今日は部活はお休み。
少し物足りない、オフの日である。
来週からは学園祭取り組み強化期間が始まるので、基本的に平日は毎日練習がある。先生が頑張ってくれたおかげで、この前から2日で台本もできたし、今日は今のうちにゆっくり休もうという日である。
そんな日に、ホール入口前に『一学期末テストやクラスの方の取り組みもあり、毎日が基本的にドタバタ状態で、完全に部活の予定をド忘れしてしまった新入部員ふたり』がいた。しかも片方は珍しいことに超のつくほどの優等生。
疲れてるんだろうな。美味いもん食って、あったけえ風呂に浸かって、ゆっくり寝て欲しい。できれば隣に俺を置いて欲しい、なんて烏滸がましいにも程がある願いは、たとえ今際の際でも口に出さないが。
流れ星にでも祈るしかない、雲を掴むような話だ。俺としずくがくっつくだなんて。
「部活に来るのがルーティーンのひとつになってるんだよなあ」
「そう考えると、ここに来たのも100パーセント悪いことじゃないのかもね」
「そうだ、そうやって自分を楽な方へと逃がすのだ」
「悪い言い方するね……」
しずくはどうやら、スクールアイドル同好会の方もオフのようで、これから真っ直ぐ帰るところだそうだ。俺は迷わず、一緒に帰ろう、と誘った。彼女はノータイムでそれを受け入れた。
俺は贅沢者だ。果報者だ。町中の家に自慢して回りたい。放課後のしずくを独り占めできるだなんて、俺なんかがしていいのか。
「こうやって帰るの、3回目くらい?」
「だな」
ホールから下駄箱までの道は、地味に遠い。
春も終わり、そろそろ蒸し暑さが列島全体に襲いかかろうという6月のはじめ。明日は雨らしい。俺が思う、東京に住んでいて感じる一番のデメリットは、温帯低気圧やらドライフェーンやらで、夏の暑さがより一層強くなってしまうところだ。
「もう、夏かあ」
「夏だね。この前まで桜が咲いてたのに」
「暑いの嫌いだなあ」
「私は寒いの、ちょっと苦手」
「春が一番いいよな、なんだかんだ」
「過ごしやすいよね」
靴を履き、校門までの道のりを、あえて少し遠回りして歩き出す。
「でも結局、誕生日がある季節が一番好きなのかも」
「というと?」
「私、春生まれだから」
「お〜、俺も。早生まれ?」
「うん。4月」
「げ、11か月違い。俺、3月なんだよ……な…………」
早生まれ(ただし年度末)の苦悩を話のネタにすることに慣れてしまった俺は、来年まで原付取れないんだよね〜、なんて話をしてやろうかと思ったが、俺はピタリと足を止めた。
4月。しずくは今、確かにそう言った。
4月が、しずくの誕生月。そういう意味でいいんだな。
誕生日が4月の何日か、なんてことは、この際聞かないことにする。今は『6月』なのだ。
しずくは『もう慣れっこだよ』みたいな顔をして、俺の数歩先で止まってくれている。
「えっ……おい〜〜〜! えぇ〜!?」
「ん?」
「そ、そういうのは! 誕生日の前に言っておくことじゃあないのか!」
「まだ知り合う前じゃないの?」
「そうだなあ!」
「うん。それ、仲良くなる前に誕生日になっちゃうから、クラスの人とかからもよく言われる」
「そうか…………」
もっと早く言うにしても、まだそんなに仲良くないし、4月ってんなら春休み、つまり入学式の前ってこともある。対面すらしてない場合も。こりゃあ、クリスマス生まれなんかよりも哀しい宿命かもな。
「クラスの人から、プレゼントとかも貰ってない感じ?」
「うん。ひとつも……仲が悪いわけじゃないんだけど、どうしてもね」
仕方ないと思う。めっぽう仕方ない。
くそ。どんな顔をしていいのやら。ドンマイと笑顔で言ってやるべきか、俺も一緒になって生まれた日特有の不幸を分かち合うべきか。
「…………」
「釈然としない?」
「釈然としたいな」
弱点都市大会。
いや、いや。ここでとるべき選択肢は、もう決まっているようなものだ。俺がとるべき、目の前にいる好きな人にとって善き選択肢。
断られるリスクは十分にある。それによって、俺がしずくと別れた後で、帰りの駅のホームや電車の中や部屋や風呂や布団の中で、遠回しに『あなたはまだ仲良くなってない』という結果を突きつけられる惨めな敗北を思い出して泣くかもしれない。
しかし、このチャンスをみすみす逃して、素直に山手線に乗るような俺ではない。
俺は本気なのだ。
今さら振られたからってなんだ。これからだって2年以上もチャンスはある。こんな俺に振り向いてくれる確率だって、たとえゼロに限りなく近くとも、完全なるゼロではないはずだ。
死ぬ気でやろう。死ぬわけじゃないし。
「買いに行こう!」
「えっ、何を?」
「プレゼント!!」
「えぇっ!?」
「……えと、イヤならいいんだけどさ。ほら、丁度小遣い入って、ちょっち余裕あるっつーかさァ……俺だって、仲悪くないはずだし!」
「穂村さんとは仲は良いけど、わざわざ悪いよ」
「でも、なんか……イヤじゃん! それ聞いて、そのまま帰るの! 俺の気が済まないっつーか、ただお前に少しでも誕生日悪くねえなって……思って欲しいっつーか……」
我ながら、なんという必死さだ。高校受験の時くらいの必死さ。なんだかちょっと恥ずかしく思えてきた。でも、目は逸らさない。顔が強ばって戻らなくなりそうだった。
すると、しずくは小さく吹き出して、直ぐに「ごめんね」と謝った。
笑うなら笑えばいい。俺はそっぽを向いて、表情筋を揉みほぐす。心優しいしずくがそんな事するはずないと思いつつも、俺を小馬鹿にしたように笑っていてもおかしくないと覚悟して、彼女と目を合わせる。
天使がいた。
「優しいんだね。穂村さん」
安直にしか表現できない、俺の高校1年生並の語彙力がうらめしい。
ああ、まさしく天使の微笑だ。
「ん"」
だ、大丈夫かな。今ので心臓止まってないかな。ああ、動いてる。何ならいつもよりも活発に血液循環させてる。よかった、元気そうで。バクバクいってるのが胸に手を当てなくても分かる。持久走の後よりも激しい脈拍。
だって、さあ。天下の桜坂しずくさんの笑顔だぜ。ルーブル、メトロポリタン、エルミタージュ、プラド、オルセー、ナショナル・ギャラリー総じて垂涎待ったナシ。ダ・ヴィンチが、喉から手が出るほどに欲しいであろうモデルである。
俺、こいつと同じ舞台に立てるんだろうか。演じてる途中にこんなの見せられたら、魅せられちまう。
これは平成のオードリー・ヘップバーンという異名がつく日も遠くない。
あぁ〜あ、開きてえな。
個展。
「……欲しいものがあるんです」
「おっ!」
しずくは小声でつぶやくと、手のひらをこちらに向けて左右にぶんぶん振りながら、恥ずかしそうに確認する。
「ほ、本当にいいんですか! 私、友達にこういうことされるの初めてで……」
「いいのいいの。今日は桜坂の誕生日後夜祭ってことで」
「……もしかしたら、言うだけ無駄かもしれないんですが……」
「言うだけタダ、聞くだけタダよ」
「えっと…………ですね……」
しずくは、『ぼそぼそと』した声で話し始めた。
間違えた。『ほそぼそと』だ。どっちも同じか。
何度も念入りに確認して気が済んだのか、しずくはお腹いっぱいに空気を吸い込んで──その細いお腹のどこに入るんだろうか──放課後の学校、部活に勤しむ生徒もいる中で、舞台の上でやるような大声で訴えた。
「私!! ずっと前から、欲しかったんです!!」
「それはズバリ?」
「『下校時の思い出』!!」
下校時の……?
「おもいで……?」
「こう……こっそり買い食い、とか……ショッピングモールに行ったりとか! えっと、1年生の初めからこんな贅沢が許されるのかは分かりませんし、校則にも……」
俺は校則をそんなに真面目に読み込んでいないので、いまいち帰り道の寄り道がどうとかの違反性が分からないのだが。しずくが言うならそうなんだろう。
彼女は、破ることによって優等生のレッテルが剥がれるだとか、大衆の目を気にして破りたくないだとかではなく、根っからの真面目人間というか、良きことは進んですべき! 規則は絶対! みたいな人なので、まあ校則は守るのが当たり前なんだろう。優等生になるのも頷ける。
なんだか初々しいな。中学生時代にクラスのヤツらと散々やってきた事だが、高校になって初めての寄り道だと考えると、少しだけ、こちらもドキドキしてくるような。
まあ、こういう時に上手い口をきいて相手を、ましてや自分をも、だましだましやっていくのが俺みたいなダメ人間の習性だ。ここで発揮しなければいつするんだ。
放課後に2人きりで青春の思い出作りってさ。まあ、デートなワケじゃん。これを逃したら泣き寝入り一直線。しずくだって多少勇気を出して言ってくれたのだろう。このまま帰るやつがいるか。
彼女の誕生日にかこつけて、ありがたくデートさせていただこう。
「お前が誰かに見つかったら、俺が連れ出したって言うさ。そーすりゃ変わらず桜坂は優等生だし……とりあえず、俺に任せて欲しい」
「!」
「口裏、合わせるんだぞ」
「は……はいっ!」
「ち、近くの何とかプラザ……で、いい?」
「はいっ!!」
彼女は心底嬉しそうに返事をすると、ふたたび俺の横に来る。俺も、高校生活において代名詞とも言えるようなイベントを、しずくと経験できることを、噛み締めるように歩いていく。
まあなんとも便利な街だこと、学校から徒歩30分もしないところに、お台場を代表するデカい複合商業施設がある。名前はちょっと長ったらしいので覚えていない。ショップの数は100以上、常に何らかの大きなイベントやポップアップストアがあり、横にはさらにデカいオフィスビルも。
向こう側にレインボーブリッジや、特徴的な形のテレビ局の建物も見える。天気予報の時に映される背景でよく見る、いかにも東京って感じの場所。
そして、その施設の前に立つは、海を見すえるクールジャパンの象徴。日本を代表するロボットアニメ、ガンダムシリーズの超人気作、その主人公機である。
サイコフレームが光るわ、変形はするわ、プロジェクションマッピングもするわ。なまじ前のRX-78-2よりも、元々の機体のギミックが多いので、まあ豪華な立像になっていらっしゃる。
分からない人はいい。とにかく目の前にしてみると、テンションは上がってついつい写真も多めに撮ってしまうし、素人でも見上げるほどの迫力だってあるし、何よりカッコイイのだ。ユニコーンは。
「あれもガンダムなの?」
「一角獣のMS、ユニコーンガンダム。その1号機だ」
「もびる……? なんか、今は白いし角も1本だけど、たまに2本になってるよね」
「白いのはユニコーンモード。赤いフレームが見えてる時はデストロイモードなのさ。ユニコーンは変形もできる」
「あんなに大きいのに……すごいね」
ユニコーンの横を通り、まずはおやつの時間といこうか、と2人で向かったのは施設内ではなく、外にある屋台であった。施設をぐるっと囲むように、焼き鳥・ホットドッグ・タピオカ・ケバブ・クレープなどの屋台が、数多く構えられている。23区の大体に言えることだが、もう一年中お祭りのような場所なのだ。
その中で俺らが選んだのは、クレープ屋さん。屋台の見た目がもう可愛いし美味しそうだと、しずくが見ていたところ、クレープの生地の素を作っていたイケメンの兄ちゃんに目をつけられた。
「お、いらっしゃい! 今ならカップル割で、クレープ全品100円引きだよ!」
「かっ!?」
「お、俺ら友達ッスから!」
「なんだぁ、そうかい。でもおふたり、お似合いだよ?」
「〜〜〜〜〜っ……」
しずくの顔は耳の裏まで真っ赤っか。多分俺も同じだと思うけど。彼女は気を紛らわすためか、屋台の前のメニュー表に張り付いてしまった。
浅黒く焼けた肌が良く似合った、頭に巻いたタオルから金髪が少し覗く兄ちゃんは、イタズラっぽく笑い、俺に話しかけてきた。
「あんちゃん、なかなか可愛いの捕まえたねぇ。脈ありそう?」
「いやいや、俺なんかじゃ……」
「そんな弱気になることないって! こんなかわい子ちゃんとデートしてるだけでも、オレは羨ましいっちゅーの」
この人くらいの良さなら、女の子なんかいくらでもナンパで捕まえられそうなモンだが。いや、そんじょそこらの女の子よりもしずくは可愛いけれども。
まあ、確かに。誕生日プレゼント代わりの思い出を作りに来たという口実があるとはいえ、しずくとは所謂『初デート』だし。
「ま、やらずに後悔はすんなよ。若者よ、放課後デートを楽しむがよい」
「お気遣いありがとうございます。お兄さんも全然若いし、イケメンですけどね」
「よーし! 150円引き!」
「ありがとうございます!」
「穂村さん、決まった?」
ず〜っとメニュー表とにらめっこしていたしずくが声をかけてきた。
「チョコバナナクリームをひとつ」
「いちごショコラ、ミニサイズでお願いします」
「はいよ〜」
イケメン兄ちゃんが値下げしてくれたおかげで、ふたつ合わせて1,000円以下。ありがたいことに300円も引いてくれた。
いや、分かってるよ兄ちゃん。貴方が言いたいことは、俺はよ〜く分かってる。クレープを作りながら、こっちにしつこいくらいに目でサインを送ってきているからね。よそ見してヤケドしないことを祈る。
しずくは隣で、クレープを作っている手元をじっくり見ている。こういう屋台に来たことは流石にあるだろうし、特に物珍しくもないっちゃあないんだが、ついつい見ちゃうんだ。作る工程は。ちゃんと作るのも上手いし、手さばきがテキパキとしている。
なんとも美味そうな2つのクレープが作り終わるまでは5分と経たなかった。兄ちゃんがそれをこちらに持たせてくれ、いよいよお勘定の時間だ。
「クレープ屋の値段は細々しているなあ」
「ですね。トッピングが細かいですし」
「いちいち割り勘するのも面倒だよなあ〜〜ッ」
「……そう、ですかね?」
「俺はそうなんだよ」
値下げをしてくれた理由は、俺がイケメンだと褒めたから……というのも勿論あるだろうが、恐らく兄ちゃんはこういうことを言いたかったんだろう。
「だからこれでいい」
「!!?」
俺はオシャレなレザートレイに、1000円札を置いた。魔法カード『俺の奢りだ』を発動させてもらう。チェーンは組めない。破壊もできない永続魔法だ。
ありがとう兄ちゃん。ありがとう野口英世。
「あいよ。80円のお釣りね」
「しずく、ベンチの方に行って食べよう」
「あ、あの! お金っ!」
「いいの! さ、食べよ」
あとでちゃんと払いますから、なんてあたふたしているしずくと共に、公園的スペースのベンチへと向かう。ふと後ろを見てみると、兄ちゃんは今日見た一番の笑顔でサムズアップをしている。
俺は、角度にして45度、深く礼をして、サムズアップを返した。
俺が食べ始めても、しずくは奢られ慣れていないのか、少し心配そうな表情をして食べ始められずにいた。いつか返してもらえればいい、と言うと「絶対ですからね」とつぶやいて食べ始めた。
返されても絶対『忘れた』って突っぱねるだろうけど。でなきゃ、兄ちゃんが値下げしてくれた意味がなくなっちまう。
肝心のクレープの味はというと、まあ美味いこと美味いこと。クレープ自体を久しぶりに食べたのだが、あそこの屋台なら通ってもいいくらいには美味い。
「甘いもの、好きなの?」
「結構好き。クリームが沢山入ってると嬉しくなっちゃうね」
「そうなんだ。可愛い」
それはあんまり言われても嬉しくないし、しずくの方が何京倍も可愛い。褒めてくれているのなら、ここは素直に喜んでおくべきなのか。
女性が男性に言う『可愛い』の心理がよく分からない。もしや母性か。内なる母性が目を覚ましそうってことか。男の子を我が子のように可愛がりたい、的な感じなのか。まあ、知ってどうこうするわけではないが。
可愛いめの役をやる時は、しずくにアドバイスを求めることとしよう。
それにつけてもしずくが可愛い。
いちごとショコラを小さなほっぺいっぱいに頬張り、目を細めて味わう彼女は、いつもの優等生のオーラをまとった、どこか俺よりも上級生というか大人っぽい雰囲気ではない。年相応の遊びたがりな一面の見える女の子。
はじめて、同じ目線に立てた気がした。心のどこかでは、しずくのことを見上げていたのかもしれない。今も俺よりは遥かに善い人というか、人間としての優秀さは未だにずっと上なんだけど、それでも友達として、仲良く放課後デートができている。そんな気はするのだ。
そんな思いにひたりつつ、お台場の空を見上げていると、いつの間にかしずくが俺のチョコバナナをじっと見つめていた。
メニュー表見てた時、さんざん悩んでいた彼女のことだ。チョコバナナも欲しくなったんだろう。
俺は頭の中で、とんでもなくよからぬ事を思いついてしまった。これはもはや、彼女のためではない。99%、俺が俺自身のために施す優しさ。自分への見返りやリターンしか考えていないような行為である。
もしかしたら、しずくとショッピングモールで2人イチャイチャができる絶好の機会を、台無しにしてしまうかもしれない。誕生日プレゼント代わりのデートなのだから、俺の幸福は二の次三の次。
そう、言えるわけがない。
「俺のも、ひと口いる?」
「ええっ!?」
ああ、ダメだ。口が滑った。
終わった。
散々溜め込んできた『しずく可愛すぎる頭わしゃわしゃしてギュッてしたい欲』。そのほんの一欠片が、出てしまったのだ。
ベンチから飛び跳ねんばかりに泡を食うしずく。そりゃあそうだろう。俺も同級生の女子に言われたら、比喩法の話じゃなく、本当に飛び跳ねるところだ。
「ぇあ、あ! だ! 大丈夫、ですっ!」
「あんまり露骨に嫌がられると泣くぞ」
「いやいやいや! そんな嫌がってなんか……ああいやでも……うぅう〜〜〜っ……!」
泣きそうなくらいに眉毛を下げて、迷ってくれている。健気にも程がある。もういいよ、戯言だよ。忘れていいんだよ。
しずくの予想外の反応に、俺の方まで困ってしまう。なんと愚かだ。なんて卑しい俺なんだ。
自己嫌悪を加速させている場合ではない。これは冗談だと言おう。それだけ言えば、なぁんだ軽いジョークでしたかアハハで済む話なのだ。言え、ジョークと言うんだ。承太郎に追い詰められたダニエル・J・ダービーのように、口から言葉を発しようとするも、出ない。喉までは上ってきているというのに。
ダメだ。
しずくと、間接キスがしたい。
この世の何よりも真っ直ぐで、この世の誰よりも邪な、そんな俺の脳が声を発することを拒否する信号を出している。
しかし言わなければ。そうやって何分経っただろうか。しずくはいったん目を閉じ、深呼吸をしだした。そうだな、落ち着くことは大事だな。
すると、彼女はおもむろに左側の耳の辺りで、黒髪をかきあげた。風になびいて、どんな香水よりもこの匂いを一生鼻の穴につけていたいぐらいの、とんでもなくいい匂いが漂ってくる。
彼女はこちらを向き、俺のチョコバナナクレープめがけて、口を開けた。オイオイオイ桜坂しずくさん。本当に食べるのか。食べてしまっていいのか。キスだぞ。間接だけどキス。提案しといてなんだけど。
初めてじっくり見た。しずくの口の中。よく考えれば至極当たり前のことではあるが。歯並びもよく、舌も健康的なピンク色。
そこから十数秒。口を開けた状態で固まっていたしずくは、薄く目を開けて、ちょっとウンザリとした様子で、また目を強く瞑る。彼女の喉の奥から、絞り出された声は、間違いなく今まで聞いたものの中で一番エッチだった。
「…………あ〜……ん♡」
嘘でしょ。桜坂しずくさん。
彼女はあまり遊び慣れてはいなさそうではあるが、れっきとした現代女子高校生だ。華のJKだ。
にしては、俺に対して『無防備』すぎやしないだろうか。
そもそもの話にはなるのだが、出会って2ヶ月か3ヶ月くらいの、ただの部活にいる同級生の男子にホイホイついていくような感じのJKは不安になる。俺が誘ったようなものだけども。
ツヤのある唇の奥の、しずくの口内。刺激的すぎる。裸よりもヒトに見せない場所を、俺が独り占めしているというのだから。
あー。お口ちっちゃ。可愛いなあ。何だよこいつ。可愛っ。世の人々全員に可愛がられるために生まれてきたようなヤツ。くそお、可愛い。とにかく可愛い。世界の共通言語は、可愛い、なのだ。英語ではない。可愛いネコのツイートは国境を越えて広められる。そういうことだ。
湯気が出るほどに赤くなった顔をこちらに向け、恥ずかしさを堪えながら──わざわざそうしたのはしずくの方なのだが──瞑っていた目を、どうやら中々チョコバナナが口に来ないと思ったのか、左の方だけを薄く開け、半目でこちらを見る。
大変エッチである。
自分でも分からない。いろ〜んな欲望が爆発して、本能のままに暴走をしていないのが。
これで俺のことなんか好きじゃないってんだろうから、驚きである。ほかの男子だったら、確実に勘違いしてるはずだ。
「……はい、あーん」
今のは不純異性交友だろ。
何故かって、エッチだったからに決まってるでしょう。
こちらに向かって小さな口を開けて、待っているのを見ているだけで、何故か心の中の『漢』が目を覚ましそうだった。髪をかきあげているのもポイントが高い。
あの表情があるだけで、世界に平和がもたらされるぞ。争いなんてくだらない。ああ、世界中の人々に伝えて回りたい。愛する人に『あーん』するだけで、ラブアンドピースは実現できるんだぜ、って。
文面よりも実際に見てもらった方が早いが、逆にここまで来たら俺だけのものにしたいな。
いくらなんでも可愛すぎたし、エッチすぎた。高校1年生には刺激が強いというか、カロリーが重いというか。ちょいとばかし早かったかもしれん。
そりゃあそうだ。手を繋ぐだけで汗ダラダラの鼻血ドバドバの階段どんがらがっしゃんだった俺が、『あーん』なんてしたらどうなるか。最初から分かってたはずなのに。
もうダメだ。俺、しずくをそういう目で見てるんだって事を嫌でも自覚させられてしまった。なんだか自己嫌悪が強まるような結果になってしまった。幸せだったり自己嫌悪だったり忙しいな俺という人間は。もっとどっちかに集中できないものか。
どうせなら、幸せな方に集中してみようか。
でも、自己嫌悪だけは意識していても頭に流れ込んできてしまうんだなあ。
俺の悪癖だ。
しずくが、俺のチョコバナナクレープにかぶりついた。決して隠語ではない、ただのクレープ。俺がいくつか齧っただけの、ただの……。
「……ありがと」
それだけ言って、しずくはクレープの包み紙のゴミを捨てに行ってしまった。俺は、クレープの端の方、しずくが食べたところを、小さな小さな口で齧った痕を、じっくりと見つめる。
いや、お残しはいけない。それにせっかくしずくの唾液がついているんだ。ゴミ捨て場のカラスに食べられるよりかは……。
俺は意を決して、食べようとした。が、直前でひよって、動きを止めてしまった。
恐る恐る、産まれたての赤ん坊のほっぺに触るように、優しく。しずくの齧ったところ、しずくの唾液がついているところ、もはやしずくの口内も同然のところに、舌先で触れてみる。
数秒、吟味。
おかしい。クレープの甘みしかない。舌の先は甘味を感じやすいというのに。
しずくの唾、甘くないのか。
マル描いてちょん。
評価用リンク→ https://syosetu.org/?mode=rating_input&nid=267334
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