「はぁ?」
「…………あんたは、……どういうつもりで…………あんなこと、言ったの……」
主語が曖昧過ぎて当たりすらつけられない。
あんなことってどんなことだったか。そもそも俺も川崎もあまり喋るタイプではないし、その二人が共演するのがまずレアだ。さっき想像してたスカラシップの件、予備校の夏期講習、兄妹姉弟四人でサイゼ、文化祭の係決め、くらいしか思い浮かばない。
クラスメイトで予備校まで一緒なのに半年で四回程度しか絡みがないとか普通なら避けてる間柄レベルだが、絡みゼロな人ばかりな己の交友関係を思い出した。多分、川崎もそうだろうし、そんな二人が半年で四度のランデブーとかいつの間にか友達だったまである。
「……スカラシップとか大志の相談で世話にはなったけど」
逆にそれ以外でお前に何かしたって記憶がないけどな。文化祭では衣装係に推したけど俺からすればこいつの仕事増やしたみたいに感じてるくらいだし、相模捜索の時に屋上の行き方も教えてもらってるし、……ん? あん時、お礼いったっけか……。
記憶を呼び起こそうにも間髪入れず一口罵倒のラッシュで阻止された。
「……やる気はないし、目が腐ってるし、専業主夫とか人生舐めてるし…………そういう目で見たことも全然、なかったし……」
おい。
寝てる人間に言う罵倒ってマジっぽいからショックなんですが……合ってるけどよ。それなら面と向かって言われた方が冗談も含まれてそうだからまだマシだよな、陰口なんか100%マジだろうし。
……いつも部室で虚言を吐かない奴に言われてたな。結局全部マジだったわ。
「……なのに」
軽くショックを受けている間も川崎の独白は止まらない。今更ながら誰に聞かせているのか疑問を抱く。
そもそも俺は寝ている(と認識されている)し、こんなにつらつらと喋る独り言があるだろうか。独り言の多い俺でさえ一人でこれだけ喋れば隔離病棟へ自ら赴く程度には危機感が芽生えるだろう。
これは寝ている俺に向けた独白というより(意識のある)俺を観客として
「……ちょっと」
「……嬉しいかもって、思っちゃったんだよね……」
正解はCMの後でばりに『あんなこと』を溜め続ける倒置法にやきもきさせられる。それが目論見なら実に鮮やかな話運びで、ここまで聞かされても『あんなこと』がなんのことか俺の中で選択肢すら挙がっておらず興味を引いていた。コミュ障だと認識してたが実はプレゼン上手だな。
川崎に対し見当外れな感心をしていると次の瞬間、特大の爆弾が投下された。まさに感情のジェットコースターという表現がピタリと当て嵌まる。
「ホント……」
「…………愛してるとか、……バカじゃないの?」
――――⁉
字面だけ見れば歯牙にもかけない物言いだが、聴覚が強化された俺に届く声音は内容とはかけ離れたものだった。とても自然な抑揚で奏でられた声音には優しさと、喜色までもが伝わってくる。彼女の表情が目に出来たら、それはそれは見たこともないような満面の笑みを浮かべているはずだ。
目を覆っていたことを後悔するほどに、見れることが僥倖と呼べるほどレアな御尊顔を自らの謀りで手放した。さぞや口惜しいかというと不思議とそうでもない。
何故なら目を覆っていなければこの披瀝はなかっただろうし、それに続く
むしろ、この披瀝には俺の感情を大きく揺さぶる別の要素が存在している。
(…………愛してるって? 言った? 俺が? いつ?)
口にしようものなら火サス的には犯人御用の回想シーンで『貴方を殺して私も死ぬ』が現実の世界に顕現するほどの大失言。そう予想出来てしまうほど彼女からの印象は
そう、芳しいのだ。好印象であるからこそ、この発言が失言という刃となって川崎に刺さってしまう。
愛してる、なんてあまりにも俺らしくない言葉を、普段からそれほど親しくしていない、むしろちょっと怖いと感じていた彼女に向けるシチュエーションが思い浮かばない。
成績は国語学年三位で、理系教科を除けばいい部類。スカラシップ制度の恩恵にも預かる頭と記憶力でそれを検索にかけることにした。
先程も確認がてら述懐していたが
初めて二人きりで会ったのは屋上で……記憶力に自信がなくとも男子なら脳……網膜に焼き付く黒のレース……って違う違う。検索してるのはパンツの色柄じゃねえよ。それにほぼ初対面でいきなり愛してるとかどこのジゴロだよ、有り得ねえ。
予備校が一緒だと知った夏期講習の後にサイゼで小町達と合流する道すがらで二人きり……まあ、言ってないわな。
文化祭で二人きりになったのは、相模捜索で屋上の行き方を川崎に聞いたな……あの時は急いでて、お礼いったか……?
……そう、急いでいた。
碌に説明する時間もないくらいに。
だが、礼も言わず不義理に立ち去ってはいなかったはずだ。
俺はあの時、何て礼を言ったっけ……?
『サンキュー! 愛してるぜ川崎!』
あー…………………
…………あぁ、言ったわ、
ある意味俺らしくもある冗談めいた一言。いや、愛してる自体は普段から小町によく言ってるし、確かこの事件直近では材木座にすらお礼がてら
だからかー、流れで出た一言かー、つまり材木座が悪い。俺は悪くない。
火サス終盤の再現は回避されたが新たに重大な懸案事項が生み出されてしまい頭を抱える。
この結果は小狡い策を弄した俺への天罰なのかもしれない。
――あの快楽にまたありつける。
そんな淡い期待を胸に、罠を仕掛け網を張ったら掛かったのが情事ではなく、まさかの激白であった。
川崎に初めからその気があるのなら学校や予備校……はともかく今日の雨宿りで出逢った時、うちで過ごす間にこれを打ち明けることも出来たはずだ。それをあえて俺が物言えぬ今というタイミングで吐露する。この事実に打算じみたものを感じ、謀らなければその想いはずっと自分の中に留めていたという確信も生まれていた。
因果なめぐり合わせで伝えるつもりのない(と思われる)想いを知ってしまった俺は絶賛混乱中である。
俺が小町以外に『愛してる』など囁いただけで通報ものだが、更にその先、受け入れられた事実にもう頭がついて行けない。ただ、そんな濃霧の中であって鮮明に浮かび上がる感情に気がついた。
朝、靴箱の中に入っていた手紙で体育館裏に呼び出され、燃えるように紅く綺麗な夕暮れで演出された空間。そこで待つ女子の顔は朱に染まり昨夜から何度も推敲した言葉でこう告白された……訳でもなく、ドラマチックとは程遠い。
川崎も上手く伝えることができず歯痒い思いをしているのかもしれない。
その言葉は曖昧で拙くて何処か遣る瀬無い……しかし、だからこそ裏がない精一杯の気持ちが込められている気がした。
そんな川崎の無垢な気持ちに触れ、今まで感受したことのないモノで俺の中が埋まっていく。
これが受け入れられたことによって得られる充足感なのか。
俺の内実はともかく外的には『愛してる』という告白を川崎が胸中に秘めていてくれた誠実さにも感謝していた。
告白した翌日にクラス中に知れ渡っていて遠間から嘲笑まで聞こえてきた経験を持つ俺にとって、そんな当たり前の誠意ですら心を満たしてくれる。
しかし、その嬉しさはコインが裏返るように罪悪感で塗り替えられた。俺からすれば単なるお礼という意味合いの
幸いというか、川崎の言葉は俺に聞かせる為のものではなかったし返事を要求するものでもない。このまま無かったことにする手もあるが、それはあくまで便宜上の話で今後を見通すとそうした方がいいなどとは微塵も思えなかった。
仮に無かったことにしたとして、俺はともかく川崎はどうするのか。行き場を失った彼女の感情が積もっていきコップから溢れ出て、今の独白を告白としてぶつけて来られたらそれは明確な悪手となる。
あの言葉が本気ならば何故今まで放置していたのかとなり、本気でなかったのならその心無い弁明を感情が溢れ出た川崎に吐露しなければならないからだ。
それにそういったリスクマネジメント視点とは別にして勘違いであったと打ち明けたくない俺がいる。
何故そう感じるのか疑問を持った俺は自然と思弁していた。
――問題の解消によって川崎が想いを伝えられないことに同情しているのか?
……いや、違うな。
それが全くないとは言わないが、懸案事項にある『必ずしも川崎が告白して来ないとも限らない』というケースを鑑みれば杞憂になるかもしれない。それに伝えるかどうかは結局川崎の意思に左右され、俺がどう思おうと関係ないからだ。
――俺の言葉が川崎の意図するものではなかったと打ち明けることに抵抗があるのか?
……それも何だかしっくりこない。
望んで打ち明けようとは思わないが、誤解を生んだのは俺だし解消でなく解決するのならそれは責任を持って正すべきだ。文化祭のスケープゴートすら熟した俺にとってその程度の不興など問題にならない……はず。
少しずつ核心に近づいている手応えがある。さらに沈潜しようとした俺を阻むように川崎が機先を制してきた。
「…………ま、あんたにそんなつもりなんて、なかったんだろうけど、ね……」
先程とは打って変わり悲し気な声音。
それは閑寂を乱さぬほどに弱々しく
今ので確信した。
どうして俺が打ち明けるのに及び腰になっていたのか。
――――俺の言葉に本気が無かったと受け止められたくない。
諦念を宿した言葉を、落胆する声音を聞き、その結論に至る。
些細なことで勘違いして告白し、裏切られた。
誤解は解けない、既に解は出ていると黙して語らず甘んじて謗りを受け入れた。
悪意を向けられ、嘲られ、罵倒される負の対象と認識され続けてきた。
――そんな誰の耳にも届かぬ俺の言葉を拾い上げてくれたことに驚き、受け入れてくれた事実が温かさとなって包み込んだ。
拒絶され否定され心を閉ざした俺に一筋の光明を見せてくれた。
……認めざるを得ない。
勘違いから生まれたとはいえ彼女の気持ちは、やはり嬉しかったのだ。
その喜悦を生み出す倖福は穢れがなく、俺の猜疑心という防壁を容易く解かしていった。
眠っている俺に向けた独白、故に疑心の持ち様がない。その無垢な言葉を引き出したのが狡賢い策謀というのも皮肉な話である。
そう得心すると、途端に打ち明けることへの抵抗感が増した。
正直に言うとあれは純粋にただのお礼であって、そういう気持ちはなかった。故に、あの時の『愛してるぜ』はお礼の言葉だ、と伝えるのは間違っていない。
しかし、それは事実であって真実ではないのだ。今の俺は彼女に特別な感情を抱いている。事実ではなく、この想い――真実――を伝えることが彼女を欺くことにならないのかと憂いていた。
(…………そういや似たような事件があったな)
心の中で苦笑し一顧する。
それは由比ヶ浜の誕生日に部室であった出来事。
誕生日を祝うのと、サブレを助けた俺に由比ヶ浜が気を遣っていたことを清算する、二つの意味を含めてプレゼントした際のことだ。
雪ノ下をして『始まりから既に間違えていた』と言わしめた変事にあまりにも酷似していた。ならば、川崎に真実を伝えることは過去の自分を否定する行為である。
と、本来なら自己矛盾を諫めていたはずだが本質が似て非なるものであると気づいたのだ。
俺は彼女を彼女と
そして、彼女もまた、俺を俺と
ここで、由比ヶ浜の時とは大きく違った重大な疑問を抱く。
葉山の労いすら一蹴した川崎に、他の誰かが言ったとしてその感情は生まれていた可能性があっただろうか。彼女は他の誰でもない比企谷八幡の
だが、川崎の誤解を解くのは存外に難しい。
まず、最初の『愛してるぜ』から間違ってしまい、
次に、本気じゃないと誤認させてしまっている上、
そもそも、俺はいま寝ていることになっていて弁明する機会すら得られないことに気づく。
あれ、これ詰んでね。
打開策を見出せず途方に暮れていても、俺と川崎の時間は流れていく。
あれっきり一言も発さない川崎は静かな吐息でその存在を示していた。
――ツン
と、何かが左頬に触れ、それが指だとすぐに分かった。
触れるか触れないかの距離を維持し、つつぅとゆっくりなぞられる。電流が走り、ゾクゾクとした快楽に震えた。
口の端までたどり着くと唇を迂回し焦らすように、そして他の指も参加しわさわさと。突然数倍に増大した快感で全身が総毛立つ。
やべ、鳥肌立った。
起きてるってバレてないよな?
顔って鳥肌立ちにくいし気づかれてないよな?
鳥肌は立毛筋という筋肉が寒冷刺激を感じることによって発生する体温調整機能の副作用だ。
顔には立毛筋が少ない上、退化しているので鳥肌が目立たないらしい。
何という無駄知識。読書って素晴らしい。
俺も顔の鳥肌になりたい。
目立たないし。
既に俺のステルス能力はそれを凌駕してる説もあるが。
どうでもいいな。
川崎の熱を感じるくらいに距離が近いので、吐息が荒くなってくのが分かる。
ついに、指が下唇へ到達した。
端から唇の稜線をなぞっていく。
登頂すると、そこからロープウェイで空中散歩するように隣の上唇へ到着。軽く指に力を込め、うにゅっと、そして何度も歯をチラつかせる。
クールな川崎に似合わぬ悪戯っぽさにどきりとさせられ、これから起こる行動にある種の予感めいたものを感じた。
愛敬から艶へと変わっていこうとするその兆しに、当初の目的を思い出させられる。
あの夢現つ、控え目に言っても実感ベースでは7:3くらいで現が優勢だった。意識が混濁するほどの熱でもなかったし、酩酊もしていない。本当はもっと極端に傾いてもいいくらいに、あれを夢とするには些か正気過ぎた。
だからこそ、もう一度体験を再現して裏付けようと謀ったのだが、狸寝入りによりこちらからのアクションが全て禁止され自縛状態。実はあの時トリガーとなったのは俺からの
俺を起こさないように笑いを堪えながら唇を玩具にする川崎。
俺は俺で掻痒を覚え、掻きたい衝動を抑えるのに苦心していた。
っていうか弄り過ぎでしょ。こんだけされたら寝ててもむにゃむにゃしちゃうのは自然だよな。
流石にこそばゆすぎるので唇を軽く前歯で噛むようにもにゅもにゅと掻く。吃驚したように川崎の白魚が飛び退いた。
もにゅもにゅで唇を濡らし(何それカワイイ、ってか俺がやるとキモい)ジオンはあと十年は戦える、というほどに潤い分を補充する。
「っ…………」
――こきゅ
喉が鳴る音が聞こえた。
室温が上がり部屋の湿度も増した気がした。
空気が……変わった。
それは艶が粘性を持ちじんわりと部屋に広がっていくように、視覚以外の感覚でその様が視えた。
――――いよいよか。
その時を迎えたのだと本能的に察する。
顔の両横にぎしりと重みが掛かる。
熱を纏う吐息に撫でられ、
視覚を封じたまま待ち望む時間は長く、途方も無く永く感じた。
互いの緊張ばかりが、どんどんと高まっていく。
もどかしさに耐えかね、何度も俺の手で引き寄せようとしてはその度に踏み止まる。
ザーッという雨音は大分弱まり、水溜まりを引き裂くタイヤ音が聞こえ、家の近くに車が停まった。
そんな音にすら苛立ち、余裕を失うほど強く
――ピトッ
と右手が頬に触れ、左手が頬に添えられた。
ゆっくりと甘い吐息が近づいてくる。
これは現つであると強く意識した。
ベッドの中に置かれた四肢の末端からは、緊張で汗が滲みてている。
お互いの鼻先が触れ合う。
唇に当たる吐息がこそばゆい。
狂おしいほど甘い心地良い、異性の……牝の匂い、牝という薫り。
牡は本能でその薫りを求めるのだと、焼かれ焦がされた脳で理解した。
本能に刻み込まれた脆弱な部分を突かれ、理性なんかでは抗えない。
牡の欲望に阿り、媚び諂い、煽て上げ、本能を曝け出され、いつの間にか支配する。
――――早く、速く、迅く、疾く‼
見えなくても分かる、あとほんの数ミリという距離を残した互いの唇。
その距離がゼロに……なろうとした瞬間、大きく離れた。
原因は、家の前から聞こえるブレーキ音。
住宅街だしスキール音のような甲高い音でなく、ただの何でもないブレーキ音。
だが、閑寂でありつつも熱に浮かされた空気が支配するこの部屋において、それはあまりに無粋で耳障りだった。
頬に添えた両の手に力が込められる。
ちょんっ、と再びお互いの鼻が当たり、先程と同じ距離まで戻って仕切り直した。
ここから数センチもない距離が途轍もなく長い道程。
長い時間をかけ、また一歩一歩着実に近づいていく。
その間、何度吐息が顔を撫でたか分からない。
――パパァンッ
外の、恐らくさっきの車から短いクラクション音が鳴る。
びくりとして身体が強ばる二人。またしても鼻と両の手が俺から離れた。
身動ぎは布団の中だけに抑えたつもりだが、起きていると勘付かれていないだろうか。
狸寝入りの露見に関係なく、この音によって起きたと判断されたかもしれない。そのせいで、脳髄に電流が走り焼かれるようなあの快感を味わえないのでは。
そう危惧すると、一度ならず二度までも雰囲気を削いだ外の車に、腐った卵でも投げつけてやりたくなってきた。
幸いと言うべきか、やっとと言うべきかその車は家から離れたようで音が遠ざかって行く。
既に二度も水を差され三度目が絶望的なこの状況。それでなくても起きていると疑いが掛かっていて当然なのだ。面には出さないが俺の落胆はかなりのものである。
乱高下激しい感情の針が消沈に傾き、冷静になりかけたところで再び両の手が顔に添えられた。
どきりとしたが、それでも首から上は反応を見せないよう努めた。
一体何度邪魔が入っただろうか。
だが、それももう終わりだ。
最早俺達の行為を邪魔するものは何もない。
三度、鼻同士が触れ合った。
吐息が顔にかかり、今度こそ本当にこれが現つであることを噛み締める。
唇から始まり、舌を絡め、互いの身体と意識全てをどろどろに溶かし合い一体となる陶酔感。
その期待で心臓が痛い。
けれど痛気持ち良い。
ついにその時が、唇が触れようとした時、
――高鳴った胸が、別の因子でさらに跳ね上がった。
『ただいまー』
「っ⁉」
「っ!」
ひゅっ‼
心臓が破裂するんじゃないかと錯覚するくらいの脈動。
川崎も同様なのかいつの間にか両の手は離れ、吐息は彼方へと消えていく。
「あっ……」
まるで一片の雪が手のひらに落ちて消える儚い声。
それを境に、急激に部屋の熱が下がっていくのが分かる。
夢から覚めた、とはこのことだろう。俺もそれに倣う様に正気を取り戻していく。
声の正体は我が愛しの愚妹で、靴を脱ぎ刻一刻と二階へ迫ってくる。
別に疚しいことなどしていない……はずだが、川崎はそう感じていないようだ。落ち着きのなさが衣擦れ音で窺え、それは見事な慌てっぷりだった。
「あ、い、妹? えっ、」
見えなくても様子が目に浮かぶ。流石に可哀想になり落ち着かせる為、今起きた振りをすることにした。
「……ん、小町か? 帰って来れたのか……」
「――――っ⁉」
タオルを除けて上体を起こすと、わなわなと震え、顔どころか耳もデコルテも何ならチーバくんに変身しましたって言われても納得できるくらい全身真っ赤になって俺を睨めつける川崎沙希がそこにいた。
「……どうした、川崎?」
「え⁉ いや、その、なんでも、なくって、えっと、」
もう狼狽え過ぎで気の毒に感じた俺は、落ち着きを促そうと軽く肩を叩いた。
「大丈夫か?」
「ひっ‼」
その瞬間、後ろに吹っ飛ぶ(飛び退く)川崎。
いつから斥力を操ることが出来るようになったのか。思わず『神羅天征!』って叫びたくなっちゃう。材木座なんて喜んで叫びそうだけど。っていうか叫ばなくても吹っ飛んでったけど、俺も材木座も女子に対してはオートで斥力を操る者だから妙に納得してしまう。……うん、悲しい。
「あ、あ、その、ひ、ひひ、ひきが、がが、」
ちょっともう見てて痛々しいくらいのキョドリ様。
俺や材木座をも凌駕する挙動不審に何て声をかけてやればいいのか分からない。
「お、おい、川崎……」
「――‼ お、お大事に‼」
その一言を残して飛び出すように部屋を出て行ってしまう。
あれだけテンパりながらも、俺を気遣う言葉が自然と出てくるところに川崎沙希の人柄が顕れていた。
『あ、沙希さん、いらっしゃ……って沙希さん⁉』
廊下から小町の叫びにも似た声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、沙希さん出て行っちゃったんだけど何したの⁉」
「まずは俺が何かしたのが前提なんですね……」
部屋に入ってくるなり質問とも詰問とも取れる科白を豪速球で投げつけてくる我が愛妹。
「それよか、帰って来れたのか。おかえり」
「え、うん、泊めて貰おうかと思ったんだけど、明日も学校だし雨弱くなってたし友達の親が車で送ってくれるって言ったから。さっきクラクション聞こえたでしょ、あれだよ」
なにぃ……あの車は小町が乗っていたのか。腐った玉子をぶつけなくてよかった。って腐った玉子焼きぶつける気かよ。調理前のは卵って書くんだよ。音声では違いが分からない訂正を頭の中で独り言ちする。
「小町」
「ん、なぁに?」
「……今日初めてお前のことをほんの少しだけ恨んだわ」
「はぁ?」
小町は俺の言葉に訳が分からないという顔で応えた。
× × ×
「んじゃ、行ってくる」
「……ホントに大丈夫なの? 一日くらい休んでもよかったんじゃないの?」
「平気だ、もう熱は下がってるし」
翌日には体調も戻り、普通に登校出来るくらいに快復していた。
「普段あんなに働きたくないって言ってるくせに、変なとこで真面目だよねお兄ちゃん」
「うっせ。ぼっちは休むとノート見せてもらえる人がいないから極力休みたくはないんだよ」
「やっぱ真面目だぁ、いってらっしゃい」
感心してるのか呆れてるのか判然としない言葉を背に受け登校する。
「おう、小町も遅れるなよ」
大事をとって今日はバス通学にした為、小町より大分早く家を出た。
小町にはああ言開きしたものの、本音は昨夜のことが気になって、居ても立っても居られないからだ。
改めて川崎のことを顧みる。
出逢った頃に大きな問題を抱えていたが、それがある程度解決されると少しずつ変わっていった。
ぶっきらぼうではあるものの予備校では態々俺にスカラシップの礼を言いに来るくらいだし、雪ノ下にも伝えておいて欲しいと周りを気遣う姿勢も見せた。
弟妹の為にご飯を作ったり、弟の進路相談を俺に頼んできたりと、家族を想うその姿勢には共感するし尊敬できる。
それに、お互いぼっちで会話をしなくても気兼ねがないあいつとの距離感は、意外と心地良かった。
きっと川崎は昨夜のことを無かったことにするだろう。
そう願うなら無粋な真似はしない。
いつものように振舞い、授業を受けて、部活に出るだけだ。
ただ、今度はこちらから歩み寄ろう。
やり直すのではなく、無かったことにするでもない。
無様でもいい。失望されても構わない。
俺の猜疑心を引き裂いてくれた彼女に、
穢れのない心を見せてくれた川崎沙希に、
俺は――誠実でありたい。
覚悟が決まると自然にやることは決まっていた。
まずは、昼休みに屋上で昼飯を食おう。
いつもと違う俺の行動に、彼女は少し困るだろう。
その顔を見るのもまた一興だ。
そんな意地悪な考えを抱きながら学校へ到着する。
「…………」
……ああ、今日は数学の時間もちゃんとノートを取らなければ。
ぼんやりと空席に目をやり罪悪感に苛まれながら、そう心に決めた。
泣きぼくろが魅力的な少女の顔を想像しながら、差し入れをどうするか悩むのは思いの外、楽しかった。
了