穂村花火(15)の朝は、コップ一杯の水から始まる。
夏休みでも、それは同じだ。
水浸しの洗面所でひっくり返って、スマホの画面を割ったのは、人生の中でも初めてだが。
今日の目覚めは良くはない。いや、悪くもない。これに関しては、ぶっちゃけ、その日の気分と予定による。だるい用事がある日は不機嫌だし、友達と遊ぶ日はテキパキ朝の支度ができる。
今日の予定はというと、なし。完全に『無』。なので、今日の目覚めは良くも悪くもない。平日よりかは良いし、休日よりかは悪い。そんなところ。
そんな中途半端な目覚めなもので、起きる気力も次第に失せていく。枕元のスマートフォンを起動させると、時刻は11時。どうりでいつもよりも、東の方にある窓から、日があまり射し込んでこないわけだ。そろそろ夏本番の東京、午前11時といったら、もうすぐ太陽がのぼりきる頃だろう。
今日が土曜日でよかった。日曜日でこの時間に起きていたら、ニチアサを全て見逃しているところだった。最近のニチアサは時間が変わって見やすくなったとはいえ、見逃す可能性もゼロではない。一番早いプリキュアは8時半だし。
もちろん後に見直すために録画もしているが、俺からすればTwitterのオタクの反応と共に楽しむのが好きだから、リアタイが一番理想的なのだ。
まあまあ寝すぎてしまったという軽い後悔と共に、布団の中で無理やり意識を覚醒させる。
目をこすって、ベッドの上で伸びをし、上半身だけを起こす。大きく欠伸をひとつ。スマートフォンを充電器から抜き、寝巻きのポケットにしまって部屋を出る。
学園祭が終わり、虹ヶ咲学園は演劇部も軽音楽部(正式名称:エクストリーム軽音楽部)も、現在は休みに入っている。来たい人は自主練習に来てもいいが、あくまで夏休み中の練習に強制力はない。自由登校というやつだ。
俺は夏休みに入って数日目、至って平和な日々というぬるま湯にどっぷり浸かっていた。冷房の効いた部屋で積みプラの消化を、しかも丸3日もかけてできるだなんて、なんて有意義な時間の使い方だろう。GWでもこうはいかなかったぞ。まあ、その後少しして、なんだか演劇をしていないことに謎の喪失感や使命感を感じてしまい、耐えかねて学校に行ったら、同じようにオタ活やらの趣味に没頭する予定だった先輩たちが焦燥感に駆られたように台本読みをしていた。
顧問は、こうしてオタ活に完全に没頭することができなくなり、演劇に囚われた部員を見て『演劇部の呪縛。すっかり夏の風物詩』と言っていた。続けて部長が『季語になるね、哀れな演劇部員』とも。自分らも来てたくせに、と俺は心の中で呆れつつも、笑っていた。
2階にある俺の部屋から階段を降りて、1階の洗面所へ。俺が言うことではないと思うが、穂村家は稼ぎが良くも悪くもない一般家庭。なので洗面所だって、一畳ちょっとの、特筆事項のないただのつまらん洗面所だ。寝るには狭いだろうなって感じの広さ。
俺は顔を洗い、コップに水道水を入れる。顧問が『東京の水道水は飲めたものじゃあない』と言っていたらしいが、やはり顧問の地元の甲府市よりかは、水の味では劣っているのだろうか。今まで気にしたこともなかったが、そもそも水道水は味を楽しむものでは無い。生ビールがのどごしを味わうものであるのと同じ、水道水は喉を潤すためだけにあるものだ。少なくとも俺はそう思っている。
朝から散らかった思考に自分で呆れつつ、スマートフォンの画面を見る。色んな通知がたまっている中、また新たにひとつの通知が来る。ごくオーソドックスなメッセージアプリの通知だ。
メッセージを送ってきた相手は、『桜坂@地区大会がんばります』。しずくだ。部活の業務連絡かと思い、親指の指紋を押し付けてスマートフォンを開く。
しずくが送ってきたメッセージはシンプルな一言であった。シンプルというか、短すぎる。
『すき』
この2文字である。
人生で、何にも殴られたり蹴られたりせずに、もんどり打って倒れたのは初めてだった。そもそも、もんどり自体が初めて。もんどり童貞を卒業した。
水が3分の1ほど入ったコップは、綺麗な弧を描き、脱衣所の床に中身をぶちまける。コップがプラ製でよかった。普通のマグカップとか、ガラス製とかだったらヤバかった。
『花火くんのこと、ずっと前から大好きでした。付き合ってください』
「………………」
「兄貴〜? どしたの、もう朝ごはん……うわっ。なんかキモい状態になってる」
俺がすってんころりんした音を聞きつけて、妹が洗面所に来た。平均、日に5回は妹に罵詈雑言を浴びせられているが、今回は朝から『なんかキモい』ときた。
なんだそのやる気のない罵倒は。もっと本気で来いよ。
「母さ〜ん! 兄貴が目から血出してる〜! キモイ〜!」
「いつものことでしょ、アニメの最終回になる度に流してるじゃない。なんなら耳からも流してるわよ、ゴヤの『我が子を喰らうサトゥルヌス』みたいな顔して」
耳からは流した覚えがない。例のサトゥルヌスの絵みたいな顔をしているのは認めるが。
みんな、目を覚ましてほしい。今ここで流されているのは、血の涙と、心にもないフェイクニュースである。
「それより、運ぶの手伝って頂戴」
「兄貴を? それとも朝ごはんを?」
「朝ごはん。ひとまず花ちゃんは放っといて」
「はいはい〜。そっちが優先なのね」
「…………」
家庭内での言葉の暴力はDVに入るでしょうか。法律事務所に相談してみよう。
俺を放っておいて妹が朝飯の準備をしに向かうと、少し濡れたスマートフォンが規則的にバイブレーションを始めた。同時に、俺の着メロである、あまちゃんのOPが流れる。スマートフォンの画面を見てみると、しずくからの着信だった。
どういう心境で出ればいいのかも分からないが、とりあえず俺が言うことはただ1つ。『俺も好きだ』。
いや、落ち着こう。落ち着こうな。別にしずくが送信ミスをしただけかもしれない。想像するだけでゲボがマックシング状態のジャック・ハンマーくらい出そうだが、あの『すき』のメッセージは、彼氏に送るはずだったかもしれない。
声色だけを整え、俺は重度のアル中くらい震える手で電話を取る。
「もしもし〜!」
『あっやめて!! そこダメ!! 肘が反対に曲がる!!』
『璃奈ちゃんボード『48の殺人技のひとつ、見事炸裂───ッ』』
『穂村さーん? ごめんね、急に。かすみさんがイタズラしちゃって』
『ギブギブギブ!! っア"─────!!』
鼓膜を刺すような高音。間違いなく中須かすみのものである。隣でキン肉マンの解説役ごっこをしている璃奈のセリフからするに、多分かすみはキン肉バスターをかけられている。
今度俺もかけよう。俺は今のイタズラで、2度3度心臓が止まったのだから、そのくらいはされて当然と言ってもいい。
「イタズラかー!! そうかそうだよなー!!」
『うん、午前だけ部活だったから、それでね』
「ちょっと待って、かすみってまだキン肉バスターかけられてる?」
『よく技名分かったね。あと5分はかけるよ』
『かすみちゃん、顔が青ざめてない?』
『なんか一周まわって気持ちよくなってきたかもしれない』
「10秒くらいで下ろそうよ!? な! 俺はそんなに怒ってないから! かすみが戻れないところまで行く前に下ろしてやってくれ!!」
『私は怒ってますが、仕方ないですね。かすみさん、言わなければいけないことがありますよね?』
『ごめんなさ〜〜〜い!!!』
電話越しに、大きく謝罪の言葉を聞き、俺からの制裁はデコピンくらいにしてやろうと思い、許すと言ってやった。
しずくは本当に怒っているようだ。演劇とスクールアイドル、ふたつの部活でつけた筋肉を、まさかプロレス技に応用するとは。見事な転身も夢じゃない。逆相羽あいなじゃあないか。
『かすみんボード『ぴえんこえて祇園』』
「雅〜!」
『雅ってツッコミある??』
ない。
『ところで穂村さん、今から直でそっちに行くけど』
「えっ!? 俺まだキン肉バスター返し覚えてないよ!?」
『証拠隠滅キン肉バスターはしないからね!?』
『証拠隠滅キン肉バスターとかいう、世にも恐ろしい言葉を平然と……』
俺のところに来るのが、記憶を飛ばすためのキン肉バスター目的でない。だとしたら、何故来るのだ。
『2人分のチケット、ミュージカル、夏休みの約束。これでも思い出せない?』
「天国へ行くための14の言葉……?」
『………………』
本来はスピーカーからは聞こえないはずの三点リーダが、なんとも重苦しい。
『璃奈ちゃんボード『時は加速する』』
「天王寺はジョジョもいけるのな。今度飲もうな」
『梅酒がいい』
『こらっ未成年! てか、はな男とりな子はいつ仲良くなったの!?』
「色々あってな」
『うん。色々』
これは番外編で書くであろう所なので、本編では言わないでおく。
それはそうと、しずくが言っていた言葉は何だったんだろう。
ミュージカル。
夏休み。
ふたり。
「…………ヒント、ください」
『5月15日』
「あっ!!」
『何で日付でピンと来るかな!?』
「ご、ごめん!! そうか、7話か!!」
『ななわ……?』
しずくと上手く話せた日は分や秒刻みで覚えている。その俺が、こんな屈辱の生き恥をかくとは。夏休み前が激動すぎて忘れていた。
ふたりでしていた、約束。
もう18話前のことなので、忘れている人だけでなく、ある程度覚えている人も、各自『#7 音遊』を参照することをおすすめする。
「ごめんなさい!!! 思い出しました!!!」
『もうっ! 穂村くん!』
「いや、忙しかったし……」
『いいから、今すぐ準備!』
「は、はいッ!」
ぴしゃり、しずくは俺に準備を促す。電話を切り、俺は猛スピードで自分の部屋のある2階に上がる。
ああ、何を持っていけばいいんだろう。財布とスマホは確実に要るとして、モバイルバッテリーに、ハンカチと、あと一応暑い日だし扇子も……。
俺は頭がぐちゃぐちゃになっていた。とにかく行かなければ、さもないと。
そうして数十分。ようやく服の組み合わせが決まったというところで、妹がノックなしに俺の部屋を開ける。
「兄貴、人待たせてるよ」
「えっ、まさか外にいんの?」
ここでの『まさか外にいんの?』は、『まさか俺の家をしずくが知っていて、ここまで自力でたどり着いたとでも?』という意である。
「美少女。あんた、何の弱み握ってるの?」
「別に付き合わせてるわけじゃあ……」
「……なるほど」
「レンタル彼女じゃあないッ!!」
「はいはい、母さんには黙っておくよ」
妹の悪ノリを一蹴し、転がるように玄関を飛び出る。すると、俺の家の門、それを隔てて、私服姿のしずくが仁王立ちしていた。私服というか、どちらかというと部活の時に着る練習着というやつだろうか。スポーティーな格好だ。
「お、そ、い」
「……何故…………ここが分かった? アジトのパスは週一で変更されているんだぞ」
「ふっ。私をあまり舐めないでいただきたい」
「ノリノリじゃん」
多分、俺の家の場所は、かすみから教わったんだろう。アイツには1回、俺が胃腸炎でダウンした時にノートを持ってきてもらったことがある。現状、ここへの行き方は、かすみしか知らないのだ。
情報さえないまま、北千住の住宅街に絞ってその中で探してここに来るってんなら、それこそ大したものだ。特に金持ちの家ってわけでもないし、表札の『穂村』くらいしか見つける手段がないしな。
親父は千両役者だけど、それも高校演劇の舞台でのみの話。それに、高校卒業以降少しして、演劇人ではなくなってしまったし。アイツが千両役者だからってウチが金持ちになるわけでもなかったのだ。
「むぅ」
「あっ、ホントごめん。間に合ったろ? 一応。ハハ……」
「…………」
「れ、練習着か? 似合ってるよ」
不機嫌そうにぷいと顔を横に振り、流し目で俺を見ると、しずくは唇を尖らせて言った。
「ばーか」
「!!」
股間に電撃が落ちた気分だった。電流が走る衝撃というのは、なるほど、こうも強いものか。
俺は『そのセリフ、ランドセル姿でもう一度!!』と言いたい気持ちを、喉が拡張されるほど必死に呑み込み、控えめに、頭を低くして頼み込む。
「もう一回……お願いします……」
「えっ、何が?」
「その……いまの罵倒、すごく良くて……」
「ばっ……そういうところが、もうっ……ばーか! 行くよっ!」
ここまでつっけんどんなしずくは、初めて見た。
かわいい。
大好きだ。
何回でも、バカって言って欲しい。肝心な時にダメな、本番に弱い俺を支えて欲しい。
その代わり、俺はしずくの苦手なアドリブを一任するから。
キレイめに言ってみたが、要するに俺にはマゾの気があり、しずくほど大好きな人の罵倒なんて最早ご褒美にしか感じないというだけのことである。気持ち悪いね。俺。
「私の事、嫌いになっちゃったかと思った」
「いやいやいやまさか!」
「……そっか……よかった」
微かに笑うしずく。すこぶる機嫌が悪かったわけではなさそうで良かったと、俺は心の中で胸を撫で下ろした。
オヒサシブリデェス。
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