放送部に彼女を呼び出してもらってから何時間たっただろうか。時計の針は既に巡り合ってしまっている。個人的に連絡を取ってみたりしたものの反応が無い。
これまで彼女が呼び出しに応じないことなど無かっただけに余計に心配させる。探しに回ったところで入れ違いになるわけにもいかない。ただひたすらに、呼吸と秒針だけが規則的に奏でるリズムを漠然と聴いている他なかった。
ち、ち、ち、ち、ち。
まだか。
ち、ち、ち、ち、ち。
今か。
ち、ち、ち、ち、ち。
まだか。
ち、ち、ち、ち、ち―。
時計が「くるっぽー」と一度だけ鳴いた。待ち続けるのにもいい加減嫌気が差し、それを合図に就寝の準備を始める。諸々が終わったところで、最後にトイレに行こうと部屋を出る。目の前の扉は、どうしてかひとりでに開いた。
「―あ。」
もう何時間と待ち続けた栗色の髪の少女が、申し訳無さそうな表情で立っていた。
「なるほどな?」
曰く、いつものよう夜な夜な忍び出てグラウンドを走っていたので呼び出しの放送を聞きそびれていたらしい。それだけならよかったのだが、それをスペシャルウィークのトレーナーに目撃され、流石に反省して戻ったそうだ。その途中で出会ったマチカネフクキタルから放送のことを教えてもらって、血相変えてここまで走ってきたという。
「お前の代わりに俺が問い質されることになるんだがな―。」
本当にすみませんと、耳を折った彼女がしおらしく謝ってくる。言いたいことは色々あるのだが彼女もそれはわかっていることだろう。とりあえず部屋へ迎え入れ―、寝具を一旦引っ込めてからテーブル越しに彼女と向き合った。あたたかいコーヒーも出してやろう。
「もう夜中に勝手に走るのはやめろ。せめて連絡くらいはしてくれ。」
く、く、とコーヒーを飲んだ後、―連絡したら止めにくるじゃないですか―と口を尖らせてきた。当たり前だ馬鹿。
「今日みたいなことがあったり、万が一怪我でもしたらどうする。なんて説明するつもりだ。いいか、俺が怒ってんのは、こんな時間まで待たせたことでも、夜な夜な走ってんのをスペシャルウィークのトレーナーに見つかったことでもない。そもそもだ。勝手に走るな。俺はトレーナーとして担当ウマ娘のコンディションを管理する義務があるんだ。お前の気持ちもわかる。だからこそある程度自由にさせてきたし、走りに繋がるメニューを中心にトレーニングを組んできたつもりだ。それでも足りないのか?」
つい一方的にまくし立ててしまった。流石に萎縮させてしまったのか、彼女の視線は座った膝で泳いでいる。
「―まあ、そんなこと言いに呼び出したわけじゃなかったんだが…。」
はてと彼女が顔を上げる。
「もう深夜だ。また明日にでも―。」
いいえ、大丈夫ですよ。
彼女は薄ら笑って見せた。
「私のせいでこんな遅い時間になってしまったんですから。気にせずに、トレーナーさんの言いたいことを私に聴かせてください。」
折れていた耳はいつの間にか立ち戻り、目にも幾分か力が戻っていた。
そうか、それなら―。理事長やシンボリルドルフに言われたことを話すときが来たようだ。
「四日後のJ-CUP。俺たちは思っている以上に、いろいろなしがらみに縛られているみたいだ。」
上層部が彼女のJ-CUP出走に難色を示していること。
よしんば出走中止を目論んでいること。
彼女の将来と学園の展望が同一視されるけらいにあっていること。
決断の時期は迫られていること。
洗いざらい話した。そしてここからが、一番重要なことだ。
「ここまで聞いて、お前はそれでもJ-CUPを目指すか?」
―トレーナーさんは、どう思っているんですか?
いつになく真剣な表情だが、直接は答えてくれない。
「今はお前の話をしているんだ。俺は関係無えだろ。」
いいえ、と栗色の頭を振る。
「トレーナーさんがどう思っているのか。それを聴いてから、私の話をしたいです。」
いつか捉えられた、エメラルド色の双眸。それが今再び視線を奪いに来る。どうにも抗えない魅力というか、謎めいた力がその瞳には籠っていた。
「―わかった。この際だ、お互い腹を割って話そう。」
・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・。
・・・・・。
・・・。
彼女は目を閉じて話を聞いている。話した内容はこの間とほとんど変わらない。距離に対する彼女の能力から考えうること。彼の国への留学の条件である《無敗であること》を零すリスク。そしてなりより、彼女の将来について。彼女は一切口をはさむことなく、ただ静かに耳を傾けるにとどまっていた。
そして―。
「それを全部踏まえて、俺の意見なんだが―…。」
―はい―と、瞳を開き、いつもの他愛のない会話と同じように彼女は次を促してくれた。胸に引っかかっていたものを、彼女の前に次々と降ろしていく―。
「俺は正直、回避できるもんなら回避したい。お前が負けるなんて思っちゃあいないが、競争である以上絶対は無い。なにかの紛れがあったって全然おかしか無いんだ。まして国内トップクラスのレースだろ?ここを走るために生活のすべてを注いでるウマ娘だっているはずだ。これまでのレースとはわけが違うだけに、その紛れが起こる確率もきっと低くは無い。―そしてその紛れが。お前が掴みかけている飛躍の切符を取りこぼすことにだって十分になりうる。俺は、お前の脚はこんな小せえ島国如きで収まるはずもないと思っている。俺は世界で活躍するお前の姿が見たい。世界そのものをスピードの向こう側へ置き去りにするお前の走りが見たい。速さの次元がひとつ進む瞬間を、お前に見てもらいたい。お前に見せてほしい。世界で一番速くなってほしいんだ。俺は。そしてお前ならきっとなれる。世界で誰も至ることのできない速度で流れる世界に、お前なら立ち入れるんだ。俺は、俺は―...っ。」
言葉よりも先に感情の制御が効かなくなってしまい、二の句を継ぐことができなくなってしまった。自分自身や学園のエゴに彼女を付き合わせ、約束を反故にさせてまでも、彼女に夢を見ている。世界が、速さのステージが彼女によって塗り替えられる瞬間を見てみたいと、どうしても思ってしまう。それに善も悪もない。彼の国、シンボリルドルフ、理事長、そして自分自身。彼女の脚に魅せられてしまった者たちの、純粋な願望だったのかもしれない。
視線を逸らさず、彼女は一言ひとことを反芻するように聴いていた。す、と彼女が三たび目を閉じたので、再び沈黙に部屋の中を支配される。やがて彼女が目を開くまでに、感情の昂ぶりはすっかり治まっていた。
「―では。私の話をしますね。」
ああ、頼む―。すっかり冷めてしまったコーヒーに口をつける。苦みが、緩んでいた脳を少しだけましにしてくれた。
「まず、レースの距離と私の適正の話ですが、これは私もトレーナーさんと同じことを思っています。そして、このレースに出走することで影響を与えてしまう部分についても、しっかり判っています。私も、客観的に見ればJ-CUPは回避したほうがいいと思います。そして、世界で戦ってみたい。私の速さが世界のどのあたりまで通用するのか試してみたい。より高みへ至りたい。そんな気持ちも正直なところ否定できません。さっきのトレーナーさんのお話も、すごく魅力的でした。世界の速さを、私が塗り替えることができたら。スピードのステージを私の力で塗り替えることができたら、どんなに気持ちがいいか。きっと震えるほど気持ちがいいんだと思います。」
―でも―、と彼女は口をつぐむ。一瞬視線が泳いだが、すぐに正面を見据える。
「―それでも、私はJ-CUPを走りたい。今まで私はスピードの世界に一人でした。誰も私について来れない。私だけちがうステージにいるような気さえしていました。そんな私に憧れ、私を目指し、受け入れてくれたスペちゃん。私はスペちゃんと交わした約束を果たしたいんです。私には今も昔も走ることが全てで、他には何もありません。でも、走ることで誰かに夢や憧れを見せられるってわかったんです。それを教えてくれたスペちゃんに、何のお礼もできないまま旅立つなんて、絶対にしたくありません。最後に、私のすべてをスペちゃんに見せたい。スペちゃんのすべてを私に見せてほしいんです。」
にへら、と笑い、―こんなに喋ったのは久しぶりですね―との彼女はおどけてみせたが、言いたいことはまだあるらしく、すぐに真剣な表情に戻って言葉を続けた。
「そのうえで私は勝ちます。スタミナの不安もあるかもしれない。慣れない距離でレース勘を充分に養えていないかもしれない。―ですが、私はそんな不安をすべて掻き消して勝ちます。スペちゃんの挑戦を受けて、それを全力で退けて私は勝ちます。逃げ切ります。そのまま彼の国へ旅立ちます。そうすれば誰も困りません。」
―確かに、確かにその手もある。J-CUPで彼女が勝てばいいだけの話だ。頭の中になかったわけではない。ただ、そうするにはあまりにもリスキーだ。いったい何が彼女をそこまで突き動かすのか。
「―それに、初めてなんです。初めて、本気で勝ちたいって思えるレースに出会えた。このレースに勝つことで、私は速さに“強さ”を手に入れられると思うんです。本気で勝ちたいレースなら、本気で出たい。...だから、トレーナーさん。」
―必ず勝ちます。ですから、私を、J-CUPで走らせてください。―