【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも―   作:裕ーKI

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二十四:果たされし洗脳―聖雪陥落―

 混濁した意識の中。

 

 視界に映る光景も、今ははっきりと認識できない。

 

 何が現実なのか、或いは何が錯覚なのか、それすらも判別できない。

 

 眼前に広がる銀世界は果たして本物か?

 

 視線の先で突っ伏している女性は誰か?

 

 その女性の背中を踏みつけている怪人は何者か?

 

 何もわからない。

 

 何も感じない。

 

 自分が何者なのかさえ、思い出すことができない。

 

 

 

「ぼくは……だれ……。わたしは……だれ……」

 

 

 

 フブキの意識は、正邪の狭間を彷徨っていた。

 

 心の在り処を見失い。

 

 虚無の中に囚われて。

 

 己がかつては人であり、人を護る鬼だった旧状の記憶にも、もしくは、人を捨て、人に牙を剥く魔化魍となった現状の記憶にも、どちらにも、自己認識が辿り着くことができないでいた。

 

 倒木の1つに腰を下ろしたまま、ピクリとも動かないその様は、まるで生気を失った抜け殻のよう。

 

 急速に腰まで伸びた純白の長髪だけが、風雪に煽られ無造作に靡いていた。

 

 虚ろな視線の先では、怪人の足の下で、女性が苦悶の表情を浮かべながら何やら必死に叫んでいる。

 

 しかしその声は、まるで水の中にいるかのようにくぐもって聞こえ、その言葉の意味までは、フブキの耳に届くことはなかった。

 

 ただそれでも、悲痛な叫びを繰り返す女性のその姿を茫然と見ているうちに、ぼんやりとした思考の中にふと、ポツリポツリと、僅かばかりの記憶の欠片が落ち始めていた。

 

 それは宛ら、彼女の頭上で深々と降り続けている雪の粒と同じようだった。

 

 地面に接した雪の粒が、溶けて土に染み込んでいくのと同様に、記憶の欠片もまた、フブキの意識に触れた途端、じんわりと輪郭を帯びていき、彼女の脳裏に断片的な映像を映し出していた。

 

 闇に堕ちたフブキを光へと引き戻そうとするかの如く、彼女の人間だった頃の記憶が、彼女の朦朧と彷徨う意識の中に少しずつ流れ込んでいく。

 

 そうして、最初に思い出したのは名前だった。

 

 両親がつけてくれた、自分の本当の名前。

 

 そして、人間を護る者として名乗っていた、もう1つの名前。

 

 

 

「フブキ……ぼくの……なま……え……」

 

 

 

 微かに蘇る記憶の映像の中で、その名前を教えてくれたのは、1人の女性だった。

 

 ボリュームのある茶色い巻き毛を跳ねるように揺らめかせながら、屈託のない笑顔で呼び掛けてくれるその姿に、フブキはそこはかとない懐かしさと愛おしさを感じた。

 

 忘れかけていた温かい感情が、胸の奥底から仄かに湧き上がってくる。

 

 その熱を実感した瞬間、視線の先で苦悶する女性の姿が、記憶の中の笑顔とピタリと重なった。

 

 記憶の女性と同じ髪の色。

 

 記憶の女性と同じ顔の形。

 

 記憶の女性と同じ眼差し。

 

 

 

「こ……なつ……」

 

 

 

 掠れた声が辛うじて紡いだそれは、思考する間もなく漏れ出た愛しき者の名前。

 

 目の前にいる女性が、記憶の中の女性と同一であることに、フブキはようやく気がついた。

 

 その女性が自分にとって、誰よりも大切な、かけがえのない人であることも一緒に。

 

 

 

「こなつ……ぼくの……いちばん……たいせつな――……」

 

 

 

 霞みかかった記憶の糸を手繰り寄せ、その一端に導かれるように口が動く。

 

 ほんの小さな光には違いなかった。

 

 それでも、フブキの中で良知の灯火が、確かにもう1度灯り始めた瞬間だった。

 

 譫言も同然の言葉は、乾いた雪に吸い込まれるように消えていく。

 

 されどフブキの意識は、正気へと繋がる道筋を見つけ出していた。

 

 かそけき光に照らされた、混迷に浮かぶ一条ではあったが。

 

 フブキの意識は、精神の均衡を求めて、その道筋を歩み出す。

 

 本当の自分を取り戻すために。

 

 本当に大切な人の許へ帰るために。

 

 だがその時。

 

 その矢先――。

 

 

 

「違いますよ……。そうではありません……」

 

 

 

 突如として鼓膜を震わせた何者かの囁き声が、フブキの思考の流れを堰き止めた。

 

 それは男の声でありながらも、女性的で艶めかしい声色だった。

 

 

 

「惑わされてはいけません……。あなたにとって最も大切なもの、それは我々家族なのですよ……」

 

 

 

 正気へと繋がる道筋を照らす、蠟燭の火も同然の頼りない微光を、嘲笑交じりの冷たい吐息のような声が、フッと容赦なく吹き消した。

 

 辿ろうとしていた道を見失い、フブキの意識は再び暗澹たる狭間の世界に取り残された。

 

 

 

「か……ぞ……く……?」

 

「よく思い出すのです……。あなたと我らは家族……。互いに慈しみ合い、共に栄えることを至高の喜びとする家族なのです……。あなたの姉も、あなたの幸せをきっと願ってくれていますよ……?」

 

 

 

 視線を向ける先から、絶えず聞こえ続けてくるくぐもった叫び声とは違い、その囁き声は聴覚を愛撫するかのように鮮明で、生々しく耳の奥で反響する。

 

 

 

「あね……? ぼくに……? そんなはずは……。ぼくに……あねはいない……」

 

「いいえ、いますよ……。ユキジョロウという姉が、あなたには……」

 

 

 

 その甘美な響きは、フブキの無防備な意識を甘く痺れさせる。

 

 その声に煽られて、取り戻しかけていた人間だった頃の温かい記憶の欠片が、次々と掻き消えていく。

 

 脳裏に浮かんでいた狐夏の笑顔までもが、まるで古びた写真のように急速に色褪せ、そして朽ちていく。

 

 代わりに色鮮やかに浮かび上がってきたのは、全身を白黒の縞模様で染めた巨大な蜘蛛の怪物の姿。何者かが奏でる甲高い音色を浴びて、四散するユキジョロウの光景だった。

 

 

 

「ユキ……ジョロウ……? これが……ぼくの……姉……? ぼくの……ぼくの……ぼ……く……――……わたしの……わたしの姉上……!」

 

 

 

 やがて、フブキの口から漏れ出た言葉から疑問符が消えた。

 

 

 

「姉上ッ……! わたしの姉上は、一体どうなったのですッ!?」

 

 

 

 直後に言いようのない激しい不安に駆られたフブキは、先刻から囁き声がする耳元へと、衝動的に顔を上げて振り向いた。

 

 すると彼女の視界に飛び込んできたのは、まるで本当の我が子を見守る母親のような柔らかな笑顔――ユキジョロウの姫の、慈愛に満ちた眼差しだった。

 

 

 

「お母様ッ……! ああ……お母様……。ずっと傍にいてくれていたのですね……」

 

 

 

 刹那の瞬間、フブキの表情もまた、まるで本当の母親との再会を喜ぶ子供のように、色濃い安堵と歓喜に綻んだ。

 

 

 

「違うッ!! そんな奴、母親なんかじゃないッ!! 騙されないでッ!!」

 

 

 

 直後に意識の片隅から聞こえてくる否定の叫喚も、時すでに遅くフブキの耳には届かない。

 

 歪な光を取り戻した異形の瞳には、一切の疑念も抵抗も、違和感すらも宿ることはなかった。

 

 今の彼女を突き動かしているのは、それが真性なる感情だと信じてやまない、純粋なる母への敬愛の念だけだった。

 

 

 

「それで……それでお母様……、姉上は……姉上はどこへ……!?」

 

 

 

 フブキが心配そうに眉を顰めると、ユキジョロウの姫は、張り付いているような笑顔はそのままに、抑揚のない声音で問いに答えた。

 

 

 

「残念ですが、あなたの姉は命を落としました……。あなたの姉は、鬼に退治されてしまったのです……」

 

「鬼……? それは一体……」

 

「ユキジョロウの命を奪いし愚昧なる鬼……、その鬼とは……他の誰でもない、あなた自身のこと……。残酷な話ですが、あなたの前身こそが……あなたの姉を殺した張本人なのです……」

 

「わたし……? わたしが……姉上を……?」

 

「記憶の錯乱が治まらぬ今、自らの罪を認識できぬのも無理はありません……。ですがこれは事実……。血族殺しという宿業を背負いし者として、あなたはこれから、その咎を一生背負って生きていかなければいけないのです……」

 

「そんな……。わたしが姉上の命を……。なんてことを……何という愚かなことを……わたしは……」

 

 

 

 フブキの意識は、最早完全に盲信に支配されていた。

 

 ユキジョロウの姫の言葉を鵜呑みにし、ユキジョロウという蜘蛛の怪物が実の姉であるという虚偽を、さも当然の如く事実として受け止めていた。

 

 そして、その“実の姉の殺害”という偽りの衝撃は、心臓が掴まれるような感覚として、確かにフブキの胸に激しく襲い掛かる。

 

 自らの罪を自覚したと思い込み、項垂れる彼女の瞳からは、一筋の涙が零れ落ちていた。

 

 ユキジョロウの姫は、その雫を指先でそっと拭い取ると、再び穏やかな声音でフブキに語り掛ける。

 

 

 

「ああ……ユキオンナ、愛しき我が娘……。あなたは優しい子です……。ですが、既にあなたは立派な魔化魍……。人間の愚かな尺度に縛られる必要などなくなったあなたには、最早涙など無用の長物なのです……」

 

 

 

 ゆっくりと視線を上げたフブキの赤い瞳には、ユキジョロウの姫の顔は、まるで包容力と受容に満ちた聖母も同然のように、神々しく映っていた。

 

 

 

「涙など……不要……」

 

「ユキジョロウの死は、決して無駄ではありません……。あの子が為すべき使命を全うしてくれたからこそ、こうしてユキオンナ――あなたを我が家族の一員として迎え入れることができたのですから……。それに……役目を終えた者に、それ以上の価値は無い……。故に、想いを馳せる意味も無い……。そのような人間的感情など、全て忘れ去りなさい……。寂しがらずとも、悲嘆にならずとも、あなたの傍にはずっと我らがついています……。これからはあの子の分まで――いいえ、あの子以上に、あなたを愛して差し上げましょう……」

 

「姉上よりも……わたしを……? ああ……あぁ……嬉しいぃ……。なんという身に余る幸福……。お母様、わたしは……ユキオンナは今……とても幸せです……。わたしもお母様とお父様を、この身が果てるまで愛することを誓います……」

 

 

 

 尊崇の念に駆られるままに、うっとりと細めた眼差しで陶酔するフブキの頬を、ユキジョロウの姫が優しく撫でると、フブキもまた、甘えるようにその掌に頬を擦り寄せる。

 

 その様はまさに、親に甘える無垢なる子供そのものだった。

 

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