【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも― 作:裕ーKI
ほんの一時の間だけ、狐夏はノブキの胸の中で、涙に濡れた悲しみの雨を降らせた。
その間、ノブキは何も言わずに、ただ黙って彼女を受け止め、その両の腕で包み込んでいた。まるで壊れものを扱うかのように優しく、そして繊細に。
そうして、やがて冷静さを取り戻した朱唇が、ようやく静かに言の葉を紡いだ。
「どさくさに紛れて抱きついちゃって、なぁに人のおっぱいの感触味わってんのよ、このスケベ」
「えっ!? は!? いやゴメン! って違う! そんなつもりじゃないし!」
その場の流れで狐夏を抱き締めていたノブキの胸板には、いつの間にか狐夏の豊満な乳房が押し当てられていた。
そのことにようやく気づいたノブキは、慌てて両手を上げてホールドアップの体勢を取ると、反射的に狐夏の傍から飛び退いた。
そんな慌てふためく様子がどこか可笑しくて、狐夏は僅かに口角を上げる。
「冗談よ……。でもありがと。おかげでちょっとだけ立ち直れたかも……」
狐夏の表情に仄かな笑顔が戻ってきたのを見て、ノブキもまた、持ち上げた両腕を下しながら、ホッと安堵の息を漏らす。
「それで? 今もまだ……考えは同じか? やっぱりどうしても行くつもりなのか? フブキさんのところに……」
「うん、ノブキには悪いけど、この気持ちは絶対に変わらない……。何が何でも……私はフブキさんの許へ行く……!」
躊躇なく頷いた狐夏は、ノブキの目を揺るぎない決意の眼差しで見据えながら言葉を続ける。
「実はさっき――大学でフブキさんに襲われていたあの時、一瞬だけ、フブキさんが正気に戻ったように見えた時があったの……。本当に一瞬だったけど、私の呼び掛けに応えてくれたかのようだった……。
「だから――フブキさんを元に戻せるのは自分だけ……そう言いたいのか?」
狐夏の言わんとしていることを察するように、ノブキが先に口を挟むと、狐夏は再び決意めいた表情で、コクリと小さく頷いた。
それを見たノブキは、観念したようにため息混じりの苦笑を浮かべる。
「……わかったよ。そこまで言うなら、俺はお前に託すよ」
「え……?」
「ヒビキさんにも教えられたんだろ? 大事なのは想いの強さだって。なら俺は、フブキさんの無事を信じてる――そんなお前の想いの強さを信じるよ」
「ノブキ……」
「確かにこの状況の中で、フブキさんを真の意味で救えるとしたら、それは他の誰でもない、弟子であるお前しかいないだろうしな。たとえその結末が、どんな結果になったとしても……。だからまあ……ほら――受け取れよ?」
ノブキはそう言いながら、ジャケットのポケットから取り出したバイクのキーを狐夏に差し出した。
「ありがと……ノブキ!」
手にしたそれをギュッと握り締めた狐夏は、感謝の意を込めて小さく微笑んだ。
ノブキの愛車――
“駆ける炎”の意味を持つそのバイクは、その名の通り、炎をイメージした深紅のボディカラーと、漆黒の機関部を持つ大型のアメリカンモデル。
ノブキが先代から受け継いだという、そんな特別なマシンを恐れ多くも借り受けた狐夏は、そのシートに腰を下ろし、先刻までノブキが使っていたフルフェイスヘルメットを頭に被せる。
出発の準備を着々と進める狐夏に、ノブキは若干不安が抜け切れぬ様子で口を開いた。
「なあ狐夏、もしよかったら……俺の太鼓と枹、持っていけよ」
「ノブキの?」
「お前は管の鬼だから、太鼓は専門外なのはわかってるけど、それでも身を護るためには、無いよりはマシだと思うんだ」
ノブキが申し出ると、ヘルメットのバイザーを上げた狐夏は、微笑みを湛えながら静かに首を横に振る。
「気遣ってくれてありがと。でも大丈夫。さっきも言ったけど、私はフブキさんを祓いに行くんじゃない。元に戻すために――連れ戻すためだけに、あの人の許へ行くの。だからこの戦いに……音撃武器は必要ない。……それに私、管以外の修業なんて碌にしてこなかったから、そもそも太鼓の叩き方なんてほとんど知らないしね?」
その言葉が、フブキを絶対に死なせない――死なせたくないという狐夏の強固なる意思の表れであると察したノブキは、それ以上の強要はしなかった。
ただ、その代わりと言わんばかりに――。
「そっか。じゃあせめて、コイツぐらいは受け取ってくれないか?」
ノブキは、とある物を狐夏の前に差し出した。
「え……これって……」
それは普段からノブキが愛用している変身音叉。
主に太鼓の鬼たちが共通して所持している、音叉型の変身ツールだった。
「俺のバイクにも、偵察用のディスクアニマルが積んであるのは知ってるだろ? その音叉ですぐに起動できるようにしてあるから、もし万が一、助けが必要になった時は遠慮なく使えよ」
さすがの狐夏も理解していた。
自分が想像している以上に、ノブキが自分を案じてくれているということを。
「……そう? じゃあ……ご厚意に甘えて、こっちはありがたく借りてくわ」
狐夏はそんなノブキの気持ちを汲み取るように、差し出された音叉を受け取ると、懐の中にしっかりと仕舞い込んだ。
「にしても知らなかった。ノブキって意外と心配性だったのね」
「それはまあ……どっかの誰かさんが、同情を誘うように人の胸の中でわんわん泣いていたからな。そりゃあ心配にもなるさ」
「フン、悪かったわね……。そっちこそ、人の乳に密着して興奮してたくせにッ」
「だッ……誰がするかよ、そんなこと!」
「どーだか。ねえ……私の胸の感触、そんなに良かったぁ?」
「だから違うってッ!」
彼の頬や耳朶の赤らみは、外気の寒さに晒されているからではない。
その紅潮は、男女の性的機微においては意外にもウブであるが故の、ノブキの決まりの悪さの表れだった。
戸惑いを隠し切れぬ友の上気した顔に、一抹の名残惜しさを感じつつも、狐夏は気持ちを切り替えるように、フルフェイスヘルメットのバイザーを再び下した。
鍵穴に差し込んだキーを回し、イグニッションスイッチをオンにすると、炎駆は低く唸るようなエンジン音を轟かせながら起動する。
「じゃ……行ってくるね」
「くれぐれも気をつけてな。言うまでもないことだけど、絶対に帰ってこいよ?」
「勿論。フブキさんを連れて、必ず2人で帰ってくるから」
狐夏はノブキにそう告げると、握りしめたアクセルグリップを回し、エンジンを吹かして発進した。
彼女を乗せた炎駆は、瞬く間に速度を上げて、雪山へと続く道を力強く駆け抜けていった。
残されたノブキは、そのテールランプが遠ざかって見えなくなるまで、ジッとその場で見送り続けた――。