結局アドマイヤベガのトレーナー?保護者?監督者?と連絡はつかず、かといって夜道に放り出すわけにもいかず、迷いウマ娘の保護ということでトレセンに宿泊してもらった。念のため連絡先を教えておいたのが幸か仇か、陽が上る前だというのに、彼女からの電話で叩き起こされることになる。
「… … … はい。」
くそ嫌味ったらしく寝起きの雰囲気を出して電話に応える。
おはようございます。アドマイヤベガです。―眠さを微塵も感じさせない、もしかしたらずっと起きていたのではないかと思うほど平坦なセリフ。
「私の監督者と今しがた連絡が取れました。ちょうど大日本ダービーを見に行くところだったとのことですので、サイレンススズカさんのトレーナーさんに競バ場まで送り届けてほしい、と。」
初対面―、顔すら見ていないにも関わらず自分のウマ娘を他人に預け、本来なら自ら推参して謝罪にあがるところを、直接言うでもなく送り届けろと申すか。なかなか神経の太い輩じゃないか。
「お前さんがこうなったのはその監督者のミスだろうが。なんで俺たちがその尻拭かにゃならんのだ。」
電話越しにわずかな沈黙。
「秋川、という名前を出せば基本的にこちらの方々はすべての指示、お願いを聞いてくださるとのことでしたが。」
「秋川ぁ?」
そんな苗字の人は知らない。この学園にもいないはずだ。しかしながら、この話は、もはや「そういう流れ」のもと組まれている。ウマ娘のことを思うなら、こちらに拒否権はあるようで無い。
「はあ―。わかったよ。8時にスズカと正門で待ってろ。…見送りが多少激しいかもしれんが、そこは気にしないでくれ。」
はい、わかりました。―と淡々と調子を崩さず返事をされ、電話は切れた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
どんなに終わってほしくない日でも太陽は沈むし、どんなに来てほしくない日でも太陽は上ってくる。すべては諸行無常のもと、時は過ぎてゆく。そうして、大日本ダービー出走の日の朝日が昇ってきた。
5月、初夏。快晴。ここ数日雨は降らなかった為競バ場も良バ場の評を出すことだろう。今日はウマ娘だけでなくトレーナーのインタビューもあるそうなので、クローゼットから半ば埃をかぶったスーツを取り出し、ダークグリーンにホワイトのラインの入ったネクタイを巻く。あいつと同じ色を付けることで、一緒に戦う気分になるというやつだ。
スズカとアドマイヤベガには8時に正門と伝えていたのだが、その1時間前にはすでに正門はごった返していた。見送りのウマ娘たちで廊下はぎゅうぎゅう、憧れのスズカやスペシャルウィークにひと言でもエールを送ろうと皆必死である。
いつものライトバンを出しに車庫へ向かうと、樫本さんが佇んでいた。
「おはようございます。」
視線が合うと樫本さんはすこしはにかみ、右方―、役員専用車両の車庫を指した。
「あれを使ってください。道中何かあっては危険ですから。」
いつかスズカを送り届けた、理事長専用の黒塗りの高級車だ。
「スペシャルウィークも同じようにして出ていきました。優遇も不遇もしていないつもりですよ。」
喋りながら着々と準備をしてくれる樫本さん。観音開きになる後部座席の扉は異常に分厚かった。
「表の見送りが相当うるさいようですが。」
あー、と苦笑する樫本さん。理事長代理という重職に就かれているけれど、ときたまこうして年相応の若さというか、カッチカチのコッテコテのエリートであるこの人も、やはり人間なんだなって、ふと思うときがある。
「いつものことですから。それに、本当に危険なことはしないように厳しく言っていますので、そこは信じてもよいと思いますよ。」
そうですかねえ、と苦笑に苦笑を返しつつ、左の運転席に乗り込む。ボンネットに装着されたトレセンの旗のマスコットが嫌に仰々しく感じる。スタートボタンを押すと、音もなくエンジンは指導した。
「それでは、行って参ります。」
吉報を待っていますね。という言葉を後にして、彼女らの待つ正門へ車を走らせた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「トレーナーさん、おはようございます。」
後部座席のいつもの位置に陣取ったスズカからの挨拶。見た感じ昨日の影響はさほどないようだ。精神面も悪いところは見られない。髪の毛のツヤも上場。今日はいいレースができそうだ。
「おはようございます。」
そのスズカの横に座ろうとしたアドマイヤベガだったが、いったん停止した後、助手席に座ってきた。
「後ろに座っていてもよかったんだぞ?」
「ええ、はい。私自身そのつもりだったのですが―。」
このあいだも言っていたが、スズカはこういうとき、基本ひとりになりたいタチだ。寄るなっていう雰囲気を感じたのだろう。
「やはりレース前はどなたもシビアになるのですね。」
「そりゃ、普段と違うことが起こってせっかく整えてきたメンタルバランスが崩れちゃたまらんからな。」
「私は、あまりそういうものに左右されませんので、気にしたこともありませんでした。」
どうもアドマイヤベガは感情が薄いのではなく神経が太いのだとわかった。
東京競バ場までの道のりを、それ以上喋ることなく進む。スズカは左手後ろ、アドマイヤベガは右手前方の景色を、ただぼうっと眺めている。こんなとき、彼女らウマ娘が何を考えているのかはよくわからない。自分自身も、昔はスポーツに青春を懸けていた時期もあった。進退を賭けた大一番の日、会場に向かっている最中に考えていたことなど、プレッシャーに潰されそうで、どうすればここから逃げ出せるか、大会が始まらないか、くらいだった。追われる者にとって、ある程度は勝つことが義務付けられた者にとって、そのプレッシャーは恐ろしい。
ただし、その押しつぶされたプレッシャーに勝つことで、完全に自分を制御し、限界を超えるための扉を開くことにつながるのもまた事実だ。
結局のところ本人次第なところはある。トレーナーとしてできることはその直前までのケアにとどまるだろう。レース中の担当には物理的にも精神的にも干渉できない。それでも何かしてやりたいもどかしさと戦うのが、指導者の常だと思っている。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
無言の旅路も終わり、警備員に迎え入れられて東京競バ場へ入ってゆく。正面入り口はすでに記者で埋め尽くされていた。
「毎度ながら、面倒だな。」
仕方ない。車を途中で止め、スタッフに車庫入れを頼んだ。裏門から静かに回ろう。
「そういえば、お前さんはどこで監督者と落ち合うことになってるんだ?」
アドマイヤベガは無表情で首を傾げて、
「特に決めていません。ただ、私たちが必ずこの辺りに来ることはわかっているはずです。」
なんだそりゃ。と突っ込む間もなく、《ベガ!》と叫ぶ女性の声が聞こえてきた。その女性がアドマイヤベガの元へ駆け寄り―、えらく身長が低い。
「 待 望 ! 待ちわびたぞアドマイヤベガ!やはりスズカのトレーナーに頼って正解であったッッ!」
腰元に抱きつくその監督者とおぼしき女性―の頭を撫でるアドマイヤベガ。
「申し訳ありません、秋川さん。サイレンススズカさんの発するオーラを辿っていたら、山奥に来てしまったうえ帰り道がわからなくなってしまいまして。」
今目の前で起きている光景が半ば信じられないのはスズカも同じであったようだ。海外赴任のはずの秋川さん―もと理事長が、アドマイヤベガに抱き着いている。頭の中で、理事長にかける言葉が次々に浮かんでは消え、最適解を探し続けている。―ああ、そうか。いろいろ訊きたいことがあっても、その答えを相手にすべて投げることができる魔法の言葉があるじゃないか。
「な、何してるんスか…?」