片時雨の下手で   作:苗根杏

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#8 見せたいモノがあるから

 

 部員全体の合唱は、予想よりもずっと早い上達を見せた。チームワークと、合唱への羞恥心の無さが勝因か。余裕が出来たので、今週からは『青い珊瑚礁』を練習することとなった。学園祭のステージを2週間前にしての奇行である。

 

 被服部のスーツ作成は順調そのもの。小道具班は、武器もベルトも、撮影用プロット並の完成度が期待できる進捗。大道具班は倒れてる。スモークを焚く機械は、先代が使っていたものがあったので、それを使うことにしたものの、爆発が再現できないとか何とか。爆竹を買いに行こうとした先輩を必死に止めた。

 

 俺も暇な時は道具班に手伝いに行っているのだが、今後はあまり行けそうにない。

 

 あくまで役者なので。

 

「変身!!」

 

 主役の変身時のポーズを即興で作り、先生と部長の前で俺は叫ぶ。

 

 演劇部で新しい台本が出る度に、『演者の割り当てを決めるオーディション』という恒例行事がある。台本を作る段階では、誰がどの役をやるかは決めておらず、つまりは台本を作ってから役者がつくという形になる。

 

 これは、俺がやっていた中学演劇でもあったものだ。高校になってもやり方はあまり変わらない。

 

 地区や県の大会なり、校内での特別講演なりの取り組み期間となると、今まで口出しをしてこなかった顧問がようやっと重い腰を上げ、部長と共に部活を仕切りに職員室からやってくる。その取り組みの第一弾として、新台本のオーディションがあるのだ。基本的に、オーディションはホールの隣の物置にて行われる。

 

 このオーディションの項目は『普段のセリフの演技』『変身! の掛け声の演技』『部長とアドリブでヒーローショーっぽく動いてみる』の三つ。最後の項目の無茶振りがひどい。

 

 ちょうど今、柔らかい発泡スチロールの棒を使っての、部長とのエセ殺陣が終わったところだ。今回、早着替えを使って、変身前と変身後の両方を1人ですることになっている。これもなかなかに無茶な話だ。

 

 本当ならば、主役が担当するのは、変身前と変身後の声(アフレコ)だけでいいものの、わざわざ先生が顧問に頭を下げてまで──先生と呼ばれているうちの部の脚本担当・鈴虫修舞氏が、うちの部の顧問に頭を下げて、という意味──こだわった演出だという。

 

 つまり、変身前は普通に演じる。変身後はスーツを着て動きの演技だけを行い、その時の声はアフレコにする。という形になるのだ。

 

「……ありがとうございました」

「お疲れ様」

「…………」

 

 顧問はずうっと何も喋らずに、部長に進行を任せていた。部長は顧問に話しかけてみるも、黙って顎に手を当てたまま。

 

 正直言って、何を指摘されるか分かったものじゃあないので、結構怖い。毒舌だったらどうしよう。折れちゃう。主に心が。

 

 無言、嫌いなんだよ。友達と勉強会とかすると、ついつい喋っちゃうタイプだから。こういうのは自称するものではなさそうだけど。俺は耐えかねて、先生に話しかけてみた。

 

「あの〜、どうされました?」

「決めた」

「はい?」

 

 思えば、俺が入った時に顔合わせこそしたものの、俺が一方的に愛想笑いしてただけで向こうは一言も喋らなかったし、初めて顧問の声を聞いた……と思うと、顧問は俺を指さしてこう言った。

 

「あんた、主役」

「…………??」

 

 あんた、とは俺のこと。

 

 主役、とは今回の台本の主役のこと。

 

 で、合ってるンすよね? 

 

 部長の方を見ると、満面の笑みでサムズアップしていた。一応、顧問にも聞いてみることにする。

 

「あの、原田木先輩とかには演技力では負けてると思うんです」

「落とす」

「新羅先輩もイケメンで良いのでは……」

「落とす」

「……本当に、俺なんですか?」

「イヤならいいよ」

 

 俺は慌てて、座っていたパイプ椅子から落ちるようにどいて、床に正座する。

 

「全く!! 精一杯やらせていただきます!! ありがとうございますッ!!」

「…………」

「んふふ。花火くん、良かったじゃん。似合ってるぞ〜」

「ハハ……」

 

 くそ。自分で言っときながら、大分惨めな命乞いみたいに引き受けてしまったではないか。

 

 俺は目立ちたくて演劇部にいるはずなのに。気づけば、自分が酷い目にあうことばかりを考えている。身勝手なジレンマだ。目立ちたいのに、俺は俺のことが嫌いで、何故俺みたいなのが舞台に立つんだと思ってしまう時がある。

 

 周りからはすごいと言って貰えるが、それも今のうちだけだ。そのうちごく普通の、『無理してるイキリ陰キャ』として、扱われる日が来る。

 

 気づけば、面接で使う自己PRや長所が無かった。自分の優れているところが無いからだ。

 

「花火」

「はい!」

 

 また顧問が俺を呼んだ。まだ慣れないなあ、このオッサンの声。しかも渋いわけでもなく、ちょっと高めの声で、割とハッキリ聞こえる。本人には口が裂けても言えないが、変な声ではある。

 

 変な声のオッサンは、俺の方をじっと見つめ、姿勢を変えずに言った。

 

「自分を、変えるんだぞ」

「……はい…………?」

「変身しろ、お前にはできる」

「は、はい」

 

 なんだかよく分からないが、多分これは技量の話をしているわけではない。演じる時の心持ちの話をしているんだろうというのは、なんとなく分かった。自分が本当のヒーローだと思え、的な。

 

 演じる時にその人の気持ちになるのは当たり前だし、今更何を言ってんだ感は否めないけど。少なくとも俺にとっては、役の気持ちとシンクロさせることは、演者にとって何よりも重要で、当たり前でなければならないし。

 

「花火くん、ちょっといい?」

「はい、なんでしょう」

「いつの間にあんな動き練習してたの?」

 

 控え室兼オーディション会場からさっさと出ていこうと、ドアノブに手をかけたところ、部長に呼び止められた。あんな動き、というのは多分アクロバティックな演技の所を指しているんだと思う。

 

 俺は先日、ヒーローショーについて、知っているようであまり知らないことを知った。そこで動画サイトなり何なりを漁ってみたところ、自分なりのコツを見つけたのだ。

 

 セリフの方も、ヒーローショーで声をあてている声優さんを参考にしてみて練習してみた。ケレン味たっぷり、カッコつけた決め台詞でも、恥ずかしがっていればダサくなるし共感性羞恥を呼んでしまう。堂々と言えば、それなりにクサい台詞でもまかり通る。

 

 アクロバティックな動きに関しては、練習しようにも時間がかかってしまうので、とりあえず逆立ちから始めることにした。確か倒立前転といったか、逆立ちをしてから前に回って地面に足をつけるやつ。

 

 ある程度慣れてきたら、部室で練習しようと思う。俺の六畳くらいの部屋じゃあ出来ないから。

 

 先輩方には、純粋な演技力では追いつけないのだ。だから、せめて動きのテクニックや知識くらいは……と思って。

 

 一連の説明をすると、部長は「なるほど……」とつぶやく。どうやら納得してくれたようだった。

 

「君、ほんと好きだね」

「まあ、最前線で目立ちたいですし」

「とにかく……君が舞台装置じゃないことが分かった」

「はい?」

「練習も無しにこんなに上手かったら、君は舞台装置だから」

「ん〜〜? ……そっすか……?」

 

 部長の発言は、時々、意味が読めない時がある。

 

 詩人すぎて。

 

 ふたりに軽く挨拶をして、控え室からホールへ戻ろうとしてドアを開けると、すぐそこにしずくが立っていた。

 

「桜坂」

「……オーディション、どうだった?」

「えと、うん……上手くいったよ」

「役は貰えた?」

「ん。主役」

「主役っ!?」

 

 じきに発表されることだし、隠すことでもない。正直に話してみると、しずくはあっけにとられて固まってしまった。

 

 まあ、意外だろうな。俺がしずくよりも演技が上手くないってのもあるし、部長に説明した練習は誰にも言ってないし。しずくが変身しても良さそうなものを。

 

「…………ん……そっか」

 

 たっぷり間を空けて、しずくはか細い声を漏らす。

 

「桜坂はどうなの」

「Dだって」

「あ〜」

 

 Dは、後半にしか出番がない役。だが、今回の劇には欠かせない『ヒーローショーのお姉さん役』である。

 

 余談だが、役名は最初はアルファベットで割り振られており、そこに決まった役者の名前を、そのまんま入れることになっている。D→桜坂という役になるわけだ。

 

 この台本を、この劇をヒーローショーたらしめる、いい役だ。前にしずくが、Dの役を練習していたのを見たことがあるが、きちんとお姉さん役を研究して演じているのが分かる、素晴らしい演技だった。

 

 個人的には、麗しい騎士のようなヒーローも見たかったが。スーツはなんと男女兼用とのことだったし、しずくが変身して戦うところは見たかった気もする。

 

 しずくはこちらに何か言おうと、『お』の形に口を開くも、また固く閉ざしてしまった。それから、ボソッと、こちらを流し目で見て言う。

 

「頑張ってね。応援してる……穂村さんなら、できるよ」

 

 急いでホールに戻るしずくの背中は、いつもとは違う雰囲気だった。俺の勝手なイメージだが、いつもなら雲ひとつない秋の澄んだ空気の空って感じが、変な形の魚しかいない海の底みたいな……ううん、例えが悪かったか。

 

 とにかく、いつもより暗い。練習に来た時は、あんな感じじゃなかったのに。何か、我慢してるのかな。スイーツとか? ありうる。大会前はよりルックスに気をつけなければならないから。

 

 俺からすれば、しずくはもっと食べていいと思うんだけどな。もうちょい、太ももがムチッとしてるくらいが丁度いいというか。あまりに主観すぎる意見だが。

 

 脚の太さの好みは十人十色、千差万別。しずくは今の細さが丁度いいんだろうな。腕も含めて、折れてしまいそうなくらいの華奢さ。

 

ああ。

 

抱いて寝てえ。

 

 

#8

見せたいモノがあるから

 

 

 トイレに行ってから、しずくより遅れてホールに戻ると、先輩たちが俺を見るなり、文字通り突進をしかけてきた。いつからここはアメフト部になったんだ。

 

 一番ガタイのいい、2年生の塩沢先輩を中心に突っ込んでくるもので、一瞬はぶっ飛ぶことさえ覚悟した。というか、なんで俺がこんな集団タックル、もとい集団リンチもどきに遭いそうになってんだ。

 

 幸い、先輩たちは俺の10センチもない所で急ブレーキをかけてくれた。が、今度は会話のラグビーボールに巻き込まれた。

 

 キャッチボールじゃなくて、ラグビーボール。

 

「お前!! 1年で主役やるんだってな!?」

「幾ら渡した!?」

「ちょ、俺らに隠れて特訓でもしてたのか!」

「しずくと夜の特訓を!!」

「コラ!!」

「いいから答えなさい!! アンタらで夏コミに出るのよ!!」

「先輩としてどうなんだそれは!!」

 

 勝手に人をモデルにして本を作るな。作るのは百歩譲っていいとして、売るな。

 

 というか、俺としずく、そんなふうに見られてたりするのか。

 

 それはそれで、なんだか怖い気もする。実際、俺らは恋仲ってわけでもないんだし。そのうち教室の黒板に相合傘が書いてあって、右に『花火』、左に『しずく』とか書かれるタイプの冷やかしが起きるかもしれん。

 

 流石にそこまでは無いかもしれないが、冷やかされ、からかわれることがあったら、しずくと会う度に気を使うし、気まずい。それはあちらも同じ意見だと思う。

 

 俺は質問攻めに遭いながらも、喋る暇は与えられなかった。そのうち先輩たち同士で言い争いになったので、これ幸いと先輩たちの間をすり抜けようとすると、この人混みの中にしずくがいないことに気がついた。

 

 まさか、と思って舞台の方を見てみると、しずくは小道具のベルトを着けていた。かと思えば、動きはどこかぎこちない感じ。ヒーローものを見慣れていないからか。

 

 オリジナルの変身ポーズをするつもりなのか、ああでもない、こうでもない、としているうちに、面倒になったのか、彼女はスンっと仁王立ちになる。目を瞑り、静かに気合を入れること十数秒。彼女は身体をひねり、見覚えのあるポーズになる。

 

 右拳を握って、肘を90度曲げて脇を締める。左手は指先まで真っ直ぐ伸ばして、自分の右側へ。手の甲は上側を意識する。

 

 その左手を自分の左側までゆ〜っくりと移動させ、最後は右手の方を左側に伸ばし、左手は胸に合わせる。

 

「ライダ〜〜〜〜…………変ッ身ッッ」

 

 初代仮面ライダー、1号のポーズだ。

 

 改めて、しずくに嫉妬をしてしまった。

 

 演技力では、俺は完全にしずくに敗けていることが、ものの数分、たったひとつの演技で分かってしまったからだ。

 

 実力では勝てない。思い知らされたよ。

 

 彼女は、俺の仲のいい同級生である以前に、演技の面では超えなければいけない存在なのだろう。

 

 でも、好きっちゃあ好きなんだよな。どちらかといえば大好き。

 

 世界には現在、使われている言語が約7000はあると言われている。その中にひとつでも、この俺のしずくに抱える感情を表現出来る一言はないものか。バベルの塔が崩壊する前の世界には、そんな言葉はあったのかね。

 

 世界で俺だけが持っている感情ってわけでもないと思う。いっそ作った方が早いまである。

 

 この複雑な感情は、おそらくフェルマーの最終定理より難解なので、それを見つけた人には俺のポケットマネーから賞金を与えようと思う。

 

「桜坂さ〜ん」

「あっ」

 

 舞台に上がった俺の顔を見るなり、しずくは青ざめた。そして慌ててベルトを外すと、こちらに置いて、走って逃げようとする。

 

「失礼しましたぁ!!」

「失礼しないの」

「だ……だって、勝手に……」

「良かったよ。桜坂の変身ポーズ」

「!!?」

 

 実際、参考にしたいくらいである。

 

 もしかして彼女、ベルトを勝手に使って変身してたことがバレて、俺に怒られるとでも思っていたのか。だとしたら見当違いも甚だしい。桜坂しずくに関することについては、俺は懐がアンドロメダ銀河よりも広いからな。

 

 一緒に死体を山に埋めるくらいはしてあげる気がする。

 

「嫌味じゃないぞ」

「わ、分かってますよ」

「本当に、お前の演技が良かっただけなんだ」

「ふえぇえっ…………」

 

 青ざめていた顔が、一転、トマトのように真っ赤に染まる。

 

 こういうとこでは恥ずかしがるの、可愛いんだよね。しずくは気まずそうに、俺にベルトを手渡してくる。

 

 思ったより重量のある変身ベルトを受け取り、腰に巻いてサイズを調整してみる。しずくのウエストにフィットするベルトが俺に合うわけもなく、だいぶベルト帯を緩めることになった。

 

 手元でベルトと変身アイテムをガチャガチャといじりながら、俺はずっと気まずそうにしているしずくに話しかけてみる。

 

「なあ、桜坂の姉御」

「ん?」

「今日はやめとく? 一緒に帰るの」

「なんで!?」

 

 改めて、しずくは俺と一緒にいるのが嫌なんじゃないかと思い始めてきた。

 

 いや、俺は楽しいよ。もちろん。しずくといて不快なことなんてあるか。快感でしかないよ。

 

 でも、しずくは不快かもしれない。

 

 なんだかさっきの被害妄想で、変に意識してしまっている自分がいる。今まで俺に付き合わせてきてしまったし、思えばあの時も……そういえば、あの時だって……と、数々の小さなプレイミスが頭を過る。

 

「なんか……さ。桜坂の姉御的には、俺と帰るの……どうなのよ?」

「呼び方が引っかかるけど、どうもこうも」

 

 今のご時世に天動説を否定するがごとく、しずくは簡単そうな口ぶりで答えた。

 

「楽しいよ」

 

 普段とさほど変わらない、彼女の笑顔。時に人は、この表情を『鉄仮面』だと呼ぶ。

 

 そんなやつを見て、俺はたいてい心の中で悦に浸る。調子に乗る。俺はあんなに表情豊かなしずくを見てるんですもの。たとえそれが作りものでも、俺にとっちゃ貴重なんだ。

 

 俺らは今日の練習で、これ以上気まずくなることはなかった。いつも通りの距離感。友達、とまでは行かずとも、同級生っぽい何か。いや、同級生ではあるけど、ただの同級生の距離感にしては近めという話。

 

 正直、今の俺では、彼女の今の言葉が本心なのかは分からない。彼女については、俺はまだ知らないことばかりだから。

 

 気休めにはなる。だってホントに俺の事嫌いなら、こんな近くで話すこともないだろうし。まあ、しずくは優しいから、俺に気を使っているという可能性は最終的に捨てきれないのだが。

 

 まあ、嫌われたら嫌われたで、泣いて一生引きづればいい話だ。今は夢か現かも分からぬ、この状況に身を任せるのも一興というものよ。

 

 今日もあっという間に練習が終わり、腹筋のみならず全身を酷使した俺たちは、先輩たちに絡まれながらもホールの戸締りをして帰ることとなった。

 

 ホールを戸締りする時は、まず裏口以外の扉の鍵をかけ、照明を全て落とす。それから、スマートフォンの電気だけを頼りに、裏口から出て鍵をかける。

 

 光の射さない、だだっ広いホールに2人だけ。これはお互い『仕事』としてやっているので、あんまり変な雰囲気にはならないが、今日は少し違った。

 

「帰るか、しずく」

「う、うんっ」

 

 俺がスマートフォンのライトを点け、ホールの舞台裏、そのさらに奥の方にある裏口に向かって歩き出した時、しずくがふと短く。

 

「えっ?」

 

 俺より数メートル離れて足を止めたしずく。

 

「え、何?」

 

 何に反応した『えっ?』なのかが分からず、俺の方も思わず立ち止まってしまう。

 

 やっぱり、俺と帰るのに改めて疑問を持ってしまったか。いや、それはあんまりない。だとすると、教室に忘れものってのが無難な線だが。

 

「名前っ!」

「あ……?」

「いま……しずく、って……!」

「…………」

 

 や〜〜〜〜〜〜〜〜っべ。

 

 気を抜いているとプレイングミスをするのは、人生においても同じってか。

 

 昨日、先輩との放課後デュエルに敗けた思い出が頭を過ぎる。あそこで松に鶴の効果を発動しておけば。あそこで札再生をケチらなければ。あそこで貪欲な壺を発動しなければ。ああ、忌まわしき罠ビート。

 

 俺はいつもそうだ。大事なことは遅れて気がつく。

 

 俺がしずくを下の方の名前で呼ばないのには、大した理由はなかった。

 

 ただ、そっちの方が俺としては接しやすかったから。なんとなく、気恥ずかしかったから。同級生の女子は、統一して上の名前で呼んでるから。

 

「ねえ」

 

 しずくは俺への距離を一歩だけ詰めて、こちらを見つめてくる。いつものように、ぱっちりとした瞳で、彼女よりも少し目線の高い俺を見上げてくる。

 

「な、何だよ」

「もう1回」

 

 そのもう1回が指すのは! あなたを名前で呼んだことで間違いありませんね! 

 

 無理です!! 

 

「ダメ……かな……」

「ダメではないけど、その……ね! えっと!」

「理由、思いついてから断ってよ」

 

 グサッと刺さる一言。ごめんなさい、俺も好きであなたを傷つけてるんじゃあないんですよ。ただ、とっさの一言が思いつかないだけ。

 

 俺、お前を名前で呼ぶの恥ずかしいんだ。って、素直に言えないだけ。

 

 闇に目が慣れてきた頃、いつの間にか、しずくがさっきよりも近くに来ているのが分かった。10cmもない距離で、しずくがこちらを上目遣いで見つめているのが分かる。

 

 客席の通路のど真ん中。俺らは客電も無しに、見つめあっていた。

 

「し…………」

「………………」

 

 そんなに見つめることないだろ。

 

 照れちゃうだろ。

 

 舞い上がっちゃうだろ。

 

 ブレイクダンスしちゃうだろ。

 

「帰る!」

「ま、待ってよ穂村さん!」

 

 このイベントは、俺のキャパシティを大幅にオーバーした。

 

 いざ意識してしずくを名前で呼ぶとなると、なんか、身体が熱くなっちゃって。7月に入ろうという中、俺はしずくより先にホールの外に出た。さっきまで冷房をかけていたホールよりも暑い外の空気に触れて、より一層、汗が止まらなくなった。

 

 いや、たとえ今が冬だとしても、俺は汗だくになってしまってたんだろうけど。

 

 自分が情けなさすぎて、うなだれてため息をつく。すると、背中を誰かに押された。しずくの小さな手が、俺の背中に触れているのだ。

 

 振り返ると、なんとも可愛らしく、ほっぺを膨らませてこちらをじーっと見つめるしずくがいた。

 

「……ばか」

「えぇ!?」

「ばかったら、ばか。『花火くん』のわからず屋」

 

 そんなに拗ねるほどのことかよ。しずくのスイッチはよく分からない。

 

 これはお付き合いして確かめるしかないな。

 

 にしても、しずくに『ばか』って言われるの、なんか良いですね。もっと色んなシチュエーションで言って欲しい。

 

「…………家で、練習してくる」

「絶対だよ!」

「あと、そういうお前は名前で呼べるのかよ」

「……ばーか」

「なんで!?」

 

 

 




超特別公演。響きがいい。


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