またトレーナーさんを困らせてしまった、という気持ちと、1000メートルでも走ることができて嬉しい、という気持ちを抱えながら、私はクールダウンをしていた。今日だけで2400メートルを全力で三本。休み休みとはいえ7200メートルを全力で走りきってなお、私の走りに対する欲求はとどまるところを知らない。ラストの1000メートルを走りきる頃には、トレーナーさんを困らせたことへの反省などどこかに行ってしまった。
陽も落ちかけている。夕食にはいい時間かもしれない。ストレッチもそこそこに、私は学園へと脚を向けた。
「随分遅くまで走っていたな。」
ふいに背後から肩を叩かれた。振り向いた先にはエアグルーヴが立っていたけれど、夕日のせいでその表情まではわからない。
「あら、エアグルーヴ。今日も見回りなの?」
ああ、そんなもんだ、とエアグルーヴは言いかけた。言いかけたのち、私のほうをまっすぐ見て、
「―いや、お前に用事があって来たんだ。少し時間をくれないか。」
うーん。夕食の後じゃダメかしら。
「いいや、今だ。お前は夕食を食べるとさっさとシャワーを浴びて寝てしまうだろう。私たちが間に入る時間は無い。」
それを言われると確かにそうだけれど、急に時間を作れって言われたって、ねえ。
少しずつ陽が落ちていく。私たちは視線だけ合わせたまま、そこに立ち尽くしていた。
ねえ、エアグルーヴ、あなたは―、
「お前はいつまでトレーナーを困らせるつもりだ?」
ヒトの―、他のウマ娘のトレーニングについて口を出してくるとはとても思えず、えっ、という言葉しか返すことができなかった。
「―それは、私が今日みたいに無理やり走らせてもらってるから?」
ちげえよ、とエアグルーヴのやや後ろから声がする。身長差があってわかりにくかったけれど、ヒシアマゾンも来ていたみたい。
「トレセン学園生徒会副会長ともあろう女帝が、ふたりがかりで一般のウマ娘を捉えに来るなんてね。」
はんっ、とヒシアマゾンは鼻で笑った。
「違う。お前とまじめな話をするために必要だと思ったからだ。―ヒシアマゾン、もういいぞ。」
そうかい、とだけ、ヒシアマゾンはちらりと私を見た後、素直に帰っていった。
もう一度エアグルーヴに向き直る。彼女とは同期だったけれど、シンボリルドルフに見初められるまでは、もうすこし快活でやんちゃだったような気がする。
「―同期のよしみで言っておくが。」
真顔で、平坦な声色でエアグルーヴは言葉を紡ぐが、わざと感情を殺しているのが私にはわかる。何年の付き合いだと思っているのかしら。
「これ以上お前のトレーナーを困らせるのはやめておけ。お前のためにも、トレーナーのためにもならない。」
―だから、それは、私がこうして勝手に走り出しているから?
まだわからないのかと、エアグルーヴは少し語気を強める。
「お前はお前の将来を考えたことがあるのか?お前が走るというJ-CUP。本当に勝てるのか?もし負けるようなことがあれば彼の国との話も全てパァだ。ここに収まるべきでないお前の走りが、収まってしまうことになるんだぞ!」
さらに続けてエアグルーヴは捲し立てる。
「お前とそのトレーナーだけの話じゃあない。お前の将来は、このトレセン学園全体の命運をも左右するんだ。いい加減わかって、J-CUPの出走を取りやめるんだ!無敗であることが留学の条件なんだろ?わざわざ自分からリスクを負う必要はないじゃないか!」
それっきり、エアグルーヴは下を向いてしまった。
―そんなことか、と私は少しだけほっとしてしまった。多分エアグルーヴは、いち個人としての意見ではなく生徒会として、トレセン学園側の人間としてものを言っているんだろう。もしかしたら本気で私の将来を心配してくれているのかもしれないけれど。
「エアグルーヴ。」
なんだ、と下を向いたままエアグルーヴが返す。
「心配は無用よ。なぜなら―。」
私は、勝つから。
は―?、という顔でエアグルーヴが私を見る。ぽかんと開いた口を閉じることも忘れているようだ。
「これはトレーナーさんにも言ったことなんだけど、私にとって不確定な未来はさほど重要じゃないの。大切なのは、手を伸ばせば届く距離にあるもの。スペちゃんとの約束もあるし、私は降りないわ。なにせ―。」
ただ気持ちよく走りたいだけでなく、明確に“勝ちたい”と思えるレースだったから。
「わざわざありがとう。心配はいらないと会長さんにも伝えておいて。」
エアグルーヴの脇を抜けて、ようやく夕食のある食堂に向かう。それ以上、エアグルーヴは何も言ってこなかった。
―さすがに、話し合いをしなければならんか。
シンボリルドルフとのくだりの後、トレーナー室で電子タバコもどきを吸いながら悶々としていた。
今や彼女は国内敵なしの圧倒的スターウマ娘。日本競バ界、トレセン学園の未来を明るくすることは、そのスターの役割と使命だろう。そこについての考え方は、憎らしいまでにシンボリルドルフに同調することができた。
結論で言えばJ-CUPへの出走を許したのは、彼女とスペシャルウィークに決着をつけさせるために《情》をかけたからだ。
担当への情けをかければその将来が。将来を優先すれば、交わした約束が。どちらかを選べば、どちらかを捨てざるを得ない。彼女の担当トレーナーでありながら、なにが彼女にとって一番よい結果をもたらすのか、わからなくなっていった。
呼んで話をしなければならない。もちろん、出走をやめてくれないかなんてことは言えないが、彼女の将来について、話はしておかなければならないだろう。
学園の施設が使える時間としてはギリギリアウトだったが、放送部に内線をかけた―。