AdeN(エデン)~公安第五課~   作:夏野 雪

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 覚悟はしていた。
俺は声も出さずに静かに目を瞑った。
自分の胸にはナイフが刺さっており、そこからは夥しい血が出ているのが見える。
余りにも一瞬の出来事で自分自身でも自分に何が起きたのか理解出来ていなかったが、ナイフと血液を俺自身が認識したことで初めて激痛が脳と体を襲った。
痛みと混濁する意識に俺は膝から崩れ落ちるようにして、その場に倒れ込んでしまった。
無理もないことだが、混乱し慌てた様子で隣に居た女性が俺の顔を覗き込んでいる。
そんなに心配そうな顔をせずとも、もうどうしたって助からないであろうことは自分自身が一番分かっていた。
この女性とはビジネスで知り合ったばかりで縁や思い入れが在るわけではない。
それは勿論、彼女にとっても同じ事だ。
それなのに...。
気が付けば、俺は血まみれの手で彼女の腕を掴んでいた。
そして、彼女の掌の中に血のインクで文字を刻んでいった。
俺が知ってしまった一つの真実を...。




飛花落葉(前編)

 またあの夢だ。

パターソンは起きたばかりのベッドの上で右手の掌を確認した。

掌は寝汗で薄っすらと湿ってるだけだった。

赤い文字も、不気味な生温さも、そこには残っていなかった。

 

 

 「おはよーございまーす。」

パターソンが挨拶と共に部屋に入ると、いつもと変わらずに室内は賑やかだった。

爽やかなオリバーの挨拶に朝から元気なローレンとアクシアの二人の掛け合い。

それと、難しい顔でPCに向かって独り言を言うレオス。

これがパターソンにとってのスタンダード。新たな日常になろうとしていた。

「あー! アクシア見ろよ! やっと限定SSR出たぞ! 」

パターソンがデスクに座ると、向かいのローレンが嬉しそうにアクシアにスマホの画面を見せびらかし始めた。

彼女は今朝の夢を思い出しながら、変わらぬ日常の有難さを噛み締めていた。

 

そんな公安第五課に来訪者が現れたのは、何事もなく平和な半日が過ぎようとした午後の事だった。

現れたのは一人の女性であった。

今その女性はパターソンとレオスの前に座っていた。

「本日は何故このような場所に? 」

パターソンの隣に座っていたレオスが女性に尋ねると彼女は事情を話し始めた。

今回は課長の指示でレオスとレインが担当することとなり、応接用のソファに並んで座っていたのだ。

「はい。私は都内で専業主婦をしている轟 志津香(とどろき しずか)と申します。」

「『()()()()』なのに『()()()』...? とどろ。」

パターソンが首を傾げながら小さな声で復唱するのをレオスが肘で小突いて止めさせた。

志津香は一度大きく咳払いをするとレオスに向き直り話を続けた。

「えーと。何でしたっけ。そうです。主婦をしているんですけど、娘が帰って来ないんです。」

「娘さんが? つまり...行方不明と言うことですか? 」

「行方は分かっています。不帰の家(かえらず いえ)に居るはずなんです。」

()()()()()()()? 」

聞きなれない言葉に再びパターソンが復唱しながら首を傾げたが、今回はレオスの肘は飛んでくるようなことはなかった。

「はい。私たちの地区では少し有名な家で庭に美しい紫陽花が咲いているのですが、その家に足を踏み入れた者はその家から離れられなくなってしまうという噂があって、そう呼ばれるようになりました。その噂を確かめようと友達と二人で娘が不帰の家に行ったのですが、娘だけが帰って来なかったのです...。」

そこまで話すと志津香は下を向き、泣き出してしまった。

「その一緒に家に行ったというお友達は帰ってきたんですか? 」

レオスが彼女に構うことなく会話を続けようとすると、彼女は持っていたハンドバッグから白いハンカチを取り出すと涙を拭うと再びレオスの方へと向き直った。

「はい。その友達にも話を聞いたのですが、娘自身が『帰りたくない。私はここに残るから』と言って動こうとしなかったと言うのです。友達も娘の様子が急変してしまってこともあり、恐ろしくなって一人で逃げ出したということです。」

「そう...ですか...。」

話を聞く限りでは事件性が無いようにも思えていた。娘さんが自主的に家に残った理由は分からないが、所在もハッキリしているし監禁されているなどということもなさそうだ。

レオスは総合的に判断して、捜査依頼を何とか断ろうと言葉を選んでいる時だった。

「娘は...京子(きょうこ)はきっと監禁されてるんです! お願いします! 助けて下さい! 」

轟はソファから勢い良く立ち上がると二人に向かい頭を下げた。

彼女の大きな声を聞いたオリバーが自身のデスクから不安そうに覗き込んでいた。

 

「何で引き受けちゃったんですかねー。」

自身のデスクに座っていたレオスが短い溜息と共に頭を抱えていた。

「いや、だって泣いていたし、あんなに頼まれて断れないだろう? 」

慌てて言葉を返したパターソンはオリバーのデスクの近くに立っていた。志津香の件の経緯などをオリバーに報告していたのだ。

「まあまあ。他の部署にも聞いてみましたが、轟さんは色んな部署に相談しに行って盥回しにされたあげく、ここに辿り着いたみたいですね。」

「相も変わらずに厄介者の終着駅なんですね。ここは。」

レオスの嫌味にオリバーは苦笑いを浮かべながら白いマグカップを口へと運んだ。

「はぁー...美味しい。で、何でしたっけか? そうだ。君たちを待っている間に僕なりに調べてみたのですが、ここ二か月間で『不帰の家』に行ったきりで戻らず、警察に何かしらの届けが出ているケースが他にも三件ありました。」

「三件もですか!? 」

パターソンも内心ではそれほど深刻視していなかったようで、意外な件数に驚いているようだった。

「届出がある件数だけで三件です。もしかしたら明るみになってないだけで実際はもっと多い可能性もあります。ですので、返事をして正解でしたよ。レイン君。」

 

 

 レオスとレインは志津香から教えてもらった住所を頼りに閑静な住宅街を彷徨っていた。

「この辺のはずですねー。」

スマホに表示されているマップを見ながらレオスはパターソンの少し前を歩いていた。

「ああ。あそこじゃないか? 」

辺りをキョロキョロと見渡していたパターソンは前方に小さな庭に綺麗な紫陽花が咲いている家を見つけて走り出した。家の前には小さな格子型の黒い門扉があり、その横には『』と黒字で書かれた白い表札も出ていた。

「表札も(しずか)であってるな。ここで間違いなさそうですね。ヴィンセントさん。」

マイペースに歩いていたレオスも少し遅れて門扉の前に到着していた。

「そうですね。では、お話でも聞きに行ってみますか。」

そう言うとレオスは門扉を開けて、玄関先まで向かった。

左手に鮮やかな紫と青の二色の紫陽花を眺めながら十数歩進んだところが玄関だった。

「綺麗な色の紫陽花ですねー。特に紫に」

パターソンが紫陽花に見惚れている間にレオスは玄関扉の横にあったカメラ付きのインターホンを押していた。

『はい。どちら様でしょうか? 』

インターホンから聞こえてきたのは少し幼さの残る可愛らしい声だった。

「突然申し訳御座いません。警視庁から来ましたレオスと申します。家主の方に何点かお聞きしたい事が御座いまして。」

『け、警視庁ですか。少々お待ちくださいませ。』

そこでインターホンは切れてしまった。

「随分可愛らしい声でしたね。」

いつの間にか背後に立っていたパターソンがインターホンのカメラを覗き込んでいた。

「最近警察も信用が無くなってるんですから、変な行動はせずに大人しく待っててくださいね。不審者だと思われてしまいますよ。」

パターソンは少し不服そうに頬を少し膨らませながら顔をカメラから遠ざけていった。

すると、それを待っていたかのように玄関の扉が開いた。

扉の向こうに立っていたのはメイド服姿の可愛らしい女性と言うよりは女の子であった。インターホンから聞こえてきた声とぴったりのイメージではあった。

藍色のメイド服に真っ白のエプロン胸には大きなリボンが付いており、そのリボンの上やエプロンの裾の部分などには白い花がアクセントのようにあしらわれている。

「はわわ。お待たせ致しまして申し訳御座いません。」

そのメイドは落ち着きのない様子で二人に向かい頭を下げた。

「あの...えーと、家主の方ですか? 」

レオスの言葉を聞いたメイド服姿の女性は頭を上げると、自身の顔の前で物凄い勢いで手を横に振り始めた。

「とんでもないで御座います! わたくしはこちらにメイドとしてお仕えしておりますエリー・コニファーと言う者です。」

落ち着きを取り戻したエリーはエプロンを両手で広げるとカーテシーをしてみせた。

「メイドさんでしたか。家主の静さんは御在宅ですか? 」

「ここに居ますよ。」

声と共に玄関から真っすぐ伸びた廊下の奥のドアから一人の女性が出てきた。

庭に咲いていた紫陽花の色にも似た紺色のブレザーの制服に同じ色合いのショートヘアの持ち主は優しい微笑みは浮かべていた。

その笑みは彼女自身の背格好よりも大人びた雰囲気だった。

「あなたが家主なんですか? 」

「いけませんか? 」

レオスに向けられた言葉は女性の柔らかな表情とは裏腹に鋭さと圧が込められていた。

「いえ...そうですね。失礼致しました。私は警視庁公安第五課から参りましたレオスと申します。こちらはレインです。」

気持ちをすぐに切り替えたレオスが形式的に手帳を取り出したが、女性は動揺する素振りも見せずに変わらぬ様子で口を開いた。

「ご苦労様です。私は静 凛(しずか りん)と言います。事情がありこちらで一人暮らしをしている学生です。そちらはメイドのエリーです。私の身の回りの世話をしてくれています。まぁ。立ち話もなんですから、どうぞ中へ。」

そう言うと彼女は背後のドアを開けると、再び奥の部屋へと姿を消した。

「どうぞ。お履き物もご用意いたしましたので、中にお入り下さい。」

二人の前の上がり框には、いつの間にかに二組の紫色のスリッパが並べられていた。

少し頼りなく見えてはいたのだが、エリーは仕事の手際の良さは確かなもののようだ。

「ありがとうございます! 」

パターソンは笑顔でエリーにお礼を告げると、エリーも照れくさそうに笑いながら二人を奥の部屋へと誘った。

エリーが開けたドアの向こうは広々とした明るいリビングだった。

部屋の中央には白い大きな長方形のダイニングテーブルとセットであろう白い椅子が長辺に二脚ずつが向き合う形で計四脚セットされていた。

テーブルの近くには見晴らしの良い窓があり、そこからは庭に咲いていた紫陽花が一望することができた。

静はその内のドアから一番遠い窓側の椅子に静は座っており、その向かいの椅子に『どうぞ』と言うように手を差し出していた。

レオスとパターソンは静に指示されるがままにダイニングテーブルの椅子へと腰を下ろした。

二人が座るのを見届けてからエリーはリビングにある別のドアへと向かって行った。

「良いお宅ですね。庭もキレイだ。」

パターソンが目を輝かせながら席の正面にある窓を覗き込むようにして庭を見渡していた。

「ありがとうございます。エリーが一生懸命に手入れをしてくれてますから。ところで今日はどのようなご用件でこちらへ? 」

「それなんですが、こちらの方々に見覚えがありませんか? 」

そう言うとレオスは四名の人物の写真を静の前に順番に並べた。

それは不帰の家。つまり、この家に行って戻って来ずに警察に届けがあった人物の写真だった。

その中には直接公安第五課に相談に来た轟京子の写真も含まれていた。

パターソンもまじまじと写真を見るのは初めてであったのだが、こうやって並べてみると高校生だったり大学生、フリーターと職業も性別も年齢もバラバラであることが改めて実感させられた。

もし、敢えてこの四人の共通点を上げるとすれば、写真の中の人物がとても()()()()()()()()()()を浮かべているという何とも皮肉な点しか彼女には見つけることが出来なかった。

静はピシッと背筋を伸ばした姿勢を崩すことなく、視線だけを四枚の写真へと向けていた。

左から右へと順番に写真の人物を確認しているようだった。

「ええ。知り合いではありませんが、存じ上げていますよ。」

静が答えたのと時を同じくして、テーブル左手にあるドアが開いた。

そこにはシルバーのトレイを持ったエリーが立っており、トレイの上には青いティーカップが三つ乗っていた。

エリーがダイニングテーブルまで運び終えると、レオス、パターソン、静と順番にティーカップを置いて回った。

カップからは甘いリンゴのような香りが立ち上っており、やや緊張し始めていたテーブル周辺の空気を一気に和ませていった。

「こちらはカモミールのハーブティーで御座います。」

エリーの言葉と笑顔がミルクのように場に溶け込むと、雰囲気はより一層穏やかになっていくようだった。

彼女はテーブルの傍で一礼をしてから、出てきたドアへと帰って行った。

恐らく、あの奥がキッチンになっているのだろう。

「良い香ー...頂きます。」

パターソンが早速口に運んだ。香りははっきりとリンゴのようなものだったが、口に含むとそこまでリンゴの味はしなかった。

それほど甘くもなく、飲んだ後に鼻を抜けるフローラルな香りとまろやかさが心を落ち着かせていくのを実感していた。

レオスと静も続いてティーカープを口へと運んでいた。

「良い香りですねー。えーと...四人全員を知っているということで間違いありませんか? 静さん。」

レオスは一息つくと、カップをテーブルに置き本題へと話を戻した。

「ええ。そうです。ここ二か月ぐらいの間に私の家に来ましたよ。この家は私も借りている立場なので詳しくは知りませんでしたが、何やら『()()』のようなものがあるらしく、それを聞いた方が『見学』に来られるんですよ。」

「そして、全員が『帰ってこなかった』。」

レオスの言葉を聞いた静は表情を変えることなく、ハーブティーを一口飲むと微笑みを浮かべた。

「以前にも保護者の方や友人の方々が警察と一緒に来たりしましたけど、私の家からは何も見つかりませんでしたし。誰もいませんでした。私から言えることは一つだけです。写真の方々は確かに家に来ましたが、最終的には皆様お帰りになっていますよ。」

「では、四人全員があなたの家を訪れた帰り道に何らかの事件に巻き込まれたり、自発的に失踪したと仰るのですか? 」

「さあ...どうなんでしょうね。なんでしたらこの家を調べていただいても構いませんよ。レオスさん? 」

 

 

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