【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも― 作:裕ーKI
フブキの心は少しずつ――しかし確実に壊れ始めていた。
彼女の胸に突き刺さった黒い氷柱は、精神に干渉する目には見えない霊的存在となり、その内側にある心魂にまで突端を伸ばしていた。
心を脅かす氷は悪しき呪いの力。
それはフブキの意識をじわじわと黒く濁らせる。
漆黒の結晶が放つ冷気は、手始めに彼女の自制心の熱を奪い凍らせた。
制御を失った感情は、理由なき昂りとなり、時に理性の堰を乗り越えて溢れ出す。
その最たるものが、先日の同胞に対する暴挙だった。
黒い氷柱は魔化魍の邪悪な気から生み出された特性が故に、怨敵たる鬼の気を過敏に感知する。そしてそのたびに、まるで反発するかのように冷気を強め、凍結の速度を大きく加速させる。
心の凍結が進行すればするほどに、内に宿る清き意思――人間が人間であるために必要な感情は、徐々に凍てつき失われていく。
そうなると最後に残るのは、怒りや憎しみといった負の感情ばかり。
それはまるで――人類に牙を剥く魔化魍と同じように……。
時は数刻前に遡る。
狐夏が桐矢 京介との合流に備えて、診療所で仮眠を取っていた丁度その頃、フブキの自宅は異様な雰囲気に包まれていた。
6階建てマンション。3階の一室。
ベランダへと繋がる窓の外は、既に夜深く静まり返っている。
しかしそれとは対照的に、フブキの部屋は徒ならぬ騒々しさに満ちていた。
静寂な夜の風景を遮る純白のカーテンは、不気味なまでに真っ赤な血に彩られ、その清潔さを完全に失っていた。
床や壁の至る所には、数えきれないほどの切り裂き傷や凹み傷が刻まれており、まるでペンキをひっくり返したかのような大量の鮮血が、それらの傷を赤黒く塗り潰していた。
力任せに投げつけられた食器がまた1つ、壁にぶつかり粉々に砕け散る。
そして。
「ぅあ゛あ゛あ゛あああああああああああああああああああああああああ!!!」
直後に響き渡ったのは、喉奥を震わせ溢れ出た、言葉にならないほどの悲痛な叫び声だった。
それは誰に向けたつもりもない、ただ行き場を失っただけの空虚な怒りの声か。
あるいは、目に映る全てのものに対する拒絶の雄叫びか。
どちらにしろ、フブキは当たり散らさずにはいられなかった。
どんなに気持ちを落ち着かせ、耐え忍ぼうと自分に言い聞かせても、それを嘲笑うかのように、すぐにまた激情の波が押し寄せてくる。
フブキの意識は、未だかつてないほどの感情の荒波に飲み込まれていた。
大学で狐夏と別れた後も、フブキは何度も胸の騒めきに襲われた。
午後の講義の最中だろうと、帰宅途中の車の中だろうと、感情の乱れは容赦なく彼女を蝕んだ。
そのたびに脳裏を過ったのは、これまでの人生の中で、1度たりとも想像したこともないような邪な考えばかりだった。
教壇の上で講説しながらも、心の中では、鬼の姿を晒して学生たちを襲いたいと、醜い欲望に駆られていた。
信号待ちの車の中では、眼前の横断歩道を行き交う人々を轢き殺してやりたいと、そんな衝動にいつの間にか目が血走っていた。
我ながらなんて悍ましいことを考えているんだと、フブキは正気を取り戻すたびに戦慄した。
帰宅するまでの間、繰り返し沸き起こる穢れた感情に、何度理性が焼き切れそうになったことか。
それでもフブキは必死に堪えた。
自分は人類の自由と平和を護る鬼の1人なんだと、何度も凍りかけの心に言い聞かせ、その誇りと――大切な愛弟子への想いだけを頼りに理性を保ち続けた。
だがその日はもう――それも限界だった。
自宅に辿り着いた時点ですっかり衰弱しきっていたフブキは、くたびれたパンツスーツを脱いですぐにパジャマに着替えた。
そしてそのまま、倒れ込むようにベッドの上に身を投げた。
既に1日分の気力を使い果たし、これ以上感情の乱れに抗う自信はなかった。
だからさっさと眠りについてしまおうと、そう思っていた。
しかし、そんな悪足掻き同然のせめてもの抵抗でさえ、今のフブキには許されなかった。
布団の中に潜り込んだまでは良かったものの、寝入る間もなく、またしても胸の奥に渦巻く黒い感情が荒ぶり始めた。
「う……うぅ……」
途端にフブキは布団の中で蹲り、苦しげに嗚咽を漏らしだす。
まるで赤子のように身体を丸く縮めて、ただひたすら布団に顔を押し付ける。そうしてどうにかやり過ごそうと試みたが、その程度のことで功を奏すはずがなかった。
静まる素振りすら見せず、容赦なく押し寄せてくる荒波の重圧と、それに対する己の無力さに、フブキはたまらず泣きじゃくった。
これまで凛とした立ち振る舞いを心掛けてきた、彼女のものとは思えないほどの大粒の涙が、ベッドのシーツを、枕を、見る見る濡らしていった。
そして、その苦衷の涙により増大した心の昂りが、猛り狂う濁流となって彼女の理性の堰を、とうとう決壊させてしまった。
「ああっ……アァ!!! あ゛ァ……アァアアアアアアアアアアァ!!!!!」
気づけば掛け布団を蹴り飛ばし、絶叫と共にフブキはベッドを飛び出していた。
普段は清らかな黒き瞳が、再び狂気の赤へと色を変える。
しかもその色は、トキを殴り飛ばした時よりもさらに色濃く濁っていた。
「ゔぅうう……ッ」
内から溢れ、瞬く間に全身を巡る破壊衝動に為す術もなく突き動かされるように、フブキは獣の如き唸り声を上げながら、部屋の中を暴れ始めた。
疼く胸を掻き毟り、抱えた頭を振り乱す。
手に納まる小物や食器が目に留まるたび、それらを手当たり次第に投げつけた。
力任せに何度も振るった拳が、壁の至る所を陥没させる。
棚に収まっていた本の列を薙ぎ倒すと、その衝撃で、棚の上に飾っていた幾つものフォトフレームが次々と床に落ちていく。その中には、狐夏との思い出が沢山詰まった写真たちが収められていた。
床を踏み鳴らしながら、クローゼットの傍に立っていた姿見をひっくり返す。その瞬間、耳障りな衝突音を響かせながら、割れた鏡の破片が辺り一面に散乱した。
破片のひとかけらを拾い上げれば、食い込んだ掌から血が滴るのもお構いなしに、フブキは無差別に周りを引っ掻きだした。
壁紙や床のフローリング、ソファーのカバーやベッドのシーツ……。目に映るもの全てに傷痕を刻み込んでいく。
だがそうしてどんなに発散しても、心の奥で煮え滾る黒い感情は、一向に治まる気配を見せなかった。
それどころか、ますます勢いの歯止めが効かなくなっていき、ついには自分の肉体までも傷つけ始めた。
まさに一心不乱。
破片の縁で、体中を何度も何度も切り裂き、抉り続けた。
全身から飛び散った鮮血が、部屋中を見る見る深紅に染め上げていった。
傷を増やすたびに、焼けるような痛みがフブキの全身を駆け巡る。
しかしそれすらも、今はフブキの昂りを助長させる刺激にしかなり得なかった。
「あっ……はァ!! あ゛ぁッ! はァ!!」
もう……自分ではどうすることもできない。
内なる声でどんなに悲鳴を上げようとも、心も体もいうことを聞かない。
叫び、壊し、自傷する。
ただひたすらに、それをずっと繰り返す。
たった1人きりの部屋の中で。
血みどろの部屋の中で。
何時間も同じことを繰り返す。
それはさながら、終わりの見えない苦しみ――無限地獄のようだった。
しかし、やがてフブキはこの苦しみを心地良いとさえ思い始めた。
凍てついた心から止めどなく溢れ出る黒い感情も、それによる発作的な破壊衝動も、そして、全身を駆け巡る焼けるような痛みさえも。
それら全てが、曇りがかった意識に染み渡っていくような気がして、じわじわと甘味な気分に包まれていく。
その快感に気が抜けたのか、不意に動きを止めた破壊の手から、鏡の破片がポトリと落ちる。
腰が砕けるように、壁に凭れ掛かったフブキはズルズルとその場に座り込む。
すると、何気なく向けた視線の先で、床に転がっていたフォトフレームがふと目に留まった。
落下の衝撃で亀裂が走り、割れてしまったアクリル板の中にあるのは、いずれも狐夏とのツーショットの写真ばかり。
それが視界に入った瞬間、脳裏に浮かんだのは愛弟子の眩しい笑顔だった。
そしてフラッシュバックする、狐夏が関東へと旅立つ前に見せてくれた決意の表情。
途端に胸の奥がキュッとなる。
その感覚が、狐夏が傍にいないことに対する寂しさだと自覚したフブキは、一瞬哀し気に顔を歪ませつつも、すぐにそれを押し殺すように口角を上げた。
「大丈夫……」
フブキは自分に言い聞かせるように告げる。
こうしている間も、狐夏はきっと頑張ってくれているはずだから……。
他の誰でもない、僕のために。僕を救うために……。
ならば僕も師匠として、そう簡単に音を上げる訳にはいかない……。
天を向き、虚空を見ながら呟き続ける。
「大丈夫……。狐夏……大丈夫だから……僕は君を待つよ……」
それは、今は遠くにいる狐夏に向けた精一杯のメッセージ。
離れ離れの状況であるが故に、その声が本人に届くことは決してないとわかっていながらも、フブキは大切な愛弟子に語り掛けるように発した。
「君が……君が傍にいないのは寂しいけど……フフッ……だけど心配はいらない……今は……今は耐えられる……全然、耐えられる……フフッ……フ……ハハッ……」
力無く吐き出るその言葉には、徐々に恍惚な笑みが混ざりだしていた。
「だって……寂しさならほら……こうして紛らわせることができるからッ……アハッ……アハハハ……」
焦点が合っていない目をどんよりとした天井に固定しつつも、その顔はウットリとした表情で蕩けていく。
「フフッウフフ……これなら寂しくない……こうしていれば寂しくないッ! おかしいな……こんなこと本当は……汚らわしくて凄く嫌なはずなのに…………ハハッなんでだろ……いまはなんともない……なにもかんじない……むしろ、いいきぶん……」
譫言のように呟きながら、フブキは何かに取りつかれたように、全身から溢れ出た鮮血を自分の顔に塗りたくり始めた。
「ハアァ……あったかい……」
生血塗れの掌で頬を撫でるたび、ヌルヌルと生暖かい感触が皮膚に伝わり、何とも言えぬ心地よさがじんわりと身体中に広がった。
鉄っぽい臭いが鼻腔を突き抜けると、知らぬ間に心に植え付けられていた未知なる本能が歓喜に震える。
紅血の雫が滴る指先を甞めれば、舌先から神経を逆撫でするかのような感覚が、背筋を駆け上がって脳髄をビリビリと痺れさせる。
「これがぼくのち……ぼくの……オにのチ……ハハッ」
頭の中が、血への渇欲で満たされていく。
「ハハッ……ハハハハハハ……アア……だいじょうぶ……ふあんもしんぱいもなにもないフフフ……。こなつのことだっテきにならなイ……だからダいじょうブ……ぼくハだいじょうぶフフ……ヒ……ハハハハハハハハハハ!!」
人としての尊厳も、鬼としての誇りも、何より、一縷の希望の如く脳裏に留まっていた狐夏の眩しい笑顔でさえも、真っ赤な欲望に容赦なく塗り潰される。
僅かに残っていた理性の欠片の中で、このままじゃいけないと危惧の念を募らせつつも、最早抗う意思は全くと言っていいほど残ってはいなかった。
自身の常軌を逸した行為に対して、違和感もなければ疑問も感じない。
罪悪感や嫌悪感すらも、既に快楽の糧と成り果てていた。
「ハハッ! アハハハハハッ! ハハハハハハ!! ハハハハハハハハハ!!!」
部屋中にいつまでも轟く、狂気と狂喜が入り混じった歪な笑い声。
止めたくても止められない。
止める方法がわからない。
止めようとする意志が瞬く間に消えていく……。
狐夏……助けて――……。
血に呑まれ薄らいでいく理性の欠片が、散り際に一筋の涙を流した。
儚く光る透明な一滴が、赤く穢れた頬を伝って静かに落ちる。
その存在に気づくこともなく、黒い感情に魅了されたフブキは、体力が尽きて気を失うその時まで、破壊と自傷を繰り返しながら笑い続けた……。