気が付くと、目の前には異国の風景が広がっていました。
日本とは少し趣の違う高層ビル。港湾地帯、そして、軍艦の群れ。そのような光景が見える湾の上に錨泊しているようでした。
『――ここは、ウラジオストクだ』
ようやく、『しらね』として記憶のある光景を見れた気がします。
ウラジオストク、かつて護衛艦『さみだれ』と共に訪問した外国の港のひとつです。確か入港した翌日にはロシア海軍の艦艇とともに共同訓練を行ったことを覚えています。
一方、甲板の上では会見を行うためのセッティングが施されており、壇上に載せられたマイクに向かい、異国の将官と思しき方が何事か演説を行っています。話している言葉から、はっきりと理解まではできませんが、ロシア海軍の将官の方が話されているということは理解できました。
ロシア海軍の将官の方が自衛官の立つ方へ腕を向け、紹介を行っているようです。そこで紹介されたのは、
『あれ? あの時の私の艦長って……』
今まで見てきた知っているはずの記憶の中に現れる違和感。そして次の瞬間、
『ハルナ』
ロシア海軍の将官の口から飛び出したこの三文字で、私は確信しました。
これは、『しらね』の記憶ではない。
これも、『はるな』の記憶なのだ、と。
「――――もう、何度目かしら」
窓を覆うカーテンの向こう側から微かに差し込んでくる早朝の明るさと、背中に感じるベッドのマットレスの少し硬めの感触が、今私が艦娘としてこの重巡艦娘寮にいるということを教えてくれていました。
結局、この夜も前の夜ほどではありませんでしたが、満足に眠れたとはとても言えません。私は瞼を閉じると寝返りを打ち、再び浅い眠りへ落ちることだけを考えることにしました。
コンコンコンッ!
次に私の意識が覚醒させたのは、ドアの向こう側から聞こえる小気味よいノックの音でした。
ようやく眠れそうだったのに――。そんなことを数刻思いつつも、この部屋のドアをノックしてくるのは確実に先輩だけであることを思い出した私は、眠い目をこすりつつ、先ほど目覚めた時より確実に明るくなった部屋を歩いて、ドアを開けました。
「あ、おはよしらね! 起きてた?」
「鈴谷、これは『起こした』が正解ではなくて?」
「そんなのどっちでもいいじゃん熊野♪ あ、しらねちょっと昨日より顔色いいじゃん♪ よかったー心配したよー」
そこには、普段通りの明るいテンションの鈴谷先輩と落ち着いた熊野先輩、
「ねぇしらねちゃん、これからみんなでお昼ご飯と間宮に甘いもの食べに行こうよ!」
「今間宮で春のスイーツ祭り期間中だそうですわよ。ところでしらねさん、甘いものはお好きでして?」
その後ろで少々控えめに立つ最上先輩と三隈先輩の姿がありました。
昨日逃げるように去っていったこともあって少々の後ろめたさもありましたが、
ぐぅぅぅぅ~。
「あ」
そのような思慮などお構いなしに動くお腹が、今取るべき行動の回答を示していたのでした。
「あの……、すぐに支度しますので、その、少し待ってもらって、よろしいですか?」
そう言って私は扉をそっと閉めると急いで部屋に戻り、慌ててロッカーを開けて制服を引っ張り出したのでした。
平日とは違いどこかのんびりとした雰囲気の食堂で、私は注文した料理が載ったお盆を手に最上先輩たちと食卓を囲みます。
「ねぇしらねちゃん、そんなにご飯の量少なくて大丈夫? 朝ごはんも食べてないんでしょ?」
お願いして小さいご飯茶碗に少なめに盛ってもらったごはんとお味噌汁、そして小さめの焼き鮭が並ぶお盆を最上先輩が心配そうに眺めます。
「お腹は空いているんですけど、あまりたくさんは食べようと思えなくて……。それより先輩方こそ、このあとデザートを食べに行かれるのですよね? そんなに召し上がって――」
「だいじょぶだいじょぶ♪ ほら、『甘いものは別腹』って昔から言うじゃん♪」
「にしても鈴谷は少々食べ過ぎではなくて?」
「『最近ちょっと太ってヤバいかも~』って嘆いていたのはどうしたのかなぁ?」
「三隈もほんの少しだけ量は減らしているのですよ?」
「べ、別にいいもんどーせ出撃で身体動かすし! っていうか節分に恵方巻たらふく食べてしゃべれなくなってた熊野にだけは言われたくないし!」
本当に他愛のない話題を弾ませてその場を明るくしていく先輩方に釣られて、思わず私も表情が和らぎます。
「あら、みんな楽しそうね?」
「――妙高先輩」
そこへ通りかかった妙高先輩が優しく声を掛けてきました。
「しらねさん、なんだかご飯の量が少なめのようね?」
「えっと、その、この後先輩方とご一緒に間宮さんにスイーツを食べに行くので、その――」
何故か言い訳をするかのような話し方になってしまった私に、
「あら、みんなでスイーツだなんて楽しそうじゃない。私も時間があるなら混ざりたかったわ♪」
妙高先輩は手にしていた弁当箱が覗く風呂敷を掲げて見せつつ、実際に羨ましそうな表情をこちらに向けてきました。
「また提督にお弁当配達? 提督も大変だねー」
「今日本当は提督と一緒にここで昼食の予定だったから、食材も切らしてしまっていたし、鳳翔さんにお願いしてお弁当を用意してもらったのよ」
「妙高さんホント料理うまいもんねー」
「あら鈴谷、せっかくなら今度私が料理教室、開いて差し上げましょうか?」
「あー、どーしても何か上手くいかないって時にはお願いする、かも……?」
妙高先輩の誘いにほんのわずかにしどろもどろになりながら答える鈴谷先輩の姿を不思議そうに眺めていたら、
「――そうだ、しらねさん、せっかくだからご飯にこれを載せて食べてみたらどうかしら?」
そう言って包みの中からひとつの瓶詰の何かを差し出してきました。
「妙高先輩、これは――?」
「妙高特製の万願寺唐辛子味噌よ。栄養たっぷりでご飯もススむわよ?」
妙高先輩が瓶の蓋を開けると、美味しそうな味噌の香りが鼻をくすぐります。
「唐辛子って……、しらねって辛いもの大丈夫? 口から火噴かない?」
「あら鈴谷、万願寺唐辛子は辛味よりも甘味のほうが強いのよ?」
舞鶴特産品の京野菜よ、よく覚えておきなさいね、と言葉を続けつつ、妙高先輩はその瓶をこちらに差し出してきました。私は食卓に置かれていた割りばし立てから新たに割りばしを取って、その特製味噌をつまみ、ご飯に載せて一口食べてみます。
「――おいしい!」
口の中に甘辛い味噌の風味と、唐辛子とは思えないまろやかな甘みが広がっていきます。
「でしょ? 提督もこれが大好物で、よくこれを肴に晩酌しているの。せっかくだから、その瓶の分はしらねさんに差し上げますわ」
「――よろしいんですか?」
明らかに司令へ届けるための包みから取り出したものであることに私は若干困惑を覚えたのですが、
「えぇ、提督大好きだから作り置きしていて、まだいくつかあるから気にしないで食べて。あ、そろそろ行かないと。それでは皆さん、スイーツ楽しんできてね」
そう言い残して妙高先輩はお弁当の入った包みを手に食堂を後にしていきます。
「ねぇしらねちゃん! ボクも一口もらっていい?」
「三隈も味見してもよろしくて?」
「あーそれならお昼のメニューご飯モノにしときゃよかったぁぁ! マルケリータとボロネーゼとサラダじゃ絶対合わないじゃん!」
「そもそも鈴谷は当初の時点で頼みすぎではなくて?」
妙高先輩を見送ったところで味噌に群がってくる先輩方と和やかな空気を楽しみつつ、昼下がりのひと時が過ぎて行きます。
「は~い、春のスイーツパフェタワーと間宮特製重巡プリンアラモード、お待たせいたしました♪」
食堂の隣に入口を構える『甘味処・間宮』の主・間宮さんが大きなお盆に想像以上の縦方向のボリュームがあるパフェの塔と、対照的に横方向にお皿のボリュームがあるプリンアラモードを運んでくると、それぞれ熊野先輩と鈴谷先輩の前に配膳していきます。
「あらしらねさん、みんなスイーツ祭りだけどショートケーキだけで大丈夫?」
「私はこれで十分ですので……」
テーブルに座る面々すべてに注文の品が行き渡ったのを確認したところで、お盆を胸に抱きつつニコニコと追加の確認をしてくる間宮さんを制したところで、私も先輩方に続いてフォークを手に取り、注文したショートケーキをすくいます。
「うわっ新作の重巡プリンアラモードもだけど熊野の春のスイーツパフェタワーもヤバくない?」
「わたくしは鈴谷の語彙力のヤバさの方が心配になってきましたわ」
「だってヤバいものはヤバいっしょ! あ、しらねも食べる? プリンアラモード♪」
ずい、と差し出された中々のサイズのお皿に盛られたプリンとホイップクリーム、そして果物の中から、
「せっかくですから……」
私はプリンをひと掬いして口に運びます。
「あ、このプリン甘くておいしいです」
「えーそのくらいでいいのしらね~、ショートケーキ一切れとか絶対足りないって! ほら食べて食べて♪」
「わたくし何度も申し上げてますけど、鈴谷の注文する量が多すぎるだけですからね?」
「そんなもりもりパフェタワー頼んじゃってる熊野にだけは言われたくないよ~だ」
「わたくしはそのためにお昼はサンドウィッチだけに……、鈴谷! 勝手にわたくしが後に残しておこうと思っていたビワを食べないでいただけませんこと?」
鈴谷先輩は口を尖らせて熊野先輩の言葉に反論しつつ、素早く熊野先輩のパフェタワーに盛り付けられたビワの一切れに狙いを定めると、物凄いスピードでビワは鈴谷先輩の口の中へと消えて行きます。
「しらねさん、間宮の甘味はお口に合いまして?」
そんなふたりのスイーツ紛争を横目に、間宮特製あんみつを上品に食べる三隈先輩が声を掛けてきました。
「はいっ」
「やっぱり甘いもの食べると元気出るもんね~。そこのふたりはちょっと食べ過ぎ、元気出過ぎだけど」
「なっ!」
「そういう最上だってあんみつ大盛り頼んでるじゃん!」
「ボクもお昼は少なめにしたし、それにふたりに比べたらこのくらい――」
そんな姉妹艦の他愛のないやりとりを目にしているうちに、
「ふふっ」
私は笑わずにはいられませんでした。
「ごめんなさいっ♪ でもなんだか先輩方のやりとりを聞いていたら、どうしても笑わずにはいられなくなって――」
口を押えつつも笑いが止まらなくなってしまった私に、
「あ、しらねちゃんやっと笑った」
少しの時間を置いて最上先輩がそう言って笑っていました。
「えっ……?」
「やりましたわもがみん!」
「これで最上型特別編成艦隊!」
「『しらねさんを笑わせ隊』の任務完了ですわ!」
そこで最上先輩の周囲に皆さんが集まって思い思いのポーズを取りつつ、笑顔で万歳三唱を始めたのです。
「ささっ、しらねが笑顔になって元気になったところで……、しらね、何か頼む?」
一頻り万歳三唱したところでメニュー表を手に取り追加注文を訊こうとする鈴谷先輩に残りの皆さんが漫才のようにツッコミを入れます。私はその光景に心の底から笑い声を上げていました。休日の昼下がりが、こうして過ぎて行きます。
◇
最上先輩たちとのひと時からしばらく経った夕方、私は司令官執務室のドアをノックしていました。
『はい?』
「しらねです、司令、少々よろしいでしょうか?」
『あ、一旦入って!』
司令の言葉に従って入室した私が目にした光景、それは山のような書類の奥で執務に励む司令の姿でした。
「――あの、その、司令」
思い切って振り絞った声に、
「あ、ごめんねしらね、まだ今日中の書類決裁が終わっていなくてね。もうちょっとすれば書類も片付くし、何よりここは他の娘たちも来るから、この建物の四階、階段から左へ突き当たりに『相談室』って書かれた部屋があるから、そこで待っていてもらえないかな?」
書類に落とす視線はそのままに、司令がそう伝えてきました。
『ここは他の娘たちも来るから』
私の方を見ずとも出てきたその言葉と案内された場所の名前から司令の考えを察することができた私は、
「承知いたしました。それでは、失礼いたします」
そう言って執務室を辞して、司令が伝えた通りに階段を登り始めます。
「いやぁ、遅くなって申し訳ないね。お昼を妙高に持ってきてもらって食べながら決裁やっていたんだけれど、中々決着がつかなくてね……」
部屋で待つこと三十分ほどして、ノックと共に現れたのは、
「司令、その……、白衣は……?」
普段身に付けている軍装の上から見慣れぬ白衣を纏い、湯呑みを載せたお盆とバインダーを脇に挟んだ現れた司令の姿でした。
「あぁこの恰好? 僕、こう見えて臨床心理士の資格を持っていてね。結構形から入っちゃうタイプなんだ」
そういいつつ司令は私の向かい側に腰を降ろすと、手にしていたお盆から湯呑みを私の前に置き、続いてバインダーからボールペンを外し何事かを記入し始めました。
「ひとまず、ここからは僕のことは舞鶴鎮守府司令官・追川尊じゃなくて、心の専門家・追川尊だと思って話してくれると、嬉しいかな?」
その言葉に、今日私を気遣ってくださった妙高先輩、そして最上型の先輩方の表情が重なります。
この鎮守府の誰もが、この私を気遣ってくださっている。私が抱えている何かしらの問題に、できる限りの手段で寄り添おうとしてくださっている。
その想いを、無下にしてしまってはいけない。
私はそう決意を固め、その口を開くことにしました。
「――最近、変な夢ばかりを見てしまいます。そのせいで、夜中に目が覚めてしまったり、そこから寝付けなくなってしまって……」
「なるほど、変な夢をよく見るんだね。よければ、その夢の内容を聞かせてもらっても、いいかな?」
「あの……、こんなことを話すと不思議といいますか、変に思うかもしれませんけれど……、その……」
司令、いえ、『追川先生』は私の話す内容を素早くメモに残しつつ、時には物腰柔らかな口調で、時には静かに私が話すタイミングを待ちつつ、私の話に耳を傾けていました。
「私の記憶ではなくて、『はるな』の……、護衛艦『はるな』が艦だった頃の記憶、です」
「――しらね、いや、しらねさんはどうしてその夢が自分の記憶じゃなくて『はるな』さんの記憶だとわかったのかな?」
メモの手を止めてしばし何事か考え込んでいた追川先生が、よりゆっくりとした優しい口調で言葉を促します。
「明らかに、私が経験したことのない任務や、行ったことのない場所の景色だったからです。他にも、夢の中に現れる乗組員の方などが私のことを『しらね』ではなくて『はるな』と呼んでいたり……」
「よければ、その『経験したことのない任務』の中身を聞かせてもらえないかな?」
「まずひとつ目は『第十雄洋丸事件』です。私が艦として就役どころか竣工する前に起きた、東京湾で発生したタンカーと貨物船の衝突からの火災事故を鎮圧するために、はるなたちがタンカーを砲撃して燃料を燃やし尽くしつつ、沈没処分する、そういう任務でした」
私は、夢で見た『はるな』の記憶をできる限り事細やかに追川先生に伝えて行きます。どのような出来事だったか、誰と一緒にいたか。
そして、『わたし』が何をしたのか。
『みょうこう』『あぶくま』と共に海保の巡視艇でさえ追いきれない不審船を追いかけ、警告射撃、さらには『わたし』が転落防止用のネットを甲板から繰り出し、不審船の脚を止めようと奮闘した能登半島沖不審船事件のこと。
補給艦『ときわ』を『さわかぜ』と共に護衛して臨んだ、インド洋派遣補給任務のこと――。
「そんな夢を何日も見続けているうちに、私、自分が『しらね』なのか、それとも『はるな』なのか。自分でもよく、分からなくなってしまって……」
話せるだけ話した私は、自然と零れ落ちる涙を拭いながら顔を俯けました。
「――なるほど、そこまで具体的に『はるな』さんの記憶と理解できる夢を何度も見ているとなると、不安にならないほうが不思議だと思うよ。――ところで、しらねさん、君は何かその『はるな』さんとの間で、何か思い当たるようなことはないかな?」
「思い当たること……」
「例えばそうだね……、艦として生きていた間に、何か『はるな』さんとのしらねさんの間で深く関わる出来事とか、なかったかな?」
投げかけられた追川先生のその一言が、私の中でも特に重要な、そして最も辛い思いをした、あの出来事とその顛末と結びつきます。
「もしかして……?」
「何か、心当たりが?」
「ひとつ、あります」
脳裏を、一つの重苦しく嫌な記憶が駆け抜けて行きます。それでも、今私を苦しめる何かから少しでも救われるきっかけになるのなら――。
「以前、私は横須賀に停泊中に火災事故に巻き込まれたことがあります。艦内の戦闘指揮所から火が出て、戦闘指揮所の装備ほぼ全てに深刻なダメージを受けてしまいました」
「ほぼ全て……」
「はい。戦闘指揮所は艦の作戦行動の要、要は人間で言うところの頭脳です。頭脳にダメージを負ってしまった私は、その時すでに艦として決して若くはありませんでした。なので、私を廃艦にしよう、当初はそういう意見も出たと聞いています」
「当初は……、というと?」
「その時、私より年上の『はるな』は老朽化で艦としての役目を終えて退役する予定でした」
私の脳裏を、横須賀で『はるな』と顔を並べていた頃の記憶がよぎっていきます。
「私を退役させて、『はるな』に延命措置を施して生き残らせるか、それとも退役した『はるな』から『頭脳』を私に移植してもらって、私が生きるか……。結局、私は退役した『はるな』の頭脳を譲り受けて、残りの艦としての生涯を全うすることになりました」
話せること全てを話したところで、相談室の中に沈黙が流れます。
「――なるほど、人間で言う頭脳の移植、かぁ……」
紙に記した内容を何度も読み返した追川先生がようやく言葉を繋ぎました。
「もしかすると、君の見ている夢の原因はその移植かもしれないね」
追川先生は最後に何事か短く書き留めるとバインダーを置き、先生が持ってきた湯呑みを手にして緑茶を啜ります。
「これは、少なくとも人間の間でははっきりとその存在が認められているわけではないんだけれど、移植手術を受けた人間の中で、『記憶転移』という現象の報告例があるんだ」
「記憶、転移……」
「具体的な例を挙げると、例えば心臓に重い病を患った患者が心臓移植手術を受けて無事助かった。するとその後回復した患者が、例えば今まで大嫌いだった食べ物や嗜好を好むようになったり、はたまたそれと反対のことが起きたり。自分に心当たりのない経験について仄かな記憶を持っていたり、そのような事例がいくつか報告されているんだ」
「それは――」
「そう、しらねさんが話してくれた『はるな』さんの夢の話、そして火災事故から助かるために退役した『はるな』さんの戦闘指揮所という頭脳を引き継いだという出来事と、話の流れが非常によく似ているし、なによりこちらは心臓ではなく、人間で言えば脳みその移植を受けたようなもの。記憶の転移に関しては、正直な感想として僕は心臓移植の話よりも信憑性がありそうだな、そう思うんだ」
追川先生はそこで再び緑茶を啜ってから言葉を続ける。
「もちろんこれも何か確定的な証拠があるわけではないけれど、現時点ではその移植という出来事が君の見ている夢の原因と考えるのが自然と言える。さて、ここで一旦心の専門家・追川尊の出番はおしまいということで」
そういうと追川先生は白衣を脱ぎ、『追川司令』へと戻っていく。
「君の就役に向けた訓練だけれど、近々君の訓練教官として、横須賀からひとり艦娘を派遣してもらう方向で話を進めている」
横須賀から、教官として艦娘が……?
「司令、その教官って――」
「お、その表情は察している感じだね? そう、今横須賀所属の護衛艦『はるな』が派遣される方向で向こうの司令官と日程の調整中だ。また日程が決まり次第伝えるけれど、せっかく来てくれるんだし、一度、はるなとそのことについて、話をしてみたらどうだい?」
「司令――」
「僕は人間、君は艦娘。似た者同士のようで、実際は全く別の存在といってもいい。だから、こうやって別物な僕と話すよりも、同じ護衛艦同士で話す方が有意義じゃないかな? 残念ながら、海を船で走った経験はあっても、海をこの身体で直接駆け回った経験はないからね」
そう言って司令はおどけてみせた。
「それと最後に。今日君から聞かせてもらったお話なんだけど、臨床心理士として、研究の題材にさせてもらうことは、難しいかな?」
「研究の題材……、ですか?」
突然飛び出した『研究』という単語に、私は思わず目を点にしてしまいました。
「この海軍には君たち艦娘について研究するための組織である特種自立艦艇技術研究本部、通称特自艦技研というものがあることは座学で羽黒から習ったかな?」
「はい」
「その中には心理学研究部という部門があって、僕は元々そこの出身なんだけれど、正直な話艦娘のメンタルについて、我々人間は未だによく理解できていない。もしかすると、今君を悩ませている問題を心理学研究部の専門家と共に研究すれば、君だけじゃなくて、今後もしくは今まさに悩みを抱えている艦娘の助けになるかもしれないんだ。――協力してもらえないかな?」
司令が口にする言葉、その根本に宿る『困っている人を助けたい』という純粋な感情。
私が今抱えるこの悩みが、今後誰か別の艦娘を救う助けになるのなら……。
「わかりました。ご協力させてください」
私にその申し出を拒否する理由は、存在しませんでした。
「協力してくれてありがとう。もしかすると今後何かしらのお話を聞かせてもらうこともあるかもしれないけれど、今日含めその内容は僕と、僕の信頼する心理学研究部の水谷という研究主任以外には一切口外しない。それは必ず約束する」
「わかりました。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私は司令に深々と頭を下げました。
この人が私の司令で、本当によかった。
そう心の底から思いながら。
「ところで」
その後しばし気分転換とばかりに雑談に花を咲かせていた私は、相談室を辞する直前に司令に疑問を投げかけました。
「司令は以前心理学研究部に所属されていて、臨床心理士の資格を持たれていると仰られていましたけれど、どうして今はこのように司令官の職に……?」
「司令官と心理学の研究者じゃ畑違いもいいところでは? ――そういうことでしょ?」
笑いながら私の心の奥底で留めた疑問を口にした司令が言葉を続けます。
「僕は大学院まで心理学を専攻していて、その専攻が縁で研究職として海軍に入って、君たち艦娘の心について研究し続けてきたんだ。だけど――」
司令はそこで言葉を区切り、バツが悪そうに頭を掻いた。
「研究室に籠ったり、鎮守府に通って色々と話を聞いたりしながら研究を続けているときに、ふとある日気が付いたんだ、『僕は艦娘のことを何にも知らない』ってね。艦娘たちの症例や悩みの内容には詳しくても、艦娘が普段どんなことを考えていて、どんなことを思いながら毎日生きて、そして戦っているのか、僕は全く知らなかったんだ」
司令は先ほど脱いだ白衣を手に取り、再び話を続ける。
「研究対象のことを理解していない研究者なんて研究者失格だ、もっと艦娘のことを知らなければ――、そう思いつつ行動していたら、いつの間にか司令官のほうが本業になってしまった、それだけの話だよ」
そう言うと司令は穏やかに笑っていました。
◇
しらねが相談室を辞してから数時間後、追川は陽もとっぷりと暮れ少しばかり明るさを失った執務室で、ひとり書類の整理を続けていた。その手が突如鳴り響き始めた電話の着信音で止まり、追川はすぐに受話器を取り上げる。
『提督、一番へ江田島の心理学研究部の水谷主任よりお電話です』
電話の取次ぎ役を担ってくれている艦娘のひとりである大淀が予知していた通りの相手の名前を告げる。
「はい、こちら追川です」
『おやおや追川くん、休日ももう夜遅くだというのに、まだ執務中とは精が出ますねぇ』
受話器の向こう側から、ここに来るまでの間何年と聞き続けていた独特の芝居がかったような口調の元上司の声が流れてきた。
「お言葉ですが、そういう水谷主任もこうして江田島のラボからお電話をされている時点で、私と変わらないのでは?」
同じく過去何度繰り返し使ったかわからないいつもの調子での返しを入れたところで、水谷が話題を本題に移す。
『さて、先ほど追川くんが送ってきてくれた護衛艦『しらね』のカルテ、さらには護衛艦『はるな』の艦歴、目を通しました。艦としての記憶の転移、ですか。確かに、実に興味深い内容ではありますねぇ』
「これまで症例として報告のない症状です。もしかするとこれまで症例報告されていないだけで類似する対象が複数存在している可能性、あるいは今後新規症例対象者が出現することも考えられます。水谷主任、ここはひとつどうでしょう? 彼女を直接カウンセリングしてみるというのは」
追川は椅子をくるりと回転させ、身体を窓の方へと向けつつ提案を投げかける。
『確かに、僕としても直接カウンセリングをしてみたい気持ちはあります。しかし――』
そこで水谷の言葉が一旦途切れる。
『少なくとも彼女は、僕ではなく君を、追川尊という男を頼ってこの事を相談したのではないかと、僕は推測します。それならば君が採るべき行動はひとつ、今後とも君が直接彼女と向き合い、話を聞き続けてあげること……、何か僕は間違ったことを述べているでしょうか?』
電話越しに投げかけられたその言葉に、追川はまいったなと言わんばかりの表情を浮かべ頭を掻く。
「確かに、水谷主任のおっしゃる通りでございます」
そうだ、この人はいつもこうだった。追川は久しぶりに元上司だった電話越しの男の性格を思い出し苦笑いする。
『もちろん、研究にはできる限り協力いたします。何か気になることがあれば、君を通して確認させてもらいますが、よろしいですね?』
「もちろんです。そのために彼女に承諾を得ているのですから」
『わかりました。では、今後とも彼女と、彼女の先輩たちをよろしく頼みますよ、追川司令官殿』
そこで電話は途切れた。追川はしばし何かを考えていたもののようやく受話器を置き、再び机の書類と向き合い始めたのだった。
「『しらね』が舞鶴に、かぁ……」
同じ頃、横須賀鎮守府の重巡艦娘寮の一室では、ふたりの艦娘がベッドに腰掛け会話を弾ませていた。護衛艦『ひえい』と『はるな』だ。
「私たちが艦娘になってここに来て、もう四年だものね」
はるなのその言葉に、ひえいは感慨深い表情を浮かべる。
「最初はここだけじゃなくて、全国で私だけだったものなぁ、護衛艦」
「すぐ私も来たけれどね」
「――あれから四年かぁ。いいなぁ、はるなだけ舞鶴行き決まって。私もしらねに早く会いたいなぁ……」
「仕方ないじゃない。またいつものようにいつ何時他所への派遣要請が来るかもわからないし、ここをふたりいっぺんに演習のために空けるのがマズいことくらいひえいだってわかるでしょ?」
「もちろんそれは分かっているけどさぁ」
はるなの言葉の真意が理解できないひえいではなかったが、何せ四年ぶりに増える『同郷』との再会を一旦お預けにされるのである。ささやかばかりの抵抗とばかりにわずかに頬を膨らませる。
「それに、きっとすぐにみんなで横須賀にでも集合して演習なり観閲なりあるんじゃないかしら? 軍令部あたりのお偉いさん、観閲とかそういうの好きな人多いし」
「あー、言われてみれば」
「その前に、私がしらねを艦娘として一人前に鍛えてきてあげるから、ひえいは留守番、よろしくね」
そう妹に留守番役を頼みつつ、はるなもまたひえいと同じくしらねとの再会を心待ちにしていたのだった。
しらね、彼女は一体どんな艦娘として生まれてきたのだろう。
私たち姉妹の長所を伸ばし、よりよい『旗艦』になるために艦として生を受けた彼女が。
護衛艦隊直轄艦として、数え切れないほどの広報艦としての露出をこなし、何人もの我々の最高指揮官をその艦上に迎え入れた、『最高の義妹』が。
はるなは視線を壁に掛けているカレンダーに移す。カレンダーに赤い油性ペンで記された丸印と、『しらね舞鶴出張』の文字が目に入る。
しらねとの再会の日が、ゆっくりと、確実に迫ってきていた。