片時雨の下手で   作:苗根杏

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#34 700倍の自覚

 

 

「大バカ者ッ!! 何をしている!!」

 

 意識が戻って聞いた最初のセリフは、光良さんの怒号だった。

 

 目を開けてみる。高咲と光良さんが、こちらを覗き込んでいた。それ以外にも、今のところ見えはしないが、周りには十数人の観客がいたようだ。ざわざわと心配そうな声たちが俺の耳に届く。

 

 その前にしていたであろう、エチュードに対しての拍手の方を聞きたかったぜ。

 

「……ははッ……大袈裟だぜ、袈裟斬りだけに……」

「廃人になりたいのかッ!? 命あっての物種だぞッ!!」

「へーへー……」

 

 童貞を捨てたから、では決してないが、少し調子に乗ってしまったっぽいな。

 

 起き上がると、夢の大橋。『ゲキバトル』の終演と同時に倒れてしまったらしい。周りにいる人達は、目測でざっと20人。俺は咄嗟によろよろと立ち上がり、礼をする。

 

「無理して起き上がるな。演劇バカ」

「……お客さんでしょう? なら、挨拶をしなければ……」

「そういう所がバカだと言っているのだ」

 

 俺は力なく、尻もちをつくようにどかっと地べたに座る。

 

「見ての通り、彼は元気だ。心配はいらない」

 

 目をこすり、メガネをかけると、高咲の顔が思ったより近くにあって反射的に退いてしまう。

 

「花ちゃん、大丈夫!? 急に倒れちゃったけど……」

「い、いやあ……全くもって大丈夫だ。倒れたのは、その、疲れちまってつい……ただもう大丈夫だ、俺は」

「もうっ、心配したんだからね!」

「ごめんって」

 

 高咲は俺の肩を持ってゆさぶる。

 

「……でも……」

「でも?」

 

 下を向いて震えだすので、オイオイ泣くほどのことかよ、と俺は思ったが、その考えは杞憂に終わった。高咲は顔をがばっと上げて、こちらに語りかける。

 

 語りかけるというには、力強すぎるほどに。

 

「すっっごいよ!! ときめいちゃったッ!!」

「うおっ」

「ときめい……ふむ? 演劇に興味が出たという事か?」

「……そういえば、俺のバトルを見るのは初めてか」

 

 俺は高咲の肩を借りて立ち上がろうとするが、ソワソワしていて頼りない。

 

 どうしたもんか、産まれたてのそういった四足歩行の動物の赤ちゃんのような、使い物にならない足だというのに。

 

「贅沢だな、高咲。初めての『ゲキバトル』で、俺という未来の千両役者と、第2世代最後にして最大の演者である光良さんとの、本気の()り合いを見ることができるとは」

「おい、最大は余計だ」

「またまた、ご謙遜を」

 

 決しておべっかなどではない。現に俺は中学2年生の頃、光良さんに何度も負けている。

 

 ハッキリ言って、ロクな“叉紋(さもん)”も使えず、刀に熱を持たせることしかできない俺よか、彼の方がよっぽど強い。今回は、『自分0%型』による不意打ちで勝てたようなものだ。

 

「げき……ばとる……今のが?」

 

 高咲がつぶやき、首を傾げる。

 

「穂村花火。彼女はオレらの『ゲキバトルをしている世界』を見たのではなく、ただ演技を見て感動したらしい」

「あ〜、そういうね」

 

 そうか。俺ら演劇人にとってはゲキバトルをしていても、他人からはただ演劇をしているようにしか見えない。

 

 まあ、演劇人からしても大会やこういう路上即興演劇でもない限り、ゲキバトルは行わない。精神力を著しく消費するからだ。

 

「いやいや、ただの感動じゃないよッ!! もう……ときめき!! ときめきです!!」

「そ、そうか。ときめきか」

 

 光良さんは、高咲のときめいてしまっている瞳に気圧されている。

 

 まあ、何にしろああなった高咲は止められない。俺は顎をこすり、つぶやく。

 

「『オヤジと同じ型』を使っても、ダメだったか」

 

 また気になるワードを言ってしまった。高咲がこちらを振り向く。

 

「型?」

「高咲、しずくは『自分100%型』の演者だ。自分が役のセリフを代弁し、役の代わりに動く。対して部長……分かるか?」

「あのモンストの牡丹みたいな声の、ショートカットの人? ニジガク(うち)ではもっぱら王子様って言われてる……」

 

 見ると、光良さんが高咲に向かって丁寧に説明をしているではないか。いいんだよ、そんなの。いちいち説明しなくても。14話を見れば大体は分かるからさ。

 

「ああ、その人だ。あの人は『自分0%型』だ……役に身体を委ね、自分の身体に取り憑いた役そのものが喋って動く。どうだ、今んところ『100%型』と『0%型』の違いは分かるか?」

「な、なんとなく……?」

 

 光良さんはメガネのレンズを拭きながら、その神経質そうな顔を少し綻ばせ、優しく説明する。

 

「要するに、自分が演じている役が自分に憑依しているのが『自分0%型』だ。自分が俯瞰で役を見つつ、その代弁を演技によって行うのが『自分100%型』だ」

 

 型の最初についている『自分』という単語は、イコール『演技をしている時の役者の自我・精神』ということだ。

 

「そうそう。『100%型』は自我が完全に自分でコントロールできるけど、役そのものでない代わりに『0%型』よりも演じている役の性格や癖を完璧に表せない。そして、『0%型』は精神がすり減る代わりに完全なる役との自我の入れ替わりができて、役のイメージ通りに動けるんだよ」

「お、おお……割と一長一短なんだね」

「ああ。だから長い舞台では『自分0%型』は向いていないし、反対に今回のようなアドリブ合戦の即興演劇では役を掴みづらい故に『自分100%型』は丁寧な役の俯瞰ができない」

「しずくは『100%型』だから、こういうのはちょっと苦手っぽいんですよねー」

「へえ、しずくちゃんも『自分100%型』なんだ」

 

 まったく『要するに』ができてなかった気がする。結局こういう説明になると長くなって、鍵括弧がパンパンになる。

 

 優しく解説をしていた光良さんは一転、いつもの顔になり、こちらを見る。見るというよりも、睨んでいる。流石に眼力が強すぎる。

 

「さて、2つ質問だ。穂村花火」

「ん? なんですか?」

「1つ目……お前は何故、あそこまで無理をした。何故最後に、精神の消耗が激しい『型』を使った」

 

 確かに、可愛い女の子にされる罵倒以外への耐性が全く無い俺の豆腐メンタルに、『自分0%型』は向いていない。俺は、あの『型』の適性が全く無いのだ。

 

「したというか、してしまったというか……俺、普段は『自分50%型』なんスけど、ふと集中力が無くなるか、逆に集中しすぎちゃった時に、『自分0%型』になっちゃうんですよ」

「……『自分0%型』は、俗に『憑依型』の役者と言われる奴らが使う型。つまり、お前は役に乗っ取られていたのか?」

「半分は合ってますね。耳が痛い……」

 

 遠くに見えるユニコーンガンダムを眺め、俺は脱力しきった手でメガネを直そうとする。しかし、腕も上がらない。久しぶりに思い切り『0%型』を使った弊害か。

 

「最後に俺は『自分0%型』になった……あなたに勝とうと本気を出したら、なってしまったんです」

 

 決して無意識に出た訳ではない。本気でやろうとしたら『自分0%型』が出てくるということを、俺自身が誰よりも知っていたにも関わらず、俺がマジになってしまったから出た。

 

「それに気づきつつも、俺は『50%型』に『戻れなかった』。多分、あの時はクソ親父たちの遺伝子に乗っ取られてたんスよ。親父だけじゃあない、じいちゃんやご先祖サマ、ひっくるめて……」

「……ほう? なるほど」

「なんスか、その目」

「いや、少々ビックリだな。血筋に縛られることを嫌うお前から、その仮説が出てくることが」

「事実は事実ですし、この仮説が有力なんです。これが合っていれば、まあ仕方ないかともなりますよ」

 

 俺は諦めたように床を見つめる。どこまで行っても、自認がどうであっても、俺は『穂村』なのか。

 

 重い空気の中、高咲が口を開いた。

 

「花ちゃんのお父さんって……」

「燃。あの『穂村燃』だ」

「…………」

「今更聞くなよ、高咲。もう知ってるだろ?」

 

 親父の影を、穂村の血を振り切ろうとした日々を。山梨で師匠に出会い、今の俺を形作ったあの夏を、お前はよく知っているはずだぜ。

 

 俺は自分自身を嘲笑するように口角を上げてみる。

 

「なに、まだ実力が足りないだけですよ。そのうち、この『自分50%型』と『穂村の遺伝子』を完全にコントロールできるようになれば、虹ヶ咲の勝利は確実です」

「しかし、『0%型』になった方が、強くはあるんだろう? 『0%型』との両立を考えるのも悪くはないと思うが……」

 

 それを聞いてなお黙っている俺をカバーするように、高咲がこちらを覗き込みながら話す。

 

「お父さんの力を借りてるみたいになる……ってことだよね」

「ああ。親子かめはめ波じゃああるまいし、気持ち悪い……それに、アイツの力を借りずに、俺はここまで来たんだ。それは貫き通したいスタイルであり、俺の歩むべき道だ」

「歩むべき、道……」

 

 高咲は噛み締めるように、牛が反芻をするように、または言い聞かせるようにも呟く。

 

 光良さんは「ははっ、そうか」と軽く笑って、俺の背中を叩く。

 

「丸くなったかと思えば、存外頑固だな。穂村花火」

「いや、これでも柔軟になった方ですよ。光良さんの言葉、確かになあって思いますもん」

「オレの、言葉?」

「違う道を行きたい一心で、自分の道を切り拓いているつもりが……いつの間にか、それすらも親父に縛られている行動だ……っていうか」

「ああ、それか」

「それかって……はぁ。ま、だからといって、これからやり方を変えようとも思いませんけどね」

 

 俺は自然に、まだ少しふらつく足で自販機に向かって歩く。光良さんはその隣についてくる。高咲は数秒遅れたと思ったら、俺のカバンを持ってきてくれていた。そういえば置きっぱなしだったな。

 

 高咲が持ってくれているカバンに手を入れて、ごそごそと財布を探す俺の横で、同じく海老原の紺色の製鞄を探る光良さんが言う。

 

「もうひとつ質問だ。穂村花火」

「なんです?」

「……さっきの『型』は何だ?」

「はい? ……えっ?」

「最後に見せた『アレ』だ」

 

 俺が最後に見せた型といえば、『自分0%型』だが。そう心の中でつぶやいた時、光良さんは俺が喋るよりも先に語り出す。

 

「便宜上『自分0%型』と呼んでいたが、オレはあんな型は知らない……どういう事だ」

「いや……はは、使い慣れてないから不格好だったんじゃないですかね」

「……そうか? まあ、その可能性もあるな。いや、すまない。俺の見てきた『100%型』とも『0%型』とも、もちろん貴様の普段使っている『50%型』とも違ったからな……」

 

 自販機の前、光良さんは微糖の缶コーヒーのボタンを押す。俺はまだ財布が見当たらない。

 

 全く、親父の型をパクってまで『0%型』になったというのに、それすらも不完全とは。

 

 演技の型というのは、ある程度成熟した演者間のみで通用するものだ。初めて数ヶ月はその領域に入ることもままならず、ひたすら自分の適正に向き合う時間が続く。3年やって、型や武器も不定形のまま終わる演者だって何人もいるはずだ。

 

 俺は未成熟であるために、『自分0%型』が中途半端な形で出てきてしまった。だから、光良さんに要らぬ勘違いをさせてしまった。

 

 まだまだだな。俺はマックスコーヒーのボタンを押す。ペットボトルを取ろうとすると、真横に高咲がいた。俺より先にしゃがんでいたのだ。

 

「えへへ」

「何か言いたそうだな」

「えー? その……へへへ」

 

 高咲は恥ずかしそうに頭の後ろを掻き、笑ってみせる。

 

「難しくて分かんないけど、2人はなんか仲が良さそうだね!」

 

 俺と光良さんは、それを聞くと同時に互いの顔を見る。

 

「てっきり殴り合いでもするのかと思ったよ、私っ」

 

 そして、互いにため息をひとつ。

 

「……こういうワトソンが一人は居るっていうお約束は、あった方がいいと思うがね」

「分かります、SOS団に唯一の一般人としているキョンみたいな感じですよね」

「お前はもっと高校生らしい例えを持ってこいよ」

「でもハルヒは俺のバイブルですし……」

「はは。お前の場合、バイブルだけで図書館が出来るんじゃあないか?」

「言えてら……半分くらいはラノベでしょうけど」

 

 俺らのやり取りを見ていた高咲が「ほら、仲良さそうっ」とドヤる。

 

 敵わないな、高咲には。

 

 光良さんは一笑いすると、突然こちらに頭を下げる。

 

「すまなかったな、穂村花火」

「えっ、何がですか」

「突然ゲキバトルを持ちかけたことと、デートの時間を邪魔したことだ」

「あんた、虹ヶ咲学園の生徒全員がリア充だと思ってません?」

「……そんな事はないが?」

「嘘ヘッタクソだな〜」

 

 少し気恥しそうに光良さんはメガネをかけ直し、踵を返す。顔は見えないが、その『演劇人のオーラ』からヤル気がムンムン伝わってくる。このままでは終わらせないとばかりに。

 

 通常、『演劇人のオーラ』は色と形でその人の大まかな人柄が分かるのだが、彼のオーラは別格だ。色だとかなんだとか、そういうレベルではない。

 

 彼のオーラは『光そのもの』。俺は、自分の赤黒いそれと正反対の輝く『演劇人のオーラ』に、目を灼かれていた。

 

「今度は『地区大会』だ」

「……ええ。9月28日・29日の土日。一緒の日になれば晴れて共にゲキバトル……」

「首を洗って待っていろ、『ヤクプ・カツ』」

 

 何年前にやった役の名前を持ち出すんだ、この人は。

 

 拳を平手に打ち付けて、俺は未だに大きな背中に宣戦布告をする。

 

「ぶっ倒してやりますよ、『アブラム・ベーカー』。今度は正々堂々、『自分の力』でね」

 

 海老原学院のエース・三ノ宮光良さんは、何も言わずに去っていった。

 

 油断しきって色んな思いにふける中、肘の辺りに掴まる手。見ると、高咲だ。

 

「花ちゃんは、スゴいね」

「……俺なんて、まだまださ」

 

 お前もすげーだろ。この前しずくから聞いたよ。音楽科に移ってどうこう、みたいな話。

 

 俺にはよく分からないけど、2年の半ばに大好きなことに感化されて動いちゃうっていうバイタリティは凄いと思うよ。

 

「ねえ、聞いていい?」

「ん?」

「……舞台の花ちゃんと、今の花ちゃん……どっちが『本当の花ちゃん』なの?」

 

 突拍子もない質問に、俺は思わずカバンの紐が肩からズレてしまう。

 

 しかし、そんな事は考えてもみなかった。舞台に上がっている間の記憶はそこまでハッキリしていないからな。

 

 1分ほど悩んで、俺はため息をつく。

 

「さあな……」

「さあなって、自分にも分からないの?」

「少なくとも俺は演じて戦うのに精一杯で、本当の自分なんて見つけているヒマはないから」

 

 本当だ。嘘でもなんでもない。しかし、何故彼女はそんな事が気になったのだろう。

 

「そっか」

 

 高咲は、胸のあたりに握りこぶしを作り、少し俯く。この前しずくに殴られた時と、似たようなことをされる予感がした。

 

 彼女は少し重い空気の中、口を開く。

 

「頑張ってね、って、言いたいけど……今のを見たら、素直に応援できない」

「ああ、今のは……うん、大丈夫。本番ではきっと、乗りこなしてみせるよ」

 

 端っから、負担がアホみたいに大きい『自分0%型』なんてものに頼る気はないが、万一の時はきっといつもの『50%型』に戻してみせる。

 

 多分、俺はそういう弱い自分と戦うために、本来入るはずではなかった演劇部に、中学に引き続き入っているのだと思うから。

 

 そりゃあ、しずくが可愛くてホイホイついていった節も、なくもないが。

 

「私、花ちゃんが心配なの」

「死にはしないさ」

「でも、『あの時』みたいになったら。演じることが出来なくなったらって、思っちゃうの」

「ま、そうなっても俺は大丈夫。代役に迷惑はかかるだろーけどさ……」

 

 そう言いかけたところで、高咲は俺に抱きついてきた。俺の胸に埋めている顔は見えないが、じわじわと伝わるこの温かさは、恐らく俺のために流してくれた涙だ。

 

「も〜〜高咲ィ〜〜、俺が泣かせたみてーじゃんかよ〜ッ」

「だ……だって……花ちゃんが心配なのっ……」

「だから、死ぬこたあないって。最悪でも、少し声が出なくなったり身体にガタが来たりするだけだ。俺はいなくならない、大丈夫」

「私だけじゃないっ。みんなが……花ちゃんを想ってる」

 

 しずくの『自分を下げすぎている』という言葉を思い出し、否定の言葉を既のところで飲み込む。

 

「……そうかよ」

 

 肯定の言葉も出てこなかったが。

 

 現に、こいつは俺なんかのために泣いてくれている。それだけで幸せなんだ。なんだが、それを受け止めることはできても、咀嚼して飲み込めるほどら俺は俺のことを好きになれていない。ただ、この幸せを両手いっぱいに抱えることしか、今の俺には。

 

「花ちゃん。五体満足で帰ってきて。自分の身体が、自分だけのモノだと思わないで。花ちゃんは、誰かが独占できるモノでもないのと同時に、誰のモノでもあるんだから」

「……よく、分かんねえよ」

 

 そう俺が言うと、高咲は自分の顔を俺の腹に擦り付ける。

 

「あはは。そっか」

 

 涙声だったが、笑いは乾いていた。

 

 

#34

700倍の自覚

 

 

「……そう、父さんの型を……」

「親父だけが使う型じゃねーだろ」

「そ、そうだけど……」

 

 久しぶりに幼馴染と会ったこと。久しぶりに中学時代の演劇における先輩と戦ったこと。久しぶりに『自分0%型』が出たこと。そして、十数日ぶりに女の子を泣かせたこと。俺はそれらを母に話した。

 

 俺は今、とうに夜食を食べ終え、キッチンでゴミを捨てている。

 

 すると、後ろからすすり泣く声。間違いなく母のものだった。

 

「何? もしかして泣いてんの?」

 

 俺が半笑いで、子離れできない親というのは子からしても満更では無いのだという本音は心に留めつつ、シリアスにならないように振り返る。

 

「……いいえ。だってここで泣いたら……」

 

 自分のマグカップを震える両手で持ちながら、母は俺の方を向く。その目は潤み、口元はこわばり、いかにも我慢してますって感じの顔だった。

 

「あんたに、お父さんと同じ道を行って欲しいみたいになるじゃない」

 

 この人は、俺に親父を重ねているのかどうかは、本当のところは分からない。しかし、俺自身の成長を喜んでくれていることは確かだ。

 

「……あっそ」

「私は、応援してるわ。花ちゃんの行く道を」

「言われなくたって、やってやるさ。俺だけの力で」

 

 母親に、俺の進路を押し付けるだなんて出来ない。今までも散々ワガママ言ってきたからな。具体的には、阿良々木暦の部屋にあるものと全く同じソファが欲しい! とか。あと普通にデンドロビウム欲しいとか、ネオジオング欲しいとか。

 

 だが、そういう時に最終的に『気に入った、買おう』と言ってくれたのは、俺以上のオタクである親父であった。ゲームもアニメも趣味が似通っている、あの親父だった。

 

 俺はこの感情をどうしていいのかも、すすり泣く母にどう声をかけていいかも分からず、髪をシャンプーの時のように掻く。

 

「その、だな……」

「今度、地区大会なのよね?」

「え? あ、ああ」

「……その光良さんって人も強いわよね、きっと。海老原は昔から強いもの」

「うん……でも、絶対に最後は……」

 

 その言葉を待たず、リビングと廊下を繋ぐドアが勢いよく開いた。妹の楓花(ふうか)か? と思って振り向くと、そこには歩く伝説が立っていた。

 

「よっ」

「!!」

「……いい匂いだ。夜食か? 混ぜてくれよ」

 

 無駄に驚いてしまった。最後に会ったのは確か2週間も前だったものだから。というか、まず俺たちとそこまで生活リズムが被っていないというのはある。

 

 浮かれた笑顔で帰ってきた彼の手には、沖縄土産。よく見たらアロハシャツも着ている。浮かれすぎだ。映画祭に呼ばれたからって。

 

「もう食い終わったよ」

「はは、そうか」

「あなた……」

「ん。ただいま」

 

 母は赤くなった目をこすり、親父とハグをする。海外かよ、行ってきたの沖縄だろ。と思いつつ、自然に俺はその場を離れる。

 

「花火」

 

 びくっ。背中が跳ねる。

 

「あ、違うのよ。これは別に泣かされたとかじゃなくって……」

「分かってるよ、燈花(とうか)

 

 名前を呼ばれてなお、俺が背中を向けていると、後ろから頭を撫でられる。身長差もそこまでないが、彼の『オーラ』と手は大きかった。

 

 先程までゲキバトルのことを思い出しながら話していたものだから、その『オーラ』に俺は殺されるんじゃあないかと、ビビってしまった。

 

 クソが。俺は親父のことを、心の中で恐れたままだ。中学の頃から何も変わっちゃいねえ。

 

 つか撫でるな。もう子供じゃあない。まだ大人でもないが、そう言いたくなった。

 

「はは、すっかり追い越されそうだ」

「どうかね。夜更かしばっかりだからさ」

 

 ひとしきり俺の頭を撫でた親父は、ぽんと肩にその手を置いて言う。

 

「ただいま」

「…………」

 

 そういう優しさが、嫌いになりきれない。俺に甘い親父よりも、親父に甘い俺を嫌いになりそうだ。俺は親父の手をそっと退けて、「おかえり。おやすみ」とだけ行って部屋に戻る。

 

 舌打ちをする気も起きなくなったぜ。せっかく久しぶりに帰ってきたんだ、夫婦水入らずでいろよ。

 

 自室に戻った俺はベッドに寝転び、枕元にある読みかけの漫画を開く。だが、様々なモヤモヤや考え事が頭の中で渦巻き、ちっとも千年血戦の内容が入ってこない。

 

「くそっ」

 

 舞台の俺と普段の俺、どっちが本物の俺なのか。本番でも俺は無事に演じ切ることができるのか。母さんは俺のことをどう思っているのか。まず、地区大会を突破できるのか。高咲は俺を応援してくれるだろうか。俺は、いつか父・穂村(もゆる)を超えられるだろうか。

 

 無意識に、写真フォルダのしずくを見る。長い髪を暑そうにはらうしずく。コンビニのアイスを食べているしずく。渋谷駅の『明日の神話』を見るしずく。

 

 今の俺をしずくが見たら、なんて言うんだろうな。バカだね、と頭を撫でてくれるのだろうか。あの日のように殴ってくれるのだろうか。膝枕で寝かしつけてくれるのだろうか。

 

 ああ、しずく。俺は今、お前に会いたい。しずくは、俺に会いたいと思ってくれているだろうか。

 

 やがて、それらの考え事は一つの網のような睡魔になって、俺を包み込む。認知シャッフル睡眠法と同じ原理だろうな。考えても仕方の無い・意味の無いことを只管に考えていると、脳が強制的にシャットダウンしようとする。

 

 ああ、そういえば、明日は昼から部活だ。朝からじゃあなくって、よかったなあ。

 

 しずくに、会えるし。

 

 

 

 

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