ゲートの中、サイレンススズカの神経は研ぎ澄まされた日本刀の様を表していた。スペシャルウィークと同期のグラスワンダーが差しに入る様子を薙刀に例えるファンもいるが、それと似たようなものだろう。一瞬の遅れも許さない。その双眸は閉じられているが、ゲートの開きは《音と空気》で感じることができる。眼で見てからは遅いと、彼女の体験が語り掛けている。
暗闇の中、盲目の武士の如く集中力を研ぎ、練り上げていくサイレンススズカ。バラバラに点在する意識をかき集め、密度を高めていく。そしてそれが糸のような細さにまでなったとき、ほんの僅かな風の動きが生じた。ほかのウマ娘はどうかしらないが、彼女にとっては、自らが風になるには十分な助けとなった。
《スタートです!やはりサイレンススズカ、ハナを主張します!ひとりだけ早くゲートが開いたのかと思わんばかりのロケットスタート!この一瞬に懸ける想いが他とは違いますサイレンススズカ!ぬわんという集中力!コンセントレーション!そのすぐ後ろにマヤノトップガンとミホノブルボン着けました!逃げを採ると思われたメジロマックイーンはその4バ身後ろ3番手、これは先行策ということでしょうか!本日1番人気のスペシャルウィークは集団後方の12番手に位置しています!トウカイテイオーやスーパークリークも来ている!中団はほとんど団子、カオスなレースとなっています!!》
サイレンススズカが逃げを選ぶ理由は、トレーナー目線だとふたつある。まずは、そのほうが本人のポテンシャルを発揮できるから。走《らなければならない》という思いが彼女の中にもたげてきた時点で、その脚の輝きは失われてしまう。―であるならば、多少強引な走りに見えても、すきに走らせるほうがより勝率としては高まるからだ。
次に、ハードな競り合い、ぶつかり合いをする必要性が少ないということ。先行や差しの策をとると、統計上どうしてもほかの多数のウマ娘と被る確率も上がる。そうなれば、ポジション争いは必至。5人でひとつの最適ポジションを奪い合うこともある。そしてサイレンススズカはそういった競り合いに、云えばフィジカル面で劣る。スペシャルウィークなんかとぶつかり合えば間違いなく吹き飛ぶのはサイレンススズカの方だ。
それゆえ、競り合いになるリスクが少なく、のびのびと走れる《逃げ》がサイレンススズカにとって最適な作戦といえる―かもしれないのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
最初のコーナーにさしかかったあたりで、マヤノトップガンは自分の作戦が正解だったことにひとまず安堵していた。
サイレンススズカと同じくフィジカル面で他に劣るマヤノトップガンは、18人立てという多人数のレースで団子になるのを嫌うので、前に出るか後ろに残るかの2択をつきつけられた。安全に事を運ぶなら後ろから追い込むべきだが、それだと前を走るあの慮外の化物をとらえられるかわからない。そして後ろにはスペシャルウィークという、まるで天変地異でも起きたような走りをする奴もいる。同時にスパートをかけたことで勝てる見込みはまず無いだろう。
ということでマヤノトップガンは前に出ることを選んだ。サイレンススズカのすぐ後ろ。ここなら、同じタイミングでスパートを掛けだしても競り合えるし、後ろから迫るスペシャルウィークには今ついている差のぶんだけアドバンテージがある。ミホノブルボンが少しだけ気になるが、後ろのメジロマックイーン以下はほとんど団子だ。スペシャルウィークが出てくるまで時間的猶予もあることだろう。あとは目の前の化物をどう料理するかだけを考えていればいい。わずかにほくそ笑み、サイレンススズカのすぐ後ろを着いていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
バ場が荒れている。内ラチを避けて、スペシャルウィークは先頭中団外側で様子をうかがっていた。やはり自分に対するマークは厳しい。他のウマ娘たちは前しか見ていないようで、常に視界の端に捉えられているようなそんな気がする。エアグルーヴが、エイシンフフラッシュが、ビハヤハヒデが、ライスシャワーが、自分の往く道をなかなか開けてくれない。スペシャルウィークが持っている手札を、1枚1枚、じっくりと落としにかかっている。彼女らも、そう何度も同じやり口で敗けるわけにはいかないのだ。
《コーナーも中盤ですがおおっと?!スペシャルウィーク少し下がりましたね!集団に取り囲まれるのを嫌ったか!もはや追い込みのウマ娘たちがいるところまで下がらんという勢い!それをマークしていたビワハヤヒデたちですがさすがに堪らず自らのニュートラル位置へ帰っていきます!スペシャルウィーク下がってきて16番手、ぬわんという大胆な駆け引き!ここまで下がっても私は勝といわんばかりの表情ぉ!後方でひとり不気味に息を潜める!!!!》
コーナーの頂点に来たあたりでスペシャルウィークは脚をすこし緩めた。マンハッタンカフェやゴールドシップがいるあたりにまで後退してみる。自分を囲っていた檻は少しだけそれに合わせようとしたが、位置が位置のため、スペシャルウィークを潰すよりも自分が勝てるレースをせざるを得なくなり、それぞれ元の位置に散っていった。
それがそもそものスペシャルウィークの狙いなのだ。自身の末脚を以ってすれば、この程度の集団なんか一思いに中央から突破できる。―というのなら、わざわざその壊すはずの集団に交じっている必要はないのだ。壊しやすい位置に移動して、一番壊せるときに動き出せれば、なんでもいいのだ。最後に笑うのは自分だということを信じて疑わない。それほどまでにスペシャルウィークは強くなった。北海道のおかあちゃんにも自慢できる、日本一のタイトルはもう手中に収めてある。とても半年前とは違う、自信とプライドにあふれた走りに、実況も感嘆のため息を漏らした。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
すべて破壊すればどうでもいいスペシャルウィークと同じく、逃げ切ってしまえば他はどうでもいいウマ娘も存在する。サイレンススズカだ。今回も彼女はひたすら逃げる。自分の走りやすいように、乱暴にコーナーから土を飛ばしながら曲がる。ちょうど内ラチが荒れていて誰も走らないので、膨らんでいるようみえるけど相対的にはインをまわっていることになる。その事実が、他との差となって表れている。すぐ後ろにいたはずのマヤノトップガンやミホノブルボンもすこしずつ足音が遠のいてきている。あのころは追いつくことすらままならかったミホノブルボンに、今は逆に背中を見せて走っている。半年間のトレーニングの成果は間違いなく出ている。あとはこのままゴール版まで他を寄せ付けない走りをすれば勝てる。それだけの話だ。
各々が各々の思惑を背に、彼女たちはターフを駆け抜ける。残り1900。