スタート、の合図と共に駆けだす両バ。わっと湧き上がる歓声を背にして、スズカがハナを獲りそのまま3バ身ほどの差をつけた。ほんの少し皇帝が目を丸くする。絶対にハナを獲るというスズカのスタートから序盤にかけての、殆ど本能といっても差し支えないレベルの集中力の前には、彼の皇帝シンボリルドルフも叶わない。甘んじて3バ身差を受ける外なかった。
「ほう―。」
しかしそれ以降はシンボリルドルフも譲らない。並びこそしないものの、スタート直後に付いた差を縮めも広げもしない走りで、常に一定の位置からスズカにプレッシャーをかけ続ける。スズカのやりたいようにやらせ、それに合わせるカタチで自分が出られるタイミングを伺い計る。現状の3バ身という差が後半になってどう影響するだろうか。距離的にはそろそろ1200を過ぎようとしていた。
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やはり私のスタートには誰も着いてこられない。皇帝を2バ身から3バ身程度後ろに置いて、私はさらに、一番楽に走れるスピードまで加速していく。20と書かれたハロン棒を過ぎるあたりで、私のスピードは出来上がっていた。あとはこのまま2000メートルを駆け抜けるだけ。
そう、私はスタートから400メートルを加速し続けている。なんだったら今も少しずつ伸びている。にも拘わらず、後ろの脚音は一向に小さくならないし、その存在感もやはり感じる。この間のスペちゃんが上がってきたときのような不安が、動揺が今一度私を襲う。それらを無理やり頭の端に追いやり、置き去りにすべく私はさらに脚を伸ばさざるを得なかった。まだ、私は私のレースができている。私の走りを貫ければ、負けることはないだろう。
16と書かれたハロン棒を通過した。は、は、は、は、と規則正しい呼吸が私に酸素を供給する。体温は上がっているし発汗もいつもより多いがまだ大丈夫。押さえろ、我慢だ。これ以上伸びると終盤で垂れそうになるギリギリなところまで来ている。15。―14。―13。ラストスパートへのカウントダウンは着実に進んでいるけれど、相変わらず後ろは序盤つけた3バ身という差を守り続け、詰めるでも退くでもなくじっと息を潜めて私を狙い続けている。不気味なほどにこちらに合わせてくる。私が少し伸びれば後ろもそれだけ伸ばすし、息を入れればそれ以上は追ってこない。まるでダンスを踊るように、私たちの動きは合っていて、しかしながら隣り合うことはなかった。
10のハロン棒を過ぎる。そろそろ息を入れるときだ。差が詰まるのを覚悟で、悟られないように少しずつペースを落とし、ラスト800メートルを全力で走り抜ける準備に入っていく。
相対的にシンボリルドルフの方が速くなったのか、私のすぐ後ろにいるような気配を感じる。けれど、私のやることはかわらない。あの時感じた背中の迷いはもう振り払った。
9のハロン棒を通過したあたりで多少なりとも脚は戻った。最後の曲線半ばで8のハロン棒。そこからスパート。それまでの残り100メートル。それまで粘り切れれば私の勝ちだ。
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シンボリルドルフのスタートは決して悪くはなかったのだが、序盤はスズカに前を奪われた。そもそもの話彼女のレーススタイルは逃げで、シンボリルドルフは先行か差しなのだから、シンボリルドルフが彼女の前に立つといってもほんの序盤も序盤だけだっただろう。しかしながら、そうして前に立ちスズカを掛からせることができなかったのはそれなりの痛手に感じる。
圧倒的能力で勝つ、ということは、その他―、挑みかかるウマ娘のやりたいレースを存分にやらせて、それを強引にひっくり返すことにある。そしてそれは今も例外ではない。シンボリルドルフはスズカの後方3バ身程度の位置につけると、プレッシャーを放ちだし、抜き去るタイミングを伺う。
10のハロンを通過した。スズカのペースが少しだけ落ちる。おそらく800まで息を入れるつもりだろうが、ここでシンボリルドルフは僅かながらペースを上げてきた。あっという間にその差は半バ身。前に倣えをして、それよりも距離的には短い。8のハロンを通過した直後、加速するスズカを横目に、赤いマントを掠めてシンボリルドルフがとうとう本気を出した。
まるで稲妻にでも撃たれたかのように加速していくシンボリルドルフ。一瞬でスズカの前に躍り出てもう3バ身。スズカもすべてをかなぐり捨てて全力で追うが、それでも差はじわりじわりと広がっていく。
残り400メートルを通過し、なお皇帝は加速する。止まらない。スズカのエンジンも掛かりに掛かっているはずなのにまったく追いつける気配はない。いくら足を延ばしても、どんなに懸命に腕を振っても届かない。はあ―、はあ―、とスズカの呼吸が大きく、荒くなる。それでも酸素が足りず、顎が上がり、前傾姿勢を保つことができない。結局スズカはそのまま失速してしまい、8バ身差という圧倒的敗北を味わうこととなった。
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800のハロンが見えてきた。息を止め、姿勢を低くし、前に倒れ込むように加速する。―これだ。私が欲しかったスピードは、意外に早く捕まえることができた。あとは最後まで駆け抜けるだけ―、
ぶわっ
赤い何かが、視界の端のほうを掠めていった。私が抜かれたことに気づいたのは、それからほんの少し経ってからだった。
なぜ。
どうして。
私より速いウマ娘なんているわけがない。そんなものがいていい筈がない。私を差し置いて先頭に立つなんてこと、ハナを奪うことなど許されるわけがない。
3バ身先にある私の“定位置”を奪い返すべく、なりふり構わず加速する。フォームがどうとかなんて関係ない。力んだって関係ない。とにかく全速力だ。体力が続くか、怪我しないか、そんなこと知るもんか。私の席を奪ったウマ娘を引きずり下ろす。ただそれだけのために、私は懸命に腕を振り足を動かす。
残り200。差は縮まらない。届かない。それでも私は執念で走り続ける。あの場所は、その景色は私だけのものだ。許さない。息もたえだえ、顎が上がる。体がばらばらになりそうだ。どうにか意識を、体を、執念を、意地を繋ぎ止めて私というカタチを保ちながら走り続ける。
”私だけの場所”はすでに6バ身は先をいっている。どこか冷静な私が、もういいじゃないか、勝負は決したと語りかけてくる。それを振り払い、我武者羅にでも足を進める。
もはや自分がどんなフォームで走っているのか、ちゃんとまっすぐ走れているのかすらわからない。
それでも、どうしても譲りたくないもののために私は走る。たとえそれがどんなに離れていようと、私はそれを追い求めて、奪い返すために走る。
無様な走りかもしれない。やめてしまった方がいろんな意味で得かもしれない。それでも戦う気持ちだけは失いたくなかった。
半ば消え去りそうになる意識をどうにかとどめながらゴールラインを割ったとき、シンボリルドルフは涼しい顔をしてそれを見ていた。