【改訂版】響鬼外伝・仮面ライダー吹雪鬼 ―愛、凍てつき堕ちようとも―   作:裕ーKI

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二十五:Flashback

「フブキッ……さんッ……!」

 

 

 

 唸るような声と共に、悔しそうに食い縛った歯がギリリと鳴る。

 

 突っ伏した雪面の上で。

 

 血塗れの背中を踏みつける、ユキジョロウの怪童子の足の下で。

 

 身動きが取れぬ様の小宮香 狐夏は、断腸の思いが籠った表情を浮かべていた。

 

 不覚だった。

 

 油断していた。

 

 焦り過ぎていた。

 

 ノブキから借り受けたバイク――炎駆に乗り、目的地である雪山の麓に辿り着いたまでは良かったものの、そこで一旦冷静になりもせずに、勢いに身を任せて山林に突入したのが良くなかった。

 

 6日前と同様に、鬼走術・雪走りで雪深い斜面を駆け上がり、その末に行き着いたのは、生い茂っていた木々が力任せに薙ぎ倒されたことで形成された、まるで更地のように不自然に広がる中腹。

 

 そこはまさしく、6日前にユキジョロウと戦い退治した、かつての戦場だった。

 

 到着して早々に、視線の先で倒木に腰掛けているフブキと、その傍に控えるユキジョロウの姫の姿を捉えた狐夏は、逸る気持ちを抑えきれず、前へ飛び出してしまった。愚かにも、姫と常に行動を共にしているはずの、ユキジョロウの童子の姿が見当たらないことにも気づかずに……。

 

 その結果は、果たして明白だった。

 

 背後から不意に飛び掛かってきた男性型の蜘蛛の怪人――ユキジョロウの怪童子に対する反応が遅れたばかりか、あろうことか背中に強烈な一撃をまともに食らい、狐夏の体は無残にも雪面に叩きつけられた。

 

 左斜め上から下に向かってバッサリと、蜘蛛の肢を模した爪状の腕に切り裂かれ、狐夏の背中からは、途端にドクドクと真っ赤な鮮血が噴き出した。

 

 羽織っていたベージュのロングコートと、その下に着用していた白のタートルネックセーターの背面には、血の滲んだ大きな破れ穴が開き、豊満な胸を包んでいたピンクのブラジャーのホックも、その衝撃で千切れてしまった。

 

 傷口を蹂躙するように、その上を片足で強く踏みつけられ、身動きを封じられた狐夏は、焼けつくような痛みに顔を歪めた。

 

 それでも、すぐさま体勢を立て直すべく、背中に乗った怪童子の足を払い除けようとした。

 

 ところが、上体を起こす間もなく、狐夏の両手の甲には、怪童子が生成した氷の杭が打ちつけられた。

 

 皮膚も骨も貫通した突端は、その下の地面にまで深く突き刺さり、狐夏の自由を完全に奪い去ってしまった。

 

 迸る血潮。凍てつくほどに鋭く冷たい痛みが、両手から全身へと広がる。

 

 

 

「ようこそお待ちしておりました……。どうやら期待通り死を乗り越え、ここへ辿り着いたようですね……。どんな手段を使ったのかは存じませんが……」

 

 

 

 苦悶の表情を浮かべながら悲鳴を上げる狐夏が聞いたのは、そんな自分の顔を勝ち誇ったように見下ろしながら告げる、怪童子の歓迎の言葉だった。

 

 

 

 

 

 〇

 

 

 

 

 

 自身の未熟さを恥じ、体中の痛みを堪え、絶望に耐えながらも、それでも狐夏はただひたすらに、フブキに向かって呼び掛け、声を張り続けていた。

 

 けれども今となっては、フブキは狐夏に一瞥もくれず、ユキジョロウの姫と見つめ合うばかり。狐夏の声に、耳を傾ける素振りなど微塵もなかった。

 

 

 

「彼女の残滓は、潜在意識が齎した自覚無き抵抗といったところでしょうか……。それほどまでに、あの子の光は色濃くしぶとかった……。ですがそれも、ようやく消し去ることができました……。これであの子は――ユキオンナは完璧に我らの家族、我らの娘……」

 

 

 

 雪面に磔にされたまま、切なげな表情でフブキを見つめる狐夏の背中の上で、ユキジョロウの怪童子は、確信めいた言葉を女声に乗せて淡々と口にする。

 

 その言葉に、より一層の憤りを覚えた狐夏は、首をできる限り精一杯捻り、自分を足蹴にしている怪童子をキッと睨みつけた。

 

 

 

「ふざ……けんなッ! 人の大切な師匠を奪っておきながら……大切な師匠の心を好き勝手に捻じ曲げておきながら……何がッ……何が家族よッ……! お前らはただ……フブキさんを……あの人を……仲間を増やすためだけの……駒にしようとしてるだけだろ……!」

 

 

 

 怒りに任せて捲し立てる狐夏だったが、しかし怪童子は、そんな彼女の態度を一蹴するように、含みを込めた微笑を浮かべる。

 

 

 

「フフッ……まさか……。捻じ曲げてなどいませんよ……? 寧ろあの子は、自らの意思で心を解き放ったのです……。我らはただ、そのきっかけを与えたに過ぎません……。つまりユキオンナとなった今の彼女の心こそが、あの子が望んでいた真なる形……。そしてそんな娘を慈しむ我らの想いもまた、紛うことなき真実の愛……。駒として使い捨てようなんて、そのような浅はかな動機など……我々には毛頭ありません……」

 

「出鱈目なことを……。私はお前らを許さない……ッ! 私からフブキさんを奪ったお前らを……絶対に許さない……ッ!」

 

「そうですか……? ですが……そんなに取り乱す必要などないのですよ……? 死を乗り越え、一皮剝けてここへ来たからには、あなたもまた、我らの洗礼を受ける資格を得たということ……。我らが家族の一員となり、その存在を魔化魍へと転化させれば、あなたの願いは全て叶うのです……」

 

「話にならない……ッ!」

 

 

 

 どんなに尤もらしい理屈を口先で並べようとも、相手は所詮怪物。人間とは価値観も倫理観も根本的に異なる、相容れない存在に過ぎない。

 

 そんな奴らとの問答など、いくら費やそうとも時間の無駄だと思った狐夏は、視線をフブキの方へと戻し、再び声を張り上げた。

 

 

 

「フブキさんッ……! フブキさん!! お願いだからッ!! お願いだから私を見てッ!! 私を思い出してッ!! 私はあなたのッ……!! あなたは私のッ――……」

 

 

 

 ところが哀しき後手の如く、既にフブキの精神は完成してしまっていた。

 

 今度こそ、完全なる人ならぬ者――人類に災いを齎す、悪しき魔化魍へと。

 

 

 

「フブキフブキと耳障りね……。言ったはずよ? 汚らわしいその名で、このわたしを呼ぶなと……」

 

 

 

 漆黒の強膜に浮かぶ血紅色の瞳が、不意にギロリと流れて狐夏を睨む。

 

 眉を顰め、明らかに不快気な感情に満ちた眼差しが物語るのは、大学の研究室で見せた時以上に細く鋭い、あらゆるものを寄せ付けぬほどに冷たい拒絶の意思だった。

 

 “ユキオンナ”の名に違わぬ、背筋が凍りつくような視線に射抜かれた狐夏の心には、絶望という名の尖鋭なるナイフが、容赦なく深々と突き刺さっていた。

 

 

 

「…………ッ」

 

 

 

 ギュッと締め付けられるような胸の痛みに、狐夏は思わず息を詰まらせる。

 

 けれども、その辛い痛みに堪えるように、その耐えがたい絶望に尚も抗うように、彼女は決してフブキから目を逸らそうとはしなかった。

 

 どれだけ自分の意思とは関係なく、溢れる大粒の涙で視界を遮られようとも。

 

 それが揺るがぬ決意の表れだと、その身を以って示すように。

 

 

 

「フフッ……」

 

 

 

 しかしそんな狐夏を他所に、フブキは徐に天を仰ぐ。真白き肌に張り付いた紫の唇に、深く妖しい笑みを浮かべながら。

 

 

 

「精々その目に焼き付けなさい? お前の姉となる、美しき魔化魍としてのわたしの姿を……」

 

 

 

 その表情は、直前までの冷たい拒絶の顔とはまるで違う。

 

 魔化魍として生まれ変わった今の自分に、心の底から満足し酔いしれているかのような、甘く歪んだ陶酔に満ちた顔だった。

 

 

 

「そう、わたしは魔化魍ぉ」

 

 

 

 怪童子に踏みつけにされている狐夏を歯牙にもかけず、腰掛けていた倒木から軽やかに立ち上がったフブキは、高揚感溢れる声を震わせ、恍惚と謳う。

 

 

 

「わたしはユキオンナぁ」

 

 

 

 そのうっとりと艶やかに上気した声音は、まるで新しい自分という存在そのものを、世界に訴えかけるかのように高らかに響き渡っていた。

 

 

 

「ちがう……」

 

 

 

 だがそれを、狐夏はか細い声を必死に引き出し否定する。

 

 背中の切り傷の痛み。氷の杭が突き刺さった両手の痛み。そして何より、眼前の惨憺たる光景が突きつける心の痛み。それら全てを歯噛みと共に耐えつつも、それでも彼女の口は死に物狂いで言葉を紡ぐ。

 

 

 

「そうじゃない……。そんなことないッ……」

 

「フフッ、何が? 今のわたしは紛れもなく、ユキジョロウの妹」

 

「違うッ……!」

 

「何も違わないわ。わたしはここにいる……親愛なるお母様とお父様の娘よ?」

 

「だから違うッ! ……違う違う違うッ!! 違うってッ!!!!」

 

 

 

 もう、何度目かもわからない――。

 

 煮え滾る怒り。

 

 込み上げる悲しみ。

 

 抑えきれぬ激情に駆られるあまり、狐夏は首を激しく左右に振り乱しながら、荒い息と反発の声を繰り返し吐きつつ泣き叫ぶ。

 

 愉悦に浸るフブキが思いのままに連ねる言葉も、感情の高ぶりのままに振る舞う狂喜の仕草も、彼女にとっては何もかもが耐え難いもの。その悪夢の如き様相を、絶対に事実と認めるわけにはいかなかった。

 

 できることなら聞きたくない。

 

 できることなら見たくなんかない。

 

 できることなら、今すぐこの場から逃げ出してしまいたい。

 

 人ならぬ者と化し、文字通り別人のように豹変したフブキのその顔を目にするたびに、そして、その声を耳にするたびに、狐夏の胸は引き裂かれんばかりの苦痛に襲われ、少しでも気を抜けば忽ち精神の支柱が折れてしまいそうだった。

 

 けれども不覚にも、今は両手を塞がれ、鼓膜を閉じることもできなければ、ユキジョロウの怪童子に背中を踏み潰されているせいで起き上がることもできない。

 

 いや、そもそもどんなに辛い目に遭おうとも、絶対に――何が何でも諦めないと強く決意を固めている以上、フブキを見据える瞳の瞼を下ろすつもりなど毛頭なかった。

 

 ただ、それでも――。

 

 それでも為す術のない歯痒さには、やはり慟哭せずにはいられなかった。

 

 

 

「お願いフブキさん……。お願いだから……お願いだからそんなこと言わないでッ!! いつもみたいに……いつもみたいに“僕”って……“僕”って言って……私に優しく微笑んでよぉ!!」

 

 

 

 嗚咽混じりの悲痛な叫び声が、しんしんと雪が降り続ける山の中に響き渡る。

 

 だがその声は、決して木霊となって返ってくることはなかった。まるで初めから存在などしていないかのように、眼中の愛しき人の心に届くことなく、儚く霞の中へと吸い込まれていった。

 

 

 

「フフッ……哀れねぇ」

 

 

 

 代わりに聞こえてくるのは、そんな狐夏の期待を無情にも打ち砕くかのように侮蔑する、フブキの冷たい笑い声だった。

 

 

 

「このわたしが、お前如きに微笑むですって? まさに世迷言ね……。お前がお母様とお父様の洗礼を受け入れ、我らが家族の一員となった後ならばいざ知らず、今はまだ薄汚れた人間であり、その上忌々しい鬼であるお前に、わたしが 懇篤(こんとく)に接する理由が一体どこにあるというのかしら……? わたしの慈愛が欲しいというのなら、さっさとお前も家族になりなさい……」

 

 

 

 家族……。

 

 その言葉が、狐夏の決意を今一度大きく揺るがせる。

 

 彼女の脳裏を過るのは、大学の研究室で垣間見た、人間という種の醜き一面。

 

 愛するフブキを絶望の底へと突き落とし、その存在を邪悪に染めた原因の一端とも言うべき、悍ましき人の欲望。

 

 直接の被害者であるフブキには遠く及ばずとも、間接的ながら、同じように目も当てられぬ人間の愚陋(ぐろう)に触れた狐夏もまた、心の片隅では猛士の使命に疑問を持ち始めていた。

 

 護るべき価値が、本当に人間にはあるのかと。

 

 

 

「私にもわかりますよ……。フブキさんの絶望、今なら少しだけ……。フブキさんがきっと感じていた……人間を許せない気持ち……」

 

 

 

 そこまで言って、狐夏は一瞬言葉を詰まらせた。

 

 大学でフブキを傷つけた副学長に対して感じた、かつてないほどの憤怒と憎悪を思い出しながら、その心に僅かばかりの自棄を巡らせる。

 

 

 

「確かに……いっそ殺してやりたいって思うくらい、人間への憎しみがこんなにも強いと……、正直……フブキさんと一緒にいられるなら、自分も同じように魔化魍になってしまうのも、それはそれで悪くないかなって……そう思ったりもした……。でも――……」

 

 

 

 だが次の瞬間――沈みかけていた狐夏の声音が、徐々に気迫を取り戻していく。

 

 

 

「――でもッ……だからってまだ……まだ諦めていい時じゃないッ! だって……だって私を信じてくれたヒビキさんやノブキがァ!! 私の背中を押してくれたからッ!!」

 

 

 

 張り裂けんばかりの喉の痛みさえも無視して。

 

 胸中の自棄を振り払う勢いで。

 

 狐夏は自らの決意を、ここぞとばかりに激しく駆り立てるように、力の限り叫び上げた。

 

 

 

「わ……私はッ!! 私はッ……その期待に応えるッ!! ぐっ……クッ……今はッ……鬼としてッ!! 猛士のッ……一員としてッ!! そして何より……フブキさん……あなたの弟子としてッ!! その責務がッ……私にはあるからッ!! グッ……ウ……ァアアアアアア!!!!」

 

 

 

 まさしくそれは――全身から絞り出された、喉が張り裂けんばかりの魂の叫び。

 

 同時に体中を駆け巡る精根は双椀へと集中し、手背に突き刺さった氷の杭を引き抜かんと、その両手を雪面から宙に向かって無理やりねじ上げ始めた。

 

 力を込めるたびに、グキリと肉と骨が軋む生々しい音が鳴り響く。

 

 氷の杭と皮膚が擦れた傷穴から迸る鮮血が、降り積もった白い雪をじわじわと朱く染め上げていった。

 

 

 

「無駄なことは止した方がいい……。力めば力むほど、手に空いた穴が広がりますよ……?」

 

 

 

 頭上から聞こえてくるのは、抑揚もなければ憂いもない――ユキジョロウの怪童子が無機質な女声で発する、形だけの忠告の言葉。

 

 

 

「それがなにッ!! だからなによォ!! 傷がッ……抉れようがァアア!! 腕が千切れッ……ようがァアア!! そんなのッ……そんなのどうだっていいッ……!! フブキさんをッ……取り戻すためならッ……ァアアアア……!! こんな体ッ……どうなっても構わないッ!! ガッ……アアアアアアアア!!!!」

 

 

 

 鼓膜をただ通り過ぎるだけの、そんな吐息も同然の軽薄なる言辞を、狐夏は両手の激痛諸共、更なる気迫と絶叫で掻き消した。

 

 全てはフブキを救うため。

 

 絶対唯一の希求のため。

 

 その妨げになるのが悪しき氷の力だというのなら、それを跡形もなく溶解し、その根源を焼き尽くす力が欲しい。

 

 拘束を断ち切ろうとする必死の抵抗の中で、そんな切実な願いを宿した感情の昂ぶりが、鳴動する声に押し上げられて極限へと到達する。

 

 

 

「ッ!?」

 

 

 

 果たしてその瞬間、狐夏の中でカッと眩しく何かが爆ぜた。

 

 爆発的な感情の波に呼応するように、忽ち狐夏の身体から熱い光が一気に噴き出した。

 

 それはヒビキが陰陽環に込めてくれた、鬼火を想起させる力強い紫色の輝き。或いは夢の中で感じた、狐火の抱擁を彷彿とさせる温もりだった。

 

 

 

「これって……ッ!?」

 

 

 

 無意識に自ら発した、メラメラと燃え上がる紫炎に全身を包み込まれた狐夏は、その熱に不思議と心地良い安心感を覚えながらも、同時に我が身に起きた未知なる異変に対する戸惑いも感じずにはいられなかった。

 

 そんな中――。

 

 

 

「ぐぎゃぁああああ!? あ、熱いッ!? 熱いぃいいいいッ!!」

 

 

 

 狐夏が自分の状況を理解するよりも先に――その思考を遮るように、突如として、頭上から甲高い女声の悲痛な叫びが聞こえてきた。

 

 ハッとなった狐夏が反射的に振り返ると、その目に映ったのは、いつの間にか燃え移った紫炎に全身を焼かれて悶え苦しむ、怪童子の姿だった。

 

 狐夏の背中を踏みつけていた足から這い上がってきた紫紺の焔光に呑まれ、先刻までの余裕をすっかり霧散させた怪童子は、まるで弾かれたように、堪らず彼女の背中から転げ落ちていた。

 

 どれだけのたうち回り、必死に火を消そうと雪面に身を投じようとも、周囲の冷気さえも燃料とするように、その紫の輝きは勢いを増し続ける。

 

 狐夏にとっては癒しの炎も、怪童子にとってはその身を炭化せしめる地獄の業火に他ならない。

 

 怪童子の絶叫が木霊する中、狐夏は自分の両手を地に縫い付けていた氷の杭に視線を戻す。

 

 

 

「氷が……ッ!」

 

 

 

 肉を貫き、骨を軋ませていた氷結の呪縛は、今や紫炎の熱量に耐えかね、パキパキと内側から悲鳴を上げ、ついには粉々に爆ぜて一瞬にして蒸発した。

 

 狐夏は自由を取り戻した両手を力強く地面に突き直すと、即座に怪童子との間合いを取るように、後退しながら立ち上がる。

 

 穴の開いた手背からは未だ鮮血が滴っているが、その雫さえ火の粉へと変わり、雪風に乗って彼女の周囲に幻想的な光の輪を描き出す。

 

 悶絶しつつも辛うじて存えている怪童子の様を、炯々たる眼光が真っ直ぐと見据える。

 

 するとその時――。

 

 その瞬間――。

 

 全身を包み込む紫炎の揺らめきの中で、狐夏は身に覚えのない光景を――信じられない光景を目にした。

 

 

 

「ッ! なに、これは……?」

 

 

 

 それは彼女の脳裏に不意に浮かび上がった、とある記憶の一幕だった。

 

 深雪に覆い尽くされた、雪山(ここ)とは明らかに違う場所。

 

 爛漫と咲き誇る桜林。

 

 萌黄(もえぎ)の絨毯。

 

 そして木漏れ日の下で佇んでいる、1人の女性が魅せる側影。

 

 くノ一の忍装束を彷彿とさせる、黒と紫を基調とした古風な和装を端厳に着こなした、玲瓏たる静容。烏羽色の短髪に添えた1輪の赤い花の髪飾りが、穏やかな陽光を吸って、燃えるような紅を放っていた。

 

 切れ長でありながら、慈愛に満ちた瞳が優しく細まり、桜樹の輝きを静かに眺めている。

 

 つい見とれてしまいそうになるほどに美しいその横顔に、狐夏は間違いようのない強い既視感を感じた。

 

 

 

(フブキ、さん……?)

 

 

 

 その見覚えのある面差しは、確かにフブキと瓜二つだった。

 

 見れば見るほど同じ顔。

 

 けれども、狐夏のよく知るフブキとは、どこか雰囲気が違っていた。

 

 狐夏が愛するフブキ以上に隙の無い、研ぎ澄まされた刃のような貫禄、凛冽さ。

 

 それでいて、今の“ユキオンナ”のような冷酷さは微塵も感じさせず、寧ろ森羅万象を包み込まんばかりの深い慈悲を湛えていた。

 

 それは狐夏も知らない――知るはずのないフブキの姿。

 

 同じ容姿でありつつも、今のフブキとは明らかに異なるフブキの姿。

 

 しかし同時に、まるでずっと以前から魂に刻まれていた“憧れの象徴”であるかのように、その姿は狐夏に不思議な懐かしさを与えていた。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 そうして、その光景に思わず釘付けになっていると、桜並木を見上げていたフブキに似た女性が、不意に瞳を巡らせた。

 

 途端に視線が重なる。

 

 狐夏の喉が音もなく震える。

 

 見つめる先で、柔和な唇が微かに、けれど確実に開いた。

 

 それは声にはならなかった。

 

 されど、春風が耳元を掠めるような温度で、その言葉は狐夏の心へと直接流れ込んできた。

 

 

 

『――意志を……絶やすなよ』

 

 

 

 刹那の瞬間、視界に咲き誇っていた桜も、フブキに似た女性の姿も、紫紺の炎に呑み込まれ、弾けた記憶の断片は儚く消えた。

 

 

 

「今のはッ……!」

 

 

 

 気づけば意識は、現実の雪山へと引き戻されていた。

 

 けれども狐夏の脳裏には、追憶の泉が湧き出るように、()()()()()()が一瞬にして横溢し、既にその闘志を極限まで滾らせていた。

 

 かつてないほど内で昂る鬼の力の影響か、それともこれも紫炎の効果なのか。背中の裂傷も、両手の甲の傷穴も、いつの間にか痕も残らないほど完全に塞がり、傷周りの血汐さえも綺麗さっぱり蒸発して消え去っていた。

 

 拘束と痛みから解放された右手が、引き寄せられるように腰へと伸びる。

 

 同時に身に纏っていた衣類が、見る見る燃えて剥がれ落ちていく。

 

 依然として、狐夏自身には全くと言っていいほど、不快な熱さも苦痛も伝わってはこない。しかし彼女の肉体を包む紫炎そのものには、やはり相応の熱量が伴っているらしく、せっかく明日夢が選んでくれたロングコートもセーターも、ジーンズもソックスもスニーカーも、果てはパンツもブラジャーすらも、あっという間に塵と化して消えていった。

 

 

 

「ごめんね、明日夢……」

 

 

 

 独り言のようにポツリと呟いた、遠くにいる恩人に向けた謝罪は、メラメラと荒れ狂う炎の咆哮に掻き消される。

 

 露わになっていく素肌を雪が打つことはない。

 

 灰色の空が落とす全ての雪片は、肌に触れる寸前にことごとく蒸発し、白い霧となって狐夏の周囲を立ち昇る。

 

 先刻までの絶望的な怒りや悲しみ、そして狼狽に満ちた表情は、完全に鳴りを潜めていた。

 

 代わりに今あるのは、一切の甘さを捨てた、別人のような鉄石の如き眼光。

 

 その眼差しが射抜く先では、火だるまになりながらも執念で跳ね起きた怪童子が、蜘蛛の肢を模した爪を振りかざして、逆上するように肉薄してきていた。

 

 狐夏は待ち構えるように、徐に左足を後ろに引き、腰の重心を沈み込ませた。

 

 

 

「……ぶった斬ってやるッ」

 

 

 

 明鏡止水。

 

 冷たい空気が張り詰めるほどの静謐を纏ったその沈身の型は、宛ら剣士の居合のよう。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 ここから先は、余計なことは何一つ考えない。

 

 ここから先は、一挙手一投足も、思考の流れも、目的を果たすための手段に過ぎない。

 

 フブキさんを奪った奴らを皆殺しにし、必ずフブキさんをこの手に取り戻す。

 

 それまで私の体は絶対に倒れない。

 

 私の心は折れない。

 

 私の“意志”は……たとえ天地がひっくり返ろうとも揺るがない。

 

 そして、何があろうとも絶やさない――。

 

 全身を包む紫炎と同じように、不退転の決意を燈火の如く胸中に燃やし、狐夏は次の瞬間、足場の雪が表土諸共抉れるほどの勢いで大地を蹴り抜いた。

 

 “魂の記憶”に触れ、無我の境地に達した今の彼女に、余計なプロセスは最早不要だった。

 

 激情を力に変え、その力を体内に収まりきらんばかりの紫炎に変えた狐夏の肉体は、鬼の姿に変わりきる前から、常軌を逸した超人並みの爆発力を発揮できるようになっていた。

 

 

 

「はぁああああああッ!!」

 

 

 

 虚空に直線状の紫の軌跡を描く流星と化した狐夏は、相手の反射速度を上回るスピードで雪上を駆け抜け、怪童子との間合いを一気に詰め切った。

 

 同時に一糸纏わぬその姿は、全身から溢れ出る紫炎諸共包み込まれるように、渦巻く桜色の吹雪に一瞬覆い隠される。

 

 

 

「アッ、アアアァァアアアッ!!!」

 

 

 

 慌てた怪童子は、やぶれかぶれに爪を振り下ろすが――。

 

 だがそれが自身に届くよりも早く、その走力を一切落とすことなく、狐夏は怪童子とのすれ違いざまに、左脇下に潜ませておいた右腕を、抜刀を彷彿させる動作で、刹那を貫く勢いで振り抜いた。

 

 まさに一閃だった。

 

 その瞬間、線条をなぞるようにキラリと奔った一筋の銀光が、自らを包む紫炎を払い、桜色の吹雪を断ち、そして――空間さえも切り裂かんばかりの鋭さで、火の粉を散らしながら怪童子の首筋を、音もなく滑り抜けたのだ。

 

 

 

「ア、ガ……ッ!?」

 

 

 

 途端に途絶えた断末魔の声。

 

 一瞬の静寂。

 

 雪煙を上げながら制動を掛ける()()の背後で、断層が滑落した首が無情にも宙を舞う。

 

 重力に従い、地面へと落ちていった異形の頭部は、しかし降り積もった雪に触れることなく、呆気なく燃え尽きた。

 

 残された胴体もまた、その後を追うように数歩よろめいた末に、紫炎の熱に耐えかねて崩れ落ち、灰の山と還り沈黙した。

 

 怪童子の活動の停止を背中で感じつつも、鋭い残心を示すように、狐夏は振り抜いた右腕を一文字に伸ばしたまま佇んでいた。

 

 否、変身鬼笛の波動すらも必要とせず、既にその容姿は“名も無き鬼”の姿へと変わり終えていた。

 

 素肌が硬質化した、鎧の如き銀色の筋肉。

 

 そんな肉体を彩る、桜色の隈取模様と全身の装飾。

 

 鬼人の証たる、天を刺す頭部の4本ヅノ。

 

 そしてその右手には、いつの間にか一振りの刀が握り締められていた。

 

 それは狐夏の意志が――想いの強さが形となったもの。

 

 自分の行く手を阻む奴らを打ち倒す力が欲しい。

 

 自分からフブキを奪った奴らを斬り伏せる力が欲しい。

 

 それらの想いに応えた鬼の気が、ノブキから借り受けた変身音叉を介して具現化した銀閃の刃。

 

 そう――。

 

 それこそが――。

 

 これこそが――。

 

 

 

「これが――……音叉剣ッ!」

 

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