【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも― 作:裕ーKI
午前の講義が終わる昼休みのタイミングを狙って大学を訪れると、狐夏は周囲に目もくれず、一目散にとある場所を目指して構内を駆け抜けた。
愛しの師匠の居場所なら、既に目星がついている。
大学講師として勤務中の間、フブキは昼休みになると、決まって陽射しが良く届く中庭のカフェテラスでコーヒーを飲んでいるのだ。
この時間なら、間違いなく彼女はそのカフェテラスにいる。
師匠のそんなルーティンを、大学生時代の恋路の一環として知り得ていた狐夏は、当時のその情報を頼りに、確信を持って足を運んだ。
期待を膨らませながら目的地に辿り着くと、思った通りの光景が狐夏の目に映った。透明なスクリーンガラスの奥に見えるのは、テーブル席の1つに座る師匠の聡明な姿。
窓から差し込む木漏れ日に照らされた、漆黒のパンツスーツと眼鏡の出で立ちは、いつだって瞬きを忘れ、ため息が出るほどに美しい。まるで先日の暴挙など、初めから無かったかのように思えるほどのお淑やかさだった。
狐夏は逸る気持ちでカフェテラスに入ると、そのまま真っ直ぐと、フブキのいるテーブル席に近づき、声を掛けた。
「良かった、やっと会えたぁ! ずっと会いたかったんですよぉ、フブキさん!」
突然現れた愛弟子の姿に、顔を上げたフブキは思わず目を丸くした。
「狐夏!? 驚いたなぁ……急にどうしたの!?」
「どうしたのじゃないですよぉ! 退院したのになんで会いに来てくれなかったんですかぁ? 連絡だって何度もしたのに、全然出てくれないですし! ずっと心配していたんですよぉ!」
ふくれっ面で捲し立てる狐夏の勢いに、フブキはたじろぎながら、手にしていたコーヒーカップをテーブルのソーサーに置いた。
「あー……うん、そっか、ごめんね。別に悪気があった訳じゃないんだ。ただちょっと……止められててね」
「止められてたって……、それって……誰にです?」
実際は聞くまでもなく、おおよその答えは察しがついていた。同じような禁止令を、つい前日、自分も喰らったばかりだったから。
それでも敢えて、狐夏は反問することにした。自然な振る舞いで聞き返しながら、フブキの向かいの席に腰を下ろした。
「んー……教えたら、狐夏が何を仕出かすかわからないからな~」
「言ってください! じゃないと、いつまで経ってもスッキリしないじゃないですか!」
渋るように唸るフブキの瞳を、狐夏は逃がすまいと真っ直ぐと見つめる。
その態度に、やがて観念したようにフブキは息を吐いた。
「わかったよ……。実は……支部長にね……」
「やっぱり! あのジジイ、後で殺す!」
予想通りの答えを耳にした瞬間、狐夏は人助けをする立場の人間とは思えない暴言を吐いて、眉を顰めた。
「こらこら! 相手は僕らの上司なんだから」
弟子の粗暴な態度を、フブキは苦笑交じりに窘める。
まるで反抗期の子供のように、狐夏は不貞腐れた顔で俯きながら、椅子の背凭れに体重を預けた。それから少し間を置いてから、改めてフブキに向き直る。
「でも……支部長はどうしてそんなことを? 命令の意味が全然わからないんですけど……」
「あぁ~……狐夏にはもっと早く……というより、最初にちゃんと説明するべきだったね」
「当然ですッ! 私はフブキさんの弟子なんですから、知る権利がありますッ!」
「そうだね。じゃあ早速だけど……、こないだの戦い――ユキジョロウとの戦いの時、奴が放った黒い氷柱は覚えているかい?」
「それは勿論。アレのせいで、フブキさんが酷い目に遭ったんですから」
「実は……病院で色々調べてもらったんだけど……あの黒い氷柱は今もまだ、僕の胸に突き刺さったままらしいんだ」
そう言いながら、フブキは黒いテーラードジャケットの袖から伸びた掌を、ゆっくりと胸元に重ねる。
突き刺さったまま……とは口にしたものの、決して今も痛みが伴っているわけではない。ただ、妙な違和感が胸の奥で渦巻いているのは確かだった。
「それって……一体どういうことですか? だってあの時、氷柱自体はフブキさんが自分で除去してたじゃないですか。そりゃあ……その後に傷が勝手に消えていたことには、ずっと不審を感じていましたけど……」
フブキの突拍子もない言葉を、狐夏はすぐには呑み込めなかった。
「確かにね……。でも、診察してくれた医師の話によるとね、あの黒い氷柱は……実は肉体よりも精神の方に強く干渉する、いわゆる呪物の一種みたいなものらしいんだ」
「呪物?」
「そう。簡単に言えば、対象に呪いを施す代物ってことかな。あの氷柱をその身に受けたが最後、その存在は呪いに蝕まれ、内に宿る心は徐々に凍結していくんだってさ。傷が消えたのも、氷柱に秘められた呪いの力の影響……ってことらしいよ」
「いや、ちょっと待ってください。じゃあつまり……今のフブキさんは、その黒い氷柱に呪われた状態ってことですか? 氷柱の呪いが、少しずつフブキさんの心を凍らせていると?」
「うん、まあ……そういうことだね」
「そういうことだねって……」
火急の当事者であるにも拘らず、まるで他人事のように語るフブキの態度に、狐夏は戸惑いを隠せなかった。
普段はまるで太陽のように朗らかな顔が、時間の経過と共に、見る見る苦悶の色に染まっていく。
「そもそも、心が凍りつくって……具体的にはどういうことなんですか?」
狐夏が恐る恐る訊ねると、フブキはコーヒーを一口啜ってから淡々と答えた。
「んー……なにしろ前例があまりないらしくてね。詳しいことはまだわからないんだ。東北支部の手元にある文献だけじゃ情報が足りないから、吉野にも調査を依頼してるらしいけど。……ただ、間違いなく言えるのは、心の凍結っていうのは……人間性の喪失を意味しているってことらしいよ」
「人間性の喪失……。それってたとえば、感情が無くなるとか……そういうことですか……?」
「うん、それもあるって医師は言ってた。あとは……自制心の欠落とかかな……」
「自制心?」
「3日前の定期会議の時、僕はトキくんを殴ってしまったけど、あれは僕自身が自分の感情を抑制できなかった結果なんだ。一瞬とはいえ、僕はあの時、心のブレーキを忘れていたんだ……」
フブキの右手には、衝動のままに仲間を傷つけてしまった直後の感覚が、罪悪感として今もはっきりと残っていた。
朧気に記憶されたあの瞬間を思い出しながら、右手に作った拳を見つめ、フブキは思わず自虐的に口角を上げる。
その拳が小刻みに震えていることを、狐夏の視覚は見逃さなかった。
「フブキさん、それ……」
「ん?」
「その手の震えって……」
「あ、ああ……これ? 大丈夫、心配しないで。ホント……大丈夫だから……」
不安げな眼差しを拳に注いでくる狐夏を安心させようと、フブキは咄嗟に笑顔を取り繕った。そして同時に、振動が止まぬ自身の拳を、そそくさとテーブルの下に引っ込めたのだが。
「――あぁ……いや、君のことだ。そうもいかないか……」
それが無駄な行動だとすぐに悟ると、上っ面の笑顔を諦めの表情へと上書きした。誰よりも深い愛情を持って自分を慕ってくれている狐夏に、この程度の安易な誤魔化しなど通用するはずがない。
実際、フブキの思惑をあっさりと見抜いていた狐夏の顔は、もの言いたげに険しくなっていた。
「当たり前ですッ! 心配するなだなんて……そんなことできる訳ないでしょッ!」
力強く、けれども悲し気に震える声。
心痛に満ちたその瞳からは、僅かに涙さえ滲み出ていた。
「ごめん、狐夏……」
そんなつもりはなかった。
軽はずみな行動で、狐夏に悲傷を抱かせてしまった。
今にも溢れ出しそうな感情を必死に堪えているようなその様を、これでもかと見せつけられてしまい、さすがのフブキも胸が痛んだ。
「今一番辛いのは、ひょっとしたら君かもしれないね……」
「何言ってるんですか……。一番辛いのはフブキさんに決まってます……。それに謝らないでくださいよ……。謝るなら、寧ろ私の方です……。足手まといな私なんかを庇ったせいで、フブキさんは氷柱を受けたんですから……」
「狐夏……。そんなこと言わないでよ……」
涙声に変わる狐夏の訴えに、フブキはこれ以上返す言葉が見つからなかった。
最愛の弟子をここまで悲しませている自分が、師匠としてただただ情けない。
今の自分にできることは、せめて事実を包み隠さず告げることかもしれない。その義務感を重く受け止めながら、フブキは少しばかりの沈黙の後に改めて口を開いた。
「感情の昂りが、人間性の喪失を齎す」
「なんですか……急に……?」
狐夏は鼻をすすり、両目の涙を拭いながら聞き返した。
「話の続きだよ。変なふうに聞こえるかもしれないけど、今現在の、僕の心の状態を端的に言うとそういうことなんだ。心を乱し、感情的になればなるほど呪いの浸食は速まっていく。狐夏は、支部長が意地悪か何かで僕たちの接触を禁止したと思ってるかもしれないけど、それは違うよ」
「違うって……、どういう……ことです……?」
愁色が拭いきれない顔で狐夏が首を傾げる中、フブキは赤みを帯びた彼女の目を見つめながら話を続ける。
「要は君だけじゃないってことさ。今の僕は、鬼の仲間たち全員との接触を禁じられてる。何故ならみんなが持つ鬼の気が、僕の心を乱す要因になりかねないから」
「なんですか、それ……? 鬼の気が人の心を乱すなんて、そんな話聞いたことないんですけど……」
「まあ、そうだろうね。僕だって、今回の事態が起きるまで考えもしなかったよ。でも、勿論理由はあるんだ。元々、鬼の気っていうのは、魔化魍を倒そうとする意志――魔化魍に対する闘争心が力の源だろ。でも今の僕の心は、呪いで魔化魍の影響をもろに受けているせいか、そんな鬼の気を過敏に感じ取ってしまう状態なんだ」
「それはたとえば……周りが鬼の姿になっていない無意識の状態でも、ですか?」
「うん、どうやらね」
「じゃあ、定期会議の時のあれは……」
「恐らく、支部に集まっていた仲間たちの鬼の気に、僕の心――というより、僕の心に根付いていた黒い氷柱が呼応してしまったんだろうね。それで僕は、感情の制御を失ってしまった……。検査結果を聞いてこのことを知った支部長は、事態の悪化を防ぐために、僕に謹慎処分を下した。同時に他の鬼たちには、僕への接触を全面的に禁止にしたんだ。僕の呪いの浸食を、少しでも遅らせるためにね……」
フブキの説明を聴いて、狐夏の中で今まで感じていた幾つかの疑問が繋がっていく。と、同時に、フブキの身に起きている状況の深刻さに改めて愕然とした。
鬼の気を感じて攻撃的になるなんて、それじゃあまるで、フブキさん自身が魔化魍になったみたいじゃないか――と。
その上、そんなフブキの危機に激しい憂患を抱いたのと同じくらい、狐夏は自分自身の迂闊さや浅はかさ、加えて愚かしさに心底倦み果てていた。
私は間違っていた。
支部長の命令通り、フブキさんに会うべきではなかった。
フブキさんの話が全て真実だとしたら。
フブキさんの言う通り、鬼の存在が呪いを加速させる要因になるのだとしたら。
今この瞬間、最もフブキさんの心を追い詰めているのは。
他の誰でもない、そのすぐ傍に座っている、私自身じゃないか――。
「狐夏?」
話の途中で押し黙ってしまった狐夏に、フブキは訝し気に声を掛ける。
だが狐夏はそれに応えず、テーブルの下でギュッと両拳を握り締めた。そして目頭の奥に込み上げる熱を感じつつ、厚い唇を噛み締めながら再び顔を上げた。
嗚呼、ようやく理解した。
「ごめんなさい、フブキさん……。バカな弟子で……ホントにごめんなさい……」
「え、何? 急にどうしたの?」
「フブキさんの手……。あの手の震え、本当は……私のせいだったんですね……」
力無く口にした狐夏の呟きに、フブキは「あぁ……」と、バツが悪そうな表情を浮かべた。
確かに狐夏がカフェテラスに現れてから、胸の奥が酷く騒めきだしていたのは事実だった。
理由の無い苛立ちが、心の中で沸々と込み上げていた。
だけどそんな黒い昂りを、可愛い弟子の目には晒したくなくて。
フブキはずっと、静かに耐え忍んでいた。
狐夏と会話を交わしつつも、意識の内側では感情の暴走を必死に抑え込んでいた。
しかし健闘虚しく、心の異変は拳の震えとなって狐夏に伝わっていた。
正直、狐夏には感づかれたくなかった。
呪いの浸食が、自分が原因で加速していたと知れば、狐夏は間違いなく自分を責めると、わかりきっていたから。
再度取り繕うことも考えたが、先刻と同じ轍を踏むのは御免だと思い、フブキは仕方なく打ち明けることを決意した。
「うん……まあ……実は、ね……」
「私、弟子失格ですね……。知らなかったとはいえ、大事な師匠を危険な状態に追い込むなんて……」
「追い込まれるなんて……。そんなこと全然、思ってないよ」
「思ってなくても事実じゃないですか……。支部長の命令に従って、大人しくしていればこんなことには……」
「確かに支部長の言いつけを破ったのは問題だけどね。でも、事前に説明しなかった僕や支部長にも原因はある。それにね狐夏、たった3日とはいえ、久しぶりに狐夏の顔を見られて、僕は嬉しかったよ。好きな人に会えないままっていうのは、やっぱり凄く辛いからね」
自らの過失を悔やみ、肩を落とした狐夏を励ますように、フブキは眼鏡の奥から精一杯の笑顔を送った。
その嫣然たる様が眩しくて。
鼓吹の言葉が嬉しくて。
狐夏は目頭に溜まっていた熱を、再び強く感じた。
視界を覆う熱い雫の奥に見える、フブキの穏やかな表情。
その姿を脳裏に焼き付けながら、狐夏は固い決意を胸に抱いた。
誰よりも大切な師匠であり、かけがえのない愛しき恋人を。
なんとしてでも、自らの手で救ってあげたい、と。
「何かないんですか? その……呪いを解く方法とか……」
呪いの事情を知った今、本当は、少しでも早くフブキの傍を離れるべきだと、頭の中ではわかっていた。しかし狐夏は、なんとか事態を好転できないかと、立ち去る前にその策を訊ねてみた。
するとフブキは一瞬躊躇うように口を噤んだが、決意を固めたのか、少し改まった様子で向き直ってから口を開いた。
「んー……、実は……あるにはある、らしいんだ」
まさかの一言に、狐夏の目が大きく見開いた。
「本当ですか!? それってどんな?」
まるで曇り空が晴れ渡るかのように、パッと期待感に染まった弟子の顔に思わず一笑すると、フブキは気を取り直すように両肘をテーブルに突き、ほんの少しだけ前屈みになった。
「“火”だよ。ある特殊な“火”があれば、心に刺さった黒い氷柱を――人の目には見えない邪な氷を、溶かして消し去ることができるかもしれないんだ」
それは退院前に医師から伝えられていた、現時点で唯一見込みがあるたった1つの可能性だった。
しかし、フブキの言葉にいまいちピンとこない狐夏は、困惑した顔で聞き返した。
「えっと……一応確認しますけど、それって当然、そこらで手に入るものじゃないですよね? たとえばマッチとかライターみたいな……」
「勿論。でもまあ……入手そのものは、簡単と言えば簡単なのかもしれないけどね。その“火”っていうのは、実は鬼の火――鬼火のことなんだ」
「鬼火? 鬼火って確か……一部の鬼たちが使う技――鬼幻術の一種ですよね?」
「そう。主に火炎の力で戦う鬼たちの得意技だね。魔化魍退治のために編み出されたその技をなんとか応用すれば、心に刺さった氷柱を溶かせるかもしれない。条件次第だけど、その可能性はゼロではないだろうって」
「はあ……。でもそういうことなら話は早いんじゃないですか?
「ノブキくんのことかい? 確かに彼も優秀だよね。狐夏と同期でありながら、狐夏より先に独り立ちしてるし」
「ちょっ!? それは今関係ないじゃないですかぁ! そもそも私は、一生フブキさんの傍にいるつもりなんですから、独り立ちとかどうでもいいんですッ」
同期との比較は、狐夏にとってはまさに火に油。とくに友人であり、同時にライバルでもあるノブキという名の鬼と比べられるのは、彼女の中では絶対のタブーだった。
憤然と頬を膨らませながら講義する彼女の顔が可笑しくて、フブキはハハッと笑みを零す。
「どうでもいいって……君は良くても、組織的にそれはどうかと思うけどね」
ちょっとからかうだけですぐにムキになる愛弟子が、相変わらず愛らしくてたまらない。しかし今は、こんなふうに和んでもいられない。
ほんの一時の歓楽に名残惜しさを感じつつ、フブキは真面目な話に意識を戻した。
「まあ、それはともかく。……残念だけど、ノブキくんの力じゃ多分駄目なんだ。黒い氷柱を溶かすには、究極の域にまで達した鬼の力じゃないと。それに、ノブキくんは今、僕らの代わりにユキジョロウの童子と姫の行方を追ってる最中だしね」
「ああ、そっか。あいつ……まだ戻ってないんでしたっけ」
「支部長からの経過報告によると、幾つか場所を変えて探索を続けてるらしいけど、まだ発見はできていないみたいだね」
「じゃあどっちみち、すぐには会えないってことか……。でも、フブキさんが言うような鬼なんて、そもそも存在するんですか? 究極って大それた言葉ですけど、要は最強の鬼ってことですよね? しかも……火属性が絶対条件の」
「そう。だけど実は2人だけ、心当たりがあるんだ」
そう言って、フブキが2本指を立てると、狐夏はキョトンと首を傾げた。
「ふたり?」
「うん。1人はレンキさんといってね。この人は、“紅蓮の鬼”の異名で恐れられている、吉野専属の鬼の1人なんだ。だけど彼女は、吉野で鬼の候補生たちを指導している教官でもあってね。しかも相当気難しい性格って噂だから、正直、こっちの協力は望み薄かな……」
「ならもう1人の方は? もう1人は誰なんです?」
狐夏が問うと、フブキは迷うことなく、とある鬼の名を唱えた。
「ヒビキさん。関東支部に所属している、凄く強い太鼓の鬼だよ」