対象を護衛するには有り難い場所だ。
今回の依頼者は珍しく若い男性だった。
何故警護を必要としているのか不思議ではあったが、ボディーガードの私にとっては関係のないことだ。
男は怯え切った様子で周囲を気にしていた。
近くには不審な人物も居なければ、不審物も見当たらない。
彼は一体何に対して、こんなにも恐怖を感じているのだろうか?
その時、私の視界の端に何か赤い液体のような物が映った。
何が起こったのか分からないままに視線を液体が飛んできた方へと向けた。
そこで私の目に映ったものは胸の辺りを両手で押さえている依頼者の男だった。
男の手の隙間からは赤い液体が漏れ出し、彼の着ていた白いTシャツにも徐々に赤い染みが広がっていた。
何が起きたのだろうか。
それは血だった。
それもそのはずだ。彼の胸にはサバイバルナイフのような物が真っ直ぐ突き刺さっていたのだ。
どうして。
彼の傍には誰も居なかった。
何もなかった。
なのに...どうして...。
彼はそのまま歩道に倒れこんでしまった。
我に返った私は応急処置をしようと急いで彼の傍に屈みこんだ。
傷口を確認しようと手を伸ばした時に血だらけの彼の手が私の腕を掴んだ。
彼は私の掌に何か文字のようなものを書こうとしているようだった。
それはローマ字のような気うがした。
「A...N...? 」
目が覚めると自室のベッドの上だった。
見慣れた散らかったその場所は紛れもなくパターソンの部屋だった。
何度見ても慣れない夢。
最後となった仕事。
忘れたくても忘れることが出来ない記憶。
落ち込んだ気分と寝汗を流すために、ベッドから起き上がると風呂場へと向かった。
レイン・パターソンは元々私設のボディーガードとして働いていた。
彼女は武術や剣術、おまけに銃の扱いのも長けており、開業以来依頼者を護れなかったことは一度もなかった。
その評判はあっという間に業界内に広まり、依頼は予約でいっぱいになるほどに仕事は順風満帆だった。
そう。あの日までは...。
彼女が遭遇してしまった事件は捜査は継続中ながらも未解決状態のままとなっていた。
捜査が難航している大きな原因は犯人を見た者が誰一人として現れなかったことにあった。
それもそうであろう。すぐ真横に居たはずの彼女でさえ犯人を見ていないのだから。
勿論、警察はパターソンを第一容疑者として目をつけていたのだが、現場近くに設置されていた防犯カメラ、少なかったが通行人の証言によって、彼女の無実が証明された。
だが、防犯カメラにも、通行人も依頼者の男が倒れる瞬間は見ていたのに、犯人の姿を見たという証言は最後まで出てこなかったのであった。
シャワーを済ませ、着回している何時ものスウェットに着替えると、化粧をすることも無く私は玄関に向かった。
スマホに表示されていた時刻に目をやった。
そこには『10:15』と表示されていた。
よし。もう店は開いている時刻だ。
パターソンは仕事を辞めてからは廃人のような生活を送っていた。
幸いにも貯えはそれなりにあったので、働きもせずにほぼ毎日の様に駅前のパチンコ屋に通っていた。
人とも交わることなく、ただただ怠惰な生活を送っていた。
そんな生活を初めてから、彼此一年半が経過しようとしていたのだった。
ワンルームマンションのエントランスを抜けると、彼女の気分とは裏腹に外の世界は今日も良い天気だ。
雲一つない空に浮かぶ太陽に恨めしい視線を送っていると、背後から男の声が聞こえてきた。
「レイン・パターソンさんですね? 」
振り返ると黒塗りの車の傍に背の高い男が立っていた。
それは見た事もない男だった。明るめのスーツに黄色のストライプのネクタイをした高身長のイケメンであった。
「君は…誰なの? 」
パターソンは隠すことなく警戒心を剥き出しにしていた。
「おっと。これは失礼致しました。僕はこう言うも者です。」
スーツと同じ様な色の髪を靡かせながら、男は名刺をパターソンに向かい差し出した。
『警視庁公安部公安第五課 課長 オリバー・エバンス』
「警察? わ、私は何も悪いことはしていないぞ。」
その名刺はパターソンの信頼を勝ち取るどころか、逆に警戒心を強める結果となってしまった。
「あはは。安心して下さい。貴女を逮捕しに来た訳ではありませんよ。とりあえず、近くでお茶でも飲みながら話しませんか? 」
そう言うとオリバーは笑顔で車の助手席を開けた。
「えっ...まさかナンパ? 」
「まぁ...あながち間違ってないかもしれませんね。」
警戒しながらも車に乗ったパターソンはお洒落なカフェへと連れて来られていた。
『
オリバーは馴染みの店らしく、マスターと思わしきカウンター内の男性と仲良さげに挨拶を交わしていた。
マスターは長髪を後ろで束ねており、顎髭を生やしていた。
オリバーに負けず劣らず高身長のイケメンであった。
ただ、オリバーよりも年を重ねているように見えて、イケオジと言うジャンルに入るのかもしれないとパターソンは思っていた。
カウンターに並んで座った二人はアイスコーヒーを注文した。
「ここは水出しなので、とても美味しいんですよ。」
相変わらずの笑顔でオリバーが話しかけてきた。
「本当にナンパなんですか? 」
「パターソンさんは『公安五課』って聞いたことありますか? 」
「ないですね。と言っても警察組織に詳しいわけじゃないですけど...。」
カウンターの奥では大きな砂時計のような形の水出し用のドリッパーからグラスにコーヒーを注いでいた。
「そうですよね。実は『公安五課』と言うのは設立されたばかりの部署で、担当する事件は未解決になったままの事件や人知を超えたような事件を捜査する部署なんです。」
「なんか厄介ものを押し付けられてるみたいですね。」
「ハハハ。良い表現だな。その通りかもしれないな。」
声を上げて楽しそうに笑うオリバーとパターソンの前に綺麗なグラスに入ったアイスコーヒーが置かれた。
オリバーはガムシロップとミルクを入れるとゆっくりとかき混ぜた。
パターソンも同じようにかき混ぜてから、口に運んだ。
普段コーヒーを飲まないので、これが通常より美味しいのかどうかは正直分からなかった。
「はぁ。やっぱり水出しは美味いね。マスター。」
「当ったり前よ。」
マスターはドリッパーに水を継ぎ足しながら満足そうな笑みを浮かべていた。
「単刀直入に言ってしまおう。パターソンさん。貴女をスカウトしに来たんだ。僕たちと『公安五課』で働いてくれないか。」
「はい? 何言ってるんですか? 」
パターソンがオリバーに視線を向けると彼の顔からは笑顔が消えていて、いつの間にかに真剣な表情へと変わっていた。
「『公安五課』の人事は僕に一任されていてね。貴女の名前は極めて優秀なボディーガードとして以前から知っていたんです。既に何人かのプロフェッショナルをスカウトしているんですけど、僕たちの任務を遂行する上で貴女の身体能力がどうしても必要なんです。給料も悪くない。福利厚生もしっかりしている職場です。」
現在無職のパターソンにとって、苦せずして安定した職に就けるということは願ってもないことではあった。
「...なんで私が警察で働かなくちゃいけないんだ。」
オリバーはそんなパターソンの言葉を予期していたかのようなタイミングで一つのファイルを彼女の前に差し出した。
「中を見て下さい。」
言われるがままにパターソンがファイルを捲ってみると、そこには『
現場の写真や目撃者の証言に彼女自身の証言までもがしっかりと残されていた。
唖然とした表情で資料を見つめていると、オリバーが追い打ちを掛けるように優しく話しかけてきた。
「勝手ながら貴女のことを少し調べさせてもらった。この事件も『
パターソンの強く握られた右手の掌にあの日の感触が蘇ってきていた。
それは彼が最後に残した生暖かく、赤い液体の感触だった。
「今すぐに返事を聞かせてくれとは言わない。一週間。一週間後までに返事を聞かせて下さい。僕らのオフィスは警視庁の二十三階にあるので心が決まったら、私に直接伝えに来て下さい。」
パターソンの表情を観察していたオリバーはそう言うと伝票とファイルを手に取り立ち上がった。
「流石にこの資料を貴女に預けておくという訳にはいかないので今日は持ち帰らせてもらいます。もし、ウチで働いてくれると言うなら貴女にこの資料は預けるよ。それでは良い返事を期待していますよ。」
オリバーは手短に会計を済ませると、パターソンの方を振り返ることなく店を出ていったのだった。