう既に散り散りになっているはずだが、今日に限っては皆、誘い合わせるでもなくグラウンドに集結していた。
《告
次の通り、生徒会長権限に置いて貸切ることとする。
日時:本日朝10時より11時30分
設備:グラウンド(芝)
用途:併走トレーニングの為》
などという文書がでかでかと掲示され、朝食の時間は、そんな大層なことをしてまで並走するのは一体誰なのかという噂でもちきりだった。そのうえ、それを出した生徒会長みずからが走るという尾ひれまでついてしまい、もう大変なことになっている。走りを意識するどんなウマ娘にとっても、7冠という実績に裏打ちされた皇帝の走りは見逃せるはずもない。そうして大した確証もないまま、彼女たちはトレーナーの支持を半ば無視しででもグラウンドで押し合いへし合いしているのだ。
当事者であるサイレンススズカのトレーナーもまた、グラウンドのヘリでウマ娘たちに押されていた。コースが一番よく見える場所だ。
「―ああもう、押すなって!お前らと人間じゃ力が違いすぎるってこと忘れんな!」
9時50分。ジャージ姿のひとりのウマ娘が、揺れる芝に姿を現した。―スズカだ。おおおっ、とギャラリーが沸く。この間スペシャルウィークに差し切られ惜敗したとはいえ、やはり最強ウマ娘の一角。それなりの人気はあるらしい。とりわけ速さというステータスにおいて彼女の次元に入れる奴らなどたかが知れている。
心底気持ちよさそうに深呼吸し、芝の匂いを全身に廻す(?)。この目的のわからず生産性のないとんちんかんな行動でさえ、ギャラリーには神聖な儀式のように見えるらしい。あれは人がタバコ吸うようなもんだ。害がないだけ万倍マシだが。
スズカがストレッチに入ると、ギャラリーの話題は《相手が誰なのか》のひとつに集約される。スズカに並び立てる者。スペシャルウィークにリベンジを申し込んだか、はたまたひとつ以上上の世代、マルゼンスキーかナリタブライアンか。いずれにせよシンボリルドルフ直々に認めた並走。とんでもない輩がやってくるのは間違いなかった。
突如吹いた強風に芝がざわめく。
かつ―。こつ―。
地下通路を踏む蹄鉄の音がここまで聞こえる。いくら音が響くとはいえこの距離。通常ならば雑音にかき消されて届くはずもないその音が、スズカの居るグラウンドへ近づいている。
かつ―。こつ―。
その蹄音でギャラリーはすべてを察して息をのむ。そう、スズカが喧嘩を売った相手。それはまさしくシンボリルドルフその人だ。その人なのだが―。
ギャラリーがざわつく。シンボリルドルフ。
なんと、勝負服を纏っておられる。
緑色を基調とするジャケットにミニスカート。その内には白いカッターとジャボがその高貴さをより際立たせている。胸元と腹部に刻まれし7つの勲章はその強さの証明。肩章と鮮やかな赤いマント。それらすべてが、彼女が歩んできた道。これを纏うことによってシンボリルドルフは真の皇帝となる。
無論これはレースでもなんでもない、ただの併走だ。自分のすべてをそこに懸ける理由など1ミリも存在しない。―であるにもかかわらず、シンボリルドルフがわざわざ引っ張り出してまでこれを着ているということは。
「そうとう怒らせちまったみたいだな、こりゃ。」
昨日のエアグルーヴのくだりが効いていたようだ。
スズカの姿が目に入るや否や、皇帝はつかつかと歩みを進める。
「おはよう。」
靴ひもを再度結んでいたスズカだったが、相手が相手であるためさすがに体制を直し―、その服装をみて一瞬ぎょっとした表情を見せるが、悟られる前に修正し、一礼する。
「おはようございます。―すみません、私のわがままに付き合っていただいて。」
シンボリルドルフは優しく首を振る。
「いいんだ。君たちの願いや頼みを聞き入れることも、また私の役目だ。しかし―、君はその服のまま走るのかい?」
トレーニングですし、とスズカは答えたが、それが地雷だったようだ。
「これは私の持論に過ぎないが。」
と前置きを置いて皇帝は語りだした。
「併走をするにあたれば、互いにそれが無駄にならぬよう努力せねばならない。だがときとして、どうしても一方のためにしかならないときがある。どういうときか。―能力の差があまりにもあるときだ。そうなれば併走することもままならない。ならばいかにしてその穴を埋めるのか。相手の為にもならないような併走をわざわざ受けてもらって、自分にできることは何か。それは“覚悟”を示すことだと私は思っている。ついていくことすらままならない相手に対して、それでも私は全力で、私のすべてを懸けてあなたに立ち向かいますと、そういう気持ちを相手に示すことが、唯一報いれる手段だと私は思う。―もっとも、私が今これを着ている理由は、そうあったとしてもそれを全力を以て叩き潰すという意味もあるがね。」
言葉の節々に、スズカでは自分の足元にも及ばないと何回か言われた気がするが、確かに、皇帝に挑みかかる“覚悟”を以て走るにはジャージではいささか華がないかもしれない。
―着替えてきます。
何かに得心したスズカは、特に反論するでもなく素直に引っ込んでいった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
数分後、勝負服を纏ったスズカが地下通路から出てきた。緑と白にアクセントの黄色。何の変哲もないセーラー服調のデザイン。ほかのウマ娘と比べるとあまりにもシンプルな造りになっている。だがそこに、彼女の“より速く”という想いが籠められ、芝がよく似合う。
再び、皇帝に並び立つ。
「やっぱり、これを着ると気持ちが変わりますね。」
微笑むスズカに、皇帝も笑みを返す。
「そうだろう。勝負服とは私が、君が歩んできた道、誇り、挫折、プライド、そのすべてた。これを纏うことで私たちは真に完成すると思っていい。同時に、これを纏うことで、己のすべてをこの走りに懸け、限界を超えていく覚悟を決めることにもなるのだ。」
どうもシンボリルドルフは精神論を説くことが多い。―いや、肉体が完成されてこそのそれか。そういう話をされているということは、スズカもある程度は認められているのかもしれない。
「距離は2400。併走といえど私のペースを崩すつもりはありません。それでいいですね?」
それではほとんど模擬レースだな、と皇帝は微笑み、それを最後に鬼が宿った。
「位置について。用意―!」
一陣の風と、皇帝の神威が、スタートラインを蹴り飛ばし、彼方へ駆けていった。