ずぶ濡れの沙希がか弱くて儚くて……。
パシャッパシャッ! パシャッパシャッ‼
御地では朝晩はもうずいぶん冷え込むのではないでしょうか。涼秋の候、小生の地元千葉ではいま激しい雨に苛まれております。
降りしきる雨をその身に浴びながら結びの挨拶が浮かんだ。その手紙を書く機会も相手もいない悲しみで枕まで濡らしてしまいそうだ。既に全身が濡れているのに天はまだ足りぬと申すのか。
「ていうかグッチョグチョだよなぁ……」
雨粒がアスファルトを叩きつけ周囲の音が掻き消される。百メートル先すらも水沫ではっきりと認識できない。
その中を傘なしで走ってるいまの俺カッコいい……と、二年前くらいまでならこの状況に酔いしれることもできただろうが、既に厨二病を乗り越えた俺にとって、ただただ寒いし不快なだけの忌まわしい雨でしかない。
傘を持っていない罰則が滝行とは社会だけでなく神をも敵に回してしまったかと人生を呪いたくなる。何それ、もう抗えるのラオウしかいないじゃん、天に向かって拳を繰り出すか。でもまだ我が生涯に悔いしか残ってないからまたの機会にしておこう。
愛しの我が家まで距離にして二百メートルほどだろうか。
もう濡れるという意味すら失った全身飽和状態の俺は走ることを辞めた。早く帰ることで風邪を引く確率を下げられるかもしれないが、むしろこんな視界不良聴覚不能で走ったら車に轢かれる確率が上がってしまう。
悠然と家に向かっていると定休日の店の軒下に佇む人影に目を奪われた。
十メートルほどの距離まで近づくと、それが知っている人間だと気づく。
青みがかった黒髪をシュシュで結い、腰まで伸びたポニーテールはずぶ濡れで力なく萎びていた。
同じクラスの川……崎沙希は陰鬱そうに空を眺めていた。
何となく川崎の隣に滑り込んでしまったが、この判断が良くなかった。今の俺に雨宿りの必要性がないこともそうだが、それ以上に視線に捉えた川崎の状態が問題だった。
「え、比企谷……?」
「おう……、お前も雨や、どり………か…………」
九月現在、衣替えがまだな俺達の恰好は夏服姿で上はワイシャツのみだ。さらに俺と同じく全身が濡れている川崎に何が起こっているか。ついつい俺の視線はその事件現場へと向けられてしまう。
後の歴史に刻まれる『透けブラ事変』である。
いつぞやの下とお揃いで黒なそれはまさに透過率百パーセント。レースの柄まではっきり分かってしまう、つまり見事なまでのすっけ透けだった。端的にいって超エロイ。だが目のやり場に困るわけで慌ててそっぽを向く俺と、そのあまりに不自然な行動を怪訝な表情で睨めつける川崎。一拍置いて事態を掌握したのか
「…………ん、え?」
「…………」
「――――っ‼」
川崎は筆舌に尽くし難い悲鳴を上げ、両腕で身体を抱くように胸を隠していた。顔どころか耳まで赤い。
なんでそれが分かったかって?
チラ見してたからに決まってんだろ、言わせんな。
× × ×
雨脚が弱まる気配が見えない中、俺達は軒下で雨宿りを続けている。
無言。
無言。
無言。
さっきの透けブラ事変が効いているのか、互いに一言たりとも発さない。
まあ、俺も川崎もぼっちで自分から喋るタイプじゃないし、元々はコミュ力不足が原因の無言なんだが、気まずさの面では透けブラ事変が一役買っていた。
いかん、こんな状態では何をしても変な空気に変わりはないが、これ以上の無言が続くと川崎の中の俺が透けブラを反芻し続ける卑猥な最低人間と記憶されてしまうかもしれん。っていうか『川崎の中の俺が』とか表現最低だな。この時点で既に手遅れだわ、卑猥な人間待ったなし。
「……お前、傘は?」
「……盗まれた」
oh...
卑猥人間の判定に待ったをかけるべく振り絞った当たり障りのない話題。のつもりであったが第一歩目から地雷を踏み抜いちまった。
落ち着け、落ち着くんだ比企谷八幡。諦めたらそこで試合終了ですよ、などと伝説のバスケマンガに出てくるちょっと、いや、かなり太ったカーネルサンダース似の監督の言葉が頭を過ぎった。
「そ、そうか……じゃあ、バスとか使わねえの?」
「……こんな恰好で人混みとか……有り得ないし……」
auch‼
二歩目も地雷を踏み抜いた。汚名挽回とはまさにこのことか。
本来、汚名返上と名誉挽回が合わさり間違えて生まれてしまった造語だが、今の俺には的確過ぎて正しい表現である。
こんな雨じゃ、バスが混まないはずもなく
その程度の気遣いさえ出来ない俺には卑猥というより無神経の汚名がよく似合う。
「…………クシュッ!」
やけに可愛らしいくしゃみが聞こえてきた。
教室で見かける時はいつも不機嫌そうな表情で、何かあれば「あ?」と恫喝紛いに凄んでくる川崎から発せられるくしゃみだとは思えない。
懲りずに盗み見ると川崎が心なしか小さく見えた。たっぷりと雨水を含んだポニーテールよろしく身体全体が萎びてしまったかのような儚い印象。
こいつ、どんくらいここで雨宿りしてたんだ?
住宅街にある辺鄙なバス停など屋根がないことが多く、すぐそこにあるうちの最寄りのもその一つだ。もしバス待ちの間にずぶ濡れになってしまい乗るのを諦めたとしたら、かなり長い時間ここにいるのではないだろうか。
しかも、待ったところでこのままではバスにも乗れず、雨も止まなければ事態が好転しない。まさに八方ふさがりじゃないか。
なにかの解決策でもあるのかと疑問を抱いた俺は三度川崎に話しかけた。
「……なあ、家の人とかに迎え来てもらうのか?」
「……うち両親共働きだし、迎えになんて来れないよ。……前に言わなかったっけ」
二度あることは三度ある。
本日三発目の地雷をたった三歩で踏み抜く踏破率百パーセントを記録した。なにそれ、連爆とかボンバーマンの炎の行進かよ。耐火服とらなきゃ耐えられねえよ。もういっそ殺してくれ……
「あ、そうだったな、すまん。直接は聞いてないが毒虫から聞いた覚えがある」
「……あ? 毒虫って誰のこといってんの、潰されたいの?」
うおっ、こわっ!
潰すとか俺のことだよね? 特定部位のことじゃないよね? ちょっとその部位破壊に興味が湧いてしまった。
などとこの寒さで縮み上がっている自身の特定部位を意識する。川崎に潰される想像をして、きっとさらに小さくなっていることだろう。今日の俺、卑猥なことしか考えてねえな。
一瞬だけいつもの調子に戻ったが、すぐにまた儚げな状態へと変容する。
雨は止む気配を見せず、むしろ強まっている印象を受けた。風も出てきた。どう考えてもこの先、天候が上向く未来が見えない。それなのにこいつは援軍もなしにこのまま何を待つのだろうか。
……そうだ。既に三度地雷を踏み抜いてる俺に恐れるものなど何もない。
今の俺は耐火服を着込んだボンバーマンであり、炎の衣を纏いしチート生命体、故に四度目の地雷を踏もうと初登場で魚担いだ悟空がブルマに撃たれた銃弾程度にしか効かぬ! ……ん、あれって結構痛がってませんでしたっけ?
まあ、痛いで済むくらいだし、当たらなければどうということはない! ……いやいや、ここで赤い彗星の名言は使えないだろ。当たってんだし、前提条件間違ってるわ。
……色々混じって判然としない懊悩はさておき、要するに俺はこれから川崎に声をかけようというのだ。孤軍奮闘(なにと戦ってるんだよ)する川崎に対し、手を差し伸べようとしている。
実に俺らしくないと自覚しながら、今まで見たこともないほどにか弱い彼女をこのまま放ってはおけなかった。
「……なあ」
「…………なに」
「…………」
「…………」
無言。
沈黙。
静寂。
ぼぼ、ぼっち舐めんなよ、そんなものに八幡は負けない!
「うちで……雨宿りしてくか?」
「……………………え」
「……ここからすぐだし「むりむりむりむり!」だよなぁ」
顔をトマトのように赤くして早口に、しかも食い気味で否定された。もし俺に猫耳があったら凄い垂れ下がってる自信がある。
四歩目も地雷を踏み抜いてしまい、川崎の攻略難易度はエイリアン級であることが判明してしまう。地雷二千個とか無理ゲーすぎだろ。
それにしても、川崎に負けじと俺もずぶ濡れで、だいぶ体温を奪われている。他人の心配ばかりしてる場合じゃないかもしれん。
「あー、……それじゃ。風邪、引かないようにな」
「あ……ひきが……クシュッ」
「…………」
「…………」
まるでアスファルトに落ちる一片の雪のように、その可愛らしい音は周囲の雨音で掻き消される。
傍にいた俺の耳にだけ残り続けた。
つづく