「行けよ、あくしろよ」派?
それとも
「乗るなエース!戻れ!」派?
朝が来た。いつも通り鳴り出すアラームを、隣に迷惑とならないようすぐに止めて飛び起きる。こうでもしないと体がきっちり目覚めないのだ。二度寝は後々に響く。
今日も自分は午前中から練習だ。練習は他の体育会系、バスケやバトミントン、卓球などとの協議の末利用できる時間が決まるため、意外と日程は不規則だ。2〜3日空く時もあれば、午前から午後までの練習が2日連続ということもよくある。
そして昨日もあり、今日も1日練習だ。社会は自分に都合良くは回ってくれないものなのだ。
朝早くに外の回収所にゴミを出し、戻ってすぐに飯を作る。とはいえそんな手の込んだものを作る気はない。パンを一枚焼きながら昨日の汁物を洗った器で電子レンジに入れる。これら2つに炊飯器を同時に使うとブレーカーが落ちるので、晩飯時は気をつけている。
飯を早々に食べ終えたら皿と箸を即座に洗い、洗い物立てに置く。帰って来れば水はほぼ切れている。その間にパックご飯をレンジにかけ、できたらラップを開き塩をかけて握る。これ3個が今日の昼飯だ。
最後にベッドの上の布団をひっくり返し、カバンに練習着とサポーターなどを詰めれば出発だ。
1年生は練習開始30分前には到着し準備に取り掛かる。
特に自分のような一年生の中でも立ち位置が悪い人間は、こうしたところで人に遅れては立つ瀬がなくなるのだ。せめてこの手のことで集団にとって利のある存在にならねばならないのだ。
部室棟の鍵を借りて部室からクランクを持ち出し、倉庫からポールやネット含め道具を体育館に運び込む。
自分が高校の時ポールは金属の非常に重い物で持ち運びに苦労したものだが、ここのポールはカーボン製で2本一気に持ち運べるくらいには軽い。
小物を体育館に置いてポールを床の穴に差し込んでいく頃になると、他の一年生もちらほら集まってくる。彼らがボールやアンテナなど他のものを持ち込んでくる間、クランクで収納時に縮めていたポールを両方とも240cm台後半まで伸ばす。
そこからネットを上にかけ、片方をポールに引っ掛け、もう一つはもう一つのポールに付けられた巻き取り機に取り付ける。
あとは中心部が弛まないようにクランクを差し直して全力でこれを引き締めるのだ。
そしたら他の人が持ち込んだアンテナをサイドのライン上に垂直になるよう取り付ければ、とりあえず準備は完了。
ここからはスタメン候補からなるAチームの練習前の準備だ。給水タンクにスポドリを山ほど作り、近くの水道にプラコップと一緒に配置。プラコップは全部昨日の時点で洗ってある。
ここら辺はマネージャーの仕事じゃないかって?県内でも弱いこの大学のチームにまともなマネージャーが来るわけないだろう。
それが済めば一年が自分たちで好きな練習ができるわずかな時間だ。自分もアタッカーにトスを上げたりサーブの練習ができる。
上級生が集まって来るとじきに練習が始まる。ランニング、ダッシュといったアップは全体で行う。
そして休暇期間のアップは平常時よりひたすらに長い。いつもは練習時間の都合もあって30分ほどだが、この時期は9時からの練習で10時半は過ぎる。
それがやっとこさ終わる頃、だいたいの人間はへたり込む。合宿の場合これを午前午後2回に朝のランニングが加わるが。
あとはAチームの練習がほぼ続く。自分らBチームはボール拾いとか紅白戦の審判などである。高校の時から審判、線審、記録員はよくやってきていたので、この手のことは慣れっこだ。
「タカダァ!キィヌクナァ!」
「スィアセン!」
練習の合間にこうして怒鳴られることもあるが、少なくとも今日は自分が悪い。
昼飯の握りも食らってから暫く、午後の最後の1時間。それがBグループに与えられた時間だ。自分も一応ポジションの一員なのでセッターとして参加する。
だがこうして練習することで自分の立ち位置が良化するわけではない。セッターでスタメン候補に名を連ねるのは、上級生の他のセッターが5〜6人は負傷離脱でもしない限りないだろうし、望むことでもない。
この場にいる限り、自分はどうにもならないのだ。何かしら別の立ち位置を手に入れるために、自分は動かねば変われないのだ。
夕刻。日は落ちかけ、紅い空が窓の向こうから差し込む。
「オシッ!キョウココマデッ!」
「アザッシタ!」
この長い練習もここまでだ。主将の周りに集まって連絡事項を確認したら、上級生は早くも帰宅準備にかかる。自分はすぐにアンテナを外し、壁際に置かれたクランクでネットの取り外しにかかる。
先程の作業を逆回しにしてモップがけをがっちり追加すれば20分。それにコップの洗浄も終わらせれば、やっと自分も汗を拭き取って帰れる時間になる。
すぐに荷物をまとめて帰宅。今日は飲みに行こうとかそう言う話は出てこない。自分にとっては非常に都合がいい。
自分は変わらねばならないのだ。自分の人生全てを賭けて、共にあるに相応しい人間であらねばならないのだ。
チョコレートを冷蔵庫で保管してから2回目の朝。それ即ちそれが彼女に渡る日、ということだ。今日以外の日は許されない。
今日の自分を突き動かしてきたのはたった一つ。
今日の夕方以降?いつも通り
部屋にいるよ
彼女からのこのLINEであった。
チャリで乗り付け、自室に戻ってきたのは夜6時前。荷物を置き洗濯物を洗濯機の中にぶち込むと、手を洗ってシャワーを浴びる。風呂を沸かす手間も水道代も惜しい。あとシャワーと一体だから泡を流すとすぐに湯船も泡だらけになるからわざわざ使う意味が薄い。
時間は指定してある。向こうも空いているという6時半だ。体を拭きドライヤーをかけた後着る服は、正装とまではいかずとも手を抜いたものにするわけにはいかない。彼女の前に出るに相応しい人間の姿でなくてはならない。
合理的な判断が効くうちに時間を指定して正解だった。仮にこれが曖昧なら、今の自分まともに動き出せないかもしれない。
もし断られたらどうなるのか。その疑念も未だ完全に晴れたわけではない。そうなった後の自分が如何なる存在になるのか。
突き詰め続け自分の体全てともなり得たこの風船が破裂したら、その抜け殻は本当に価値のないものに成り果てるのではないか。
正着だ。
あの泣き顔ひとつが由来で人を愛してしまった人間なのだ。その結末が来るならば、それをこの世が望んでいることなのだ。
手持ちの鏡で容姿を確認し、最後に冷蔵庫に入れていた箱を別建ての紙袋へ移す。
会う目的はこれを渡すこと。賭けるのはその上でサプライズ的に仕掛けることだ。無論この行動をサプライズ的に仕掛けない人間の方が稀なのでは、とは思うが。
そのサプライズというものも大概苦手な部類のものだが。
6時25分。玄関から少し奥のところで正座し息を整える。
部屋の電気を全て落とす。そうすると外からの光は絶たれ、多少の音以外自分の感覚を妨げるものはなくなる。
どのような形というものが最善最良なのだろうか。
何を話すべきか。如何なる理由で彼女を想うようになったのか。その経緯も全て語った上で判断を仰ぐべきか。
息を吸い、大きく吐く。
また吸い、そして吐く。
行くしかない。
チャイム音。それが自分が向かう合図だ。
ドアから少し離れて待つと、向こう向きに扉が開いた。
「あ、高田くん。どうぞ」
「中へ、ですか?」
「上がって」
「はい」
言葉自体は前と同じように柔らかなものだった。だがその中に自分を動かす強さがあった。
前も一度来たが、それともまた違う雰囲気が漂う。そして何より、その時はこうして中へと踏み込むこともなかった。
軽い消臭剤の匂いと目に入る数々の女性らしい小物。あまり体感したことのない『女性らしさ』が支配する空間であった。
入り口にはハイヒールやブーツなどの靴がいくつか。彼女が靴を脱ぎ上に上がると、それらを避けて真ん中に足を揃える。
「失礼します……えー、はい」
また息を一つ。
「どうしたの?」
「これ、ホワイトデーの、この前のお返しです!」
その彼女の前に、持ってきた紙袋を差し出す。
これがそもそも受け取られるか。それもまた一つの指標だ。そしてこれは、すぐには受け取られなかった。
差し出す際に下げた頭を上げると、右手を口元に寄せ驚きを露わにする彼女の顔が少し高い位置にあった。
「……いいの?」
「……ええ。むしろ是非」
その握られた手が解かれ、ゆっくりと紙袋と自分の手の方へと伸ばされていく。
そして紙袋は自分の手に軽く触れた彼女の手へと譲り渡された。
「……ありがと」
はにかむ彼女のその顔をへっぴり腰の変な姿勢のまま見つめる自分がいた。
その顔を見つめていると、それまで考えてきていた前座云々など、全て頭の中から抜き去られてしまった。
それらに大した意味はない。真なるものは何か。自らが自らに何度も問うたこと、それだけではないのか。
腰を上げ、背筋を伸ばす。正対しはっきりと伝えなければならない。
「もう一つだけ……宜しいですか?」
「はい……」
彼女も少し間を置いて、まだ紙袋を抱えたまま目を開いた。
彼女が目の前にいる。自分を見ている。見てくれている。
「……色々考えていたんですが、全て飛んでしまいました」
今自分の持つ全ての気概よ、力を与えてくれ。
全てだ。全てでなくてはならないのだ。
「武部さん。あって一年もせずに言えることではないものかもしれません」
「この想いを持つのも初めてのことで、それでいてここまで進むのが善いことなのかもわかりません」
「それでも、言わせてください。
好きです。付き合ってください」
言った。自然と頭がまた下がった。
これで、自分には言った言葉相応の責任が来る。だがそれと引き換えにしても、希望を通したかったのだ。
そうだ。これはどこまで突き詰めても自分の我儘なのだ。向こうにも相応に断る権利がある。
『それ、答えが来ないじゃないか』
心の魔がそう呟いてくる。
現に、返答がない。何もない。静寂。
また、顔を上げた。彼女が笑ってくれればと思ったが、あったのは泣いた顔だった。
「あの……すみません。大丈夫ですか?気分を悪くさせたのなら……」
「違う……違うの……」
清潔なハンカチがポケットにあったことをここまで感謝する時はこの先もなかなかないだろう。
「……ありがと」
そうやって涙を拭う姿を見せる彼女を見れたのだから。
「……高田くん、覚えてる?」
「覚えてる……って、何をです?」
「ネコ……」
「猫?」
ねこ?
「捨て猫を見かけた時のこと」
捨て猫?
「7月頭くらいの時の……ゴミ捨て場の近くで段ボールに入っていた猫」
……あぁ、だいぶ前のことだったが、燃えるゴミを出した時に子猫が一匹捨てられていた。
「あの時、多くの人がその猫を見ていたと思うの。でも、誰も何もしなかった。水も、餌も、何も入っていなかったから」
そうだ、そんなこともあった。けれどそれは彼女も言うように半年以上前の話だ。彼女のことを意識してすぐくらいのことだったと思う。
「でも高田くん、貴方は違った。可愛がった後すぐに保健所に連絡を入れ、ここの管理人さんに引き継いだ。あの後すぐ出かけていったから、そこそこ忙しかったにも関わらず」
……自分の話だろう。半ば忘れていたことだが。
単にあの場にほっといても気分が悪いし、とっとと片付けようと管理人の方に任せただけなのだが。それにあの時近くに武部さんはいただろうか。
あれ以来その後を追ったわけでもない。保護されて良い飼い主のところに送られているといいのだが。
「……あの時、貴方のことをすっごく優しい人だなって……思ったの。人の見えないところを見て、あらゆるもののために動けるんだって……」
あらゆるもののために動ける。
自分はまず自分のために動いたつもりだが……彼女の理想の存在であるにはその理想を叶える人間になる必要があるかも知れない。
だが、それもいい。
今度は向こうが頭を下げた。
「高田くん。こちらこそよろしくお願いします」