昔、母さんが語った。『自分のことで、他人のことで、心の底から泣いたり笑ったりできる人間になりなさい』と。『そうでないと、昔の母さんみたいに氷のような人になってしまうよ』……と。
しずくと会わなければいけないという事実が、今日ほど重くのしかかる日も、今後ないだろう。
「少年」
ホールに入ろうとした俺の後ろから、声がした。振り返ると、ホールの廊下にある休憩用のイスを何個も使い、寝転んでいる部長がいた。
「泣かせちゃったのかい。しずくのこと」
「……何故、アンタが知ってんです」
俺が部長に近づく。すると。
「……僕が……教えた……」
ここから10mほど離れた、男子トイレからか細い声が聞こえた。そちらの方を向くと、壁から顔の半分のみを出し、こちらを覗く者がいた。見覚え、聞き覚え共にあるその人を、俺は知っていた。
「…………『道具神』……」
虹ヶ咲学園演劇部の『道具神』こと、宮下先輩。なぜトイレに。その真相を聞く暇もなく、彼は話し始める。
「見たよ……猛烈ビンタ……」
「えっ!? あそこ見てたんですか!?」
「割と最初から……」
壁に耳あり障子にジュディマリ、とは言うが。まさにこのことか。
俺が帰る頃には、周りに人っ子一人いなかったものだから油断していた。しかも、こんなに近しい人に見られているとは。
しずくがいなくても来づらいじゃあないか。部活。
「僕は、ああいうのもいいと思う……というか、ちょっと憧れてるまであるよ……」
「……?」
「ぶつからなきゃ、分からないこともある……あっ、これはSAOのユウキも言ってたことの受け売りだけどね……」
宮下先輩はソードアート・オンラインの名言を引用しつつ後輩を慰めるという、何とも演劇部らしい先輩らしさを見せつつ、こちらに歩み寄る。
「あ、あのね……これはね、僕の……ワガママだけど……」
「は、はい」
「…………勝手に、『自分を決めつけないで』。自身を値踏みして、相談の価値もないって……見捨てないで……」
半ば涙目になりながら、こんなに喋っているのは見たことがないぞというくらいに喋る宮下先輩の背を、部長が撫でる。
泣いているのは、この人がよくあるキレながら泣く人タイプだからだと思うのだが、そこまでして俺にこのメッセージを伝えたいのかと思うと、こちらまで泣きそうだった。
俺は自分自身を卑下することに躊躇がなかった。
「神様ですら、人を値踏みする権利なんてない」
「!」
「世の中にはね、人は他人にそこまで興味が無いなんて……慰めの言葉があるけど……え、演劇部、の……みんなはね……!」
「バリバリに少年のことが大好きだぞ!」
「あっ、取られた……」
部長に決め台詞を食われたからか、彼は俺の肩を持ち、自分なりに自分のセリフにケリをつける。
「じっ、ジブンに! 自信を持って!」
「…………はい……」
「……愛は、人を笑顔にする……その愛は、たとえ自分に向けていても、誰も文句は言わない…………こ、これは従姉妹の言葉です……」
宮下先輩の言葉を聞き、確かその従姉妹が先輩とは真逆の、とても活発で明るい人であることを聞いたのを思い出した。
それから俺は、いつしか涙目から、ただただ泣いている状態になっていることに気づいた。
俺はその場に崩れ落ちた。2人の先輩は、そんな俺の背中をさすってくれた。
部長はもちろんのこと、俺は宮下先輩にも随分とお世話になっていた。演者班と道具班、役割が分かれているので日常会話こそ少ないものの。俺は、彼がコミュ障で陰キャで引っ込み思案のオタクなりに道具班をまとめているのを見てきた。
「宮下先輩は……ギャレンですね……」
「肝心な時しか役に立たないと言いたげだね……!?」
「はははっ、彼なりの強がりだよ」
「……」
「さ、教えてくれよ。少年の心中をさ……私は昔から古畑任三郎が好きでね。気になることがあると夜も眠れないんだ」
数秒した頃。どこか吹っ切れた俺は、しゃがみこんだまま床に向かって叫んだ。
「アイツッ!!! 俺のこと名前で呼んでくれたンすよッッ!!!!」
「!!」
「……初めて!! …………花火くん、って……言ってくれてッ……!!!」
「嬉しかったかい?」
「嬉しくないワケがないッ!!!」
床に零れる自分の涙を見ながら、深呼吸しようとしても抑えられない嗚咽で背中が勝手に揺れる。
今年度では一番の俺の大声を聞いたのか、続々とこちらに向かってくる足音が聞こえる。それをおさめるためか、宮下先輩は一度ホールに戻った。
「好きなんだね、しずくのこと」
「…………俺が世界で一番、桜坂しずくを愛してンすよ」
「そんなに想ってくれる人に出会えたなら、しずくも幸せだろうね。でも、どうしてケンカなんか……」
そんな先輩に、俺はかいつまんで経緯を話した。
ミュージカルを見に行く途中で、同級生と生徒会長に会って。それから、なんだかよく分からない方向に話が進んで。
「それで、俺のことが大好きだ、って言うんですよ、しずくが。だから俺は、『俺なんかが人に好かれるはずがないのに』って言ったんです……」
「それはキミが悪い!!!」
言いきられた。どしたん、話聞こか? に至るまでもなく、自分が悪いと。
「でも……」
「でももストライキもない……それは少年のせいだよ……」
「俺はッ……俺はッッ……」
「それでも貴方は選ばれたのだろう!? ならその使命を成し遂げろッ!!」
部長はアツい眼差しで、こちらに訴えかける。目が、紅くなっている。彼女の『演劇人のオーラ』が漏れ出ているのだ。オーラは、本来目に宿るもので、それが漏れ出たものが一般的にオーラと呼ばれるものだ。
「何も持ってない!!! ……何も、できない」
「この範田紅葉はキミを信じている!! しずくも、皆だってッ!! キミの異名は伊達じゃないことを知っているんだぞッ!!」
「過去の栄光にすがるつもりはないッ!!」
「その意識があるのなら、キミは更に高く……翔べるよ……!!!」
「…………」
「キミは穂村燃の亡霊なんかじゃあない」
「やめろ」
部長は俺の肩をがっちりと掴み、目を覚ませと言わんばかりに揺さぶる。
「ああ……あなたの父は、かつて『生ける高校演劇の殿堂』と呼ばれていた……だとすれば、と付けられた!! あなたの名前はッ!!」
「……やめろ……ッ」
瞬間、恋をしていた女優のキスシーンをテレビ越しに見る時のような嫌悪感が身体中に走る。俺にとって、その名を呼ばれることは、そのくらい怖くて。何よりも、ひどく虚しくて。
今の俺は、もう中学演劇のなんでもない。だから──
「『
「その名前で呼ぶなァッッ!!!」
間近でその『二つ名』を叫ばれた俺は、部長の胸ぐらを掴んで、より大きな声で叫び返す。
俺がソレだから何だってんだ。俺は、人間としてのランクが低い。ゴミクズだ。ただのオタクだ。役者としてのランクさえ、しずくよりも下だ。
だから、俺はそんな大層な『二つ名』なんかつけられるような奴じゃあない。どんなに中学演劇や高校演劇で活躍しようと、分かっている。俺は親父のような、立派な人間にはなれないのだ。
「高校演劇においての第二世代は、『贋作マクベス』という虚像が
勝手なことを言うな。俺は、そう小さくつぶやき、力なくへたり込む。
頭がガンガンと痛む。目頭もだ。
「俺が贋作なんだよ……」
「……少年が、贋作…………??」
「俺なんか!! この世界にいらなかったんだッ!!!」
視界が歪んできた。ギャンブルで数万の大負けをした時のように、吐き気と目眩が同時に襲ってくるのだ。どうも、自分が自分でないようで、魂が身体との結び付きを拒んで乖離していくのだ。
「虹ヶ咲学園は、共学で良かったんでしょうか。しずくは、あんなに軽々しく誰かに好きと言うでしょうか。かすみの口調は、あれで合っていたでしょうか。部長の名前、勝手に決めて良かったんでしょうか…………」
自分の意思とは無関係に、俺の口からは言葉が立て続けに出てくる。誰の言葉かも分からない言葉が。
でも、いつか一度は思っていたことだ。
「穂村花火は……この世界にいて、良いんでしょうか……?」
「少年」
「…………俺が活躍する『舞台』は、学園祭じゃなくても……『ラブライブ!じゃなくてもよかった』んだ。俺は、産まれてくる世界を間違えたんです」
どうして、俺はこんな所にいるんだ。本来、女子しかいないはずの『ラブライブ!』に。どうして、俺はみんなから支持されているんだ。本来、スクールアイドルの物語を描く『ラブライブ!』で。
ああ、そうか。
だから、俺は俺自身が好きになれなかったんだ。人の家で亭主関白のように居座れるわけがない。そんな風な気持ちで、俺はずっと生きてきた。
だから、俺は俺を許せなかったんだ。だから、俺は俺の死を死にたかったんだ。俺は……この世界で生きていくには、あまりにも図々しい存在だった。
「俺は、『本物』にはなれない……!!」
「花火少年ッ!!」
気をしっかり持てとばかりに、部長が叫ぶ。
本物になれない、というのは、穂村燃の後を次ぐにはあまりにも実力が足りず、才能もないということと。この『ラブライブ!』という舞台では、どうしても浮いてしまっており、原作キャラたちをも曲げてしまう異質な存在になってしまうということを内包した言葉だ。
俺という毒がこの世界という大海原に一滴入れられたことにより、バタフライ・エフェクトが発動した。そうやって、鈴虫先生や光良さんが生まれた。部長のディティールだってそうだ。
そうして、この演劇部も。これらの『
海と毒薬、という小説がある。そのタイトルの意味は、海は抗えない運命や社会、毒薬は人の良心を麻痺させる悪意、というのが通説となっている。
たとえ海に一滴、その一滴で巨大な象をもパタリと死なせてしまうような猛毒を持った薬を入れたとしても、海そのものは誰もが気づくような変化などありはしない。
しかし、俺たちはその海の中で生きている。その毒薬の影響を受けないとは限らないのだ。だから、たった一滴の毒薬であろうと、それはかつての綺麗な海を少しでも変えてしまうものだ。
テセウスの船的な目線で言えば、毒薬を一滴でも垂らされたら、それはもうかつての海では無いのだ。毒薬入の海、としてこれから存在し続ける。
だから、俺はこの世界に生まれた毒薬として、悪役として生き続けなければならない。
「俺が入り込んだせいで、周りの全てもが贋作になってゆく……俺は……そんなの…………」
かつての綺麗な海が、俺という毒薬が入ったことによって、未来に、ともすれば過去にも影響が広がり、毒薬の入った海となっていく。
俺は耐えられない。改めて現実を見つめ直したこの瞬間、俺は自分の中にある自責の念に心臓を握りしめられ、いつ破裂してしまうかも分からないような苦しみに襲われる。
「なあ」
部長が、俺の背中をさすりながら語りかける。
「キミは自分を否定するために生まれてきたのか?」
「あ……?」
「そうじゃあない。キミは、他の贋作に勝ち誇るために生まれてきたはずだ。嘘から出た誠という言葉もあるだろう?」
確かに、他の世界にも『ラブライブ!』という世界をねじ曲げた存在がいるのは知っている。
それらはアンチ・ヘイトの名を冠し、横暴に振る舞っている者もいれば、シリアスやコメディの名を冠し、その世界の補完をする者もいるということも知っている。
俺と同じ、贋作。俺と同じ、毒薬。それらは一般に、『オリジナル主人公』などという大それた称号を持っている。
「偽物が持つ『そいつの偽物であろうとする意思』は、本物側にはないんだ……誰かが言ってたね」
この人は本当に物語シリーズが好きだな。
「贋作…………そうだね。君はこの世界においては贋作かもしれない。でもね、花火少年。真作は、誰もがなれるんだ。誰もが、『自分の世界』では真作になれる。ここは穂村花火が主演なんだから、『花火少年の世界』なんだよ。題名も自分でつけていい。あとは、世界に『馴染む』だけ」
「……」
「これを第一回公演とするなら、キミはその舞台の
部長は、俺が贋作であり、この世界にいる異質な存在であることを飲み込み、認めた上で、俺の目を見て話している。
それだけで、少し救われたような気持ちだ。今までのことも踏まえると、改めて彼女には感謝しかない。
この人なら、あるいは。
俺を認めてくれる。贋作である、この俺を。穂村燃の亡霊としか見られていない、この俺を。
「キミがしずくと仲間割れするのも、言ってしまえば……勝手だ。だが、部としてはだ……やるべき事はやってもらうつもりだ。キミは、高校演劇第三世代の『
「…………」
「私は、キミを『二世』だなんて呼ばない。『贋作』であろうと、キミを認めないなんてことはない。だから、信じてくれないか……私を。みんなを」
そう話し終えると、部長は数秒おいて、いつもの、いや、いつもより数割増しの笑顔に戻る。
「ま! 今のは、部長としての意見だ! もうすぐ大人になるべき、高校三年生なりの意見を述べさせてもらったよ」
「……はい?」
「私個人としての意見を言わせてもらうと、『花火としずくの最高の舞台をただ観たいだけ』なのだよ。誠に身勝手ながら、ね」
「………………」
俺は唖然としていた。そのためだけに、たったそのひとつの願いのためだけに、俺を説得しようとしたというのか。
この人も相当な演劇狂いだな。他人のことは言えないが。
「フフ。私がキミのことを諦めるのを諦めなさい。いつだって私は、キミのことを見ているよ」
「え、こわ」
「こらこら。シリアスめにキメたのに」
部長は、俺の頭を握りこぶしでコツンと軽くつつくと、続いて俺を強く抱きしめる。あまりに突然だったものだから慌ててしまうも、部長は抱きしめる力を強めるばかり。逃げられそうには無い。
「キミには、こんな所で立ち止まっている余裕は無いんじゃあないか? 演劇でも、もちろん贋作としても、他の贋作を超えてみせろよ。中屋敷法仁と、東音羽の鼻をあかしてやれ」
「中屋敷は分かりますけど……後者のそれ、原作のシリーズが違いますよ。俺が戦うべき相手は、あなた達のシリーズのオリジナル主人公です」
「ああ……それもそうか。でも、いずれは超えるつもりだろ?」
「…………」
そうだ、俺は。こんな所で、終われない。この世界に生まれたからには、きちんと『原作の完結』までを描かないといけない。
あんたも、そう思うだろ。どうせ始めたのなら、突き進むのみ……ってさ。
「なんにしろしずくとは、きちんとした和解を期待しているよ。ベストウィッシュ、少年!」
俺の背中をバンバンと叩く部長。その少しの痛みは、なんだか暖かくて。人の心が、部長の体温が、ダイレクトに伝わってくる気がして。
一人暮らしをして、久しぶりに実家に帰ってきた時、俺はこういう風な気持ちになるんだろうか。そんな、少し的はずれなことを思いつつ、俺は自分の目から次々にこぼれてくる水滴を、手の甲で拭う。
「……ありがとう……ございますッ…………」
鼻声でそうつぶやくと、今度は俺の背中を優しく撫でてくれる。
こんなに母性のある先輩だとは思っていなかったからか、なんだかますます泣けてくる。
「フフ。こういう時にちゃんと泣かないと、肝心な時にも泣けなくなるからね。今は、ちゃんと自分と向き合って、泣く時間だ」
「ッ……」
「私は、決して花火少年がこの世界にいることを間違いだなんて思わない。心が折れることも、間違いを犯すことも、ね。だから、大丈夫。大丈夫だ」
立場上だけでは無い、正真正銘の先輩として、それこそ人生の先輩として彼女は俺に話しかける。
「大丈夫……大丈夫……」
「…………俺は、ここで……成功してみせます……本物を超える、贋作に……高階紡のように……」
「困ったら、なんでも紅葉お姉さんに頼るんだよ?」
「……部長、自分のこと花澤香菜さんだと思ってます……?」
「違う! べつに中野一花を意識したわけじゃないッ!」
「どちらかといえば部長は小山百代さんですよ……」
「え〜、模試荒らしじゃん。嬉しっ」
「小山百代さんで出てくるのが舞台版の水野亜美って……最近じゃもっぱら愛城華恋なのに……いや、俺も好きだけど。舞台版セラムン……」
抱きしめられながら、俺は部長と緊張感に欠ける会話を続ける。多分、俺の涙が止まるまで、部長はこうしてくれるつもりだ。
来るはずはないと思うが、しずくに見られたら少し困る絵面だな。泣きながら、先輩に抱きしめられて背中をさすられている所など、誰に見られても少し恥ずかしくはあるが。
「えっ」
ああ、噂をすれば誰かが来たようだ。涙で滲む視界を、手で拭って鮮明にしてみせた俺は、ホール廊下の階段の方を見る。
そこには、カバンを落として愕然としている桜坂しずくがいた。
あっ。俺はその感嘆詞を飲み込めず、とっさに口から出てしまった。
部長の方を見ると、汗をダラダラかいている。アレッ、もしかして話をややこしくしてしまったかな……とでも言いたげな顔だ。
そうだよ。この状況、マジでややこしいぜ。
「あっあっ、あの、しずく……
「浮気現場の男みたいなセリフ言わないでください、部長ッ」
しずくは震える手で俺を指さし、腹式呼吸を使った非常に大きな声でこちらに叫ぶ。
「今度は浮気!!?」
「元から付き合ってなくないかッ!?」
「付き合ってるようなもんでしょ、キミ達……」
さあ、どう弁解しようか。
この作品に含まれる描写には、龍也さんの作品である『虹×夢カラフルデイズ』や『星達のオーケストラ』、その他『ラブライブ!シリーズ』を原作とした二次創作作品群へのアンチ・ヘイト・宣戦布告などの意思はありません。この作品はフィクションです。
龍也さん
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