時系列は職場体験終了直後です。
追記:期末試験と順序を入れ替えました。
常闇くんの職場体験談
静岡県の実家から登校する常闇は、遠方から通う他のクラスメイトと比べて朝の時間に余裕がある。普段であれば日課の早朝トレーニングをしてから通学するのだが、その日はいつもより起床が遅れたためトレーニングを実施せず、直ぐに身支度を済ませて自宅を出発していた。雄英高校の敷地を跨いだのは、普段より30分も早い時間だった。
(……不愉快だ)
駐輪場に愛車を停めながら、常闇は今日の夢を振り返る。悪夢…と呼んで差し支えないそれのせいで安眠を邪魔されてしまい、結果、日課を諦めざるを得なかった。
しかし、彼が不快に思うのは日課をこなせなかったからではない。通常は直ぐに忘れてしまう夢の内容。ただ、その悪夢は常闇の脳裏に染み付いて離れてくれない。それが、あまりにリアルで、悪趣味であったからだ──。
──暗がりの中に小さな女の子が居た。まだ小学校にも通っていないような幼子だ。水色のワンピースを着た彼女は、太腿の辺りの生地をギュッと固く握り締め、その唇は何かに堪えるように震えている。大きなつぶらな瞳には、それに負けないほどの雫を溜め込んでいて、決壊寸前だ。
『いったいどうしたんだ?』尋常じゃない彼女の様子に心配になった常闇は、その少女に駆け寄り声をかけようとした。しかし、彼には歩み寄る足はなく、安心させるための声を持たなかった。ただただ、怯え慄く少女を見つめる他なかった。
ふと、気付く。少女の足下が濡れていることに。テカテカと艶めかしく光る液体は、常闇が認識したと同時に、少女を中心にゆっくりと広がっていく。水のようにさらりとした物ではない。ドロリと、厭な粘性を秘めている液体だ。細い少女の素足を汚すそれが血液だと理解するのに時間は要さなかった。
量が多い。赤い絨毯のように広がる血液が全て本物であれば、明らかに致命的な出血だ。しかし、目の前の少女が怪我をしているようには見えない。では、いったい誰の……?
常闇の疑問に応えるように、ゆっくりと視点が動く。彼の意思ではない。常闇には、振り返るための首もなかった。
180度反対を向いた視界。つまり少女が見つめていた先。そこには、2人の男女が横たわっていた。少女と違い、彼らの顔は見えない。見えないが、彼らが少女にとってどんな存在なのかは何故か分かった。
延々と流れ出る血液。音なんてする筈がないのに、横たわる男女の首からドプッ、ドプッと血潮の音が鮮明に聞こえる。
「………おとうさん…………おかあ…さん…………」
いつの間にか、少女の後ろに移動していた。
常闇の腰までしかない小柄な体躯。アッシュグレージュの髪の毛が、強張る体と一緒に揺れている。
常闇は、この幼子を見たことがない。だが、彼女が何者か知っている。成長した彼女を知っている。
「くうど………っ」
絞り出した掠れた声で少女の名を呼んだ瞬間、常闇の意識は浮上した──。
──職場体験の帰りの新幹線。そこで聞いた彼女の
だが、打ち明けられた真実は、常闇の予測を遥かに超えていた。
『引退はしてません。お父さんたちは……、今から10年前に。──殉職したんです』
悲痛な様子で話された移の過去。
一通り話し終えた移に、常闇は碌に言葉をかけられなかった。ヒーロー志望といっても、彼はまだ15歳の少年。凄惨な
けれど移は、『聞いてくれてありがとう』と、憑き物が落ちた表情して常闇に感謝を述べた。何も。自分は、何も出来ていないというのに。
そして常闇は夢に見た。移の話からイメージされた彼女の過去の出来事を。
絶望する少女に何もしてやれないその悪夢は、今も尚傷付いている同級生にどうすることも出来ない自分の不甲斐無い心情を的確に表していた。
「……笑止ッ」
常闇は、自身を叱責する。
移が過去を話したのは、同情してほしかったわけではない。過去を受け入れ、乗り越えるために、信頼して話してくれたのだ。自分を、頼ってくれたのだ。
だのに自分がしょげていてどうする。彼女の過去を重荷に感じていると捉えられる態度を取っていては、彼女の笑顔はまた曇ってしまう。
彼女は理想のヒーローとなるため、
であるならば、自分はその高潔な精神を讃えて、あるがままを受け入れるべきだ。
いずれにしても、彼女が相談しやすくなるように心理学などを勉強してみようと、常闇は決意を固めた。
▽ ▽ ▽
教室にはまだ数人の生徒しか来ていなかった。常闇が普段登校する時間には、半数以上居ることが多いため新鮮な気分だ。
「よお常闇、おはよう」
「嗚呼。おはよう」
予習をしていたと思われる砂藤からの挨拶に応じる。教材を鞄から机の中に移していると、隣の席の峰田が何やら真剣な表情をして話しかけてきた。
「おい常闇。職場体験……、どうだったんだよ?」
ゴクリと唾を飲み込む峰田。膝を揃え背筋を伸ばして座るその姿は、熱心な生徒そのものに見えた。
「あ、それ俺も気になってたんだ。ニュース見たぜ、凄え事故の救助に当たったんだってな」
参考書に落としていた視線を上げた砂藤が会話に加わる。砂藤が指摘した〝ニュース〟とは、常闇が職場体験の3日目に対応した大規模事故のことだ。全国的なニュースで報道されていたため、当日の夜にはクラスのグループSNSの中で話題になっていた。まあ、その数時間後には〝保須市の事件〟にお株を取られてしまったのだが、クラスメイトが事故現場で活躍したことに違いない。職場体験が終わって初めての登校日であり、久しぶりに会った級友との話題で、これほど興味があることはないだろう。
砂藤に次いで、会話を聞きつけて教壇近くに座っていた障子も近付いてきた。彼も興味津々の様子だ。
「俺も聞かせてもらっていいか? 福岡は俺の地元でもあるし、何よりあのホークスが関わっているからな。No.3ヒーローの下で学んだことがあれば、是非教えてほしい」
身振りを交えて話す障子は、少し興奮した様子だ。地元の福岡県周辺をホームに構えているホークスのことは昔から慕っており、そんな彼の事務所へ行った常闇には羨望の眼差しを向けていた。
そして、3人のクラスメイトに囲まれた常闇の表情は、しかし暗く沈んでいた。
「……正直なところ、彼から直接的に学べたことは少ない。彼は、…ホークスは疾すぎた。地を這う俺では、彼の活動を見ることは叶わなかった」
常闇は職場体験にて経験したことを簡潔に説明した。殆どが
「だが、空戸に気付かされてな。華々しい活躍だけが〝ヒーロー〟ではない、と。民衆に安心を与えること。堅実で真摯な言動こそが〝ヒーロー〟たらしめる、とな」
『それこそが、あの7日間における最たる学びやもしれん』。そう言い切った常闇の顔には、誇りを感じさせる強い想いが宿っていた。
「おお……。なんか、格好いいな、それ」
「ああ…。〝堅実〟〝真摯〟…か。派手な活躍ばかり憧れがちだが、俺たちがまず持つべきことはそういう心意気なのだろうな」
うんうん、と納得する砂藤と障子。どこか達観した様子の同級生に感心した2人に対して、常闇の左隣に座る小柄な少年はプルプルとその体を震わせていた。
「んなことはどうでも良いんだよぉ…。オイラが聞きてぇのはよぉ…。雄英高校1年の中で1、2を争う美人と7日間も寝食共にして、何かなかったのかってぇことなんすよぉッッ!!」
「お前は相変わらずだな」
峰田の煩悩が爆発する。エロボディを目的に峰田が選択した〝Mt.レディ〟の職場では、期待していたラッキースケベの類は一切起きず、そればかりかひたすらこき使われただけで終わってしまった経緯がある。つまり〝エロ〟に飢えているのだ。因みにこの男、常闇が移と同じ職場に行くことを知った時に血涙を流している。
「あったんダルォ!? 風呂上がりや寝起きのアレコレがァッ!! この際、嫉ましい感情は隅に置いておくからよ! オイラと思い出を共有してくれよぉぉッッ!!」
峰田の叫びを聞いて常闇は思い出す。
夜、事務所の廊下にある自販機でスポーツドリンクを買おうとした際にバッタリ会った時のこと。風呂上がりの移の髪はしっとりと濡れていて、いつもはかき上げられセンターパートになっている前髪が、垂れておでこを隠しており、普段より幼く、しかし色気を感じさせた。体が温まり熱った頰は僅かに赤い。そして、眠る直前だったのか、着ていたのはルームウェアでもなく淡い水色のパジャマで、裾とスリッパの間の僅かな隙間から素足が見えていた。
普段のきっちり整えている移と違って〝隙〟の多い、ギャップを感じさせる装いであった。
『おやすみなさい、常闇』
へにゃりと笑う移。ドキンッ、と心臓が高鳴ったことを覚えている。
訓練中や授業中の凛としている彼女とは違ったその顔は、常闇の心のフィルムに深く焼き付いていた。
「…………、特に……なにも……っ」
「嘘つけぇッッ!! その間はなんだよ!? 何か見たんだろぉッ!!」
顔を逸らして誤魔化す常闇だったが、峰田にはバレバレであった。常闇の反応から、何らかの〝美味しいシチュエーション〟があったことを察知していた。彼は〝エロス〟に敏感なのだ。
飢えた野生動物のように峰田が詰め寄っているちょうどその時、移が麗日と梅雨を交えた3人で歓談しながら教室へと入ってきた。異性のクラスメイトのパジャマ姿を思い出している瞬間に当の本人が現れたことに、常闇は動揺した。やましい気持ちを抱いていた訳ではないが、居た堪れなく感じる。
移が自身の机にやって来る。彼女の席は、常闇の隣だ。
「みなさんおはようございます。盛り上がってたようですけど、何の話でした?」
「お、おはよう! いや、職場体験のことを振り返ってたんだよ! そうだよな障子!」
「あ、ああ! 貴重な体験だったからな! 皆がどんなことを経験したか知りたくてな!」
まさか貴女についての猥談をしてましたなんて言える筈もなく、砂藤と障子が咄嗟に誤魔化す。元々彼らは職場体験について真面目に話していたため嘘ではない。悪いのは全て峰田だ。
「ああ、それは楽しそうですね! 私たちも廊下でそれを話していて、麗日はマーシャルアーツについて学べたみたいですよ。やっぱり、事務所の特色によって体験したことも異なるようですね。私も〝ガンヘッド〟の下で訓練してみたいものです!」
胸元で両手を揃え、楽しそうに語る移の様子に、上手いこと誤魔化せたと安堵する男性陣。常闇も、いつもの調子で〝ヒーロー〟を語り出した移に平静を取り戻す。そして峰田は相変わらず胡乱な目を隣に向けていた。
砂藤や障子、麗日や梅雨と一緒に先週の出来事を振り返り始めた移は、それから10分ほど会話を楽しんでいた。やがて教室に人が増えてきて、予鈴の時間が近付いてきたことで各々の席に戻り授業の準備に取り掛かる。
ふと、移が隣の常闇に視線を寄越す。彼を見て、移はへにゃりと笑った。
「職場体験は終わりましたが、これからも宜しくです、常闇」
しどろもどろになる常闇に『やっぱり何かあったんだろお前ぇぇ!!!』と峰田が叫んだのは言うまでもない。
へにゃり笑顔は無自覚のようです。