夜の帳が下りたことにより、より一層静けさを増した住宅街の一角に二人は戻ってきていた。
それは勿論『不帰の家』の前だった。
「レイン君。一体どうするつもりですか? こんな時間では相手方も眠ってしまっているんじゃないですか。」
「ヴィンセントさん! こっちこっち。」
パターソンは小さな声で囁くと物音をなるべく立てないよう静かに門扉を開けると、不帰の家の敷地内へと勝手に入ってしまったのだ。
「んー...どう考えても嫌な予感しかしませんね。」
開けっ放しになっていた門扉を閉めるとレオスは重い足取りで暗闇に消える彼女の後を追いかけて行った。
パターソンが暗闇の中で立ち止まった場所は小さな擦りガラス窓の前だった。
彼女は躊躇うことなく窓に手を掛けると、そのまま窓をスライドさせたのだが、驚くべきことに窓には施錠がされていなかったようで開いてしまったのだ。
「レイン君...まさかとは思いますが。」
パターソンはレオスに向かいウインクをして見せた。
「万が一の時のために部屋を見せてもらっている間にこっそり開けておいたんだ。」
どうやら彼女はレオスからのお褒めの言葉を期待しているようだったが、レオスから発せられてのは大きな溜息だけだった。
「あのね...。って、ちょっと! 」
咎めようと言葉を選ぶレオスを他所にパターソンは窓の中へと体をねじ込んでおり、そのまま中へと入って行ってしまったのだ。
彼女一人を中に行かせては何を仕出かすか分かったものではなかったので、仕方なくレオスも幾分狭い非常口に体をねじ込んで行った。
「ふー...ここはトイレでしたか。」
窮屈な入り口を抜けるとそこは一階のトイレだった。
パターソンはゆっくりとトイレのドアを開けるとキョロキョロと左右を確認すると忍び足で廊下へと出て行ってしまった。
彼女はどこに向かっているのだろうか。廊下の先にあるリビングへと続くドアを抜けて行く。
昼間に訪れた時と違って窓のカーテンは閉められていて、真っ暗な世界が広がっていた。
物音一つしない部屋を突っ切り、パターソンは玄関の方へと真っすぐに向かっているようだ。
二人は静やエリーとは遭遇することなく無事に玄関の前まで辿り着くことが出来た。
「ここを開けた時に変だなって思ったんだ。」
そう言いながらパターソンは壁に埋め込まれていた靴箱を開けていた。
「確かに靴箱として上がり框の先にあるのは不自然ではありますが、それ以外に何かあるんですか? 」
「ヴィンセントさん。この隣の部屋が何か覚えていますか? 」
「物置ですよね? 確かガーデニング系の道具が沢山ありましたねー。」
レオスはエリーと中を確認した時のことを思い出していたのだが、普通のガーデニング用具たちが並んでいるだけで特に変わった様子は無かったはずだ。
「その倉庫と同じ面にあるなら、きっと...。」
パターソンがレオスに話しかけながら収納してあった靴を全て廊下に出してから靴箱の背板部分の隅を叩いてみたり、指で縁をなぞる様な仕草をしていた。
レオスが黙って行く末を見守っていると彼女の手がある場所でピタリと止まった。
そして、そのままパターソンが背板を手前に引っ張ると見事に背板が外れ、その先にはぽっかりと穴が空いた空間が広がっていたのだ。
「おお。やるじゃないですか。よく分かりましたねー。」
レオスが突如として現れた空間には小さな地下へと続く階段が伸びているのが見えた。
「最初に靴箱を見た時に違和感があったのだが、さっきヴィンセントさんとコンビニに行った時にぼんやり自動ドアを見ていて思ったんだ。よくよく考えれば横にある倉庫と同じ面にあるのに対して、壁に埋め込まれている靴箱の奥行きが短いんじゃないかって。もしかしたら自動ドアみたいに手前が開いて奥があるんじゅないかとね。」
「なるほどですね。根拠としては限りなく薄いですが、素晴らしい着眼点ですよ。」
「素直に褒めれないのか。君は。」
自信満々に胸を張っていたパターソンであったのだが、手応えの無いレオスの反応に背中を少し丸めやや不満げそうに口を尖らせてしまった。
それを全く気にする様子を見せないレオスはスマホを取り出すとライト機能を使い、階段の先に広がる闇を照らし出した。
階段は十数段、距離にして四メートル程続いており、その先には木製のドアも見えていた。
「行ってみましょうか。」
レオスが今日二度目なる狭い通り道を抜けて、自身の足元をライトで照らしながら慎重に階段を下って行く。
パターソンも気を取り直してレオスと同じ様にスマホのライト機能を使いながらレオスの背中を追いかけた。
木製のドアに近付くにつれて、二人を一つの異変が起きているのを感じていた。
それは臭いだった。微かにではあったのだが、土の臭いに混じって何かが腐敗しているよう刺激臭がレオスとパターソンの鼻腔に襲い掛かっていた。
「ヴィンセントさん...これって。」
心の準備をするかのように先を行っていたレオスは地下ドアのノブに手を掛けたまま固まっている。
「最悪の事態は覚悟しておくべきでしょうね...良いですか。開けますよ。」
「ああ。私は大丈夫だ。」
パターソンの言葉を聞いたレオスが静かにドアを開けた。
やはり、臭いの発生元はこの部屋で間違いなかった。
ドアを開けた途端に中からハッキリと分かる程の強烈な臭いが室外へと向かって解き放たれた。
二人は腕で鼻を押えながら、手元のスマホのライトを前方へと向けた。
そこに広がっていた光景は強烈な臭いすらも忘却させるようなものであった。
この部屋の天井からは触手のような植物の根っこが壁伝いに伸びていて、その根先は五体の人間らしきものに絡み付いていた。
人間らしきものはミイラのように干からびており、性別や年齢などは判別できる状態ではなかったが、身につけている衣服やアクセサリーはそのままだったので、辛うじてそこから人間であったことは推測出来る。
無数に伸びた大小の根が絡みついている様子は、映画や漫画の世界で見る宇宙人や親和性ぬ触手に捕まってしまった哀れな人間の姿のようにも見えていた。
それ程に二人にとって目の前の光景は想定外かつ現実味の無い光景なのだった。
「ヴィンセントさん。これは...なんだ。」
「まるで『
その時、二人は目の前に広がる異様な光景に気を取られていて、後ろから近付いてきていた足音に全く気が付いていなかった。
「あらあら。駄目じゃありませんか。」
背後から聞こえてきたその声で初めて後ろの人物の存在を認識し、急いでライトを階段の方へ向けた。
「まさか...君の方だったんですか。これを隠していたのは。」
光の中に浮かび上がった人物を見つめながらレオスが呟くと、ライトに照らされた人物はニッコリと微笑んだ。
「エリーさん。何で君が。」
意外な人物の登場にパターソンはライトを地面に向けたままで固まってしまった。
「レイン様。理由なんて一つです。お花さん、紫陽花さんのためですよ。紫陽花さんに人間を与えると凄く、凄く綺麗な色になるのです。とても鮮やかな紫色になるのですよ。」
「そんなことのために...こんなにも大勢の人を。」
「およよ...『そんなこと』と仰いましたか? そんなこと...そんなことなのではありません! 」
エリーの大きな怒号が地下に響き渡った。今までの彼女の姿や仕草からは想像できぬボリュームと鋭い目つきへと豹変した。
「お花さんはわたくしの命です。如何に美しく、活き活きと咲かせられるか。それが世界の全てなのですよ。それ以外の人間なんてちっぽけな存在を気にするだけ無駄ですわ。」
エリーの声は徐々に元のトーンへと戻り、それに合わせるように彼女表情も笑顔が戻ってきていた。
しかし、その笑顔から以前のような癒しや安心感を得られることは無かった。
「まぁ。人間がちっぽけな存在と言うことには同意できますね。それにしても、家主の静さんに見つかることなく、こんな場所に人間を隠したり、ここで亡くなっている人々のほとんどが自発的に家から離れなかったと言う証言もあります。一体どんな方法を使ったんですか? 」
「ここを見られたレオス様に隠すようなことも御座いませんね。こちらですわ。」
エリーが右手に持っていたシルバーの木管楽器を二人に見せつけた。
レオスの照らすライトの光を浴びて輝く楽器はフルートのように細長い形状をしている。
不思議そうな顔で楽器を見つめる二人に対して、エリーは少し低い声で話を続けた。
「わたくしはこの楽器の音色で一時的に他人を操ることが出来るのです。そこに居られる皆様もこの音色を聞かせて、この家に留まらせてからこちらへ連れてきました。因みに、静様も元々はこの家を訪れた人間のお一人なのです。警察などの対応に便利だと思いまして仮初の家主として存在してもらっているだけなのですよ。」
「それは興味深いですねー。しかし、私たちに決定的な証拠を見つけられ、追い詰められての苦し紛れのハッタリだとすれば随分とお粗末なものになっちゃいますよ。」
「百聞は一見に如かずと申しますからね。」
レオスの挑発的言葉にも動じることなくエリーは落ち着いた様子で手に持っていた楽器を口元へと運ぶと、一拍遅れて美しい旋律が流れ始めた。
今までに聞いたことのないその旋律はとても聞き心地が良く、頭の中の奥深くへと水流のように滑らかに流れ込んで来るようだった。
『あれ? 』
彼女の奏でる旋律に聞き惚れていたパターソンは自身の体に起こり始めた異変に気が付いた。
体が動かない。
金縛りと言う現象を経験したことは無かったのだが、よく聞くそれと同じような状態になっていた。
手も足、唇さえも自分の意志で動かすことが出来ない。
辛うじて動かせるのは眼球だけであった。
眼だけを動かしながらレオスの方を見ると、レオスも同じ様に直立不動のままでエリーの方を見つめている。
どうやら彼も同じ現象に見舞われてしまっているようだった。
エリーは演奏を止めて楽器を下した。しかし、二人の体はまだ自由を取り戻せずにいた。
「お二人もお花さんの養分となって頂こうかとも思いましたが、お花さんには健康でストレスをあまり抱えていない人間の血が好ましいのです。そこに並んでいる皆様は無邪気で実に穢れの無い方々たちでしたが、レオス様からはおタバコの匂いが致しますし、レイン様には深く暗い何か感じます。ですので...。」
エリーは再び楽器を口元へと運ぶと、先程とは少し違う旋律を奏で始めた。
一つ前と同様に心地良く聞きやすい旋律ではあったのだが、体が動かない事以外にパターソンにはまだ変化は起こっていなかった。
だが、どうやらレオスはそうではないようだ。
体を百八十度回転させたと思うと、虚ろな目つきでパターソンへとゆっくりと近付いてくるのだった。
「うぁ...。」
パターソンは彼の名を呼び掛けようとしたが唇が動かない。喉から声にならない鳴き声のような音だけが空しく口から漏れ出てきた。
レオスはそのまま彼女の目の前まで来ると腕を上げ、パターソンの首を両手で強く締め始めたのだ。
パターソンは驚き動けないながらも肩にグッと力が入る。
レオスは彼女を見つめたままで力を緩めることなく首を締め続けていた。
抵抗も出来ない。声も出せない。このままでは本当に...。
目の前が赤黒く歪んでいく。耳からはエリーの奏でる美しい旋律が絶えず流れ込んできている。
そんな天国と地獄の狭間で彼女の意識は遠く消えかけようとしていた。
「イーヒッヒッ! 仲間に最期を看取られるなんてレイン様は幸せ者じゃないですか。」
一度演奏を止めたエリーは見た目に似つかわしくない高らかな笑い声を上げていた。
「では、どうか安らかに...。」
階段から二人を見下ろしていたエリーは左手で宙に十字を切ると、止めを刺そうと楽器を持ち上げた。
しかし、エリーの演奏が始まる事は無かった。
それと同時に新鮮な空気がパターソンの鼻と口から一気に流れ込んでくると、パターソンは膝からずれ落ちてしまい咽るように激しく咳き込んでしまった。
「わ、私は一体...れ、レイン君! 」
彼女の首を握り潰さんばかりに掴んでいたレオスも我に返ったようで、目の前で屈みこんで咳き込むパターソンを見つけ驚いているようだ。
「はー...だ、大丈夫だ。流石に死ぬかと思ったが。それより何で...。」
レオスの差し出した手を握りながら立ち上がったパターソンの顔色はまだ青白いままだった。
パターソンの状態も気にはなったのだが、確かに何故体の自由が戻ったのか。
二人がほぼ同時にエリーが立っていた階段へと視線を向けた。
そこにはエリーが楽器を持ったまま立ち尽くしていた。まるで、先程までの金縛りにあっていた自分たちを見ているような気分だ。
二人が見つめる中でエリーは左手で自身の背中へと回した。
「これは? 」
エリーは左手を背中から自身の顔の前に持ってくると小さな声で独り言を呟いた。
何が起こったのだろうか。
ただ一つだけ分かったことがあった。
レオスとパターソン、そして、エリー自身でさえも。
背中に回したエリーの左手が真っ赤に染まっていた。
それはエリーの血だった。
エリーの右手から楽器が零れ落ちて行った。
カランと乾いた高い音を立てて階段を転げ落ちていく楽器を追いかけるかけるかのように、エリーの体がドミノのように前方へと倒れ階段を転げ落ちて行く。
体の自由が戻ったはずなのに、その場から動けずに立ち尽くした二人の前には楽器とうつ伏せになったエリーの体が並ぶようにして地面に転がっていた。
エリーの背中からはじんわりと赤い染みが現在進行形で広がっている。
ついさっきまでエリーが立っていた階段の少し後ろには別のある人物が立っていた。
「娘の...京子の仇よ! 」
そこに立っていたのは轟志津香だった。彼女のその手には赤い血に染まる包丁が握られている。
志津香は泣きながら叫び声を上げると、糸の切れた操り人形のように力を失いその場に崩れ落ちてしまった。
「お花...さん。お花。」
地面に横たわるエリーは天井から伸びるグロテスクな植物の根に向かい手を伸ばした。
彼女の目からは涙が零れ落ちていく。
今まさに儚く散ろうとしれいる彼女が精一杯伸ばす手は、多くの人間をを殺めてまで維持し続けた永遠の美を約束されていたはずの庭に咲き誇る花々にも、天井から伸びるその根にさえも届くことはなかった。
最後に何かを呟いたエリーの手が力無く床へと落ちた。
二人が無言で見つめている中で彼女の身体は完全に動かなくなったのだった。
数台の救急車と多数の警察車両が不帰の家に集まってきていた。
パターソンは一台のパトカーの中で救急隊員からの手当を受けていたが、幸いにも二人の怪我は軽いものであった。
隣に止まっているパトカーにローレンとアクシアに連れられた志津香が乗せられているところだった。
志津香は魂が抜けてしまったかのように口をパクパクと動かしながら何もない一点を見つめている。
パターソンの乗っていたパトカーの近くではオリバーとレオスが事件経過の説明をしていた。
「レオス君は体の方は問題無いですか? 」
「ええ。大丈夫です。課長。エリー・コニファーは。」
オリバーは静かに首を横に振った。
「間に合いませんでした。地下にあった五体の遺体はDNAなどを調べて見ないと分かりませんが、身に着けている衣服などを確認するに届けが出ていた行方不明者たちで間違いなさそうです。」
二人が見つめる不帰の家の玄関からはシーツに包まれた遺体が次々と運び出されていた。
オリバーはここへ来る途中で買っておいたレオス愛用の煙草をパッケージから一本取り出し彼に差し出すと、レオスは目を見開きながら少し驚きながらもオリバーの手からその煙草を笑顔で受け取った。、
「お疲れでしょうと思いましてね。買っておきましたよ。」
「これは助かりますねー。有難く頂きます。」
レオスは煙草に火をつけると大きく夜空に向かい紫煙を吐き出した。
「本当に美味しそうに吸うんですね。そうだ。家主とされていた静さんはこの家を初めて訪れてから今までの間の事は覚えてい無いそうです。彼女は家族とは疎遠になっていて発覚を免れていたようです。では、私もローレン君たちの方へ行ってきます。」
レオスに手を振ると、オリバーは颯爽と車に乗り込み現場から走り去った。
「課長なんだって? 」
手当を終えたパターソンがパトカーから出てきており、レオスの傍に立っていた。
「ああ...それより首は大丈夫ですか。レイン君? 」
「まぁ少し痛むが大丈夫だぞ。」
パターソンは笑いながら大袈裟に首に巻かれていた包帯をポンポンと叩いていた。
「本当に申し訳なかったですね。」
「...信じられないけど、操られてしまっていたんだ。私自身も全く動けなかった。あれは一体何だったんだ。」
そう言いながらパターソンは庭に咲いている紫陽花を見つめていた。
「違うんですよ。」
「え? 」
「実は...君の首に手を掛けている時に意識が戻ってからも、しばらく
「えっ? えっ? ヴィンセントさん? それは...。」
再び大きく夜空に紫煙を吐き出すと、慌ただしく行き交う警察官の群れの中へ彼女の弾丸なような言葉から逃げるように姿を晦ませてしまった。
Bar Derasのカウンター席でオリバーが一人で酒を飲んでいた。
彼はお気に入りのスコッチウィスキーが入ったロックグラスを持ち上げて口にした。
口の入れた途端に広がり、鼻から抜けるこの強烈なピート香が本当に素晴らしい。
このスコッチウィスキーは希少なもので一般の店ではまず出会えることがないのだが、マスターに無理を言って仕入れてもらっていた。
そんな落ち着いた安息の時間を打ち消すようにスマホが激しく振動し始めた。
オリバーがディスプレイを確認すると『ある人物』の名前と電話番号が表示されていた。
勤務外では掛けて来て欲しくないものだが、無視する訳にもいかずにオリバーは短い溜息をした後にその電話に出た。
「もしもし。お疲れ様です。ええ。ええ。そうですね。申し訳御座いません。目標の確保に失敗した原因は彼女たちに問題があったのでは無く、被害者の母親が我々を信用せずに現場の家を単独で見張っていたことにあります。ええ。そうです。母親は彼女たちが家に侵入するのを物陰から見ていて、密かに二人の後を追ったそうです。その先で娘の変わり果てた姿を見つけて、衝動的に隠し持っていたナイフで目標を刺してしまったという顛末になります。そうですね。目標はかなり有能な力の持ち主でしたから確保はしたかったのですが...。」
それから少し何かを話した後でオリバーは電話を切った。
今度は大きな溜息をつくと、残っていた琥珀色の液体を一気に喉へと流し込んだ。