今日の鎌倉の最高気温は、34度。8月末にしては少しばかり高い、残暑というやつだ。
海風が顔と腕を撫でる、心做しか涼しい寄りの日。俺はキャリーケースを携え、鎌倉駅前の日陰でしずくを待っている。
下北沢から電車で来たが、案外片道で1時間、電車賃は1,000円もかからなかった。予想よりも疲れていない身体を伸ばしていると、横から肩を叩かれる。肩というか、肩甲骨か。
「お待たせ」
「あー、いやあ全然……」
そう言いながら右を見ると、セミロングとミディアムの間、肩に少しかかるくらいに髪を切ったしずくがいた。
「……えっ」
「どう? ふふ、役には影響しないからって、部にも許可もらったの」
読者諸君、俺も詳細な描写が見たいって気持ちは分かる。大事なシーンだからな。
しかし俺の脳は、そんな事よりも彼女に見蕩れることに忙しいんだと、モノローグを拒否している。すまない。
後ろで髪を少し下めにまとめるスタイルも、繚乱に出てくる通りのトレードマークの大きなリボンもそのまま。髪がさっぱりと短くなっている。
夏休みぶりのしっかりしたデート、しかも俺にとっては少し遠出。彼女の家に1泊2日。都合のよすぎる、夢のような状況だ。
「夢か??」
「違うよ!? 全っ然現実! だからそんな目しないで! 怖い!!」
虚ろな目で入道雲を見る俺を、しずくが揺さぶる。
ハッとして改めて見ると、本当にバッサリといってしまったなという感想と同時に、その切った髪を俺にくれたらよかったのにと
「急に切るのやめてよ……髪が勿体ない……」
「コビーみたいな羅生門の老婆?」
「違うよ。俺、死体からヘアドネしないよ」
「ヘアードネーションのことヘアドネって言ってる?」
「いや、死体からの方に突っ込みなよ」
まあ、髪を貰ったところで、使い道もそこまで思い浮かびはしないのだが。匂いとか嗅ごうかな。
あとは週一でしずくの使ってるシャンプーで洗ってあげたりとか、ドールヘッドに植毛してリトルしずくを作ったりとか。
真面目にそんなことを考える、夏の暑さにやられた脳を動かす俺の腕に、しずくがくっついてくる。
身体を押し付け、微笑む新鮮なビジュアルのしずくは、この夏一番のアツい笑顔でこちらに見せる。
「今の髪型の私も、髪が伸びたらしばらく見れないよ。焼き付けてね」
俺はそんな彼女の笑みに心臓が跳ねる。
仕返しをしたくなり、俺はしずくの顎を親指と人差し指で軽くつまみ、こちらに向ける。
「見逃すかよ……『一分一秒、キミの変化は進み続けている。俺はその全てを知りたい』」
「あ、一昨年の『海の月カトリック高校』の台本!」
「よく通じるな、今の」
ギリギリのところで高校演劇界隈のネタに逃げてしまった。告白する時に『付き合ってクレメンス』と言うくらいダサいな。
俺はその場を誤魔化すために、しずくの毛先を見て言う。
「でも、なんたってそんなに切っちゃったんだ」
そう言うと、彼女は俺の手を自分の毛先に持っていく。促されるままに毛をつまみ、こよりを作るようにいじる。
しずくの顔を見ると、なんだか嬉しそうな感情も漏れ出ていながら、恥ずかしそうにも俺の手首をひしと掴んでいる。『演劇人のオーラ』も赤めに変わっている。
今エチュードをしたら、彼女はテンパって恋に恋する少女を私情全開で演じるだろう。そんな彼女は、俺を少し見上げてから少しだけ目を逸らして、またこちらに目線を戻して言う。
「……花火くんからの好きが、下がってる気がしたから」
「ええ!? 峯岸みなみさんの髪切った理由と同じ!?」
俺はこれがボケだと思って思い切りツッコんだが、彼女からは笑いや満足そうなドヤ顔などの芳しい反応が得られない。
もしかしてマジにそう思って切ったのか、と思った俺は思わず「え、ホントに?」と素で聞き返す。
「ばか」
「ありがとうございます! ごめんなさい!」
「せめて順番は逆にしてよ!?」
罵倒に自然と反応してしまうのは俺の
俺が平謝りすると、彼女は「もうっ」と言って俺の手を握り、プラン通りならラーメン屋がある所であろう通りへと俺を導く。
「夏休み中もたくさんイチャイチャしたけど……今日も、たっくさん一緒に楽しいことしようね」
なんだよ。なんだってんだよ、この状況。俺が毎晩シミュレーションしているデートなんかとは、比べ物にならないほどに。
俺の想定した6,000,053,124,710通りのシチュエーションの、どれにも当てはまらない。
眩しい。これがアオハルか。
昼ご飯時より少し前に着いたのは、和風建築に暖簾、いかにも鎌倉の町に溶け込むために建てられたようなラーメン屋。
どうやら井之頭五郎が来たと言われている人気店らしく、12時よりも少し前に来た方がいいというのは本当だった。既に3人ほど並んでいるが、この時間で並んでいるのなら、まあピーク時はそこそこに待つだろうな。
10分ほどして俺たちは店に入り、食券機を前にして、先程飲食店の口コミサイトを見て決めたメニューのボタンを押す。
「生きているうちで、忘れちゃならねぇモンがふたつある」
「ふたつ……?」
「ラーメン屋で頼むチャーシュー丼と、人から受けた恩だ」
そう言って俺は金を入れ、ラーメンとチャーシュー丼のボタンを連続で押す。
ラーメンは鶏ベースの醤油、昔ながらの味のようで、そのおかげもあってこの店は老若男女が並ぶ場所となっている。
しずくはその後、少しだけ悩んでからチャーシュー麺とチャーシュー丼を頼む。致死量のチャーシューだ。
「ふふ」
「なんだ? ニヤニヤしちゃってまあ」
席につくなり、しずくは向かいに座る俺を見て、食券を持ちながら頬杖をついて俺を見つめる。
「ありがとう」
「何がさ」
「来てくれて」
「来るさ。しずくの頼みだ」
「……頼む、とはちょっと違うんだよね」
「と、いうと」
そう俺が問うと、しずくは「ううん、大したことじゃないんだけど」と笑う。
「とにかく、花火くんと夏の思い出を作りたかった。ワガママなんだよね」
「……ふうん」
しずくの手は、俺の頬にそっと触れる。わずかな産毛やこめかみの毛までも愛おしそうに撫でるしずくの目は、少し伏せ気味。
何か隠しているな。彼女が急に距離を詰めてくる時は、嘘をついている。
いや、しずくのことだ。別にマルチや壺で人騙しってわけでもなさそうだし、彼女が喜んでいるのは確かである。俺はどんと構えて彼女との初めての遠出デートに臨むことにした。
「しずくに恩返しができてよかったよ」
嬉しそうなしずくに、俺は箸を割りながら言う。
と、そこにタイミングよくラーメンとチャーシュー丼が来る。しずくの注文したものも届き、俺は手を合わせる。
「ふふ。何もしてないよ、私は」
「いやいや。しずくに救われてる奴、思ったよりいるって。俺もその1人」
俺はラーメンの麺を啜り、チャーシューに噛み付く。
しずくも「いただきます」と挟みつつ、レンゲでスープをすくってから言う。
「私だって、花火くんに救われてるんだから」
「…………」
麺を啜る途中に、そんなこと言われたら、思わずフリーズしちゃうだろうが。何でもないみたいにスープ啜りやがって。
口に麺が中途半端に入って、蛸壺屋の律みたいになったよ。『ありゃー……唯とうとう死んじゃったのか……』みたいに。
「ふふっ、何? そんな顔して。歯にチャーシューでも挟まった?」
「……ネギだ」
「はい、爪楊枝」
「あざす!」
俺たちは、あっという間にラーメンを食べ終えて店を出た。
当たり前のように、俺の腕に抱きついてくるしずく。半袖シャツから露出した腕の汗と、蒸れた胸と首の汗。互いの汗が腕の上で混じり合い、なんだか興奮してくる。
切った髪の先端が、二の腕をくすぐる。
「まだハンバーガーくらいなら食えるな」
「えっ、すごい。ラーメン食べたし、ポンプ押したら飛ぶカエルも足したらMONKEY MAJIKじゃん」
扇情的な気分を吹き飛ばすために冗談を言ってみたが、思った斜め上の返答が来たな。
あるけど。Around The WorldのMVで。よく分からない機械にラーメンとハンバーガーとポンプのカエルが乗っかってるやつ。
それから俺たちは、鎌倉駅周辺を見て回った。道路と道路に挟まれた、大きな道の先にある鶴岡八幡宮では、大会勝利祈願のお参りをした。
映画記念館やお土産屋を見て回り、着物や振袖も見た。成人式では袴を着たい、という俺のささやかな夢が大きくなった。
後に、俺たちは江ノ電で江ノ島駅へ。江ノ島そのものに行くためには、駅から少し歩いて江ノ島大橋に行く必要がある。
その途中、しずくが足を止める。視線の先には、ジェラート屋があった。
やけにハワイらしい見た目の店だ。遠くに並んでいるヤシの木らしき背の高い木と、強く吹く暖かい海風もあり、南国らしさが際立っている。
「これ気になる。ね、一緒に食べよ」
「ん。美味しそうだな」
店に入ると、向こう側にテラス席が見える。テラスは、低めの柵越しに海を一望できるようになっている。
なるほど! 海を見ながらジェラートを食べられる店か、これは中々の当たりを引いたかもな。と俺はワクワクしながらレジに立つ。
レジの下は、アイス屋によくあるような、均等に並んだ容器に様々なフレーバーが並んでいるケースになっている。
互いに別々にジェラートを買った後、俺たちはテラスに出る。
暖かめの海風だが、風なんてのはあるだけで大抵は涼しい。強すぎないのもいい。席に座り、俺たちは手を合わせてそれぞれの注文したものを食べ始める。
しずくのは、恐らく色からするに抹茶味だろう。黄緑と言うには少し濁ったような色のジェラートだ。
スプーンをくわえ、美味しそうに「んん〜っ」と頬に手を当てるしずくは、その空間を切り取った1枚だけでインスタで50億いいねを貰えること請け合い。文句の付けようのなき美人。
そこそこに自分のジェラートを食べつつ、見とれていた俺に、突然しずくは目を合わせてくる。
やばい、バレた。いや、俺たちは付き合ってないとはいえ、仲のいい友達くらいではある。バレたからといってどーだこーだってんじゃあない、俺は目を逸らさずにじっと見つめる。
すると、しずくは何かを思いついたような顔をして、自分の分のジェラートをスプーンですくってこちらに差し出す。
「はい、あーん」
俺は反射で、緩んでいた口角を一気に真横に伸ばす。固まってしまった。
何を言っているんだ、この人は。いや、あーんという行為そのものが恋人っぽくてなんだかドキドキせざるを得ないというのはあるが、俺が固まってしまったのは、もっと別の原因がある。
しずくがこちらに向けているスプーンは、先程まで彼女自身が使っていたもの。
それを使って俺がジェラートを食べるということは、少なからずスプーンについていた彼女の唾液が、俺の口内に入り、舌や歯や唇に付着する。
とどのつまり、これを口に含むという行為は、『間接キス』に値する。
どうするんだよ。これで俺がしずくのワンフォーオールを継承しちゃったら。虹ヶ咲中退して雄英に行かなきゃダメじゃあないか。
「…………アオハル……本当にあったんだ……本でしか見たことない……」
しずくは呆れたような笑みを見せて「もうっ」と言いながら、スプーンを一段と突き出す。
「ね、食べないの?」
「ありがたく頂戴いたします!!」
俺は姿勢を正し、そのまま腰だけを曲げて礼をするように、口でスプーンに乗ったジェラートを食べる。
こういう時は、改まったり躊躇したりした方が行きづらくなる。ピアスを開ける時と同じだ。俺は開けたことがないから分からないが、多分そういうものだろう。
口に含んだ瞬間、ひんやりとしたスプーンとジェラートの温度が口に伝わり、それだけで体感温度が少し下がる。
少しの苦味と、冷たさを帯びた甘味が舌に乗り、液状に溶けていく。
その中の、ほんの少しだけの粘液を探る舌が、ジェラートなんてそっちのけで動いているようで自分に嫌気がさしそうだ。
そして、このシチュエーションそのものに味がかき消され、俺はスプーンをくわえたまま硬直してしまった。
「美味しい?」
スプーンを引き抜き、しずくはこちらに微笑む。しかし、力なく「……味しない……」と呟く俺に、しずくは「うそ!? 味覚障害!?」と正直に驚く。
「ちがくて! その……言ってしまえば『甘すぎる』んだ……そんで、舌が麻痺しちゃって…………サ……」
「だ、大丈夫?」
「あんまり大丈夫じゃない、変な意味で」
赤くなった俺の顔を見て、しずくは何かを察したのか、自分まで少し顔を赤らめて言う。
「は、花火くんの、何味だっけ」
「米」
「米!?」
「ライスジェラート。案外うまい」
中に少しだけ米のようなものも入っていて、食感も楽しい。和風ポッピングシャワーと言っても過言ではない。
「……ひと口ちょうだいっ」
「!?」
しずくは、俺の方に顔を突き出す。目を閉じ、口を開けて。
俺は瞬時に、本能的にしずくの口内を覗きそうになった目を、理性でぐりんと横にそらし、さっと素早くジェラートをすくう。
邪念を振り払うように、俺はスプーンを持っている手とは反対の手で自分の頬を叩く。尚もしずくは目を開けず、こちらに顔を向けている。
指とか入れたら怒るかな。
再度頬を叩き、俺は震える手と声で彼女にスプーンを差し出す。
「あ……あーん……」
「あーん♡」
彼女は、俺の唾液のついたスプーンを躊躇なくくわえ、もぐもぐと口を動かす。
「……………………」
俺は、自分の使ったスプーンをしゃぶる、いや単にジェラートを食べる、新鮮なショートカットのしずくを見て、少しうるっときてしまう。
彼女が誘ってくれなければ、俺は先程のラーメンも、さりげなく買った木刀も、こんなに幸せなジェラートの交換もできなかった。
今回のデートに、ではない。演劇部に、だ。
「どうしたの?」
「来てよかった……」
「ね。美味しいよね」
感慨深くなってしまった俺は、涙をぐっとこらえて、しずくの方を見る。すると、彼女は目を細めて、頬杖をつきながらこちらを見ていた。
彼女は俺に負けず劣らず幸せそうで、見ているこっちがニヤけてくるくらいの隠せていなさに、俺は吹き出してしまう。
「そんな顔、するのな」
「ん? どんな顔?」
「無邪気っつーか、童心に帰ってるっつーか。めちゃくちゃ楽しそうだよ」
しずくは、「うん。楽しい」と言いながら、俺の手の甲に、手を重ねてくる。
少し火照ったくらいの体温が伝わり、ついでに周りの客の視線も伝わる。見せもんじゃあないぞ。確かに、あと1分足らずでキスしそうな展開だが。
俺の手を握り、しずくは破顔も破顔、緩みきった笑顔でこう言う。
「花火くんと来れてよかった」
「っ……お、俺も……」
何か気の利いた言葉を言い返してみようとはしたが、うまく言葉が出てこない。アドリブ力には一定の評判があると思っていたが、こういう肝心な時に限って上手くいかない。
俺、どちらかと言えばゲネよりも本番に強いタイプなのに。そんな自分に深くため息をつき、俺は軽く決心をした。
さっと立ち上がり、俺はテラスの柵に片足を乗せる。そして、身体の動きは止めたまま、首をぐるっとストレッチするように回し、バァーッタリとキメる。
俗に言う、『見得を切る』ってやつだ。
「絶ッ景かな!! 絶ッ景かなァ!!」
一斉に、客と外の通行人がこちらを向く。羞恥心は無い。俺の少しの『五右衛門』に、付き合ってもらうぞ。観客共。
見ろ、もっと俺を見ろ。腹から声を出し、俺は通行人へ、テラス席の客へ、店内にも、はたまた下に広がる海にも声を轟かせる。
「江ノ島の海は値千両とは、小ィ〜せぇ、小ィ〜せぇ〜ッ!! この五右衛門が眼から見れば、値万両!! 万々両ォォ〜ッ!!」
俺の中の五右衛門が、照れる純情と共に、江ノ島の海の美しさを語り、キメキメの目と締まった口元で魅せる。
一瞬だけ、両目の奥が熱くなった。涙が出てきたからではない。おそらく、『自分0%型』が少しだけ顔を出したのだろう。
「ふふ」
しずくは、立ち上がってテラスの柵に手を乗せて言う。
「照れ隠しで出てくるのが、楼門五三桐の南禅寺山門の場って。歌舞伎にも明るいんだね」
「歌舞伎界の楼門五三桐は、マンガで言えば鉄腕アトムみたいな立ち位置の、ドのつくメジャーなヤツだろ? 知っててもおかしくは……」
そう言いかけた矢先、足を止めた観客も多くいる中、しずくは俺に抱きつく。
片足を乗せた状態なので、少しふらつくが、鍛えた体幹でしずくを受け止める。背中に手をやり、こちらからも抱きしめるようにしながら。
観客からは拍手や指笛が聞こえてくる。案外とノリのいい江ノ島に来た人々たちに、俺はまるでミュージカルの世界に入ったような気持ちになる。
なんにしろ、彼らのおかげで、俺たちは2人だけの世界に入る。有難いことだ。こんな独りよがり、ふたりよがりな舞台も中々ないぞ。
「心臓、うるさいよ」
「止めとく?」
「できるの〜?」
一笑に付するしずくは、少しこちらに顔を近づける。つま先を伸ばしたのだろう。
「ん……♡」
しずくは目を閉じ、先程と同じくねだるような表情で顔を突き出す。今度は口はさほど開けずに、唇だけをほんの少しだけ前に出して。
俺は一瞬にして、身体がカチコチに固まる。見得としては合格だが、キスをせがまれた時の反応としては童貞すぎて話にならないだろうな。
背中を持つ手とは反対の手で、俺はしずくの後頭部を支える。周りからはキャーッだの指笛だの、呑気な応援が聞こえてくる。
まあ、あの方たちにはドラマの撮影とでも思ってもらおうか。これから俺が挑む、体当たりのファーストキスを。
そうして少し力んだ時、柵に乗せていた方の足がつるっと滑る。
「どわーっ!!?」
「ええッ!?」
そのままバランスを崩し、俺は下が海であるテラス席に真っ逆さま。
の、はずだったが、間一髪。俺の足首をしずくが掴んでくれたようで、左足だけが重力に逆らっている。
「あぶな……」
「……花火くん」
「な、なに?」
俺にとっては下、地面から見たら上、つまり俺の足側を見てみると、しずくが真っ赤な顔で俺の足を持っていた。
「痩せて……」
「60キロもいってないが!?」
いや、58キロのものをぶら下げるのは確かに辛いだろうな。俺はなんとかして、しずくが限界を迎える前にテラスに上がろうとする。
「あと3秒……」
しかし、そんな思考の隙を与える間もなく、しずくは震える声で不穏なことを言う。
こうなったら、いかにそこでカメラを構えている奴らに向けて、エンタメな落ち方をできるかという方向に、俺の考えはシフトするのだ。
「わっ! わー!! タンポポ頭!! ティーポット!! ブリキのやかーん!!」
ちょっとネタがニッチすぎたか。
ディーゼル10のように下に船があればよかったのだが、今回はクルーズはできなさそうだ。俺はあっけなく海にドボンしてしまう。
今日のために買った、陰キャ感を消せる爽やか系の服も、これでおしゃかになったな。
「大丈夫ー!?」
波は幸いそこまで高くもなく、むしろ凪いでいると言ってもいいくらいに穏やかだ。手足を投げ出して身を任せていると、やがて海面に身体が浮く。
しずくの心配そうな声が聞こえてきたので、俺は怪我も何も無いぞ、と余裕を持って言う。
「あーあ、女になっちまうわ」
「ええっ!? 落ちる前の最後の言葉がディーゼル10で!? 水中に落ちた第一声が早乙女乱馬!?」
元ネタ分かるのすごいな、と俺はつぶやき、近くの人が投げてくれた浮き輪に掴まった。