AdeN(エデン)~公安第五課~   作:夏野 雪

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忙裡偸閑

 平和な昼下がりの公園。

大きな池に広い芝生エリアもあって、休日になれば子供を連れた家族たちで賑わっており、敷地内には全長一キロのランニングコースも設けられていた。

そのコースを黒のランニングタイツと黒のハーフパンツ、タイトな赤いランニングシャツを身に着けたパターソンが気持ち良さそうに走っている。

ボディーガードをしていた時は空き時間を見つけては体力づくりのために走っていたりしていたのだが、仕事を辞めたと共にその日課も失われた。

しかし、非常勤とはいえ警察官として働き始めたこと、そして何より椎名唯華の事件に遭遇した時に感じた無力感。

その日からパターソンはランニングルーティンを再開していたのだ。

爽やかな風と穏やかな陽射しを全身で浴びて、パターソンの走る速度も自然と上がっていく。

ついでに、ランニングウェアのせいで意図せず露になってしまっていたボディラインに注がれる男性たちの視線だけは慣れた身のこなしでスルリと華麗に躱していった。

間もなく一周目を完走しようとしていたパターソンは百メートル程続く並木道に突入していた。

この並木道を走り切ったところが走り始めの地点。つまりはゴールでもあり、一キロ完走となる場所なのだ。

道の左右には等間隔でベンチも設けられており、夏などの暑い日には木陰となるこの場所では人が小休止をしているのを見掛けることも多かった。

今日は日中ではあるが涼しいということもあってか、人影はあまり見当たらなかった。

あまり見当たらない。と言うよりは、パターソンの目には少し先の右側のベンチに座る一つの影しか見えていなかった。

そのベンチに徐々に近付くにつれて、そこに座っていた人物がはっきりと認識できるようになっていく。

「えっ? 」

パターソンは思わず驚きの声を上げてしまったのだが、その理由はベンチに座る人物の姿にあった。

白とピンクのボーダーのパーカーにミニスカート。黒のガーターストッキングを履いた可愛らしい女の子だ。

これだけ聞けば何ら異変はないのだが、問題は彼女の頭部。

そこには耳がついているのだ。所謂ネコ耳と言うやつだ。某夢の国で販売しているカチューシャのようなものでも付けているのだろうか。

しかし、彼女との距離が縮まって行くにつれて、その耳が穏やかな風を受けてピクピクと動いているのがわかった。

どういうことだろう。電池か何かで動く仕様なのかもしれない。

そして、更に距離が縮まっていくと、彼女が手に何かを持っていることも見えてくる。

「えー...。」

少し前とは別の感情を抱いたパターソンの口から戸惑いの声が漏れ出してきてしまった。

彼女が手に持っていたもの。それは『()()』だった。

焼きたてなのだろうか。風に乗って少し焦げたバターの香りがパターソンの鼻先まで届いていた。

直感的に関わってはいけない人物だと認識したパターソンは走る速度を上げながらベンチの前を通り過ぎようとした時だ。

「ねぇ? 」

パターソンの目論見は敢え無く失敗に終わった。

周りに自分以外に誰もいない。そして、彼女は明らかにパターソンを見つめている。

「は、はい。なんでしょうか。」

訝しげな表情で立ち止まったパターソンに向かって、彼女は屈託の無い笑顔と持っていたナンを差し出した。

「食べる? 」

 

 

気が付けばパターソンは手にナンを持ったまま、彼女の隣に座ってしまっていた。

「食べないの? 私の手作りだから美味しいよ。」

「えっ? 君の手作りなのか。このナン。」

「うふふ。凄いでしょ。」

確かに良く焼けているし、食欲をそそられる様な香りもしているのだが...。

「変なものは入ってないよ? 」

彼女の無邪気で真っすぐな視線に耐え切れずに、パターソンは持っていたナンを小さく千切ると遂に口へと運んだ。

「...美味しい。」

決して物凄く美味しいと言う訳ではなかったが、温かく、素朴な味でパターソンは自然と二口目を口に運んでいた。

その姿を見ていた彼女は満足げな笑みを浮かべて、隣に置いてあった大きなプラスチックケースから自分用にもう一枚のナンを取り出して食べ始めた。

「お姉さんって何時もこの道走ってるよね。楽しい? 」

「んっ? 『()()()』? 」

食べかけのナンが喉に詰まりそうになったのを回避しながら、パターソンは自身の記憶を掘り返してみる。

確かに走り始めてからこのコースを変えたことはなかったのだが、今までに彼女を見掛けた覚えは全くなかった。

ここまで特徴的な彼女を見落としていたと言うことは考えにくい。

だけど、何故彼女は自分を知っているのだろうか。

「そうだな。もしかしたら楽しいのかもしれないな。それより、君は前に私をここで見掛けたのか? 」

「ん? 何回も見てるよ。私、だいたいここでナン食べてるから。」

そんなはずはない。

この並木道は全く人が居ない訳ではないが、そんなに多い訳でもなかった。

彼女がここに座って居れば、今日のように自然と視界に入るはずだ。

「そうなのか? 私は今日初めて君を見掛けたと思ったんだが...。」

考え込むように顎に手を当てるパターソンを見つめていた彼女が楽しそうに笑い出した。

「ふふーん。お姉さんに良い事教えてあげる。目を瞑ってみて。」

「えっ? こ、こうか? 」

今日会ったばかりのはずの怪しげなネコ耳女性に言われるがままにパターソンは目を瞑った。

並木道の間を強い風が抜けていく。

相変わらず、焦げたバターの香りが漂っているのが伝わってくる。

「もーいいーよ。」

それは間違いなく彼女の声だった。

パターソンはゆっくりと目を開けると、目の前には見慣れた並木道が広がっていて、自身の手元には彼女から貰った食べかけのナンも握られたままだ。

「あれ? 」

パターソンは目の前で起きた一つの変化にようやく気が付いた。

彼女が見当たらない。

声が聞こえたのは目を開ける直前だったはずなのに周囲を見渡してもどこにもいないのであった。

「あの子...帰っちゃったのかな? 」

()()()。」

「えっ? 」

彼女の声が聞こえに反応して横を見てみると、パターソンの横には先ほどと同じようにナンを持った笑顔の彼女が座っていたのだ。

「あれ? いつの間に...。」

「お姉さん。私はね。どこにでも居てどこにも居ないの。」

「んん? それはつまり...どう言うことだ? それに君は今どうやって私の横に。」

波のように押し寄せる疑問に溺れそうになりながらも手を伸ばすパターソンをスルリと躱して、彼女はベンチから立ち上がった。

「そうだ。お姉さん名前はなんて言うの? 」

「ああ。レインだ。レイン・パターソンだ。」

独特なオーラとマイペースさに知らず知らずのうちに誘引されてしまっていたパターソンは素直に自己紹介を始めてしまっていた。

「じゃあ。パタ姉で決まりね。私は文野 環(ふみの たまき)。よろしくね。パタ姉。」

首を傾げながら微笑む環のネコ耳が、まるで本物のネコの耳のようにピクピクと周りの音に反応を示していた。

「よ、よろしく。ところで、環君のその耳は...。」

「ん? 耳だよ? 触る? 」

そう言うと環はパターソンの方にお辞儀をするように頭を下げて両耳を差し出した。

少し戸惑いながらもパターソンは恐る恐る手を伸ばして彼女の耳を触ってみる。

「うわっ!? 」

驚きの余りパターソンは悲鳴にも似たような声をあげてしまった。

その耳の感触は正しく動物のそれと同じだったのだ。

フサフサとした感触に思わずパターソンは何往復か撫でるように触っていた。

「うふふ。くすぐったいよ。」

小さな肩をぶるっと震わせてから環が頭を上げた。

「ああ。ごめん。余りにも触り心地が良かったので夢中で触ってしまった...って、それ本物の耳なのか!? 」

「当たり前じゃん。でも、もうパタ姉には触らせてあげられないかも。」

「えっ? どうしてだ? 」

環は相変わらずニコニコと目を細めながら笑っている。

「もしかしたら、次にパタ姉と会う時は敵同士かもしれないから。」

その言葉は環の容姿や表情とは、かけ離れている言葉だった。

「敵? それはどう言う...って。あれ? 」

パターソンが一度だけ瞬きをして、次に瞼を上げた時には環の姿はなかった。

ほんの一秒前。いや、もうしかしたら一秒未満だったかもしれない。

左を見ても右を見ても、前にも後ろにだって環の姿は見当たらなかった。

昼下がりの平和な公園の一角で白昼夢に魅入られていたのではと思うパターソンだったが、自身のその手にはナンが握られており、辺りには焦げたバターの残り香も漂っている。

夢や幻ではない。間違いなく彼女はここに居た。

パターソンには何もかもが分からないままだ。

でも、ただ一つ確かなことがあった。

それは文野環がここに存在していたという事実だけだった。

 

 

 狭く、暗い裏路地で椎名唯華が肩で息をしながらビルの外壁に寄りかかっていた。

「ほんまに...あたしを...巻き込まんといてぇな...。」

壁にもたれながらビルとビルの合間から見える歪な形をした空を見上げた。

「みーつけた! 」

暗い路地の奥から女性の声が聞こえてくる。

「何でや...あたしはちゃんと『()()()』はずや...。」

奥からゆっくりと椎名に近付いてきたのはニコニコと微笑む環だった。

「それはね。私がどこにも居ないからだよ。でもね。」

楽しそうに話す環の左右別々に動いていたネコ耳がピンとまっすぐ立ちながら椎名の方に向いた。

「だから、どこにでも居るんだよ。」

「はぁー...だっる。」

微笑みながらじりじりと距離を詰める環を見た椎名はそう一言呟くと、踵を返して残り僅かな体力を振り絞りながら全力で走り出した。

その背中を見つめる環は走って追いかけることもなく、焦ることもなく首を傾げた。

「あれ? もしかして、椎名ちゃんは犬派なのかな? 」

裏路地を抜けて大通りに出た椎名が後ろを振り向いた時には、そこには既に誰も居なかった。

 

 

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