片時雨の下手で   作:苗根杏

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#39 悶えて、悶えて、劣等感

「はよーっす」

「おはよう」

 

 校門の前で天内を見かけたので、声をかけた。ギターを背負っているので分かりやすい。

 

「お前も分かりやすすぎるよ」

「何がだ?」

「それ以外にあるかよ」

 

 彼は俺が小脇に抱えている箱を、ジト目で指さす。

 

「……お前、何? それ……」

「ハルヒだけど」

「なんで学校に持ってきてるんだ」

「今日、美術の授業で粘土造形やるだろ?」

「あ、資料か」

「そゆこと」

 

 国際交流学科と美術の授業が同じなのは、しずくから聞いている。なので俺はスマートかつ端的に、涼宮ハルヒのスケールフィギュアを持っている理由を述べた。

 

 が、彼の目からはまだ納得の色は出ていなかった。「なんだよ」と俺は彼に問うてみる。

 

「ロダンの彫刻を作るんじゃなかったっけ??」

「うるさいな、小さいことをお前はワカチコワカチコと」

「気にしない人がしてるんだろ!? ワカチコを!」

「黙って聞いてりゃドスコイわっしょいピーポーピーポー……」

 

 2019年という時系列に合っていないボケをする俺を、これまたマジかよという顔で見る天内に、俺は拍手をする。

 

「天内ダディダディ〜……」

「絶対やらないからな!? 思い出したように続けよってからに!」

「うむ、惰性で続けてしまったな」

「ダメな恋愛かよ」

 

 正直早く来すぎてしまった、というのが、学校に着いて最初に俺が思ったことだ。まだ朝のSHRまで30分以上ある。

 

「徹夜してそのまま来たのが間違いだった」

「俺も。くっそ〜、暇だあ」

 

 吹き抜け側の壁に寄りかかりつつ、俺たちは廊下に座り込む。天内は、唐突に「好きな部位を言い合うゲームでもしようぜ」と言い出した。

 

「ブイ……?」

「山手線ゲームみたいに。あ、女の子の部位な」

「なるほど、了解」

 

 なんとなくで理解した俺を見て、天内が山手線ゲームの要領で手を叩く。

 

「はい、パンパン!」

「仁木クラリッサさん。パンパン」

「くるぶし! パンパン」

「甘沖とゆさん。パン……ん、ん?」

「えっ」

「あれ?」

 

 同じ議題と思えないものが並んだ俺らは、少し考えて。

 

「あっ、部位ね!? 部分の部に、くらいって字の位ね!」

「え、何と勘違いしてたの?」

「ブイって言われたから、Vtuberかと」

 

 素直に白状する俺に、彼はドン引きといったふうに顔を歪める。

 

「お前ホントにキモオタなんだな」

「は〜〜? はぁ〜〜〜〜?? キモオタじゃないが? お前のくるぶしの方がキモいが?」

「ギリ一般性癖だろ! ジョニィ・ジョースターの虫刺されフェチよりはマシだ!」

 

 大きな声で、性癖を答えたことと間違えたことの恥ずかしさを誤魔化す俺らは、しばらく静かになる。

 

 最初に口を開いたのは、天内だった。

 

「なあ」

「ん?」

「この前、SNSでお前見たわ」

 

 ああ、そういえば上がってるって言ってたな、生徒会長。俺と光良さんのエチュードが。

 

 俺も見たわ。めちゃくちゃいいアングルだし手ブレもないしで、俺的には無断で撮っててもありがとうって感じだったな。

 

「あー、あのエチュード?」

「うん。なんか……お前がちゃんと演者してるの初めて見たけど、ホントすごい奴なんだな。軽音に助っ人で出てもらったのが勿体ない」

 

 学園祭の頃のことを、まるで数年前のことのようにゆっくりと思い返し、天内は天を仰ぐ。

 

「いいんだよ。あの時は舞台下ろされてたし」

「結局大会はどうなんだ」

「どうも何も、署名があるから。いざとなればアレを出すさ」

「え? 前の署名ってそんなやつだったの?」

 

 今後、一切俺のステージに対して口出しさせない。学校に出したみんなの署名は、そんな風なものだったと俺は記憶している。

 

「改めて説明してっと、昔のことみたいだ」

「だって、夏休み前の林間学校よりもっと前だろ? 昔だ、昔」

 

 数ヶ月前のことが、こんなにも昔に感じるのは、よく中身の詰まった時間を過ごしていたからだろう。決して連載ペースが遅いからではない。

 

 ああ、本当に恵まれてるな、俺。クラスメイトにも、部活の人にも。

 

 みんなに恩返しをしていかないと。そのためにも、今度の地区大会は負けられない。絶対に、それこそ死ぬ気で頑張らないと。

 

 俺と友達で、同じ部で、よかったと思えるように。みんな優しいから、俺と知り合ったことを後悔させたくないんだ。

 

「今年は濃い年だ」

 

 俺の人生のパチンコが出たら、間違いなくこのシーズンは神台だろう。

 

 名付けてCR2019。

 

「ボタン電池かよ」

「ん? 何?」

 

 モノローグとセリフをごっちゃにしてしまった俺は、数瞬遅れて顔が熱くなる。

 

「あ、口に出てた? ごめん」

「いやいや。今のが何だったのかを知りたい」

「やだ。恥ずかしすぎ」

「ええ……ボタン電池が何なんだろう……」

「うわ、うわ〜〜、恥ずかし〜。穴があったら植林したい」

「大事だけど! 緑増やすのは!」

「お前もそう思うよな、キッコロ」

「こいつモリゾーなんだけど……」

 

 俺らがそうやって話していると、廊下の向こうからバカでかい声が聞こえた。

 

 手をぶんぶん振っているのは、中須かすみだった。多分、俺よりひとつ後の電車に乗ってきたんだろう。

 

「おはよーございまーす!!!」

「声でっけ」

「お前マジで喋るな……元号変わるまで喋るな……」

「つい数ヶ月前に令和になったばかりなんだけど!?」

 

 朝から元気なのはいいことだ。俺はたわいも無い話を持ちかける。

 

「かすみ。この前のライブ、見たよ」

 

 それを聞いたかすみは、自慢げに「ぬふふ、可愛かったでしょ〜」と飾らない可愛さを見せるもので、俺は素直に「可愛いよ」と答える。

 

「あの旗、かっこよかったなあ」

「旗……?」

 

 天内は首を傾げる。かすみは何やら驚いたように俺を見ている。

 

「はな男。“見えてる”の?」

 

 そうか、そういえば言っていなかったか。お前の『製界(せかい)』が見えることは。

 

「あー……スクールアイドルもするって言うよなー。『界演(かいえん)』」

「お前、知ってるのか」

「間近にいるからな、演者とスクールアイドルが。聞いたことも一度や二度じゃあないさ」

 

 演劇人は常に、その『界演の世界』、『製界』で戦っている。なので生だろーと映像越しだろーと、アイドルの『界演』している世界は、俺くらいの演者には多少見える。

 

「自分だけの『製界』を『界演』する……だっけか?」

「ああ。演者の場合、演者どうしで『製界』を共有できるが、その共有された『製界』は舞台に立っている者にしか見えない」

 

 スクールアイドルは、演技を使わない代わりに『製界』を全員に見せられることができる。ソロなら、尚更巻き込める人数は多くなる。

 

 だからμ'sやA‐RISE、Aqoursみたいな伝説級スクールアイドルでも、グループなら『製界』は、そう簡単には作れなかったわけだ。心をひとつにする必要があるからな。

 

 Aqoursで言えば『想いよひとつになれ』あたりがその転換期だろうな。決勝の曲をやってる時なんて、とんでもない規模の『製界』を作ってたし。

 

「今まで何十年と例は確認されてるけど、正確に名付けられ、定義付けられたのは……『高校演劇第三世代』の始まった頃……去年のことだ」

「へえ、かすみん名前は知らなかったな。でも、ライブ会場の一部の人だけが見てる世界だと思ってた」

 

 だとしたら、自分の実力を甘く見てる。かすみの『製界』は独特ながらも大きいぜ。

 

「でも、せつ菜先輩のステージは……『製界』が大きい」

「ありゃあ『自分0%型』だからな。ゲキバトルでも、そういう型の演者がいればいるほどフィールドは広くなる」

 

 へえ、と話を聞く天内が、伸びをしながら言う。

 

「そういや、前まではルール無用だったんだって? 『ゲキバトル』」

「げき……?」

「ああ」

 

 どこで聞いたか知らんが、きちんとした演者に聞いたんだろうな。俺は中学時代の、荒削りなゲキバトルを思い出しながら話す。

 

「ゲキバトルって……しず子から聞いた事ある」

「その聞いた事のある今のゲキバトルは、第三世代の創始者……『蛇崩』の作った正式な決闘スタイルだ。その前はルールと呼べるものはほとんど無かったんだ」

「世代なんてあるんだなー」

「俺らが生まれたくらいの年に、『贋作マクベス』っつー世代を作るに相応しい台本が発表された。あそこから高校演劇は一段階レベルアップしたんだよ」

 

 言わば第一世代から第二世代の転換期が、その台本の出た時だった。

 

「それまでは、言わばゲキバトルの黎明期。今は更に進化した世代なんだ」

 

 そこから蛇崩神楽たちの創った第三世代が出来て、ゲキバトルは本格的に決闘として発展したのだ。

 

「……誰がそれ決めてんの?」

「さあ? ただ贋作マクベスが出た時、そして蛇崩が覚醒した時、誰もが『世代が変わった』と思ったんだろう」

「シンクロニシティ……」

「最凶死刑囚編ね」

「なに? また刃牙か何かの話?」

「よく分かったじゃん」

「いい加減読んでくれよ」

 

 かすみを置いてけぼりにして通じ合う俺ら。彼女は少し嫉妬したように、いつもの売り言葉に買い言葉で拗ねる。

 

「読んで欲しいなら買ってきてってば」

「何なんだよその返しは毎回。板橋ハウスの住岡さんかよ」

「買ってきてくれたら読むからさ」

 

 そういう事を言われたら、ホントに買うぞ。バキ道まで。この前しずくにチェンソーマン全巻買ったんだからな、俺は。

 

 かすみは俺のエチュードを動画で見直しながら、息も絶え絶えな動画の中の俺を見てつぶやく。

 

「……また、無茶するの?」

「無茶でも何でもやるよ。だって俺、演者だもん」

「演者の前に、一人の人間でしょ。どうしてそんな切り替えできるの? ……ゲキバトルって……こ、殺し合うんでしょ……?」

 

 スクールアイドルだからこそ、『製界』を殺し合いの決闘、死合いのために使い、精神に影響が出るほどの戦いを行う俺らを心配してくれているのは分かる。

 

 いつの間にか、隣にいる親友だって俺の肩を持って頷いている。でも、俺にはこれしかないんだ。みんながくれたものを守っていくためには、俺が強くなって、みんなに見合う人間にならなきゃいけない。

 

「俺には確かに色んなものが残されてる。でも、演者じゃない俺に価値はない。俺には、演劇しかないから。演劇がなくなったら……俺は死んでもいいと思ってる」

 

 みんなが、自信と誇りを持って、俺を友達と呼べるように。

 

「歌だってあるだろ」

 

 天内がなんでもないような顔で言うものだから、お前には負けるだろ、と笑う。しかし彼は真剣な顔をして俺を見ていた。やめろ。

 

「かっこいいし」

 

 かすみもやめろ。無駄に俺を褒めるな。褒め言葉の無駄遣いだ、言葉の重みがなくなるぞ。

 

「あと、かすみん達がいる」

「璃奈も悲しむぜ」

「会長も心配してましたよ」

「それこそ侑先輩だって……」

 

 次々に、しずくとの旅行前に聞いた事のあるような人々が挙げられる。

 

 だが、俺のような奴は、みんなが居てくれる理由として、そして俺が俺でいられる存在証明として、演劇しかないのだから。この議論は平行線、水掛け論でしかない。

 

「みんなが居てくれたところで、演劇がなくなったら離れていくだろ。そういう意味でも、死ぬ気で頑張るしかないのさ」

 

 ううむ、とかすみは納得いかない様子でうなる。

 

「多分、みんなが望んでるのって、そういう事じゃないと思う。死ぬ気で頑張るのと、死ぬ気でやるのは違う」

「違う……のか?」

「絶対ピンときてない」

「お前さあ……」

 

 もはや二人とも呆れているようだ。

 

「お前と一緒にいたいってのは分かる?」

「いや、分からない」

「はな男、かすみん達のどこを見て分からないなんて言葉が出るの?」

 

 分からないものは分からないんだ、しょうがないじゃあないか。好きなことさえ命懸けでやらないなんて信じられない。

 

 それに、ただ俺と一緒にいたいだなんてありえない。俺が演劇をやっていて、多少それで人間カーストの最下位から少し上がったから話しかけてくれてるだけだろ。ん? ああ、自分でもちょっと分からなくなってきたな、何が言いたいのか。

 

「あのね、はな男。ラブライブ!でこれ言ったらおしまいだけどさ、しょせん部活だよ?」

「お前、スクールアイドルとしてそれ言っちゃ一番ダメだろ。部活に命かけれねェ奴が、何に命かけられるってんだよ」

「暴論すぎるだろ」

「や、そのー……かすみんも命がけでライブする時はあるけど、はな男は……なんかが違う」

「こっちも真剣に命張って演技してんだよ、ずっと」

「だからあ!」

 

 またもや言い争いになりそうになった、その時。廊下に座り込む俺らの前に、誰かが立った。

 

「おはよう」

 

 それは、ニコニコと笑っているしずくだった。

 

 

#39

悶えて、悶えて、劣等感

 

 

「はよーっす」

「おはよ、しず子」

「ん……」

「花火くん、おはよう」

「……おはよ」

 

 挨拶を返されて上機嫌になったしずくは、俺の前でしゃがみ、俺と目を合わせる。

 

 思わず目をそらしてしまうが、しずくは俺の顎に指を軽く当てて強制的に目を合わせさせる。顎クイというやつだ。

 

「なんか後ろめたいことでも話してたの?」

「いやあ、別に」

「はな男が頑固だって話」

「ふうん」

 

 俺もしずくを安心させるために、お手上げのポーズをして言う。

 

「大丈夫。演劇で死ぬとか、ありえねーから」

「!!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、しずくは目を見開く。しまった、言葉選びをミスったかな。

 

「花火……くん……」

 

 驚きと悲しみの表情を浮かべるしずくを見て、かすみと天内は俺に同時に掴みかかる。

 

「そういう心配をさせんなって言ってんだよ!!」

「まずもって!! はな男が無茶するからッ!!」

「いででで、やめてやめて」

 

 首の後ろの襟を掴まれ、頬を引っ張られる俺の前で、しずくは俯き気味につぶやく。

 

「私……花火くんが死ぬくらいなら、演劇やめるから」

「!!?」

 

 しずくの低い声に、俺は思わず、あぐらから正座になる。見ると、彼女は俺をきっと見つめて、真剣に。

 

「だって、まだ戦ってないでしょ。それなのに全力出しすぎて引退とか、やめてよね」

「は……はい……」

「私と戦いたいよね?」

「それは、もちろん」

「なら私の傍から離れないで」

「……はい」

 

 犬のように従順になった俺を見て、しずくは再びご機嫌になり、俺を抱きしめて頭を撫でる。

 

 恥ずかしいよ、と言うが、しずくは離してくれない。

 

「っていうか、私、演者の花火くんも好きだけど……普段の花火くんも好きだから。無理しないで? 花火くんと戦いたいのは本当だけど、私、もっと花火くんと色んなことしたい。みんなで遊んで、高校生活を楽しみたいんだ」

「そう……なのか……?」

「俺らずっとそう言ってたよな!? いや、伝わってなかったとしてもそういうつもりで言ってたから、俺ら!!」

「まだまだ遊び足りないから! 高校一年生の二学期だから! これからもっと一緒にいるんだからねっ」

「そうだそうだー!! まだライブし足りないぞ!!」

 

 なんでだよ。

 

「よしよし」

「…………」

 

 なんで。

 

「かすみんと一緒に行くって約束のとこ、まだ行けてないよね。あとSuicaのチャージ代200円返してもらってないし」

「俺だってこの前奢る約束だったのに奢れてねーし。らんぶるって喫茶店で打ち合わせすんだろ?」

「あ、かすみん達もその店行くの」

「マジ? じゃあ3人で行くかぁ!」

 

 なんでみんな、そんなに優しいんだよ。

 

「ふふ、こう見えて花火くんはガンコだから。演技も何も無くたって大丈夫だ、っていうのも、何回言っても忘れちゃうし……でも忘れたって、これからも何十回だって、何百回だって言うよ。私たち、花火くんのことが大好きなんだからっ」

 

 俺は、自力で抑えきれない涙が頬を伝うのを感じる。ああ、もう、恥ずかしい。

 

「だーっ! もう、泣くなよっ。情けねえ」

「ハンカチいる?」

「ん……持ってる……」

「じゃあかすみんもよしよしするから。泣かないで」

 

 誰もいない早朝の廊下。俺は3人の同級生に慰められる。

 

「こいつ、こんなに情緒不安定だったか?」

「繊細なんだよ。あ、ほら、天内さん。カギ持ってきたよ」

「おー! さんきゅー、桜坂!」

「しずくでいいよ」

「今の、渚カヲルみたいだな」

「歌はいいね」

「エヴァ知ってんの?」

「花火くんから教えてもらったの」

 

 俺が落ち着いたのを見て、しずくと天内は国際交流学科の教室に向かう。

 

「じゃあな〜、花火。また昼休みな」

「じゃあね、花火くん。放課後、ホールでね」

「……ん。ありがとう」

 

 調子が狂うな、と照れくさそうに笑う天内と、満足げに短くなった髪をなびかせるしずくは、俺に手を振る。

 

 残ったかすみは、教室の鍵も取りに行かず、座り込む俺の肩に寄りかかる。

 

「ずるいなあ。しず子にいいとこ持っていかれちゃった」

「大丈夫。お前らの言葉も、届いてる」

「ホント? へへ、はな男が思ってるよりも、みんなはな男のことは心配してるからね。これで分かったでしょ?」

「……ああ。ごめん」

「分かればいいの」

 

 耳のそばで、そんな優しい声が響く。

 

 恩返し、しないとな。俺は演劇以外に取り柄のないはずだった自分の身体を見つめ、手のひらを見つめて考える。

 

「俺には何ができるんだろう」

「言ってるじゃん。健やかに生きて、これからも一緒に遊ぶことができたら、それでいいの」

 

 かすみは、しずくが居なくなったことを確認してから、俺にぎゅっと抱きつく。俺のこめかみに額を擦り付け、目が合わないまま彼女はこう続ける。

 

「傷ついてまでする恩返しなんて望んでないよ。そんなつもりではな男と友達やってないし。みんな案外、どんなはな男でも一緒にいたいって思ってるの」

「本当か」

「分かんないよ。でも、なんとなく分かる気がしない?」

 

 ううむ、と考えてみるも、もしそんなことが有り得たとしたら、そんなに幸せなことがあっていいのだろうか、と俺は思う。

 

 またもや目の前が霞み、にじむ。目をごしごしと擦ると、かすみは有無を言わさず自分のハンカチで俺の目元を拭いてくれる。

 

「ねえ。もしかして、ナイーブになってる?」

「……すまん。公演前はいつもこうで」

「なるほど、そういうことね」

「言ったことなかったっけ」

「ないよ。でも気にしない! それに付き合うのも、友達……だもん」

 

 友達、というところを少し強調して、かすみは笑う。そして、俺の顔を持って、自分の方に向ける。

 

 彼女の顔は、うっすら赤らんでいた。俺の頬を両手で包み、今にもキスでもしそうな距離で、かすみは言う。

 

「はな男」

「ん」

「好きだよ。大好き……愛してる」

「……はい……」

 

 ああ、やっぱりダメなんだな、俺。

 

 しずくという人がいながら、心からの告白のようなかすみの言葉に、ドキッとしてしまった。

 

 まるで俺のことを、男として意識しているのかというくらいに、彼女の言葉には湿度が含まれており、俺は思わず敬語で返してしまう。

 

「私っ……うあ〜〜っ!! も、もう! 敬語やめて〜っ!!」

「な、なんかすごい今、こう、ぐわっと恥ずかしさが……」

「こっちまで恥ずかしくなるじゃん! ばか、ばかっ!」

 

 何を言いかけたのかは気になるが、もうそんなムードでもない。答えてもくれないだろう。

 

 ただ、俺を揉みくちゃにし、じゃれるかすみの顔には、微かな安堵と憂いが浮かんでいた。

 

 ちくしょう。こんなんじゃ、死んでも死にきれないじゃあないか。それが狙いだとしたら、それこそ大したものだが。

 

 ああ、死ぬにはいい日だ。そして、生きるのにもまた──。

 

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