【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも―   作:裕ーKI

22 / 46
堕落之巻:終わる愛
一:何かが欠けている


 重い瞼がゆっくりと開く。

 

 次の日の朝、血溜まりの中でボロ雑巾のように横たわっていたフブキは、濁りきった異様な空気に誘われて目を覚ました。

 

 まるで床に磔にでもされていたかのように体の自由が利かない。

 

 どんなに脳から命令を送っても、微弱な信号では指先1つまともに動かすことができなかった。

 

 薄っすらとした途切れ途切れの意識の中で、たまたま目に映ったのは、今の自分と同じように、紙屑を吐き出しながら無様に転がっている、小さなゴミ箱だった。

 

 眠っていた間に本来の色に戻っていたフブキの黒い瞳は、しばらくの間、朦朧としながらそのゴミ箱と見つめ合っていた。

 

 深い意味はなかった。ただ、まだ眼球すらも動かす元気が沸かないだけだった。しかしそうしているうちに、少しずつ意識がハッキリとしてくるのを感じた。

 

 試しにもう1度脳から信号を送ってみると、反応は鈍いが、今度は何とか肉体を従わせることができた。

 

 

 

「う……うぅ……」

 

 

 

 フブキは喉の奥で微かに唸りながら、軋んだ上半身を起こした。そしてゆっくりと首を動かし、周囲を見渡した。

 

 そこは見慣れたマンションの自室。いや、今となってはもう、記憶とは程遠い荒れ果てた光景だった。

 

 乱雑に散らばった雑誌の山。

 

 床に叩きつけられて割れてしまった姿見。

 

 数えきれないほどの穴が開いた壁。

 

 引っ掻き傷でズタズタになったフローリング。

 

 棚から落ちて亀裂が走ったフォトフレームたち。

 

 そして何より、そこら中に飛び散って付着した赤黒い血痕。

 

 見れば見るほど、言葉を失うほどに酷い有様だった。

 

 もし、何も知らない者がこの光景を目にすれば、きっと誰もが口を揃えて言うのだろう。まるで――殺人現場のようだと。

 

 だとしたら、果たして今のフブキの姿は被害者と加害者、一体どちらに見えるのだろうか。

 

 シワシワに肌蹴たパジャマは、染み付いた汗と血が乾いて酷い臭いがする。

 

 ぼんやりとした記憶を手繰り寄せながら、フブキはパジャマの袖や股下をまくる。そして、その下に潜んでいた肌をしばらく観察するが、どういうわけか、そこに傷らしい傷は1つも確認できなかった。

 

 そもそもの話、どうしてこんなにも部屋が荒れ、自分の体が血塗れになっているのか、その経緯が思い出せなかった。

 

 大学から帰宅後、パジャマに着替えてベッドに潜り込んだところまでは覚えている。しかし、そこから先の記憶が曖昧だった。

 

 

 

「ベッドの中で……胸のざわめきを感じたところまでは、なんとなく覚えてる……。でも……そのあとは……」

 

 

 

 パジャマのボタンが幾つか外れていたせいで、大部分が露になっていた谷間に手を置きながら、フブキは独り言のように呟く。

 

 どうにか欠けた記憶のピースを取り戻せないものかと、必死に頭を回転させようとするが、その思いに反して、相変わらず脳の反応は鈍いまま。結局、何も思い出すことができなかった。

 

 だが、記憶が飛んでいようとも、大方察しはついていた。

 

 周囲の状況を見れば、

 

 自身の有様を見れば、

 

 なんてことはない、一目瞭然だった。

 

 とどのつまり、抗えなかったのだと。

 

 内から押し寄せる感情の荒波に、自分は負けたのだ。

 

 為す術なく飲み込まれ、激流に翻弄されるままに身も心も荒れ果てた。

 

 胸の奥には今も微かに残っている。

 

 その時に感じていたであろう感情の余韻が。

 

 ひとつは恐怖だった。

 

 自分が自分じゃなくなっていく様を、まざまざと見せつけられていたかのような底知れぬ恐怖。

 

 だがもうひとつは――喜びだった。

 

 心の足枷から解き放たれたことによる開放感。

 

 今まで抑圧し続けていた、自らの衝動に身を委ねる幸福感。

 

 それらはまさに、恐怖すらも塗り潰してしまうほどの圧倒的な喜悦だった。

 

 

 

「喜んでいた……? 僕が……?」

 

 

 

 フブキは思わず自分を疑った。

 

 部屋を壊して血に染めて、自らも壊れて血に染まって……。そんな穢れた行為に歓喜していたなんて、正気の沙汰とは思えなかった。

 

 しかし、どんなに目を背けようとも事実は変わらない。

 

 まるで異物のようなその気持ちは、紛れもなく胸の奥にこびり付いていた。

 

 

 

「はぁ……」

 

 

 

 血の味が残った口から洩れる、灰心喪気のため息。

 

 ここ数日のゲリラ的な感情の昂ぶりに代わって、今は鉛のように重苦しい自責の念が、フブキの心にはのしかかっていた。

 

 部屋中に充満している澱んだ空気。不快な静けさに抑鬱気分が煽られる。

 

 沈んだ気色のまま、力無く傾けた後頭部を背後の壁に預ける。

 

 呆然としながら天井を見上げると、体を蝕む倦怠感をどうにか遮断できないものかと、試しにまた瞼を閉じてみた。

 

 だが、いくら暗闇に身を委ねても、心の安寧など一向に訪れはしなかった。

 

 どれだけ待っても頭は冴えてこない。

 

 どれだけ待っても気力は湧いてこない。

 

 どれだけ待っても、状況は何も変わらない。

 

 ただただ、閑散とした時間だけが無駄に過ぎ去っていた。

 

 しかしそんな時。

 

 ふと、とある違和感に襲われたフブキは、慌ててハッと目を見開いた。

 

 自分の中に、何かが足りていなかったことにようやく気がついたのだ。

 

 

 

「狐夏……」

 

 

 

 それは常に心の中に居座っていたはずの、何よりも大事な気持ち。

 

 大切な弟子であり、大切な恋人である狐夏への想いを――愛情を、あろうことか今の今まで見落としていた。いや、見落としていたことにすら気づけていなかったのだ。

 

 

 

「そんな……。僕が狐夏を忘れるなんて……」

 

 

 

 目が覚めてからほんの十数分ほどのことだったとはいえ、心の拠り所である狐夏の存在そのものを、完全に忘却してしまっていた。

 

 彼女への情熱の炎が、それこそ冷気に覆われて消えてしまったかのようだった。

 

 その事実を自覚した瞬間、フブキは愕然とした。

 

 

 

「狐夏が帰ってきたら……謝らなきゃ……」

 

 

 

 唇の隙間から洩れる、か細い声。

 

 壁を伝って立ち上がったフブキは、まるで生きた屍の如くふらついた足取りで歩きだす。

 

 この最悪な気分から抜け出したくて。

 

 曇った意識を呼び覚ましたくて。

 

 シャワーでも浴びれば、少しは気分もマシになるかと思って。

 

 血みどろの部屋から逃げるように、バスルームへと向かう。

 

 しかしその時、足元で微かに鳴った何かが砕け散る音を、フブキの意識は聞き洩らしていた。

 

 それは、床に転がっていたフォトフレームの1つを無意識に踏み潰してしまい、割れてしまった音だった。

 

 粉々になったアクリル板の下で、狐夏とのツーショット写真の1枚が、シワを寄せて歪に折れ曲がってしまった。

 

 だがそれでもフブキは気づかない。

 

 熱を奪われ、黒く凍結し始めている情愛の目には、大切な思い出の象徴も映りはしなかった。

 

 足を止めることもなく、

 

 立ち止まり振り返ることもなく、

 

 フブキはゆっくりとリビングを出ていった。

 

 

 

 

 

 閉め切ったバスルームの中に充満する白い湯気。

 

 シャワーヘッドから勢いよく降り注ぐ熱いお湯が、赤く染まった肌の上を流れ落ちている。

 

 洗面所で血腥いパジャマを脱ぎ捨てたフブキは、縋る思いでバルブを捻り、水流の温もりに身を委ねていた。

 

 全身にこびり付いていた血の塊が、お湯の熱に溶けて見る見る排水口へと吸い込まれていく。

 

 胸中を支配する訳のわからない気持ちも、どうせならこの血と一緒に洗い落とせればいいのに……。

 

 そんなことを思いながら、赤い渦を巻く排水口をぼんやりと眺めていた。

 

 

 

「大丈夫……大丈夫……。僕は狐夏を忘れたりなんかしていない……。僕は狐夏を愛してる……」

 

 

 

 滴る湯水の中でフブキは呟く。

 

 自分の気持ちを再確認するように。

 

 あるいは、自分の心に言い聞かせるように。

 

 しかし、その表情はやはりどこか虚ろで、声音も抑揚のないものだった。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 やがて、フブキは思い出したかのようにその言葉を口にする。

 

 

 

「そうだ……大学……。今日も講義があるんだった……」

 

 

 

 弟子の狐夏が頑張ってくれているのに、僕が先に挫けてどうする。しっかりしなくちゃ……。僕は狐夏の師匠なんだから……。

 

 その一心で辛うじて奮起したフブキは、自分に今できる責務を全うしようと強く決意する。

 

 すると少しだけ、気持ちが前向きになれたような気がした。

 

 綺麗なお湯で念入りに身を清めてからバルブを閉めたフブキは、僅かばかり軽くなった足取りでバスルームを後にした。

 

 

 

 

 

 しかし彼女は知る由もなかった。

 

 その後姿を鏡の中から覗き見る、2つの影の姿を。

 

 

 

「どうやら目覚めの時は近いようです……」

 

 

 

 影の1人は、男の顔をしながらも女の声で呟いた。

 

 

 

「新たな娘の誕生……待ち遠しい限りです……」

 

 

 

 もう1人の影は、女の顔をしながらも男の声で呟いた。

 

 2つの影は小さく笑みを浮かべると、その姿を雪に変えて散らしながら、鏡の世界から消え失せた。

 

 湯気に紛れて微かに舞う粉雪の存在に、フブキが気づくことはなかった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。