【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも― 作:裕ーKI
一:何かが欠けている
重い瞼がゆっくりと開く。
次の日の朝、血溜まりの中でボロ雑巾のように横たわっていたフブキは、濁りきった異様な空気に誘われて目を覚ました。
まるで床に磔にでもされていたかのように体の自由が利かない。
どんなに脳から命令を送っても、微弱な信号では指先1つまともに動かすことができなかった。
薄っすらとした途切れ途切れの意識の中で、たまたま目に映ったのは、今の自分と同じように、紙屑を吐き出しながら無様に転がっている、小さなゴミ箱だった。
眠っていた間に本来の色に戻っていたフブキの黒い瞳は、しばらくの間、朦朧としながらそのゴミ箱と見つめ合っていた。
深い意味はなかった。ただ、まだ眼球すらも動かす元気が沸かないだけだった。しかしそうしているうちに、少しずつ意識がハッキリとしてくるのを感じた。
試しにもう1度脳から信号を送ってみると、反応は鈍いが、今度は何とか肉体を従わせることができた。
「う……うぅ……」
フブキは喉の奥で微かに唸りながら、軋んだ上半身を起こした。そしてゆっくりと首を動かし、周囲を見渡した。
そこは見慣れたマンションの自室。いや、今となってはもう、記憶とは程遠い荒れ果てた光景だった。
乱雑に散らばった雑誌の山。
床に叩きつけられて割れてしまった姿見。
数えきれないほどの穴が開いた壁。
引っ掻き傷でズタズタになったフローリング。
棚から落ちて亀裂が走ったフォトフレームたち。
そして何より、そこら中に飛び散って付着した赤黒い血痕。
見れば見るほど、言葉を失うほどに酷い有様だった。
もし、何も知らない者がこの光景を目にすれば、きっと誰もが口を揃えて言うのだろう。まるで――殺人現場のようだと。
だとしたら、果たして今のフブキの姿は被害者と加害者、一体どちらに見えるのだろうか。
シワシワに肌蹴たパジャマは、染み付いた汗と血が乾いて酷い臭いがする。
ぼんやりとした記憶を手繰り寄せながら、フブキはパジャマの袖や股下をまくる。そして、その下に潜んでいた肌をしばらく観察するが、どういうわけか、そこに傷らしい傷は1つも確認できなかった。
そもそもの話、どうしてこんなにも部屋が荒れ、自分の体が血塗れになっているのか、その経緯が思い出せなかった。
大学から帰宅後、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだところまでは覚えている。しかし、そこから先の記憶が曖昧だった。
「ベッドの中で……胸のざわめきを感じたところまでは、なんとなく覚えてる……。でも……そのあとは……」
パジャマのボタンが幾つか外れていたせいで、大部分が露になっていた谷間に手を置きながら、フブキは独り言のように呟く。
どうにか欠けた記憶のピースを取り戻せないものかと、必死に頭を回転させようとするが、その思いに反して、相変わらず脳の反応は鈍いまま。結局、何も思い出すことができなかった。
だが、記憶が飛んでいようとも、大方察しはついていた。
周囲の状況を見れば、
自身の有様を見れば、
なんてことはない、一目瞭然だった。
とどのつまり、抗えなかったのだと。
内から押し寄せる感情の荒波に、自分は負けたのだ。
為す術なく飲み込まれ、激流に翻弄されるままに身も心も荒れ果てた。
胸の奥には今も微かに残っている。
その時に感じていたであろう感情の余韻が。
ひとつは恐怖だった。
自分が自分じゃなくなっていく様を、まざまざと見せつけられていたかのような底知れぬ恐怖。
だがもうひとつは――喜びだった。
心の足枷から解き放たれたことによる開放感。
今まで抑圧し続けていた、自らの衝動に身を委ねる幸福感。
それらはまさに、恐怖すらも塗り潰してしまうほどの圧倒的な喜悦だった。
「喜んでいた……? 僕が……?」
フブキは思わず自分を疑った。
部屋を壊して血に染めて、自らも壊れて血に染まって……。そんな穢れた行為に歓喜していたなんて、正気の沙汰とは思えなかった。
しかし、どんなに目を背けようとも事実は変わらない。
まるで異物のようなその気持ちは、紛れもなく胸の奥にこびり付いていた。
「はぁ……」
血の味が残った口から洩れる、灰心喪気のため息。
ここ数日のゲリラ的な感情の昂ぶりに代わって、今は鉛のように重苦しい自責の念が、フブキの心にはのしかかっていた。
部屋中に充満している澱んだ空気。不快な静けさに抑鬱気分が煽られる。
沈んだ気色のまま、力無く傾けた後頭部を背後の壁に預ける。
呆然としながら天井を見上げると、体を蝕む倦怠感をどうにか遮断できないものかと、試しにまた瞼を閉じてみた。
だが、いくら暗闇に身を委ねても、心の安寧など一向に訪れはしなかった。
どれだけ待っても頭は冴えてこない。
どれだけ待っても気力は湧いてこない。
どれだけ待っても、状況は何も変わらない。
ただただ、閑散とした時間だけが無駄に過ぎ去っていた。
しかしそんな時。
ふと、とある違和感に襲われたフブキは、慌ててハッと目を見開いた。
自分の中に、何かが足りていなかったことにようやく気がついたのだ。
「狐夏……」
それは常に心の中に居座っていたはずの、何よりも大事な気持ち。
大切な弟子であり、大切な恋人である狐夏への想いを――愛情を、あろうことか今の今まで見落としていた。いや、見落としていたことにすら気づけていなかったのだ。
「そんな……。僕が狐夏を忘れるなんて……」
目が覚めてからほんの十数分ほどのことだったとはいえ、心の拠り所である狐夏の存在そのものを、完全に忘却してしまっていた。
彼女への情熱の炎が、それこそ冷気に覆われて消えてしまったかのようだった。
その事実を自覚した瞬間、フブキは愕然とした。
「狐夏が帰ってきたら……謝らなきゃ……」
唇の隙間から洩れる、か細い声。
壁を伝って立ち上がったフブキは、まるで生きた屍の如くふらついた足取りで歩きだす。
この最悪な気分から抜け出したくて。
曇った意識を呼び覚ましたくて。
シャワーでも浴びれば、少しは気分もマシになるかと思って。
血みどろの部屋から逃げるように、バスルームへと向かう。
しかしその時、足元で微かに鳴った何かが砕け散る音を、フブキの意識は聞き洩らしていた。
それは、床に転がっていたフォトフレームの1つを無意識に踏み潰してしまい、割れてしまった音だった。
粉々になったアクリル板の下で、狐夏とのツーショット写真の1枚が、シワを寄せて歪に折れ曲がってしまった。
だがそれでもフブキは気づかない。
熱を奪われ、黒く凍結し始めている情愛の目には、大切な思い出の象徴も映りはしなかった。
足を止めることもなく、
立ち止まり振り返ることもなく、
フブキはゆっくりとリビングを出ていった。
閉め切ったバスルームの中に充満する白い湯気。
シャワーヘッドから勢いよく降り注ぐ熱いお湯が、赤く染まった肌の上を流れ落ちている。
洗面所で血腥いパジャマを脱ぎ捨てたフブキは、縋る思いでバルブを捻り、水流の温もりに身を委ねていた。
全身にこびり付いていた血の塊が、お湯の熱に溶けて見る見る排水口へと吸い込まれていく。
胸中を支配する訳のわからない気持ちも、どうせならこの血と一緒に洗い落とせればいいのに……。
そんなことを思いながら、赤い渦を巻く排水口をぼんやりと眺めていた。
「大丈夫……大丈夫……。僕は狐夏を忘れたりなんかしていない……。僕は狐夏を愛してる……」
滴る湯水の中でフブキは呟く。
自分の気持ちを再確認するように。
あるいは、自分の心に言い聞かせるように。
しかし、その表情はやはりどこか虚ろで、声音も抑揚のないものだった。
やがて、フブキは思い出したかのようにその言葉を口にする。
「そうだ……大学……。今日も講義があるんだった……」
弟子の狐夏が頑張ってくれているのに、僕が先に挫けてどうする。しっかりしなくちゃ……。僕は狐夏の師匠なんだから……。
その一心で辛うじて奮起したフブキは、自分に今できる責務を全うしようと強く決意する。
すると少しだけ、気持ちが前向きになれたような気がした。
綺麗なお湯で念入りに身を清めてからバルブを閉めたフブキは、僅かばかり軽くなった足取りでバスルームを後にした。
しかし彼女は知る由もなかった。
その後姿を鏡の中から覗き見る、2つの影の姿を。
「どうやら目覚めの時は近いようです……」
影の1人は、男の顔をしながらも女の声で呟いた。
「新たな娘の誕生……待ち遠しい限りです……」
もう1人の影は、女の顔をしながらも男の声で呟いた。
2つの影は小さく笑みを浮かべると、その姿を雪に変えて散らしながら、鏡の世界から消え失せた。
湯気に紛れて微かに舞う粉雪の存在に、フブキが気づくことはなかった。