たった数十年ほど前まで、この感情が実体を伴わないのは当然であった。
さらに100年以上遡れば、いや遡らずとも玉川上水を見れば、それは悲劇や狂気と一体ですらあった、玉川上水を見たことはないのだが。
女が縁側から垂らした足の爪先をその下に隠れた男が首筋に当てる、それが互いにその感情を持つ証明であったし、布団の残り香こそが真実の愛の証だったのだから。
この形でこれまで全世界でどれだけの人間が命を落としたか、知る方法はない。だが少なくともその手の話は紙の上で衆目を引くものであったし、モデルとなる出来事も一定数存在していたのだろう。
そしてその手の話が流行るからには、人に理解され人の心を動かす性質を持つのだろう。
であったとしても、そのような感情に実際になってみると、なかなか自分でも理解し難いものなのだ。誰のものかと問われたら親のもの、というのが一旦納得されると思われるヒトを、自分のものとしたい。そんな感情が健全なものであるとはどうにも信じ難い。
生物の面から人間を考えてみても、生物の目的にとって絶対に必要なものでもないのだ。
そして何より、自分が人の運命を積極的に差配しようとする権利を持っていていいのか。バタフライエフェクトのような形ならいざ知らず、人の人生に介入して良いものなのか。
それをこれまで成し遂げてきた幾多の偉人と見比べると、自分のなんと力も魅力もない人間であることか。
何か人と比して優れたものがあるわけではない。絵を描く、ピアノを弾く、美しい文字を書く、歌うなどなど人の織りなす多種多様な技術において、私は自分より優れた人間がいることを知っている。
そしてそれは数が絞られた特殊なことに限らない。学問においてもそうであるし、人付き合い、人の前で話すなど多くの人が経験する、そしてできねばならないことについてもそうである。
端的に言えば私がこの直後に急逝しても、世界は何も影響を受けるまい。親兄弟ですら自分が死んで何か思うのだろうか、況んや他人をや、といった有様である。
生憎私もこの親兄弟が死んでも泣くことはないだろうが、この人らには死んで泣いてくれる人がいるだろう。予想が付く。
そんな人間のこの感情の行く末が求める理想が、所詮は凡人の幻想に過ぎないことを証明し、この迷惑要素を自分から排除しようと思う。排除して現実のものとしないことこそ他者との関係、社会を見据えた上で最善であると。
そしてこの手の話は順序立てて話をしていくことが肝要だ。その非現実性を示して自分も納得させてしまおう。
誰かが言った。
『この世に不可能はない』と。
だがそれを言える人間は一部に限られるのだ、世にはどうあがいても不可能なものは存在するのだ、と。