コンビニで買ったビニール傘。
しずくが手にするには庶民的すぎるようにも思える。
雨に少し濡れてしまった彼女は、まさに『ローマの休日』のアン王女の風格。公務を投げ出して、俺のもとに舞い降りた気品ありまくりお嬢様みたいな感じのイメージ。
そんなしずくが持つ、298円のビニール傘。本当は相性もへったくれもない。だが、これだけ大人っぽくても、彼女は女子高校生。俺に向けるイタズラっぽい笑みも含めて、彼女の持つ、如何にも安っぽい、実際安いビニール傘は、女子高校生たらしめるアイテムと呼べるだろう。
「帰ろ。穂村さん」
「うっす……」
昼休みから、部活の時間まで。しずくはず〜〜〜っと浮かない顔のまま。どこか上の空というか。目は他のものを視ていてもというか、耳で何かを聴いていてもというか。あるいは、頭で何かを理解していてもというか。
それとは別に、彼女は何か別のことを考えているんじゃあないか。俺にはそう思える。俺は間違いなく、原因として昼休みの一件が関わってくると思う。
やっぱりまずかったよなあ。黙って立ち去ってたもん、しずくのやつ。1年のこの時期に仲悪くなっちまったかな。
そんなしずくと何故、この俺が一緒に帰っているかというと、話せばそこそこ長くなるが、端を発したのは放課後。
部活の中の役割には、それぞれ『神』と呼ばれる人がいる。7年前から続いている、おふざけで始めた風習らしいが(部長談)、部活において役割ごとにリーダーを決めるというのは、それはそれで大事なことなんだとか。
おふざけで始めたものが、今では割と役に立つリーダー決めというか、そんな立ち位置の風習になっているらしい。基本的に3年生の中でも、技術力があり、リーダーシップを持つ人が、その役割の後に『〜神』と付けられる。やってきた年数と、技量と、人望を兼ね備えた人がリーダーになるという、理にかなっているっちゃあいる制度ってことだ。
『演技神』なら、部長にしてルックスイケメン系女子、落とした夢女子は数しれずの『
『音響神』は、演劇部の中でも珍しい陽キャで人望激アツすぎてキリン柄なギャル、『
『照明神』は、前に俺としずくで同人誌を作るだの何だのと言っていた夏コミ常連、画力も照明もピカイチの『
『道具神』といえば、休みにホムセンに行けばいつでもいると自称している『
そして『台本神』、現役売れっ子ネット小説家にしてイメージイラストや衣装のデザインまで1人でこなす、みんなの先生こと『
さて、この話がどう関わってくるかというと、どうやら熊野先輩が夏コミに落選したらしいのだ。先日、オーディションの日あたりに俺としずくで本を描くなんて言ってたが、本当に俺としずくをモデルにした、同級生のウブでもどかしい超奥手どうしのラブコメ一次創作漫画を描いていたようで。
かなり気合いの入ったものだった分、落ちたショックに耐えきれず、俺含めたオタクの後輩数人を連れて飯に行っていたのだ。行き先は、最近学校の近くに出来た油そば屋さん。
乙女ゲーや男児向けアニメの話になるとめちゃくちゃ早口になるし、一見芋っぽいが、容姿はそれなりに整っていて、髪もサラサラで常に清潔感のある照明神・熊野先輩。それが、いくらなんでもやりすぎだとひと目でわかるくらいのニンニクを油そばにドカドカ入れてたもんだから、よっぽどショックだったんだろうな、と心中をお察しした。
そもそも、飯に油そばというチョイスからして、俺を含めた後輩たちは大分ざわついていた。美味しかったけど。俺もけっこうニンニク入れたけど。
そして店を出た瞬間、向かいのファミレスから、音響神であるところの井上先輩が、部の女子集団数人を引き連れて出てきたのだ。その中には、目立つ赤いリボンと、黒いベストの同級生がいた。
ふたつの演劇部集団は自然とひとつにまとまり、ここら辺は本当に秒で決まったからあんまり覚えてないけど、何故かカラオケに行くことになった。井上先輩のノリの良さと、熊野先輩のやけっぱちが奇跡的に噛み合った結果としか言えない。
あと多分、井上先輩は音響の好みの傾向的にバンプとかしか歌わないと思うし、怒り喰らうイビルジョーと化した熊野先輩は1人でリンホラ歌って暴れると思う。
女子集団とオタク集団、SNSあたりを見るに何故かよく一緒に遊んでいるメンバーもいるし、部活でのチームワークもグンバツなので、たとえ好みは分かれていても、たとえ夜7時からノリで行くような狂ったカラオケ大会でも、大失敗することはないだろう。
さて、門限厳しい組の先輩たちも帰って、お台場の街に残された俺ら2人は、互いに黙って駅方面に向かって歩き出した。気まずすぎて胃に白髪が生えそうだった。
そこに追い打ちをかけるように、天気予報を裏切った雨雲。通り雨というやつか。俺らは一目散にコンビニに入り、傘を買ったというわけだ。
もしこれがうまくできた恋愛小説なら、ここで相合傘でもするんだろうが、生憎これは小説とするなら高校演劇の部活を主軸としたもの。俺の恋愛感情なんて二の次三の次。そいで今さっき、ふたり別々の傘を買ったところだ。
「…………」
俺の少し先を歩くしずくの背中が、なんだか妙に儚げに見えた。触れただけで崩れてしまいそうな、そんな背中。オーラ。
やはり、こんな雨の音だけの中でふたり黙っているのは、なんだかモヤモヤして耐えきれない。俺はしずくに話しかけてみた。
「なあ、しずく?」
「穂村さんも、さ」
「え、はい」
ほぼ同時に発言してしまったので、しずくにターンを譲ると、足を止めてこちらを振り返る。その顔は、先程までのメランコリックな表情とは違い、流し目で俺の心を刺すように見つめる、いつもよりももっと大人っぽいしずくだと感じた。
雑踏の中、彼女だけがモノクロの世界にいるようだった。
「……興味、あるの?」
俺としずくは、目を合わせて歩道の真ん中、数十秒ほど立ち止まっていた。俺は彼女の発言の意味を分かりかねてフリーズ、彼女は俺の解答を待っている。
興味。何に対しての? 俺は訝しんだ。
やはりここで話しかけてくるってことは、昼休みの図書館での一件が関わってくるだろう。で、しずくが恥ずかしがりながら、俺に告白するみたいに言ってくるってことは……。
いや、もういい。考察ごっこも終わりだ。認めたくなくて、誤魔化しちまった。名目上の駆け引き。しずくにしちゃあ、こんなのは出来レース。八百長試合だ。俺は、ぶっちゃけ興味があるんだ。
変に隠してしまえば、しずくに対しての真摯な姿勢を崩しかねない。俺はここで正直になるしかないのだ。
「メチャクチャありますッッッ」
俺は、ハッキリと『しずくの身体に興味がある』という意思表明をした。しずくはおそらく、『押し倒された時に俺の本能的なオスの部分を見てしまった』のだろう。だからあんなに急いで教室へと帰ってしまった。
その場でパニックになったものの、彼女は『でもこの歳の男子なら自然なのかな……』なんて考えて、俺に恐る恐るこんな質問をした。どうだ、筋の通った完璧なシナリオ。
ラブコメがすぎるという点に目をつぶればよぉ〜〜、と先生なら言いそうだが。
「……そうなんだ」
すると彼女は、こちらに数歩だけ歩み寄り、持っていたビニール傘を閉じて俺の傘に入る。そして、目を離さずにこう言った。
「見る?」
「え!?」
「こ、今度ね。うち……上がっていいから……見て! 是非とも!」
「えッ〜〜〜〜〜〜〜〜!!?!?」
俺はその場で中指と薬指を曲げて、高橋留美子作品みたいに面食らって倒れそうになる。
是非ともなんて売り文句で身体を見せられるとは思っていなかった。売り文句というのはおかしいか。身体を売るみたいになってしまう。
待て! まだヌードとは限らない。下着を見せてくれるかさえも分からないんだぞ。落ち着け。童貞こじらせサブカルクソメガネ陰キャオタクくん・穂村花火。落ち着くんだ。
……でも…………。
身体は、見せてくれるんだよな?
「見て欲しいの」
だよなぁ!?
彼女は一世一代のプロポーズでもするかのような、覚悟を決めた顔をしていた。
好きなのか? 俺の事。
十分に身構えて、彼女の続きの言葉を待つしかなかった。
「うどん屋ッッ」
「…………うどんや?」
「鮑のしとか、愛宕山とか! あるからッ! ……今度、うちに来て、見ない? あっ、オススメは長屋の花見でね!」
うどん屋。俺が昼休みに読んでいた、落語の本のタイトル。その後にしずくが羅列するタイトルらしきものは、おそらく全て落語のもの。
予想していたところを大きく外れ、俺が構えていたミットをカスりもせずに、しずくのボールは俺のキャッチャーマスクをぶち破って鼻をひしゃげさせた。前が見えねェ。
ひとしきり話して一息をついた後、しずくの輝いていた目はハッとしたように見開かれ、すこし悲しそうにもじもじとし始めた。先程の勢いはどこへやら。しずくは雨にかき消されないギリギリの声でつぶやく。
「迷惑、かな。古い落語とか見せられても」
「はい?」
「ごめんね。変だよね」
これまた俺の予想していたところにボールが来ない。そこかよ、配慮するところ。
今のしずくの顔を見るに、どうでもいいとは言えない。俺にとってはそうでも、しずくは気にしているからどうでもよくなさそうな顔をしているのだ。
ここで『そんなのどうでもいいからさぁ──』なんて言うのは、しずくを傷つけかねん。
それに、こういう場面で言葉をスラスラと、ハキハキと、そしてキレキレに紡ぎ出すのが、演劇の役者における『アドリブ』ってやつじゃあないか。俺は代わるよ。変えてみせるよ。
「なに、その……お前、迷惑じゃねえし、俺も興味ある! だから行くには行く! お前のこと、もっと知りたいし? でもさあ……」
「ホントにっ!?」
「ホントだよッ、ウソつく理由ねェだろ。つか、演劇部はそういう趣味を受け入れられる場所だっつーに。熊野先輩、今日は特に暴走気味だけど、普段からナマモノ同人誌出そうとしてるぐらいじゃん」
「なまもの……?」
「とにかく! …………そんな演劇部でも……舞台裏でまで自分を演じて……隠してさ…………大変すぎるよ、そんなの」
後の言葉に詰まったのは、単に『ここまで踏み込んでいいのか』という様子見。ひよった。
しばらく彼女は硬直して、それから上半身をだらんとさせて力を抜いた。身体中、カチコチだったんだろう。彼女はこの数分間の告白──俺の思っていた告白とは違った訳だが──によって、へとへとに疲れていた。
と思ったが、彼女はまたさっきの勢いを取り戻し、油そば屋で刀剣がどうとかについて語っていた熊野先輩と同じくらいの熱量を持った瞳で、俺に『布教』をしてきた。
「な、なら! ならっ!! ……ごめん、大きい声出ちゃった……えっ、映画も見よ! 『いつも2人で』とか、『マイ・フェア・レディ』とか!」
「あーあー、お前がオードリー好きなのは分かった! うん、見るけど! 見るけどね!」
「なぁに?」
「さっきモジモジしながら言ってたのはさ……落語を見ようって話だったんだな……?」
「…………うん……♡」
その顔、他の男子には見せられないぞ。俺もすんでのところで鼻血を抑えているんだ。お前、なんでそんなにエッチに『落語見よう』って誘えるんだよ。
俺の勘違いもあるけど、今のしずくは間違いなく告白寸前の顔をしている。
「今まで、いなかったんだ。こういうの見てくれる子」
話口調が変わったしずくはまたもや、いかにもなシリアスでメランコリックな表情に戻っている。
「最近、穂村さんは主役にも選ばれて、みんなから期待もされてて。自分を演じてる私にも、優しい言葉かけてくれちゃってさ? ふふ。私、スカウトしてよかった……って思うと同時にね」
しずくは笑いながら、目に涙をためているようだった。突然何を言い出すのかと思ったら、俺にもよく分からん。
傘からはみ出していた肩が濡れているのが分かったので、話を聞きつつ俺の傘をしずくの方にやると、彼女は静かに首を横に振る。手に持っていた自分のビニール傘を俺の腕にかけて、傘の中から勢いよく雨の中に飛び出した。
夜のお台場、周りのサラリーマンやカップルは皆、憂鬱そうな顔で傘をさしている。しかし彼女だけは、数年ぶりの雨に喜ぶ大飢饉の中の少女のように、雨粒をものともせずに歩いていく。
おいおい、と駆け寄ろうとするが、彼女はこちらを見ないまんまで腕でそれを軽く制する。後ろ手でこちらに振り向いた彼女は、笑っていた。
「ちょっと、妬いちゃうの」
妬く。
妬む。
羨む。
優等生で未来の大女優にも、そんな感情は当然あるわけで。なのに、俺はそこそこ驚いている。
俺は傘をさしたまま、しずくの方へ歩み寄る。2mほど近づいて止まり、俺はビニール傘越しに空を見上げる。
北の方角に、少しだけ夜空が見える。雨が降っているのはここらぐらいのものか。
「役者としては100万点の答えだろう、それ」
「……?」
「こんな見た目もパッとしない陰キャに主役奪われたッ! とか、しずくほどの華やかな役者なら、思って当たり前だと思うけど。ここで燃えたら、そりゃ役者として『ホンモノ』だろ」
しずくは俺の言葉を慌てて訂正する。
「パッとしないなんて思ってないけど! ……でも、奪われたとは、ちょっとだけ…………」
俺の発言は、いわゆる『そんなことないのカツアゲ』とやらではない。俺は今、思ったことをそのまま口に出している。
否定して欲しいわけじゃあない。彼女を上げ、俺を下げる、俺なりの謙譲語。俺なりのコミュニケーション術なのだ。不快になることもないだろう。事実なんだし。パッとしない陰キャとか。
しずくは、主役を獲れなかったことを、少なくとも悔しがっている。主役の座を羨ましがっている。下を向き、彼女は口元を引き締め、だらんとした両手のひらはスカートの裾をぎゅっと握っていた。
「じゃあ、まだ
「!!」
「これから3年あるんだ。まだ俺は、しずくに越されちゃあいないと思ってるぜ。イヤミみたいに聞こえるかもしれねーけどよォーッ……」
時雨の中で、彼女は邪魔そうに通る通行人を気にもとめずに、俺を見た。
雨に濡れた髪が、力なくぺたんとボリュームをなくし、毛先の雨粒がスワロフスキーのように、お台場の眩い夜の街の光を反射して光る。
俺らが再び見つめあって、何秒、何分が経っただろうか。ふと、しずくは表情を歪ませる。泣くんじゃあなかろうかと心配したが、予想に反して、しずくは軽く吹き出した。それから何回も、彼女は肩を震わせて、笑いをこらえていた。そしてついに耐えきれず、俺の前で、街の真ん中で、彼女は笑いだした。
いつもの笑顔とは違う。友達のくだらないジョークに不意打ちされたような笑いとも違う。
何かを吐き出すように、彼女は咳き込むほどに笑った。目元に滲んだ涙を指で拭い、彼女は、これまた今まで見せたことの無い顔を、俺に見せてみたのだ。
ひとことで表すなら……いや、もしこんな絵画があったら、もしこれをモデルにした曲があったら、もしこれが戯曲や小説だったなら、俺は題名をこうつける。
『心からの笑顔』。
それだけ、彼女の吹っ切れた笑いは強烈に、俺の心に刻み込まれた。どうやらしっかりと、自分に向き合えたようだ。
「穂村さんに会えてよかった」
「今から死ぬみたいな言い方すんじゃねーよ」
死ぬにはいい日だけど。
しずくにとっては、生きるのにもいい日だ。
濡れた顔を見合って、俺らは軽く笑った。
しずくはこちらに近づき、俺が傘を持っていた右手に手を添えて、それをそっと下へとやる。するとどうだ、しずくにしか目を向けていなかったせいか、いつの間にか土砂降りの時雨は止んで、晴れ間が広がっていた。
気づけば、この街で傘を広げているのは俺だけ。しずくは何も言わずに、そっと俺に微笑んだ。
「しず子〜〜〜!! はな男〜〜〜!!!」
聞いた覚えのある声。見た事のあるシルバーアッシュと、彼女らしいパステルイエローの小さな傘が、こちらに走ってくる足音。
もうひとりいるじゃあねーか。傘さしてるヤツ。
見なくても分かるが、一応振り向いて確認すると、見覚えがありすぎるクラスメイトが、まるで兵役を終えて帰ってきた父に駆け寄る子供みたいに向かってきていた。衝突しかねんくらいの勢いだったもんで、そいつのおでこを指一本で押さえて止めた。
そしてその指を喉にうつし、ビシビシとつついてやる。
「公然の場で馬鹿でけえ声を出したのはこの喉か! あぁ〜ん?」
「ぎゃあ、喉仏つぶれる」
「ねーだろお前には!」
「分かんないじゃん! あるかもしれないじゃん!」
「ねーよ!?」
「あるもん!! 見たもん!!」
「…………」
俺はまた毎朝恒例、電車や教室の中と同じような、会話のアメリカンフットボールで中須とぶつかり合おうとしたのだが、ふと、ある事を思い出した。
中須の喉から指を離し、俺は後ろのしずくに声をかけようと振り向く。しずくは俺らのやりとりを初めて見たのか、若干困惑気味。
というか、拗ねてる?
「桜坂さん、さっき聞きそびれたンすけど」
「ん、なに?」
「さっきの事、怒ってる?」
俺がそう質問すると、しずくはまたもや吹き出した。そんなに面白いかな。俺、落語家やった方がいいかも。
「ふふ」
「え?」
「ぜ〜〜んぜん、だよ♡」
「はぁ……そりゃあ良かったけど、ごめんな」
「私も言いそびれてた」
「お?」
半ば俺の謝罪を遮り、しずくは傘の持ち手で俺をつつく。
「ありがとうございます、穂村さんっ」
うっっっっっっっっ。
しぬ。
俺の遺品整理してくれないかなあ、しずく。
「なになになに、なにやってるの?」
そして空気を読まず、こちらにグイグイと迫ってくるかすみ。しずくだったら『そういう目』で見てしまい、ついドキドキもしてしまうのだろうが、中須は普通に男友達みたいなノリで来るのだ。本人もそのつもりだろうが、ドキドキもクソもない。
「引っ込んでなさい」
「扱いが5歳児」
「扱いだけじゃないぞ」
「可愛さ?」
「偏差値」
「偏差値!? えっ、5歳児の偏差値なの!? かすみんは!」