「普通科1年、穂村花火さん」
二学期が始まって何日か経ったある日。廊下を歩いていた俺の後ろで、そんな声が聞こえたもので、俺は振り返る。
演劇部の練習場所である文化部室棟・大ホールに向かう俺の名を呼び、引き止めたのは、虹ヶ咲学園生徒会会長の
太刀『縛斬』や神衣『純潔』を持っていないにも関わらず、なんだか鬼龍院皐月並に威圧感のある人だ。あそこまで眉毛は太くないが。
「お、生徒会長。おはようございます」
「……今は昼ですが」
身体と心がすっかり演劇部に行くモードになっていたものだから、常におはようございますと言う演劇部のルーティンをしてしまうのも仕方がない。
カレーを食べたい時にカレーの『舌』になるように、俺は演劇部に行く時は演劇がとにかくやりたくてたまらなくなる。
「ご要件は?」
俺がそう聞くと、彼女のレンズ越しの眼差しが鋭く尖る。
「高咲侑さんから話は聞いています。どうやら、外で即興の演劇をしたとか」
俺は少しドキッとする。高咲が生徒会長に、わざわざそんな問題になりそうなことを話すのかと。
これから怒られる! という怯えよりも、彼女がそんな事をしたのかという、ちょっとしたショックが俺にとっては大きかった。
俺はひとまず、会長に向かって頭を下げる。
「勝手なことをして、すみませんでした」
「ああ、いえ……そこについては何も言いません。SNSに上がっていた反応は軒並み高評価でしたし、私自身もそこまで口を出す訳ではないので……」
そこで俺は初めて、この前の路上即興演劇の反応がSNSに上がっていることを知った。
元よりどこでエチュードをしても演者ならば許されると思っている俺は、その考えが生徒会や学校に迷惑をかけたのではないかと思っていたが、どうやら議題はそこではないらしい。
俺は「ひとつ、よろしいですか」と聞く。
「はい、何でしょう」
「高咲から聞いたと仰っていましたが……彼女とは、知り合いなのですか?」
「えっ!? あ……いえ、その……直接、生徒会長室まで来ましてね」
明らかに動揺した会長に、俺はすかさず「チクるようなタチじゃあないッスよ、高咲は」と返す。
黙り込む生徒会長、中川菜々。その汗を見て、何があったのかではなく何を言いに来たのかの方を気にする俺は、手を横に振って慌てる演技をして、こう聞く。
「ああ、いや。探偵ぶりたいわけではなく、単にあなたの魂胆を聞きたく思いましてね。何故あなたが俺のところに来たのか……」
会長の答えはすぐには帰ってこなかった。外から運動部の走る音、球を打ったり投げたり蹴ったりしている音がする。遠くの方から、吹奏楽部の基礎練習の音も。
彼女はハンカチで額を拭い、俯いていた顔をこちらに向けてハッキリと言う。
「桜坂しずくさん、高咲侑さん……中須かすみさんに、天王寺璃奈さん」
「ん?」
「天内天矢さんをはじめとしたエクストリーム軽音楽部、そして演劇部……」
共通点は、俺の友達や仲間。何が言いたい? そう聞く前に、彼女は周りにも聞こえるような声で俺に告げる。
「あなたが倒れたら悲しむ人達です」
予想だにしていなかった返答に俺は首をかしげると、彼女はため息をつく。
それが、真意を捉えきれない俺への呆れからなのか、ようやく言えたという達成感からなのかはよく分からないが、彼女はこう続ける。
「先日のエチュードは、あくまで校外での自主的な戦闘として認めます。しかし、無茶だけはしないように……独りよがりにステージで大好きを振りまくと、いずれ自分に大きな跳ね返りが来ますよ」
それだけ言って、彼女は去っていった。
違う。彼女は、生徒会長の中川菜々ではない。
かといって、あれが中川菜々でないのだとしたら誰なのかというのは、いまいち俺には分からないが。
可能性として高いのは、『生徒会長でない、いち高咲侑の友人としての生徒・中川菜々』か。学年も同じだし、彼女と高咲が友達でも不思議なことではない。
だとしても、わざわざ高咲以外の名前を出す必要はあったのか。いや、きっと高咲に吹き込まれたんだ。会長が言えばもう無茶はしないはずだと考えたのだろう。
残念、俺は地区大会からもっと無茶をする。骨をホールに埋めるつもりで、俺は再び歩き出した。
そして、階段に向かう曲がり角。
「あっ」
「お」
璃奈と鉢合わせた。
「これから部活?」
「ああ」
「最近、毎日あるね」
「そろそろ地区大会だからな」
「そっか。頑張ってね、大会」
彼女は璃奈ちゃんボード『ふぁいとーっ』を出す。去り際、俺はふと振り返って、素直な疑問を投げかけてみることとした。
「璃奈。質問がある」
「ん……なぁに」
少しだけ甘い声を出し──傍から聞けば先程と同じ声だが、よく聞くと少し猫なで声だ──、彼女は俺のそばに近寄る。
璃奈ちゃんボードが俺の腹に当たるくらいに近づき、璃奈は俺を見上げる。
「ちょ、なんでそんな距離近いんだよ、この前からずっと」
「いいから」
この前というのは、かすみとパンケーキ屋で一悶着あった日からである。まあ、今は関係ないか。俺は咳払いをして、彼女に尋ねる。
「俺が今、突然ここで倒れたら心配するか?」
璃奈はきょとんと俺を見上げている。そして、目を閉じて数秒考えた後に、彼女はこう答える。
「……多分、花火くんじゃあなくっても心配する」
「あ、確かに」
変な質問だったかもな。そうだよな、赤の他人でも心配はするよな、倒れたら。
すまない、くだらないことを聞いて。と、その場を去ろうとした俺に、璃奈は「でも」と少し大きな声で言う。
「……花火くんは、私……いや、私たちにとって、大切な存在。この前だって、一緒にアイカツしたし、アキバも行ったし」
「ああ、行ったな」
「花火くんがいなくなったら、いつロックマンエグゼの話をすればいいの? いつ女児向けアーケードゲームを一緒にやるの? いつ……私は……」
私の多趣味具合についていけるのは、花火くんだけ。そう過去に彼女が言っていたのを思い出し、別に俺じゃあなくてもいいだろ、と言おうとする。
しかし、「別に……」まで口にしたところで、彼女は俺の正面から、腰に手を回す。短い腕で、小さい手で俺に抱きつき、俺の溝尾あたりに顎をくっつけて。
彼女は少し潤んだ瞳で、俺を見つめる。至近距離で。
「いなくならないで」
「あ、その……そんなに死ぬとかどうこうじゃあなくて……」
「ただ倒れるだけでも、私たちは心配。絶対、みんなそうだよ」
弁解する俺のワイシャツに、暖かい液体の感覚。彼女の涙だろうか。そのうち璃奈は目元を青いパーカーの袖で拭い出す。
俺は片膝立ちで、目線を合わせて彼女の目尻を少しこすってやる。
「泣くなよ」
「……本気で、心配なの」
「ありがとな。でも、俺は何ともないから。ただ気分で聞いただけで」
「いじわる」
「ん……ごめんな」
俺は彼女の両肩に手を乗せて、ぽんぽんと軽く叩く。
すると、表情を一切崩さずに、目を赤くして涙をこぼす璃奈は、俺の髪をわしゃわしゃと崩す。
「なんか重い病気とかなのかな」
「バカは風邪ひかないだろ」
「風邪じゃ死なないよ! 人は!」
「じゃあ何だよ。死ぬ病気にでもかかってるって言いたいのか?」
「も、もしそうだったら……っていう話じゃん!」
俺は先程来た曲がり角からする声の主に、大きめの声をかける。
「かすみ!」
「ひゃあっ!?」
「天矢!」
「なぬっ……!」
背中を向けたままで呼ばれたものだから、2人は間抜けな声をあげて驚いている。
俺は璃奈の背中を2人の方へ押してやり、ホールに向かって歩きながら言う。高咲の、この前の言葉を思い出しながら。
「今度、『
舞台の上の俺と、今のような普段の俺。どちらが本物かは、俺にだって分からない。
演劇の面白さを決めるのは客である。どれが面白いかは人によって違う。
ならば、よりその人にとって面白い方が本物なのだろう。だからこそ、俺は皆に確かめてもらいたい。どちらが本物なのか。
彼女たちの前で少しカッコつけてしまったのを誤魔化すように早足で歩き、俺はホールに勢いよく突入する。
「おはようございます! いま平成何年ですか!」
ドアを開けた瞬間に前転、スタイリッシュに膝をついて着地。
「挨拶と同時に雑なタイムスリップした人してる?」
「えっ……皇暦……!?」
「多分世界ごと入れ替わってる!」
「コードギアス見た?」
先生は皇暦という言葉に食いつき、ホールの椅子を数個使って寝転がっていた状態から起き上がる。
「推しはオレンジくんです」
「聞いてないなぁ〜!」
「夢〜〜見てた夢〜〜!!♪」
「ギアス好きの先生が過剰反応を……」
好きな作品の話になると主題歌を歌い出すタイプのオタクだ。あと、O2とかCOLORSとかじゃないんだ、歌うの。解読不能なんだ。ほんとに好きな人じゃん。
「花火くん」
右の袖を引かれる感覚がする。見ると、しずくがいた。ホールの客席の真ん中、彼女は少しシリアスな顔をして俺を見ている。
「侑先輩から、聞いたよ」
お前もか。俺はカエサルのように呟き、あちゃあと手を額に当ててみる。
それから俺は、できるだけコミカルに誤魔化してみようと声をかける。
「混ぜてやれなくてごめんな」
「そんなことを言いたかったんじゃないの」
そうきっぱりと言うしずくの顔色は、なぜか青い。じっとりとしたような汗をかいており、少し塩っぱい匂いが鼻まで伝わる。
ふと興奮しそうになるのを抑えて、「じゃあどうしたんだ」と、分かりきった質問をする。
しばらく、しずくは俯いて黙り込んでしまう。口をきゅっと結び、握られた手は少しだけ震えているように見える。会長の時のようにはいかなさそうだ。
俺はどうしたものかと突っ立っていると、背中をつつかれる。
目を逸らしたと思われないように、少しだけ見返ってみると、そこには今来ている時点での演劇部全員が集まっていた。基礎練習をしていた人達、それが終わっていた人達、さらに先生や部長、顧問も含めて。
全員、黙って俺たちの方を見ている。『照明神』の熊野先輩はスケッチブックに『キスしろ!!』と書いており、部長であり『演技神』の範田先輩はそこに追記して『押し倒せ少年!!』と書いている。
困るでしょ、こんな所で押し倒されたら。しずくも、あなた達も。と思って見ていると、顧問が流石にそれはいけないと部長の付け足した一文を、横線2本で消す。
かと思いきや、『キスだけでいい』と書く。部内恋愛OKと言ったって、限度がありますよ、顧問。
俺は呆れてしずくの方に視線を戻すと、その刹那、しずくが俺に勢いよく飛びかかる。
あのバランスのいい穂村花火も、シュート・レスラーの山本稔が天内悠にやられるように、思わず倒れてしまう。
しずくは『魅せますか……』なんてことも言わずに、俺の手首を掴んで床に押し付ける。
絨毯然とした少し柔らかい床に押し倒された俺は、キスを覚悟するも、流石にと言うべきか、しずくはただ俺に身体を密着させる。頬を肩に埋めて、ぴったりと。
「……無理、しないで」
至近距離でそう囁かれ、思わず身体が跳ねそうになるが、グッと我慢。
本当に押し倒しちゃったよ。絵面的には全然アウトだぞ。これ出てった方がいいのかな。と囁く声が聞こえないこともないが、俺は笑いながらしずくの耳元で言う。
「俺なら大丈夫」
「大丈夫じゃないの! 私、ホントに心配してるんだからねッ!」
しずくは俺を抱きしめてそう言うが、心配する理由がいまいち俺には分からない。死ぬわけでもなし。
もし死ぬと思っていたとして、演劇中に死ねたらそれは誇りだろう。
「生きる理由はともあれ生き方。死に方はどうあれ死ぬ理由。だろ」
俺はそう言いながら、じりじりと這って彼女の下から出ようとする。しかし、何かに引っかかって俺の逆・匍匐前進は止まった。
「あんまり、離れないで」
いいや、引っかかったんじゃあない。掴まれたんだ。
しずくが掴んでいたのは、俺のカバンについているストラップだ。
アクリルの小さな玉の中に、絵の具のついた筆を一瞬だけ入れたように、波打つ赤色の線が入っているような飾りがついている。その玉を貫通して通されている紐も赤色だ。
これは6話、いや、正確には5話と6話の合間に買った、しずくのカバンについているものとお揃いのストラップである。
「あっ、あと、死ぬ……とか…………言わないでっ……」
「えっ、そういうの不謹慎って思う派? ごめん、俺はそういう死生観とか話すの、そんなに嫌いじゃないんだけどさ」
部員たちのブーイングが、何故か割との音量で聞こえる。そんなのは気にしないとばかりに、俺は「とりあえずこの体勢を立て直そう」と言うが、しずくは首を横に振る。
俺の胸に顔を埋めて逃げられないようにしてから彼女は、微かに震えるくぐもった声で言う。
「…………花火くんには……まだ……燃さんみたいになって欲しくないの……」
俺は一気に心臓が跳ね上がる。
なるほど、それを心配していたのか。確かに『演劇人としての死』は、無茶をすれば早まるよな。
俺は父親のことを思い出し、しずくを見る。
学生演劇界に関わらず、演劇人ならば、『穂村燃の死』の事件は誰もが知っている。一般人にとっても多少名の通った出来事だ。
あの通りになるかもしれないと言われたら、流石の俺も少し無茶を躊躇う。
後ろの野次も途絶えた中で、彼女は起き上がり、俺の手を取る。俺は肘を床につき、構図としてはミケランジェロの『アダムの創造』のように彼女の手首を握り返す。
そして、しずくは俺の目を見てこう言う。
「……私、まだ花火くんに死んでほしくないの。これからずっと、ずっと…………私が死ぬまでっ」
「えっ」
「私より、長生きしてよ」
音無響子さんみたいな事を言って、しずくは俺を引っ張りあげて抱きつく。
「あっ! イチャイチャし出した!」
「とうとう人目を気にしなくなったか」
「あー、はいはい! 部長命令! 静かに眺めなさい!」
「先生命令もする〜!」
「……顧問命令でもある」
まず眺めるな。
もはや手遅れであろうことを心の中で叫ぶ俺の、背中や尻についたホコリを払うしずく。
制服をお互いに直しつつ、見つめ合う俺ら。先に口を開いたのは、しずくだった。
「ねえ。花火くんは、旅とか好き?」
「……まあ、好き」
「鎌倉に興味ある?」
「小学生の頃、修学旅行で行ったきりだ。また行ってみたいとは思う……好きなタイプの街並みだし、何よりサザンとアジカンの聖地だ」
制服をきちっと直すその手のまま、しずくはしれっと俺の手を取る。
「じゃあ、行こうよ」
「…………おっと?」
先輩たちの「きゃーっ!!」という声が聞こえる。黙って眺めなさいよ。いや、部活の途中にこんなことをしている俺らも俺らで悪いんだけど。
「ふふ。来週の土日、空いてる? あと、お小遣いとか」
「あ……暇、全然暇ッス……小遣いは最近使ってなくて……」
「じゃあ大丈夫?」
「…………ん。行きます」
思わず敬語になる俺に笑いかけ、しずくは俺の手を取ったまま舞台に上がる。柔軟の準備運動だ。
「決まりね! 着替えとおやつとある程度のお金、これだけあれば大丈夫。カバンは大きい方がいいかも、お土産だらけだから」
「あー、とんでもないの持ってくわ」
「木刀が入るくらいの?」
「なんで買うのバレてんだ」
「ふふふ、楽しみだね」
足を大きく開いて、背中を押されながら、俺はいつか見た大仏を思い出す。そういえば、大仏って英語でグレートブッダって言うんだったっけな。
海も見たいな。江ノ島の海鮮も食べたい。美術館も行きたいし。
どんどん夢が広がる俺の脳内を覗き見たように、しずくは笑って俺の背中に寄り添う。暖かく、柔らかな彼女の身体の感触を味わいながら、俺は身体を伸ばす。
「……」
「あの、いつまで見てるんですか」
俺としずくを丸く囲んでいる部員たちに聞くと、先生は「いや、退部までずっとこういう感じだと思うぞ」と答える。
俺は、旅行は2人でイチャイチャできる機会としても重要なイベントだと気づき、見られっぱなしでふくれっ面気味のしずくに感謝した。