りろりろり、りろりろり、と枕元の携帯が鳴り、ばっ、と飛び起きる。とりあえず予定通り―20時だ。窓の外を見る。きれいに晴れた星空が広がっている。これなら大丈夫だ。心の中でガッツポーズをし、身支度を整えてトレーナー寮を出る。車庫からライトバンを出して正門に回ると、既にスズカは外に出てきていた。
「早いな。」
こちらを見て笑顔になり、いいえ、それほどでも―とスズカは答えた。
「今日はいいところへ連れて行ってやるからな。到着するまでは寝てていいぞ。あとは好きにしてくれていい。」
わかっているようでわかっていない表情のスズカを車に押し込み、ドライブが始まった。木々の生い茂った道路を走ってゆく。このトレセンも大概な山奥に位置しているが、それよりも高く、険しく、深い山道へと入っていく。無言の時間が続くが、不思議と気まずくはない。気を使わない、という点では一人でいるのとそう変わらない時間が、運転という動作へと昇華されていく。スズカは流れていく景色を見ていた。彼女はこの時間を、何に変えているのだろうか。少しだけ気になったが、それは今重要なことではないので、車を先に進めることを優先した。
やがてアスファルト舗装が荒くなり、街灯が消え、ただ真っ暗な道を進むだけとなる。小石に車が揺れ、スズカの体が細かく上下する。いい感じにそれが作用したのか、スズカは完全に寝入ってしまった。―起こさないように注意をはらいながら、車はさらに深い林道へと入っていった。
数十分が過ぎだ。車の窓を開けていると、りー、りー、という虫の声と一緒に、山奥特有のつめたい空気が車内に入ってくる。それに反応したのか、ぶるっと体を震わせてスズカが目を覚ました。
「ん―、ここは…、トレーナーさん…。」
近くに自分以外の者がいるとわかって安心したのか、またすぐに寝息をたてはじめた。
がたごと、がたごと、という揺れが、目的地がもうすぐ近くだと教えてくれる。あのトンネルを抜ければ到着だ。
ごおお―、という音を立ててトンネルをくぐり、開けた広い空間に出たところで車を停め、スズカを起こしてやる。
「―ほら、着いたぞ。」
目をこすりつつスズカも車から降り―、その景色に息をのんだ。
「わあ―。」
つめたい夜風。揺れる芝。満点の星空。条件だけでいえば、彼女が普段勝手に走っているトレセンのグラウンドと酷似していた。―ここを誰も使っていないという点を除いては。
「お前の担当になる前はな、俺や担当の娘に何かあったとき、決まってここに来ていたんだ。」
かなり前に打ち捨てられた競バ場。はるか昔にたまたま訪れたそこはもはや廃墟だった。通路や看板は穴だらけ、外装は錆くれて朽ち果てつつある。駐車場などもはや存在しなかったかのように緑が茂り、もはやそこが何であったかわからないほどだが、芝はまだ辛うじて生きていた。それ以降少しずつ芝を手入れし、自分自身や、ほかの誰かが悩めるときにここへ連れて来るようになった。
「―すごい。こんなに広いコース…、学園にもありませんよ。」
月明かりに照らされ煌めく芝に負けないくらいきらきらとした表情のスズカ。そんな表情を見るのも、久しくなかったように思える。
スズカの横に並び立ち、用意していた言葉を、ひとつひとつ紡ぐ。彼女の心に届くと信じて。
「最近、走ることが嫌になってないかと思って。―俺はやっぱり、勝つためにいろいろ考えて、自分を曲げてまで走るスズカより、ただひたすら自分の為に速さを突き詰めていたころのスズカが好きだったから。俺が惚れ込んだのはその速さへの拘りなんだ。確かにレースに勝つことを考えるとそれだけじゃ足りんが、ことの本質はそうじゃない。」
ざあ―、と風が吹き込み、言葉が途切れる。ざわざわ、と木の葉がざわめき、少し経ったあと、2、3歩スズカが先に行った。
「確かに、前の私はそうでした。少し前にも話したかもしれませんが、ここに来るまでの私は、今このとき速く走ることができればその他はなんでもよくて、それがレースだったとしても、結果を気にすることは全くといっていいほどありませんでした。」
芝にしゃがみ込み、それをそっと手で撫でる。白く照らされた指はとても美しい。
「けれど、学園やトレーナーさんの期待を、スペちゃんの憧れを背負って、私の意識も変わりました。勝って、私に期待してくださっている方々、憧れてくれている後輩に応えたいと、そう思うようになったんです。 」
勝利への執着はウマ娘の本能のひとつだ。彼女の場合他に優先すべきことがあまりにも強すぎて、その執着が希薄になっていたことはわかる。しかしながら、それを呼び覚ます方法はまだわからないままだ。―そして求めているのはそうではない。
「それは大変ありがたいことだが、お前自身はどうなんだ?結局のところ、誰かの期待に応えたいという想いは最終的にはプレッシャーとなってお前自身を縛る枷になる。誰かのために走りたいという気持ちでは往々にして最高のパフォーマンスを出すことができない。多分この前の併走なんかもそうだ。結局は自分がどう思っているかだと俺は思う。誰かのためじゃなく、スズカ自身の想いを叶えるために走ればいいんじゃないか?」
そう思って、ここに連れてきたのだ。一度すべてを振り払って好きに走ってもらう。そうして、かつて彼女が感じていた走ることへの喜びを思い出してもらいたい。
「今日ここは貸し切りだ!昼間もさんざ走ってこれというのもあれだが、今日一晩はここで好きにしてていい。芝の状態は悪くない。コースを走ってもいいし、車の中で寝ててもいい。有意義な時間にしてくれ。俺は荷台で寝てるから、何かあったらいつでも呼んでくれ。」
本人の心の持ちようの問題で、これ以上出来ることはない。あとは任せて、のそのそと荷台へ入った。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
《じゃ、あとはよろしく。》
それだけ言ってトレーナーさんは車の中に引っ込んでいってしまった。―貸し切りなんて言っていたけど。誰も使わないだけじゃない。なんだか、久しぶりにこの人に振り回された気がする。
ふう、と息を吐いて周りを見渡す。学園のグラウンドとは違い、街の灯の一切ない、本物の夜暗が私を包んでいる。それでいながら、地面を覆う芝は月や星の明かりに照らされて白く浮かび上がっている。なんとも言い難い幻想的な光景がそこには広がっていた。
雲ひとつない満天の星空。誰もが見上げるそのひとひとつは、またその誰にも等しく微笑みの光をくれている。トレーナーさんの車のエンジン音だけが小気味よく聞こえてくる。
キラリと一筋、光の糸が流れていった。―流れ星。カタカナに直すとシューティングスターというそれは、スペちゃんのあの末脚のことも指すようになっているらしい。だからといってどうということは無いのだけれど。
視線を前に戻すと、やはり白く輝く芝が目に入った。せっかくトレーナーさんにここまで連れてきてもらったし。芝は綺麗だし。いい風も吹いているし。久しぶりにはめを外して走ってみてもいいか。
日中も専ら走っていたから、脚に疲労はそれなりに来ている。念入りにストレッチをして状態を確認してから、ゆっくりと歩くように前進を始める。―しゃく、しゃく、と踏みしめる芝がこすれる音を聞きながら、少しずつそのペースを速めていく。前に倒れるように。反比例のグラフのように加速度は上がっていく。コーナーを、内か外かなんて考えずにただただ乱暴に、スピードに任せて曲がる。細かいことは考えずに、直線で伸びる。私がずっと繰り返していたことだ。
アドレナリンが湧き、頭の中が走ること、加速することでいっぱいになる。久方ぶりに、私はこうした充足感を得ていた。ウマ娘にとって走ることとは生命活動の根幹に等しい。私の場合はなおさらだ。走らなければならない、という義務感ではなく、はしりたいという想いからなるため誰にも止めることができない。
さらに強く地面を蹴り、脚のリミッターを完全に外しきる。そうだ。私は、ここに至りたくて走り出したのだった。誰も追いつくことのできない、私にしか至れない速さの世界。その果てにあるものを私は知らない。けれど、きっと素晴らしいものが待っているに違いない。
速度を上げるごとに全身が悦びに打ち震える。芝を踏むたびに、このまま飛んで行ってしまいそうになるほど幸せになる。私は今、間違いなく生きている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
空が少しずつ白く染まり、その中に星々が溶けてゆく。世界は再び騒めき出し、複雑なめぐりを作り始める。―夜明けだ。
車窓から差し込む光に安眠を邪魔され、のそのそと車から這い出ようとすると、傍らでスズカが寝ているのに気付いた。…いい寝顔をしている。収穫はあったようだ。
そっと抱えて、後部座席に座らせる。静かに眠るお姫様は、学園に着くまでそれはそれはぐっすりとお休みになられていた。