5月28日。件の大日本ダービーまで24時間を切っている。大一番を控えたこの日、私もスペシャルウィークも仕事や学業、トレーニングなどすべて放棄して一日を過ごすつもりだ。もう昼になるけれど、丸一日の休みなど久しぶりだったので、ついだらけてしまって、ベッドから出られないまま時間だけが過ぎている。それは昨日から私の部屋に宿泊しているスペシャルウィークも同じだった。
「あ゛――――――。」
意味もない声を漏らし伸びをする。いい加減起きるか。スペシャルウィークを起こして昼食に―、とんでもない寝相だ。儀式かなにかのポーズだといわれてもわからない。
「ほら起きるよ!もう昼なんだから!」
その背をぺちぺちと叩く。実のところ私もそれなりにお腹が空いているので、早く起きて一緒に食堂へ行きたいのだ。
「んぅー、おがあぢゃん…?」
このばか!頭を叩くと、乾いた音が響いて若干スカッとした。
「―んぇ?…。ぁ―、トレーナーさん。」
寝すぎて腫れたまぶたと垂れた瞳が私を捉える。
「おふぁようごふぁいまふぅ…。」
再び布団をかぶろうとするそれを半ば強引に引きはがす!
「もう!自堕落は終わり!食堂に行くよ!早く着替えて!」
いくら授業を休んでいるとはいえ、この中にいる以上は生徒の一人として行動しなければならない。かなりもたもたしていたがなんとか制服に着替え、いまだに布団を恋しそうに見つめるスペシャルウィークを引きずりながら私たちは食堂へ入った。
丁度四限目が終わったころだったようで、食堂には生徒が溢れかえっている。購買でパンなどを買って教室で食べる者、数人でテーブルを囲み食べる者とその様態はさまざまだけど、今日はある一角だけ、結構な数のウマ娘がひしめき合っているところがあった。よく見るとそれを遠巻きに、キングヘイローが嫌そうな顔をしつつそれを見つめている。具体的な言葉までは聞き取れなくても、大概騒いでいるのがわかる。
「トレーナーさん、あれ、何なんでしょう?」
不思議そうにスペシャルウィークが集団を覗きこもうとするけれどその中心までは見えない。ぴょんぴょんと跳ねても一緒だから。静かにしなさい。
すると、それを見てかしらずか、キングヘイローがこちらに気づいてやってきた。
「あら、スペシャルウィークにそのトレーナーさん。御機嫌よう。」
しゃなりしゃなりと、トレセンの制服を着ていてもその風格は健在のご様子だ。
「こんにちは。キングヘイロー。あれは一体何の騒ぎなの?」
聞くが否やキングヘイローの表情が険しくなる。
「サイレンススズカよ。明日の大日本ダービーに選ばれているもんだから、それに憧れている娘たちが盛り上がっちゃって。ああやって特にミーハーな娘たちが突撃しているのよ。」
サイレンススズカさんがあそこに居るんですか?!とスペシャルウィークが声を上げる。やめなさい。目立つから。
「ええ、そうよ。―しかし感心はできないわね。あれではサイレンススズカが困るだけだわ。食事も摂れやしない。みんな口々にサイレンススズカの背中を押しているようだけれど。あれでは応援になんかなりゃしないわ。」
それはそうだ。レース前日の行動やメンタルの推移はその大小にかかわらずとても重要。本当に応援する気持ちがあるのならもっと控えめな手段をとるべきなのだ。あれではただ邪魔をしているだけだもの。
「うーん、なんとかして助けてあげられないんでしょうか…。」
心配そうにスペシャルウィークが集団を見る。すると、キングヘイローが悪い笑顔でスペシャルウィークの後ろに回った。
「せっかく、だし、あなたも、一緒に、加われば、いいじゃないの!」
ウマ娘特有の怪力でキングヘイローはスペシャルウィークの背中を押し、集団に加えようとする。
「スペさん!?」
「スペシャルウィーク?!」
「スペちゃん?!」
「スペシャルウィークさんだ?!」
それに気づいたミーハーなウマ娘達だったが、その背を押すキングヘイローに睨まれて動けなくなる。そしてその中央―、あれのいるところまで到達した。」
「わ、っとっとっと―。」
そのあともしばらくもみくちゃになっていたので詳細はわからないけど、わりとすぐみんな退いてくれた。キングヘイローとスペシャルウィーク、そしてあれだけが、食堂に残った。
「大変だったわね。」
ありがとう―、とあれは微笑む。スペシャルウィークも横でにこにこだ。この二人が明日火花散らして本能むき出しで戦うことになるなんて想像もできない雰囲気。
「ご飯を食べましょう!」
あまつさえ一緒に昼食など。―わたしも巻き込まれてしまった。スペシャルウィークと、キングヘイローと、そしてあれと、テーブルを囲む。あれを食事を共にするなんていつぶりだろうか。人間用の―大してメニューはウマ娘と変わらないけれど、私も皿に食材をよそって席に着いた。
あれはあまり自分から喋る方じゃない。基本的にスペシャルウィークとキングヘイローが雑談に花を咲かせ、話を振られたときにだけそれに答える感じで会話が進んでいく。私がどうこうする必要はなさそう。
盛られたチャーハンを食べる。いい感じに醤油とにんにくが効いていて食欲を刺激される。その味と匂いに思考がつい鈍るが、明日はなんとウマ娘だけでなく、そのトレーナーにもインタビューがあるらしい。それも生放送、全国のお茶の間に届けられてしまう。下手なことや滅多なことは答えられない。無難な回答をシミュレーションしておかなければならない。
「トレーナーさん!」
その考えを遮るかのようにしてスペシャルウィークが私を呼ぶ。その瞳は、まるで初めて私と出会ったときのようにきらきらしていた。
「トレーナーさんは以前スズカさんを担当していたんですよね!お互いに、ウマバコにも載ってないような意外な一面とかありませんでしたか?!」
よりにもよって特大の地雷を思いっきり踏み抜いてきたな。ここにきて私の古傷を無邪気に、笑顔で、かわいらしく、かつ力いっぱいえぐってくる。その痛みに死んでしまいそうになるもなんとか平静を保つ。
明らかに答えに詰まっている私を見てか知らずか、珍しくあれが自分から喋り出した。
「そ、そうね…。私たちはそんなに長い間そういう関係じゃなかったから、あんまりそういうのは無かったんだけど…。」
そう。メイクデビューのあとすぐに怪我をさせて私が逃げた。それだけの話なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。とくに仲が良かったわけでもなければ仲が悪かったわけでもない。良くも悪くも普通のトレーナーとウマ娘の関係、距離感だった。
「この人はね、私のトレーニングを見てくれたことが殆ど無いのよ。」
がたがたっと机が揺れる。視線が一斉にこちらに注がれる。いや、それはあんたが言い出したことだろうが。
「い、いや、それはね…?」
「私には教える力がないからあなたの好きにしていいって。そう言ったっきり、私が走ってても視線はずっとパソコンの画面。はじめますとおわりますのあいさつくらいしか、交わす言葉なんて無かったわ。」
なんということだ。あれの口は止まらない。
「と、トレーナーさん、それはあまりにも冷たすぎますよ!」
「そうよ。あなた、トレーナーとしての職務を何だと思っているの?」
困惑した視線と、険しく鋭い視線が私を突き刺す。ここまで言われてしまえば、その喧嘩は買うほかあるまい。私も応戦の口を開いた。
「だっ―て、もともとそういう話だったでしょう?あんた、《私は私のやりかたで私の走りを貫きたいんです》とか言っちゃうから誰ぁれもトレーナー付かなかったんじゃないの。それを《好きにしてていい》って言ってんだから、あんたにとっても悪い話じゃなかったはずよ?」
う。と短くうめいて、あれは視線を逸らす。私に注がれていたふたつの視線は、今度はあれにその砲身を向けていた。
「そ、それは―、あ、あの頃の私は、ちょっと尖ってて―。」
「ちょっとどころじゃないわよ。なによあの《私より速いウマ娘なんて存在しないし許せません》みたいな態度!今ならまあわからんでもないけど、あのころのあんたなんてせいぜいクラシックならG1に出してもいけそうかなくらいな程度だったのよ!」
そ、それって充分すごいんじゃあ―、とスペシャルウィークが漏らした。
「いっつもいっつも門限外に勝手に走り散らかして!たった数か月の間に一体何度私がフジキセキやルドルフや理事長に頭下げたと思ってんの!大概にしときなさいよ大概に!」
ぴくりとあれの耳が動き、むくれた顔をこちらに向けてきた。
「へえー、そんなこと言っちゃうんですかー。そうですか、わかりました。じゃあ私が怪我したときの話でもしちゃおっかなー。あのね、いつかのむぐ―っ!」
大慌てであれの口を塞ぐ。この話はスペシャルウィークにもしていない。できれば墓場まで持っていきたい私の汚点だ。
「わかった。わかった。私の負けよ。頼むからそれは黙ってて頂戴。ね?」
必死に目で訴える。こくこくとあれが頷いたのを確認し、もう一念押してから手を離した。ふうと胸をなでおろす。大勝負の前日にこんなことが暴露されればスペシャルウィークのメンタルに関わりかねない。
「おふたりの間に何かあったんですか?」
あんたが引退するときに全部話すわ。それでいいでしょ?
きーん、こーん、かーん、こーん…。
五限目の開始直前を告げる予鈴が鳴る。―あら、もうこんな時間―とキングヘイロ―が急いで皿を片付けに走った。
「スズカさんは今日お休みなんですか?」
それに倣わないあれを見て、スペシャルウィークが質問した。なにせ明日の予定がほぼほぼ同じ。その疑問は当然のことだった。
「ええ、そうね。今日は丸一日休みよ。夕方から夜にかけて最後の調整はするつもりだけれど。」
私もです!とスペシャルウィークが鼻を荒くする。
後輩という意識からか、憧れという意識からか知らないけれど、私とあれの皿全部まとめてスペシャルウィークが片付けに行ってしまった。テーブルに残された私とあれ。2年―とは云わないが、あれ以来ずっと口を効かなかったのが、何の因果か今日突然。気まずいったらありゃしない。
ありゃしないけど―、やっぱり気になっていたというのは事実。うーん。多分今を逃したらもう無いわね。そう、これは勢い。勢いだから仕方ない。
「―ねえ。」
まさか私の方から話を振られるとは思っていなかったのか、あれの耳としっぽがぴんと立つ。
「その―、新しいトレーナーは、どうなのよ。」
数秒、あぜんとした表情で私を見ていたあれだが、のちに穏やかな笑みを湛えた。
「とてもいい方ですよ。多分、あの人じゃなかったら私は中途半端に尖ったまま、やがて実力が伴わなくなるところでした。一緒に歩んでいける、最高のパートナーだと思っていますよ。」
ちくしょう。晴れ晴れとしためちゃくちゃにいい顔をしている。ちくしょう。悔しいなあ。
「トレーナーさんにも感謝しているんです。私の走りを肯定してくれて、伸ばしてくれましたから。あのとき、そんな方はあなた以外には誰もいませんでした。それは今のトレーナーさんも同じですけど、そもそもは、あなたに出会わなければ私は始まってすらいなかったんだと思います。」
そんな優しい言葉をかけないで。あのときあなたを見捨てて逃げた私を心の底から軽蔑して欲しかった。そうされて当然だと思っていた。なのに、今私の目の前にいるあなたは私の前で燦然と輝き、私に対する感謝を口にした。
その後の出会いに恵まれたのかもしれない。たらればはあれど、あなたはもう乗り越えていたのか。過去に囚われていたのは私だけだったのだ。
「そう―。」
必死に絞り出した言葉がそれだった。スペシャルウィークはまだ戻ってこない。けれど、このやさしさに溢れる空間に耐えれそうもない。椅子を引いて立ち上がった。
「私はもう行くわ。スペシャルウィークには私から連絡しておく。あと―、あの人に、私がよろしくと言っていたと伝えて頂戴。」
はい、と返事をくれたのを見て、私は食堂を立ち去った。スペシャルウィークには夕方の最終調整まではトレーナー室に入るなと伝え、厳重に施錠し、私は泣いた。