【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも―   作:裕ーKI

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十六:転生

 興奮を抑えきれなくなった副学長は、フブキの唇さえも奪ってしまおうと、彼女の全身に躊躇なく覆い被さる。

 

 ズキズキとこめかみを締め付けられるような痛みと戦いながらも、フブキは脱力した体を死に物狂いで (よじ)り、副学長の一方的な抱擁からなんとか逃れようとした。

 

 しかしそうしている間にも、彼女の思考は2つの欲求に挟まれ、激しく揺れ動いていた。

 

 この男を殺したい……。

 

 違う! 殺したくない……。

 

 早く殺して、悲鳴を聴きたい……。

 

 そうじゃない。猛士の鬼が人を殺すなんて、そんなことを考えてはいけない……。

 

 相反する欲求と理性が、渦を巻くように激しく入り乱れ、フブキの意識をかき乱していく。

 

 その上、さらに追い打ちをかけるように、頭の中に聞き覚えのある囁き声が響いてきた。

 

 

 

――呆れたぁ……。こんな状況になっても、まだ我慢し続けるのねぇ~……

 

 

 

 それは、パウダールームで鏡と向き合いながら聞いた声と同じ、邪悪に染まった自分自身の心の声。

 

 

 

――まったく……。一体いつまで苦しめば気が済むのかしら……。さっさと素直になって、自分が魔化魍であることを認めれば、すぐにでも楽になれるというのに……

 

「うるさいッ! 黙ってろッ!」

 

 

 

 まるで誘惑するように語り掛けてくる内なる声を、フブキは咄嗟に怒鳴って払い除けた。

 

 フブキにしか聞こえないフブキの心の声が、副学長に聞こえるはずもなく、彼女の唐突な怒鳴り声は、副学長の目には、まるで自分が拒絶されているかのようにしか映っていなかった。

 

 そんな状況すらも楽しむように、副学長はニタニタといやらしい笑みを浮かべながら、一旦上半身を起こして、フブキの顔から距離を置いた。

 

 そして、反抗的なフブキの態度を今度は従順に変えてやろうと企むと、ずっと温めていた“奥の手”の真価を、ここでついに発揮させた。

 

 

 

「そうだ。せっかくですから、小宮香 狐夏も仲間に入れてあげましょうかね」

 

「は……!? 何言ってる……!?」

 

 

 

 副学長にとっての“奥の手”。

 

 それは、彼の知るフブキと狐夏の関係と、かつて彼女たちがこの大学構内で密かに及んだ行為の事実を脅迫材料にして、2人まとめて手中に収めてしまおうという計画のことだった。

 

 

 

「あなたが私のものになったと知れば、小宮香 狐夏も進んで参加してくれると思うんです」

 

「冗談じゃないッ……。誰がお前のものなんかになるか……」

 

「なりますよ、あなたも小宮香 狐夏も……。あなたたちの恥ずべき行為を、この大学やネットにでもばら撒くと脅せば、ならざるを得ないはずだ」

 

「なんとも浅はかな考えだな……。こ、狐夏はッ……あの子はもう……この大学の人間ではないんだ……。そんな脅し……アッ……アァ……あの子には……大して意味はない……。それより……公表を恐れるべきなのは……寧ろあんたの方だ……。あんたこそ……今の行いを世間に知られれば、逮捕は免れないぞ……」

 

「確かに……この状況が外に漏れでもすれば、破滅するのは私の方でしょうね。でもね、今この時点で、私とあなた以外に、誰がこの部屋の状況を把握しているというのです? ろくに体を動かすこともできない今のあなたでは、外に逃げて通報することもできないでしょう? それに、小宮香 狐夏はやはり私に従いますよ」

 

 

 

 自信ありげにそう言い切る副学長に、フブキの表情は身構えるように固くなる。

 

 

 

「あなたの言う通り、大学を抜けた小宮香 狐夏個人には、脅迫はあまり効果がないでしょう。だけど、彼女と違って現役の教員であるあなたには、効果は絶大のはずだ。そして、私の決断1つであなたが社会的に抹殺される可能性があると知れば、あなたを愛している小宮香 狐夏は、あなたを守るためなら迷わず屈服すると確信があります。そうして、小宮香 狐夏の首根っこを掴んでおけば、あなたはもう……私には迂闊に逆らえなくなる。互いに足枷となり合い、せいぜい私の愛玩動物になってください」

 

 

 

 副学長は意気揚々と語ると、勝ち誇った笑みでフブキを見下ろした。

 

 その嘲弄的視線を前に、フブキはギリリと歯を食いしばる。

 

 彼女の副学長に対する――いや、人間に対する憎悪と怒りは、最早臨界点に達したも同然だった。

 

 しかし、それでもなお、フブキは残った理性を総動員して必死に堪えようとする。

 

 ぼくは……にんげんだから……。

 

 ぼくは……おにだから……。

 

 奥歯が割れんばかりに軋み、掌に爪が深く食い込むほど強く拳を握り締めながら、彼女はプライドをかなぐり捨てて、副学長に向かって切実に哀願した。

 

 

 

「わかった……。ぼ、僕はどうなってもいい……。あなたの女になっても……構わない……。だからお願い……。狐夏は……グッ……クッ……狐夏に……だけは……お願いだから……手を……手を出さないで……くれ……」

 

 

 狐夏に思想を向けるたび、激しさを増していく頭痛に眉間を歪ませながらも、屈辱に満ち溢れた涙と共に、その想いを訴えかけた。

 

 彼女の惨めな様を前に、副学長は大層満足げだった。

 

 

 

「なるほど。それほどまでに小宮香 狐夏が大切という訳ですか。ならば証を見せてください。あなたの言葉が、どれほど本気なのかをね」

 

「証……だと……?」

 

「ええ。本当に私のものになる覚悟があるというのなら、あなた自身の意思で私に口づけをしてみなさい」

 

「なっ……!?」

 

 

 

 副学長の傍若無人な要求に、フブキは一瞬愕然としたが、しかしすぐにその気持ちをグッと呑み込んだ。

 

 それで狐夏が助かるのなら、ちっぽけな自分のプライドなんてどうでもいい。

 

 吐き気を催すほどの嫌悪に必死に耐えるかの如く、赤く濁った双眸をギュッと瞑ったフブキは、鉛のように重い背中を僅かに浮かせて、その唇を副学長に差し出した。

 

 次の瞬間、ベロリと舌なめずりをした副学長が、貪りつくようにフブキの口に吸いついた。

 

 

 

「ん゛むッ!? ンッ……ンンンッ……!」

 

 

 

 気遣いもテクニックも何もない。強引に侵入してきた悪臭漂う粘液塗れの舌先に、フブキの口内は暫しの間、されるがままに蹂躙された。

 

 その間、鳥肌を立てさせ、無意識に体中を左右に振って逃れようとするほどの不快感に襲われながらも、それでもフブキはひたすら耐え忍んだ。

 

 何度もえずいてしまうほど。

 

 気色悪くて。

 

 息苦しくて。

 

 何より。

 

 大切なものを奪われたような気がして悲しくて。

 

 胸が張り裂けそうに酷く痛んで……。

 

 ()のフブキにとって自分の唇は、狐夏との愛を確かめ合うためのものであり、決してこんな男に捧げるためのものではなかった。

 

 なかったはずなのに……。

 

 なのに穢された。汚された。

 

 そのショックは計り知れず、既に零れていた涙がさらに止め処なく溢れた。

 

 だけどこれで、少なくとも狐夏だけは救われる。

 

 一縷の希望に安堵するように、そう思っていた。

 

 だが、そう思った自分が浅短だったのだと、フブキはすぐに思い知る。

 

 透明な唾液の糸を引きながら、フブキの唇から口を離した副学長が、恍惚に顔を歪めながら、非常にもそれを告げ知らせた。

 

 

 

「そう……そうそう! これです! この征服感ですよ、私が望んでいたのは! やはり風白瀬先生、あなたを操るには、小宮香 狐夏を使うのが最も効果的のようだ。ならば心配せずとも、あの小娘も大切に可愛がってあげますよ。まあ、あの子は私のタイプではないので、あなたの“ついで”……ではありますがね。ですから、あなたもこれからは、しっかり私に奉仕してくださいね?」

 

 

 

 その言葉が無情にも耳の中をすり抜けた瞬間、フブキの最後の希望が音を立てて打ち砕かれた。

 

 

 

「ふざけるな……。狐夏には手を出さない約束だろ……? そのために……そのためだけに……僕はお前を受け入れたのに……」

 

 

 

 一心不乱に堪えていた険しい顔が、見る見る蒼褪め、銷魂の危機が湧き上がっていく。

 

 副学長はその顔を他人事のように眺めながら、平然と嘲弄の言葉を投げつける。

 

 

 

「ハッ。知りませんね、そんなこと。あなたが勝手に、私の言葉を都合よく解釈しただけじゃないですか?」

 

「なッ……に……ぃ……」

 

「あなたは賢いですからね。少しでも隙を見せれば、あっという間にこっちが追い込まれてしまうのはわかり切っている。ですから、その隙を与えないためには必要不可欠なんですよ、小宮香 狐夏は」

 

 

 

 美女の花唇を衝動のままに汚してやったという充実感を得て、気分が高揚しているのだろう、その口調は普段にも増して流暢で、歌うような軽妙さを伴っていた。

 

 

 

「大体……私の知る限り、普段のあなたはもっと慎重さに気を配る――まさに石橋を叩いて渡りたがるような人間だったはずだ。それこそ、小手先の言葉などに、そう簡単に踊らされたりはしないほどにはね。ですが今のあなたは、どうやら平常心を欠いているせいか、冷静な判断ができなくなっているようだ。らしくない……実にらしくないですねぇ、風白瀬先生ぇ。ま、私にとっては大変好都合なことなので、寧ろ大歓迎なんですがね」

 

 

 

 ペラペラと饒舌に語るその口ぶりは、まるで舞台上の役者が、大仰な身振り手振りで台詞を紡ぐかのよう。

 

 だが、そんな聞く者の癇に障るような言葉の数々も、既にフブキの耳には届いていなかった。

 

 今、フブキの思考を支配しているのは、たった1つの懸念だけ。

 

 このままでは、愛する人までもが自分と同じように穢されてしまう。

 

 その一筋の危機感が、フブキの意識を極限以上に昂らせていった。

 

 

 

「うぐぁッ! あがァ……ア゛……ハッアァ……グッ……アッ……アァアアアア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!!!!」

 

 

 

 途端に、脳みそを握り潰されているかのような激痛に襲われると、フブキは背筋を大きく仰け反らせ、左右に激しく揺れて悶えだした。

 

 脳震盪にも似た眩暈が頭の中で何度も弾け飛び、視界がチカチカと瞬く。

 

 少しでも気を緩めれば、すぐにでも意識を手放してしまいそうだった。

 

 狐夏への恋慕の情に反発して、頭の痛みは急激に跳ね上がっていく。

 

 ところが、いつしかフブキは、昨晩と同じようにその痛みを喜びに感じ始めていた。

 

 パウダールームで、鏡に映っていた“もう1人の自分”が言っていた。

 

 頭の痛みは、狐夏を想う気持ちに対する拒絶反応だと。

 

 ならば捉え方を変えれば、その痛みとは、自分が狐夏を認識できている何よりの証明とも言えるのではないか。

 

 痛みを実感できている限り、痛みを通して、自分は狐夏を感じていられる。

 

 痛みこそが――苦しみこそが、自分と狐夏の絆を繋ぎ留めている。

 

 そうに違いない。

 

 そうだと思うと、不思議と耐えられた。

 

 そうだと思うと、不思議と辛くなかった。

 

 

 

「ア゛ッ……アアァァ……痛いッ……痛い痛い痛いィッ!! 狐夏ッ……こなつぅ……ハハッ……ハハハ……アッ……クッ……フッ……フフフッ……フフハハ……」

 

 

 

 両手で頭を抱え、半狂乱で悶え苦しむフブキの呻き声には、いつの間にか笑声が混ざりだしていた。

 

 苦しみながら。

 

 泣きながら。

 

 笑い、喜んでいた。

 

 フブキの中で渦巻く、相反している複数の感情が、グチャグチャに混ざり合いながら不気味なコントラストを描き出し、正気と狂気の境目を曖昧にしていく。

 

 

 

「おやおや? ひょっとして、追い詰められすぎておかしくなっちゃいましたか? どうせなら、もっとゆっくり時間を掛けて壊したかったんですがねぇ~」

 

 

 

 彼女の心情など知る由もなく、邪な情欲に駆られし男は、あまりにも呑気で身勝手な溜息を、肩を竦めて吐き捨てる。

 

 その忌々しい顔を歪んだ視界に捉えながら、フブキはまたしても脳内に響く“もう1人の自分”の声に意識を傾けていた。

 

 

 

――フフッ。随分いい感じになってきたじゃない? でもこのままだと、あなたのだぁ~い好きな小宮香 狐夏は、この男のせいできっと酷い目に遭うわよ……?

 

(酷い……目に……? 冗談じゃないッ……! こんな外道に……こんなクズ野郎に……、僕の狐夏を……穢されてたまるかッ……! 狐夏は僕が守る……! 狐夏は……狐夏は僕の……僕()()のものなんだからッ……!)

 

――ふぅん……。なら……やりたいようにやればいいんじゃない……?

 

(やりたい……ように……)

 

――我慢の必要なんてない……。殺したい奴は殺し、食らいたい奴は食らえばいい……。それが魔化魍の生き方なんだから……

 

(殺したい奴は殺す……。食らいたい奴は食らう……。そうだ……僕は……わたしは……魔化魍なんだ……。躊躇う必要なんてないんだ……)

 

 

 

 フブキの中で、辛うじて輝いていた清き灯火が消えていく。

 

 既に黒い氷の結晶に覆われていた心の内側で、弱々しくも懸命に光っていたそれは、フブキが本来持つ正義感の残り火のようなものだった。

 

 しかし今、その淡光はどす黒い感情の沼へと引きずり込まれ、消失してしまった。

 

 代わりに灯り始めたのは、漆黒の光。

 

 フブキの心を覆い尽くした黒い氷柱が放つ、鈍く歪な悪しき輝き。

 

 その瞬間、フブキは自分を受け入れた。

 

 魔物となった自分を受け入れた。

 

 人の命も、鬼の使命も、もう何もかもどうでもいい。

 

 今はただ、目の前の男を――副学長の命を奪いたい。

 

 殺して、

 

 凍らせて、

 

 そして――早くその血肉を食らいたい。

 

 先刻、横柄な態度であの男は言っていた。

 

 自分を偽ることを“仮面”だと比喩していた。

 

 ならば――と、フブキは絶え間なく上げていた悲鳴の裏で心を固めた。

 

 その邪心に、意識を委ねた。

 

 この男を殺すためなら。

 

 この男を殺せるなら。

 

 今日まで自分を抑え込んできた“仮面”なんて、剥いで捨てても構わない。

 

 護りたくもない人間を護るために身につけていた、鬼なんて偽りの姿(仮面ライダーの力)も、もう要らない。

 

 ずっと抗ってきた意識が――フブキがフブキであり続けるために必要だった意識が、一足先に魔に堕ちていた心と体と魂と混ざり合い、回帰する。

 

 鉛のように重かった肉体が、羽のように軽くなっていく。

 

 脳みそを潰さんばかりの激痛が、遠のくように引いていく。

 

 唐突に絶叫を止めた唇が――薄いピンク色に彩られていたはずの唇が、妖艶な紫色に見る見る染まると、途端にその口角は薄気味悪い無邪気さを孕みながら、弾けるように深々と吊り上がった。

 

 

 

「アハッ♡」

 

 

 

 豹変していく意識の中、頭の片隅から微かに聞こえてきたのは、“もう1人の自分”――いや、今となっては同一と化し、己の意思そのものとなった声の、最後の言葉。

 

 

――感情の昂りが、人間性の喪失を齎す……。おめでとう、良かったわね……。これであなたは……いいえ、わたしはようやく……幸せになれる……

 

 

 

 それは生まれ変わったフブキを祝う、自分自身の悪意からの祝福の言葉だった。

 

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