パターソンは自分がねじ伏せた男に手錠をかけると、慌てて倒れていた二人に駆け寄った。
「大丈夫か!? 君たち! 」
レオスの腕の中に収まっていた椎名はそこから抜け出して立ち上がった。
「へーきへーき。それにしてもレインちゃん見かけによらずに強いんやね! 」
椎名はなぜか嬉しそうにパターソンの肩をポンポンと叩いて、彼女の奮闘を称えているようだった。
レオスはと言うと床に寝そべったままの少し間抜けなスタイルとは不釣り合いな、嫌に真面目な顔で何かを考え込んでいるようだ。
「ヴィンセントさん。大丈夫か? 」
レオスの顔を覗き込みように前かがみになりパターソンは右手を差し伸べた。
「ああ...すまない。」
彼女の手を握り引き起こされたレオスだったのだが、未だに心ここに非ずと言った様子で椎名の顔を見つめていた。
「
レオスの表情を観察していたパターソンは彼の肩に手を置きながら厳しい口調で警告した。
「はっ? 」
「女子高生に手を出したら、流石に駄目だ。しかし、恋してしまったというなら...。」
少し顔を赤らめながら熱心に何か語りだしたパターソンを無視することにしたレオスはスマホを取り出してどこかへと電話を掛けた。
「お疲れ様です。レオスです。賊を二名確保しましたので連行をお願いしたいのですが。ええ。ええ。そうですね。ローレンたちに取り調べさせるのが良いでしょうね。はい。ではお願い致します。」
電話を切ってパターソンを見ると、何やら嬉しそうに椎名と話をしているのが見えた。
自然とレオスの口からは大きな溜息が漏れ出していた。
レオスがオリバーに連絡を入れてから三十分と経たない内にローレンとアクシアがホテルへと到着していた。
「二人共、ご苦労様です。」
アクシアが笑顔で二人に労いの言葉を掛けている後ろではローレンが無言で項垂れる二人の男を引きずる様にしながら扉の方へと連行していた。
「それにしてもパタさん強いんだねー。」
男たちを引っ張りながらもローレンがパターソンに向かって話しかけてきた。
「いや。それほどでもないですよ。私が倒したのは一人だけですし。」
「一人でも凄いよ! 今度で良いから護身術教えてねー。」
笑顔で手を振りながらローレンとアクシアは二人の男を引き連れて部屋を去って行った。
「お二人とも面白いですね。」
パターソンも手を振り返しながら笑顔で見送っていた。
「はぁー...疲れたわ。あたし寝てもええかな? 」
椎名が大きく伸びをしてから欠伸をしていた。
「構いませんがこんな事が起きたばかりですので、我々は室内で警護させて頂きますよ。」
「ええよ。じゃ、おやすみー。」
「無神経と言うか肝が据わっていると言うか。不思議な子だな。」
パターソンが呟きながらベッドに視線を向けてみると、そこには気持ち良さそうに夢の世界に旅立った椎名が横になっていた。
「レイン君。一つ聞きたいことがあるんです。武術的な観点から相手が向かおうとしている先を相手が動き出す前に予測することは出来ると思いますか? 」
「ん? どういうことだ? 」
二人はソファに向かい合って座っていたのだが、レオスは立ち上がると身振り手振りを付けて話し始めた。
「例えば、敵意ある人物と相対している時に相手が左に舵を切ろうとしていたら、それを動き出す前に察することは出来るかどうかと言うことです。」
「なるほど。それなら視線の動きや膝の入り方、重心の移動だったりを観察していれば出来ないことは無いだろうな。」
「そうか。それならいけるのか。」
「ただし、それは相手が先に動いた場合だぞ。自分が先に動いてしまっては意味が無いからな。」
レオスは先ほどの場面を思い出していた。記憶の録画を巻き戻して再生してみると、あの時確かに椎名は相手が向きを変えて動き出す前に声を掛けてきていた。
いや、もしかしたら敵の足元に落ちているトランプを椎名は見えていたのかもしれない。
そうだとしてもだ。移動した男がトランプを踏んだのは偶然だ。踏まない可能性だってあった。
つまり、彼女には『左に移動した世界』と『右に移動した世界』の結末が見えていて、そこから『安全な世界』の方を選択したということなのだろうか?
「...本当に見えているというのか。両方の世界。
「ん?
怪しげなことを呟きながら眠る椎名を見つめるレオスにパターソンは一人の女性として、いつでもレオスを拘束できるように警戒態勢を取っていた。
「こんばんは。」
その声は突然聞こえてきた。
先程の様に部屋のインターホンが鳴るでもなく、扉が開く音や気配など一切が存在することなく、本当に湧き出たかのように聞こえてきた。
「えっ? 」
レオスとパターソンも一度お互いの顔を見合った後に声の聞こえてきた方に顔を向けた。
それは部屋の入り口の扉の方からだった。
二人が目を向けると、そこには室内側の扉の前に一人の人物が立っていた。
男は真っ黒いフード付きのローブのようなものを纏い、顔には白い仮面を着けていた。よく動画配信者などが付けているような目の部分だけが開いている仮面だった。
「いつの間に!? 」
驚きも声を上げながらもパターソンは素早く臨戦態勢に入ろうとソファから立ち上がり直ぐに仮面の人物の前に立ちはだかった。
「ヴィンセントさん! 彼女を起こして! 」
レオスも唖然としていたようだが、パターソンの声を合図にベッドの方へと走り出していた。
仮面の人物は微動だにせずに目の前に立つパターソンをじっと見つめていた。
『
パターソンの直感が彼女にそう囁いていた。
仮面の人物が目に見えて武器を持っているわけでは無いし見るからに体格が大きいというわけでも無い。
強いて言葉にするなら、それが仮面の人物から感じる気配だった。
色々な
その背後でベッドまで辿り着いたレオスは声を掛けながら椎名の体を揺らした。
「椎名さん! 起きて下さい! 」
「んん...何? 」
あからさまに不機嫌な様子で体を起こした椎名は目をこすりながら、部屋の中を見渡していた。
寝起きのぼんやりとした思考と視界の中にいる彼女にも部屋の中で起きている異変に気が付けたようだ。
「ああ...これはあかんわ。」
パターソンのアラートを裏付けるように椎名が仮面の人物を見つめながら呟いた。
そして、それが正しかったと言うことは直ぐに証明されることとなるのだった。
相手の隙を探ろうと凝視していたはずのパターソンの視界から仮面の人物が忽然と姿を消したのだ。
それは後ろで見ていたレオスや椎名の視界からも消えていた。
「きえ...。」
一瞬にして姿を消した仮面の人物はパターソンが何かの言葉を口にしようとしていた瞬間に再び姿を現したのだった。
その間、僅か十数秒だったであろう。
仮面の人物が姿を現したのはパターソンの目の前だった。本当につま先がぶつかりそうな程に近くに立っていたのだ。
パターソンは身動き一つすることが出来ず、現状を把握すらままならなかった。
彼女が自身の腹部に重く深い痛みを感じた時には既に手遅れだった。
薄れゆく意識の中でパターソンが最後に見たものは仮面の人物の青色の瞳だった。
「レイン君!! 」
レオスや椎名の目からも、その光景ははっきりと確認できた。
突然姿を消した人物がパターソンの前にいきなり現れたと思った次の瞬間、彼女が膝から崩れ落ちて動かなくなってしまったのだ。
床に倒れこんでしまったパターソンを無言で見つめていた仮面の人物が二人の方へと視線を向けた。
レオスの脳内の信号が彼に指示を与えようとしている間に気が付けば仮面の人物は二人の目の前に移動していた。
「何が起きているんだ。」
「刑事さん。」
レオスの背後に隠れていた椎名がまた小声で話しかけてきた。
「見えるのか?
「見えるで。コイツは無理やな。刑事さんは絶対に動かないでな。」
「君...何をする気なんです? 」
「刑事さんは仲間を助けてな。」
レオスが椎名に聞き返そうとしたのだが、椎名はそれ以上何も言わずに扉に向かって走り出した。
「なっ!? 」
レオスが止めようと手を伸ばした時には彼女は既に手の届く範囲には居なかった。
仮面の人物は動揺する様子もなく、何も言わずに目で彼女の後を追っているだけだった。
そのまま椎名は部屋の外へと迷わず飛び出した。
部屋の外。扉の所で一度立ち止まるとレオスに視線を送った。
そして、椎名はニッコリ微笑むと彼女はエレベーターホールの方へと向かって再び走り出した。
「えっ? 」
椎名の最後の笑顔を見ていたのは数秒の間のはすだった。
それなのにレオスが室内に視線を戻した時には仮面の人物は姿を消していた。
嵐が過ぎ去った室内には残されていたのは立ち尽くすレオスと倒れ込むパターソンの二人だけであった。
パターソンは自身のデスクに座りながら自身の腹部を摩っていた。
彼女は腹部に強い打撃を受けて気を失っていただけで命に別条はなかった。
しかし、幾ら思い出してもあの時、腹を殴られた記憶もなければ仮面の人物が動いたことすらもパターソンは判断出来なかった。
あれは何だったのか。
「大丈夫ですか? 」
話しかけてきていたのはオリバーだった。彼はデスクの傍に立っていたのだが、考え込んでいたパターソンは全く気が付かなかった。
その考え込んでいる表情を見て、オリバーも声を掛けてくれたのだろう。
「あ。ありがとうございます。大丈夫です。あの。椎名さんは...。」
オリバーは静かに首を横へ振った。
「ええ。レオス君から連絡を受けて直ぐにローレン君たちと捜索したんですが見つかりませんでした。君たちが見たという仮面を着けた黒いローブの人物もです。」
「そうですか...課長。彼女を守れずに本当に申し訳なかった。」
パターソンは立ち上がるとオリバーへ向かい頭を下げた。
それを見たオリバーは彼女に優しい口調で語り始めた。
「君はよくやってくれましたよ。パターソン君たちが無事で居てくれたなら、僕はそれだけでも十分ですよ。」
「でも、政治家の先生や警察上層部はお怒りなのでは...。」
パターソンの声は少し震えており、今にも泣き出しそうなように見えた。
「そう言う人たちに頭を下げるのが僕の仕事でもあります。レイン君は二人の暴漢から彼女を守れたんです。自信を持って下さい。でも、無理だけはしないで下さいね。」
そう言いながらニッコリと微笑むオリバーは彼女の机の上に何かを置き、自身のデスクへと戻っていった。
パターソンが机の上を見ると、それは小皿に乗った一粒の梅干しだった。
きっと例の壺に入っていたものなのだろう。
「一つある。」
「えっ? 」
その声は隣に座って何かの資料を読んでいたレオスのものだった。
「速すぎたから消えたように見えた。」
「はい? 」
「いや。でも、そうなると...。」
どうやらレオスはパターソンへと話しかけたわけではなく、ただ単に独り言だったようでぶつぶつと何かを唱えながら研究室の中へと吸い込まれていった。
「ねぇねぇ。あいつ
ローレンは自分の遊んでいるアプリ仲間を見つけたと思い嬉しかったのか、はす向かいのデスクから興味深そうに顔を覗かせていた。
「さぁ。この間は女子高生の胸をエベレストって言ってましたよ。」
「ちょ。その話詳しく聞かせてよ! 」
公安五課では何事も無かったかのようにいつもの通りの光景が広がっているだけだった。
そんな彼らが居る建物の前の道路を黒いワゴン車が通り過ぎていった。
「はぁー...よー寝た。」
車の後部座席を占領していた椎名が大きな欠伸をしながらむくりと起き上がった。
「本当によく寝るんですね。」
その声は運転席から聞こえてきたのだが、運転席と後部座席の間には仕切りがあり、運転手の姿は椎名からは確認出来なかった。
「元はと言えば、あんた達があたしの貴重な睡眠の邪魔をしたからやん。」
「仕方がないことです。貴女を薄っぺらい政治家たちの道具として終わらせる訳にはいかないので。」
「えー。気楽でそれなりに稼げたんやけどなー。」
椎名は頬を少し膨らましながら、窓から外を眺めていた。
「あの二人も『
運転席からの質問に椎名は暫く黙ったまま答えずにいた。窓の外を眺めながら、何もないどこか遠くを見つめ続けているだけだった。