「ずっと片手にメモを持ってた、あの人でしょう? 鈴虫先生って」
「うん。でも見かけによらずフレンドリーだよ」
「穂村さんは、もう会ったんだよね?」
「ラーメン食った♡」
「そ、そうなんだ」
「『塩には一味なんだなあ』だってさ」
「それは知らないけれど」
前回、アトリエを訪れてから数日。学園祭の台本が、あと1週間で出来上がる手筈なので、様子見をして来いと部長からのお願いがあった。指示でも命令でもなく、お願いってのが、あの人らしいや。
今回同行するのは、しずくである。前回は差し入れのおやつ選びにしか参加しなかったため、鈴虫先生のアトリエに行くのは初めて。
ちょっとそわそわしながらも、アトリエのドアの前まで来ると、落ち着かなかった視線は好奇の眼差しに変わった。
いいよなあ、ここの雰囲気。
ドアを3回ノックすると、ほどなくして先生の声が聞こえる。ちゃんとアポはとってあるので、俺らだと分かるだろう。他の人なんて、部長以外は用がない限り来ないし。
「入っておいで」
「差し入れ持ってきましたー」
「何買ってきたの〜?」
「この前言ってたポテチです。あと、自分の分も入ってるんですけど、辛ラーメンとフランクフルトをふたつ買ってきました」
「天才! お湯沸かすね〜」
「了解っす。あと、桜坂も上げていいですか」
「OK、OK〜。まあ、ちょっち散らかってるけど気にしないでネッ」
「先輩、昨日エヴァ見たでしょう」
「シンエヴァ楽しみだなァ〜〜ッ♡」
6月27日までは、ひたすら待つのみ。我々エヴァファンは、四半世紀の『エヴァの呪縛』に決着をつけなければならないのだ。と、俺の父さんは言っていた。キメ顔で。ゲンドウポーズで。気持ち、声真似もしてたような気がする。TV版リアタイ勢ならではの、言葉の重みがあった。
俺はTV版や旧劇のDVDはおろか、新劇の方しか見てないから、なんともなあ。とりあえずマリが好き。赤ブチのメガネってのがいいんだよ。
「お、お邪魔します」
「いらっしゃい。入部日以来だね」
「……なんで二人共、ラーメンを食べようとしてるんですか?」
「男二人、部屋でラーメン。これに理由はいらない」
「男子高校生は1日4食なのよさ」
「は、はあ……」
男子高校生の文化に困惑しながらも、しずくは入口付近で物珍しそうに室内を眺めていた。流石に女子でも、この部屋はワクワクが止まらないとみた。
50cmくらいの鉄人28号のデカいフィギュア。カプセルに入った鉄腕アトムの誕生日までをカウントダウンする目覚まし時計。おそらく1966年の当時品であろう緑色のバルタン星人のソフビ。京都駅でのガメラVSイリスを再現したジオラマ。1/12の光る鳴る金田のバイク。超合金ゲッターエンペラー。フリクリを意識しているであろう青いリッケンバッカー。星マークの散りばめられた例の赤いランダムスター。
この少しのスペースには、有り得ないほどの情報量である。
で、壁には世界中の名画のレプリカ(もちろん実寸大より小さくはある)やアニメ、漫画や映画のポスターが飾られているときた。個人的には、アタック・オブ・ザ・キラートマトのポスターがドンピシャ刺さってしまった。シャークネードやシン・ジョーズもある。
漫画で言えば、ABARAやBLAME! 、シドニアの騎士にバイオメガ(弐瓶勉先生が好きらしい)。名画でパッと目につくのはゲルニカ、智・感・情、最後の審判。
美大生まっしぐらなのでは、この人。
多摩美をお勧めします。
「で。台本、どうなってます? それを聞きに来たんですよ」
「ここから進んでな〜〜い」
おどけた口調で言ってる割には、声は震えてる。焦ってはいるらしい。まだ原稿用紙にして2枚半の量の、台本のほんの序盤あたりを俺たちに見せてくれる。
前見た時は、確か……1枚ちょっとは書いてたはず。そこから数日経って、もう1枚ちょっとは書けてる。『わあ、倍になってますね!』なんて悠長なことは言っていられない。学園祭での発表時間は30分。あと5〜6枚は必要になるだろう。
「……なあ、僕、どうしたらいい?」
「スランプ……なんですかね?」
「ごく小規模のね……う"ぁ〜〜情けないよぅ」
部長曰く、昨日からはここに泊まって作業をしているらしい。漫画家や小説家に見られる、いわゆる缶詰めというやつだろう。効果があるのかどうかは分からないが。
某漫画の神様もやっていたくらいだし、俺もやってみたいな。逃げ出す所までセットで。
しずくは心配そうに先生を見ている。とりあえず、ちゃぶ台に突っ伏してなおらない先生の代わりに、しずくがお湯の面倒を見に行った。
「前の台本はどうしたんです」
「だーめ。今回はゼロから書き直すのだ」
「なにか、気に入らなかったんですか?」
「なんか……気づいたら社会問題を取り上げてた。僕、社会派高校演劇を書いちゃうクセがあって」
「例えば?」
「去年の大会はLGBTQ。審査員受けは良かったけどね」
「「あ〜」」
俺としずくが同時に、大会に1校はあるよね〜。という共感と納得の声を出す。
あれはLGBTQというより、女子の悩みを全面にドンッと押し出したような演劇だったが、昨年度の、つまり一昨年度の人たちの『全国大会の関東代表』なんて凄かったじゃあないか。
女子高校の演劇部でしかできないような、生理用品をばらまいて終わるエンディングなんてのがあったんだ。あまりにも『女子高の価値基準』すぎる内容だったので、俺は共感というか、学びの方が多かったな。これが女子高の現実だ、お前らは男子は私たちのことを何も知らない、なんて主語のでかい文句でずーっと刺されてるみたいだった。男からしたら特に。
演技のレベルはマジにトップだったので、演者としての文句は何もない。言えない。苦痛ではなかったし、演技からも学びは多かった。あと、男の俺が変に色々言うのも怖い。
女子高校の世界に飲み込まれてしまいそうで怖かった。というのも、本音のひとつではある。よく作られすぎてて、自分の気分や体調にまで深く影響を与える、海外のカルト系ホラー・鬱映画を思い出した。ミストとかミッドサマーとかドッグヴィルを見た後みたいな。
生理用品のくだりはモロにサブカル、というよりアングラのノリじゃあないか。アックスか藤子・F・不二雄先生の短編集か、みたいなノリ。不快感はないけど。あれはアングラ演劇の再来だ。かつての高校演劇第一世代よりも前、みなが呼ぶ『高校演劇紀元前』にあたる60年代のアングラ演劇と呼ばれる部類の表現方法。一周まわって新鮮、みたいな──アングラ演劇と同じく、学生運動がメインなんだろというのは言わないお約束だろうな──って感じ。
それにもし、しずくがアレを見ていたとしても、絶対に感想会はできない。裏を返せば、劇としてのデメリットはそこしかないと言える。見ることがメリットだらけだったな、あの劇は。
「大会でなら、それこそ審査員受けはするし? 社会を批評して、風刺して、代案も出さずに叩くだけ叩いて、主語の大きい文句で大人に反抗したがる高校生からの評価も高い」
「言い方!」
いるけどさあ!
「でも、学園祭くらいは頭空っぽのギャグを書きたいじゃない? パーッと気楽にやろうや」
先生は先生で、何やら底知れぬ恨みがこもっているというか、社会を見下している気がしなくもない。でも俺もギャグ系の台本を書くのには賛成である。
「ギャグ……ですか」
「ふたりとも、ギャグ軸の台本の経験は?」
しずくと一緒に、首を横に振る。
「台本じゃなくて、ギャグ系の演技の経験自体は? エチュードでも、何でもいい」
またしずくとシンクロし、今度は縦に首を振る。
「やる気は?」
さっきよりも激しく、首を縦に振る。
「なら、これを読んでみてくれ」
俺らは、原稿用紙ではない無地のA4の紙を、先生から渡された。ふたりで片方ずつ持って、それを読んでみると、どうやらプロットのようだった。メモのように、作品の中で書きたい台詞や、大まかな物語の流れが書いてある。意外に可愛い字。
「動きが……少ない?」
しずくが発した第一声は、あくまで役者視点からの疑問だった。
「そう! 言葉遊びに夢中になって、キャストさんが舞台を自由に動き回る余地をうばってしまっているんだ!」
「確かに、私たちは動きのある方が華やかで、なんというか……大半の生徒のことを考えると、ダイナミックな絵面の方がいいんですかね……」
「俺は好きですよ? 言葉遊びのコント」
「コントじゃねーか」
会場の人の半分くらいしか分からないような言葉遊びを入れても、俺は一向に構わんのだが。小道具一切無しで、パントマイム。ちゃんと伏線も張る。
なんか俺が台本書いたら、すべてがあの人のパクリになりそうだな。銀河鉄道の夜のような夜とか、同音異義の交錯とかの。50 on 5はもう、そういう言葉遊びのあるコントの理想形だよなあ。
「しずくちゃん達をめちゃくちゃに信用していいなら、殺陣とか取り入れるけど」
「スタァライトしちゃいます?」
「それ、疑問形の台詞ではないからな」
俺は全然、メイスでも日本刀でも振るが。しずくは何の武器が似合うだろうか。
「まあ、殺陣やるならまずは派手な衣装ですよね。成人式並に気合いの入った袴とか、なんとかライダーみたいなスーツとか」
「ガワコス! アリだな!」
「ヒーローに寄せるなら、ドライアイスで煙を演出するのはどうでしょう。武器も派手派手にして」
「で、声出して応援もOK! いや、これ殺陣よりもヒーローがメインになってるな」
ヒーロー状態になった時の声も、スピーカーから出したり。武器やベルトの音声を決めたり。楽しそう。ものすごく。
前にそういう番組をを見たのはだいぶ前、具体的に言ってしまうとオレンジがどうとかの世代なので、やるとするなら、最近のシリーズを見ておく必要もありそうだ。
「あの、申し上げにくいんですけど。これ、演劇じゃあなく、『ヒーローショー』なのでは……?」
「そうだッ!! ヒーローショーだぁ!!」
「ひゃい!?」
「これだこれだぁ! これなんだよ、絵面の派手さを求めた結果ッ!」
「ギリギリやっていい枠の中での、逆転の発想というか……。まあ、ミュージカルとかがアリなら、ヒーローショーのステージもいいでしょうけど」
「いいじゃんいいじゃん! 流石にこれは誰もやってなくね!?」
「まあ、それはそうですけど」
しずくはここに来てから眉毛が下がりっぱなしである。頭に手を当てて、さながらキョンのように、やれやれといった顔をしている。
「ヒーローショーってさ、みんなで応援するとこあるじゃん! ヒーローが敵にやられそう! そこでお姉さんが言うんだ、『みんなで応援してー!』って!」
「『パーセントマン、がんばれ〜!!』のやつですね!」
「そうそう! だからやっちまおうぜ、ヒーローショー! 赤影みたいなカッチョイイやつを終盤に持ってきて、皆を湧かせる!!」
ちなみに俺は今、結構ニヤニヤしている。ヒーローになんてなったら、仮面こそ着けなければならないが、目立ち放題じゃあないか。
いや、まあ1年生で主役が張れるなんて甘いことは考えてないけど。だって、入部して3ヶ月ですもの。序盤も序盤ですわよ奥さん。ここは脇役、または裏方の手伝いで経験を積んでいくのが定石でしょう。
「ちなみにしずくちゃん、そういう特撮番組ってのは見たことある? ヒーロー系。海外のでもいいけど」
「カミナリンしか見てません……」
「よくそこを抑えてたなあ!? あれ70年代だった気がするんだが!?」
「あっ、でも先輩にいるんです。そういうのが好きな人」
演劇部は、基本的にアニメやラノベや漫画のオタクの比率が、ほかの部よりも多いことは周知の事実ではある。しかし、しずくの思惑は違った。
少し迷った後に、しずくは思わぬ方向からの援軍を提案した。
「ここは……『スクールアイドル同好会』の先輩に頼んでみては」
聞いたことの無い同好会名だ。まあ、八百万の部活があると言われている虹ヶ咲のことだ、今更アイドルなんてのが来ても驚かないが。
しずくの説明によると、スクールアイドルというのは、契約でも労働でもない自主活動、かつ高校生の3年間だけしか出来ないアイドル活動なんだとか。どうやら世間的にはスクールアイドルを全く知らなかった俺の方がアウェーなようで、最近はスクールアイドル界の全国大会、スクドル甲子園こと『ラブライブ!』の他にも大会が各地に存在するらしい。
大半のスクールアイドル部、及び同好会はグループを組んで出場しているらしいが、うちの同好会は人数こそいるものの、ソロ活動がメインだという。
3年前の『Aqours』や『Saint Snow』、8年前の『A-RISE』に『μ's』が代表格と言われている。
そして、しずくもそのスクールアイドルたちの一員。先程のオタクもいるという同好会、『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』のメンバーだと。しずくは驚くことに、二足のわらじというやつだった。
「で、そのメンバーに特撮オタクがいると」
「アニメや漫画も好きだと言ってましたよ」
「……名前は?」
「『優木せつ菜』先輩です」
「えっ!?」
先生はいきなり、食べていたフランクフルトを落としかけてしまう。かなり動揺しているようだ。そんなに実力のあるスクールアイドルなのか、優木せつ菜とやら。
「あ、会えるの!? ホントに!?」
「先生、ファンなんですか?」
「いや、彼女のステージは見たことがあるが……本当にいるのか! この学校に!」
「噂ですよ。あくまで」
「にしてもでしょうがよ! 僕、今年で3年だけど1回も見たことないよ」
「え……なに、2人して」
「なに、普通科なのに聞いてないの? 『優木せつ菜』って、スクールアイドルをやってること以外の情報が無いんだよ」
「一切?」
「一切合切!」
ワケが分からん。
ステージにはいる。しかし、学校では見かけない。そして、スクールアイドルをしていることだけしか情報が公開されていない。
それはつまり、学年や学科などの基本的な情報を一切明かしていない。しかし、この虹ヶ咲学園、そしてスクールアイドル同好会には所属している。そして見た目も公表しているが、何故か校内では彼女を見た者はいない。文面にしてみると、なんだかややこしいな。
スクールアイドルをしている以上、見た目で分かりそうなものだが。変装でもしているのか。学校で? 普通は逆じゃないのか? スクールアイドルの優木せつ菜しか知らない生徒からすれば、生徒が裏の顔みたいじゃあないか。
もし彼女が一般の生徒にとけ込んでいるとしたら(よもや名前までは変えていないだろうけど)、その知り合いは、スクールアイドルの方が裏の顔に見えるんだろうか。
両極端、ふたつの顔を持つ人。優木せつ菜。
こういうのは謎を解明することを諦めて、匙を投げる時に使う言葉だが、謎は深まるばかりである……と言っておこう。俺にはさっぱりだ。
「まあ、僕はとにかく、ちゃんとした知識のある人の監修のもと、台本が書ければいいんだけどさ」
「安心してください。あの人は『本物』です」
「しずくちゃんがこんなに信頼してるんだし、さぞ貢献してくれることだろうけど……」
「なあ、結局のところ誰なの? その優木せつ菜は」
「正体は同好会のメンバーしか知りませんが……ここでは教えられません。会えるように紹介することはできますが」
「なんでそんなに謎に包まれてんの? スクールアイドルとしては、もっとバシバシ活動した方が良くない?」
「『優木せつ菜の正体は誰も知らない・知られちゃいけない』と言ってました」
自ら進んで正体を隠している。それこそヒーローのような人じゃあないか。ウルトラマンみたいに、知られたらスクールアイドル活動に支障が出るような秘密があるのか。はたまた、ただヒーローっぽく活動したいだけなのか。
俺の中にある、彼女の人物像は、ますます解像度を落とすばかりだ。
「あっ、もうすぐ来るそうです」
「ん? 誰が?」
「せつ菜先輩です。じゃ、穂村さん。私たちはもう帰ろうか」
「はぁ!?」
「え!?」
「お邪魔しました。あとは2人で頑張ってくださいね」
しずくはいつもの二割増しの笑顔で微笑むが、俺と先生は未だに状況が掴めていない。
俺はそのせつ菜とやらがどうしても気になってしまった。俺も残るよ、と言いかけたところで、しずくは俺の右手を取って、ぎゅっと、力強く握ってきた。
頭の中で、何かが弾けた。ここで俺の脳は約1分の総故障時間に突入した。
しずく? しずくさん?? 桜坂しずくさんッ??
ドアを開け、しずくに連れられるままアトリエを出る。2人で並んで階段を降りながら、俺がハッと我に帰ると、しずくはまだ俺の手を握って話さなかった。
正直、焦りすぎた俺の手汗でしずくの手までヌルヌルなので、離そうとすれば彼女の手からはすり抜けられたし、普通に彼女も不快だと思うので離してほしかった。謝りたくもあった。
でも、それ以上に、俺は幸福感で、しばらく喋れないでいたのだ。
しずくの方を向いて『なぁ、桜坂……?』と、言いかけたところ、遮るように横を風が通った。ああ、間違いなく、俺の横を駆け抜けた彼女は風だった。
それはまさに、一陣の風。赤い閃光のようにも見えた。火の粉さえ飛び散ったような気がした。目に一瞬だけうつったのは、キレイな長い黒髪の女性だった。彼女が通った軌道上で、爽やかなデオドラントのような香りが舞っている。
俺の頭の中に浮かんだのは、手塚治虫氏の描いた『火の鳥』だった。
アトリエのドアが開いて、一瞬で閉まる音。それから間もなく聞こえてきたのは───
「今日もどこかで優木せつ菜!! 私と一緒に、大好きを叫びましょうッ!!」
屋根が外れそうなほどの声量。よく通る、遠くまで届く声。演者なら、そのほとんどが羨むような、パワフルで良い声の持ち主。彼女こそが、しずくや先生の言う、優木せつ菜なのだろう。
アトリエの防音対策は知らないが、この距離であの声量なら、どちらにしろ先生の耳は無事では済まないだろう。
「あの人?」
「そう、あの人」
「……なあ、俺も」
「穂村さんは用事が終わったでしょ?」
「気になるじゃん!」
「無闇に広められても困るから」
もじもじと、せつ菜の正体を一目見てみたいという意思表示をしつつも、未だにしずくはニコニコしたまま、ここから逃げることを許してくれない。
ああ、情けない。久しぶりに女の子と手を繋いだせいで、どこか口実を探している俺。そんな気持ちとは裏腹に、頭の奥では無意識に、しずくと一緒にいたいと思ってしまう。なんだこのぐちゃぐちゃな感情は。
そんな感情の渦の中で、ワアワア喚いていた俺にトドメを刺したのは、しずくが放った、たったの一言だった。
彼女は少しだけ困ったように目を伏せ、ふと足を止める。横顔からでも十二分に読み取れる、哀しそうな表情。なんだよ、その顔。ずりーよ。俺まで真剣な顔になっちまう。
しずくは、聞かずとも心の内を教えてくれた。
「今日は、穂村さんと帰りたかったの」
「!!?」
目を合わせて直接ぶつけられた言葉の破壊力は、俺の想像をゆうに超えるものだった。
なんか、すごく、ものすごくエッチだった。
15歳並の思春期脳内フィルターで、上目遣いに、そして頬は赤らみ、何故か下着姿に誇張されて映し出された彼女は、涙目だった。ごめん、しずく。どう足掻いても、俺はただの思春期の男の子に過ぎない。
そうでなくとも、15年間で一度も言われたことのない言葉。衝撃すぎる衝撃。脳から臓物・神経・骨の一本ずつを通って爪先へ、カラダの全ての部位にイナズマが走るような感覚が襲う。
俺は、ついに階段の途中で平衡感覚を失い、頭から床に落ちた。
「穂村さんっ!?」
「…………」
まだ床から4段目でよかった。俺はなんなくカラダを起き上がらせる。
丈夫に産んでくれた母と、キチンとした筋トレの指導をしてくれる演劇部に最大限の感謝をすると共に、俺は全く別の理由で出かけた鼻血をすする。
「……俺でいいのか」
「え?」
「俺でも、いいのか。桜坂と一緒に帰るヤツは」
「いや、鼻血……」
もう普通にドバドバと出ている鼻血をハンカチでおさえ、俺は心配そうに駆け寄るしずくに問いかける。
それどころではない、みたいな顔をするな。俺からしたら鼻血どころではないぞ。お前、俺と一緒でいいのか。翌日クラスでウワサされるかもだぞ。あの優等生がよく分からんメガネと一緒に帰ってたとかって。
「だ、大丈夫なの?」
「見ての通り元気いっぱいだ。だから答えてくれ、俺でも……」
「穂村さんでもいい、とかじゃない。穂村さんがいい」
「お……?」
とんでもない量の脳内麻薬・エンドルフィンが、脳ミソを漬けていく。もう脳汁で米炊ける。
未だ汗だらけで、ヌルヌルの手を制服のスラックスで拭い、俺はしずくの手をとる。いつしか鼻血はおさまっていた。
「……いいのか」
「いいって言ってるでしょ」
俺の勘違いだと思うが、彼女はどこかバカバカしそうに、しかし、幸せを噛み締めるように、俺に向かって微笑んだ。
ああ、どうせ俺以外にもこうなんだろう。
誰にでも優しいんだろう。
そうやって何回も自分に言い聞かせても、今だけは、普段は欠けらも無い『自己肯定感』で満たされている。どこか、舞台の上だけで感じられるような、観客を湧かせることができた時の高揚感に似た、そんな幸福感が俺を包む。
彼女が俺の名前を呼ぶ度に、俺は心の底にある器に、暖かいスープのようなものが溜まっていく。それはひどく小さい器で、数滴でも入れば表面張力で水面から大きく盛り上がってしまう。
「ふふ。なんか変だよ、穂村さん」
「おう。なんか変だわ、俺」
ライトブルーの瞳が、俺を真っ直ぐ見つめる。後にそれは軽く細められ、眩い笑みに変わる。
好きだ。
軽く口から出そうになった、とてつもない爆弾を飲み込み、俺はしずくの手を握る力を、ほんの少しだけ強めた。
一緒に帰りたい、という切実な欲望が、このまま帰りたくない、という汚い恣意へと塗り替えられた。どす黒く、醜い、最低のエゴイスティックは、その日から俺の中で無くなることはなかった。
俺、やっぱダメ人間なんだ。ちょっと好きだと思ったくらいで、こんなに……。
心が躍るぜぇ〜〜。
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