そのくしゃみが新たな問題を浮き彫りにした。
『くしゅっ』
三度、可憐なくしゃみが耳を撫でた。無論、俺のくしゃみではない。自分のくしゃみを可憐だという男がいたらそいつは可及的速やかに黄色い救急車にご搭乗すべきであろう。なんだか言い方がパイロットみたいな扱いだな。拘束され積み込まれていただきたい、が正しいか。それじゃ荷物だ。上手い妥協点がみつからない。
おっと、己の定義が人か物かなどどうでもいい。本人にとって致命的に重大な議題だが今はここで起きたくしゃみという出来事が最優先だ。それ以外は捨て置け。
「……なんだ。もしかしてまだ寒かったりする、のか?」
先程の反省を踏まえ、なるべく優しい声音を意識する。こいつが涙目で狼狽える顔を見て嗜虐心を満たすのも捨てがたいけど、って俺の中の嗜虐心認めちゃったよ。
両手で口元を隠し、潤んだ瞳と紅潮した頬が得も言われぬ色気を演出する。
「あ、いや、寒くは、ないけ、くしゅっ、……あれ、おかしいな、……くしゅっ、くしゅっ」
……やめてくれ、相好崩さないよう耐えるのが大変なんだよ。なんだよ、その可愛さは、なんなんだよ。
今日だけで何回川崎の可愛いさ拝まされてんだよ。学校での川崎って可愛さガチャ率絞られ過ぎでしょ。地形効果の影響で排出率制限がかかってんの? さしずめ、いまの川崎の
無課金でこれだけSR引けるとか川崎ソシャゲはレア排出率5%以上の優良ゲーかもしれない。
普段、
『にゃー』
「っ! ね、ねこ⁉」
鳴き声の主は完全に気配を消していて、足元へ擦り寄っていた。接近を許した川崎の肩がびくっと震える。自身の領域を侵犯されたことと音もなく近寄られて驚いた、だけでこうはならない。
そうか、こいつ猫アレルギーだった。アレルギーの影響は色々あるが、川崎の場合はおそらくくしゃみがアレルギー症状なのだろう。
カマクラを肌身離さず持っていれば川崎の
「おう、カマクラー、いまカリカリ持ってきてやるから皿のとこで待ってろよ」
あまり俺に懐いてない太々しい飼い猫だが、言葉が通じたのかのそのそと餌場へ移動した。
家猫であるカマクラは家中を歩き回っているのでそこら中アレルゲンだらけだ。
小町がマメに掃除しているものの、最近は受験も近いし料理以外の家事は少しばかり疎かにしていた。なら暇な俺が掃除しろだって? もっともな意見だよ。でもね、お兄ちゃん掃除苦手なんですよ。四角い部屋を丸く掃く初期のルンバみたいな性能しかないから、中途半端にやって母ちゃんや小町に怒られるくらいならと、いつしか小町に全てを任せるようになった。
つまり、現状うちのリビングは川崎の猫アレルギーを防止する程の清潔さを備えていない。
「……川崎、ちょっと来い」
善は急げ。その一念に突き動かされ淀みなく川崎の手を握る。彼女は「えっ、えっ」と理解が追い付かず、されるがままになっていた。悪いな川崎、説明は後でする。
二階へ上がり、俺の部屋に連れていくと目を白黒させていた川崎の顔色が変わっていく。
「……えっ⁉ ちょ、ひきが、やっ⁉」
首から耳までも赤くして狼狽えだした。
川崎の健康上の理由からスピードを優先させたい。まず部屋に上げて、それから扉を閉め話をしよう。
バタンッ
よし、部屋を封鎖。これで空気中に浮遊する猫のフケなどアレルゲンから川崎を隔離することが出来た。
カマクラは基本、俺の部屋には入ってこないので家の中で最もアレルゲンの少ない部屋といえる。なにその悲しいエピソード、泣きそう。
お陰で川崎が避難するのに適した環境が整ったのだから人間万事塞翁が馬とはよく言ったものだ。
川崎に向き直ると林檎を想像させるほど顔が真っ赤で、そういえばもう林檎狩りの季節か。不意に林檎を摘む川崎を想像しているとついうっかり胸の谷間に視線がいってしまう。そんなとこにも林檎を詰め込むなんて案外欲張りさんなんですね、って何考えてんだよ俺。
不安げに俺を見つめる川崎と目が合った。
あれ、心の中読まれちゃってますか、これ?
だとしたらやばい。割と変態なこと考えてるし、どうにかして誤魔化す方法は……ってうってつけなのがあったわ。
「あー、そういえば俺まだシャワー浴びてなかったわ。ささっと済ませてくるから、そこら辺にある本とか読んで寛いでてくれ」
「え、あ、そ、その」
手早く着替えを持ち、川崎に考える時間を与えず部屋を出た。
湯舟に浸かりながら、さっきまでのことをぼんやり
あっぶね……また変に妄想しちまってた。それもこれも川崎が普段見せない表情や仕草を惜しげもなく見せてくるせいだ。
雨宿りからこっち、どの仕草ひとつとっても魅力的に映った。
悪戯がばれた子供のようにびくびくと俺を見る表情、
口元を隠し、くしゃみを恥じらう振舞い、
身の置き所がない身体を包み込むように抱き締めた細腕、
ワイシャツの裾からスラリと伸びた細く白い肢、
そのどれもが俺の心を揺さぶった。
親しみやすく、時にコミカルで、なのにどこかなまめかしい婀娜やかさが含まれていた。まるで熱に浮かされたように、それらを頭の中で反芻してしまう。
この感情は愛欲か、それとも別の何かなのか。答えが出ぬまま、風呂から上がった。
……ん、のぼせたか。バスタオルで頭を拭いていると立ち眩みがした気がする。いや、きっと川崎の色香に中てられているんだろう。
(頑張れ理性の化け物よ、もうじきこの問題は解消される。川崎の服が乾いたら丁重にお引き取りを願っ、て……?)
ちょっと待て。小町が帰宅を諦めるほどの天候で川崎を追い出す?
それは人としてやってはいけないことなのではないか。
prrrr...prrrr...
思考を遮るように家の電話が鳴った。受話器を取ると相手は母ちゃんで、この天気だし今日は会社に泊まると伝えてきた。親父も同じらしく連絡を受けたなど、一頻りの注意事項を漏らすと最後に俺の心配をして電話を切る。
よし、状況を整理しよう。
比企谷家は四人+1構成である。
小町は友達(♀)の家に泊まって帰ってこない。
川崎を雨宿りから拾って俺と共に帰宅した。
両親から会社に泊まると連絡があった。
さて、家に居るのは何人でしょう?
ちなみに+1とはカマクラなのだが、そこはかとなく俺のことではないかと常々心配になっている。
いや大丈夫、国勢調査票というものがあってだな、あの紙に猫の欄はなかったはず。氏名と性別はカマクラにも該当するが、世帯主との続き柄にペット欄はなかった。でも【その他】はあったな。やだ、一気に劣勢に立たされちゃったよ。そもそも【その他】ってなんだよ、もうペットを表記する為の欄にしか思えなくなってきちゃったよ。
閑話休題
算数の文章問題みたいだが、つまり
家には俺と川崎の二人しかいない事実。
悪天候によってお引き取り願えど叶わない事実。
川崎から漏れ出る可愛さに俺の理性が抗いきれない事実。
……間違いを起こしてしまわないかという不安。
事実を並べ続け、ようやく不安という名の答えに辿り着いた。
どうやら俺は川崎に惹かれているらしい。川崎に引かれているならどれだけ良かったか。音読すると同じだが、文字にすると意味が真逆となる。まさに異口同音。違うか、違うな。ならば日本語の妙とでもいうべきか。
妄想じみた状況整理を終え、洗濯の進捗をチェック。お引き取り願えなくても服が乾けばこのリビドーを抑える一助になると考えたからだ。結果としては……全然乾いてませんでした。
洗濯乾燥で三時間以上かかるし、致し方ないといったところか。乾いたバスタオルとか入れとくと水分がこいつに吸われ洗濯物の乾燥度合いを均し時短できるらしい。これマメな。
実践すべく、古いタオルを探そうとして着替えの山に目が留まった。さっき川崎に三択で選ばれなかった
小町はまだ成長途上だし仕方がないとして、……母ちゃん。
まあ、俺にとっては母ちゃんだし、そんなこと気にならない年齢かもしれないが、いくつになっても女性はやっぱり女性というのは身近なアラサー先生を見ていれば分からんではない(超失礼)。無駄に傷つけることもないだろう。平塚先生を無駄に傷つけた気がしないでもないが、心の中なのでよしとしよう。
世の中には知らない方がいいこともある。このことは俺の胸の中だけに留め、墓まで持っていく所存でございます。よってこの事実を本人達の目に触れさせないよう兵どもの痕跡を
兵たちを洗濯籠に詰めているとさっきコンビニで買ってきた未開封の下着が出てきた。サニタリーの方である。こっちを使う確率は四分の一程度だし、まあ順当だよな。
「…………」
……想像してしまった。
キモい、変態か、すまん、許してくれ、つい出来心で。
誰に向かってかは自分でも分からないが、とにかく謝罪が止まらなかった。
つづく