男子は皆好きだと思いますマル
上半身裸で股間を押さえて蹲る目の腐った男とそれを心配そうに見つめる目付きが悪い美少女の図。
待て、待ってくれ。これは決して狼藉を働こうとした俺に天誅が下ったわけでは断じてない。
照れと羞恥でパニックに陥った川崎が押し退けるように手の平を伸ばした先が俺の股間だったというお話。
もはや手の平というか掌底だった。それが的確に陰嚢を捉えて出た音が『どちゅっ!』てわけでグーより痛いパーの内部破壊とか柔拳かよ。その目付きの悪さは白眼だったのかな川崎さん。俺が愚〇独歩なら
以上、長々と妄想していましたが、こうでもしてないと体内に響いた鈍の痛が俺の精神を蝕み崩壊の一途を辿りかねない。そのくらい効いた。同じ痛みならその長くしなやかな脚で鋭く蹴っていただきたかった。
変態の証明みたいなモノローグを垂れ流しているうちにようやく痛みが引いてきた俺はゆっくりと顔を上げる。目の前にはこの地獄の生みの親である泣きぼくろの美少女の、
「⁉」
「あっ……比企谷……大丈夫?」
悲痛な面持ちがそこにあった。あまりに距離が近くて胸が鳴るのが分かる。
「ま、まあ、なんとか、な……」
痛みによるものとは別の戸惑いでどもってしまう。涙目で心配する彼女の表情はそこはかとなく魅力的で、ぶるりと震えてしまうほどだ。その震えを見逃さず違う意味に捉えたのか、川崎の表情に憂いが色濃くなり――
「……ん」
「あ……」
川崎の両手が俺の頭を優しく押さえ自分の方へ引き寄せる。顔がさらに距離を縮め、おでこ同士がこつんと当たった。俺を妹と勘違いしてる疑惑が濃厚になったが、小町にすらしてもらったことがない検温方法に思いの外、悦んでいることに気づく。
互いの吐息も当たり、唇など五センチも離れていないだろう。
おでこを当てじっとしているが心臓の方はばくばくで軽く痛みすら感じた。
「……まだ熱があるね」
「当たり前だろ……」
休んで数時間も経ってないのにそう簡単に熱が下がるか。震えが発熱と関係していると勘違いしたのだろうが違うから安心して欲しい。正直に理由を話すつもりはないけどな。
確認は済んだはずなのに俺達はおでこをくっつけたまま石のように固まっていた。俺の熱が川崎に移り、互いの境界線が曖昧になっていく。
おでこ同士をくっつけているので、自然と目線が下に向く。真っすぐならおでこよりも先に鼻がぶつかるし、鼻チューとか猫同士の挨拶かよ。行き着く先は(あくまで猫同士なら)肛門腺の嗅ぎ合いだぞ。人がしたらやばすぎる。
っていうか猫ほどの嗅覚を持たなくても芳気でくらくらしてきた。風呂上りでシャンプーの匂いもするがそれはほんの一部で大半は別の、女性特有の香りだ。由比ヶ浜達や小町とも違う川崎沙希の匂い。それに脳髄を刺激されながら視線の先の唇に目を奪われた。
整っているのは顔立ちだけでなく、その瑞々しくぷりんとした唇はとても魅力的だ。静かに、だが徐々に呼吸が荒くなっていく。磁石のように自然と引き寄せられ……
「……っ」
「……ぁ」
……たが、川崎が頭を軽く引き回避された。ただでさえ前のめりだったのに、身を引かれて倒れ込みそうになってしまう。おでこはずるずると標高が下がっていき鼻が首と襟の隙間に入り込む形で止まった。
うなじやデコルテが近く鎖骨に口付けするほど密着する。先程に負けないくらい川崎の匂いで一杯になった。嗅ぐとか気持ち悪がられるし、なるべく抑えていたが人である以上、皮膚呼吸だけでは酸素が足りなくなるんですよね。つまり俺は悪くない。人類という種が悪い。
「…………」
「……っ‼」
すーっと息を吸い込むと、くすぐったそうに身動ぎする。呼吸する度、俺の頭を抱きかかえる川崎の腕に力が込められた。
あぁ、なにこの反応……抱き締めたくなっちゃうだろ。でもあっちはおでこで検温という理由があってこうしていたわけで、俺が川崎を抱き締める明確な理由はない。
タオルで目隠しされた情事が夢でなく現実であったなら、二人の関係性は今までと変わっていたならば、この場で自然と抱きしめ返すことも出来たのかもしれない。
訊く……べきだろうか。
訊けば答えは返ってくるだろう。だが、それが正しいかまで保証はされない。
何故なら俺が正答を知らないのだから、正しいかどうかは答える川崎次第である。望むよう好きなように歪めてしまえるのだ。まともな神経をしていれば、仮にあの出来事が事実だったとしてもとぼけてなかったことにするだろう。特に俺のやったことって酷過ぎたし認めてしまえば間違いなく黒歴史の仲間入りだ。
つまり、訊いてしまえば事実はどうあれ夢であったと否定されることが決まっているのだ。
なら、訊きたくない。訊かない方が良い。
いつもなら絶対訊いて、なかったことにするはずなのに、今の俺は全く逆の結論に至っていた。
それは……
……ひょっとしたらあったかもしれないという希望を秘したままでい続けたいと願ったのだろう。
襟の隙間に鼻を埋め、いつまでもこうしていたい気持ちと気まずさで俺の中の天使と悪魔が葛藤する。
★嗅ぐのが正義の悪魔★
『遠慮することないだろ? いつも嗅いでるうちの洗剤の匂いなんだから。ついでに川崎の匂いが紛れ込んでくるだけだし、そのまま嗅いでろよ』
☆匂いフェチの天使☆
『そうそう。小町相手ですらこんな至近距離で吸い込めることが滅多にないんだし堪能しとけばいいんじゃね?』
……おい、両方本能派じゃねえか。理性どこいったんだよ。一党独裁政権過ぎるだろ。いや、嗅党と匂党だから一応連立政権と言えなくもないが……そんな些細な差なんてどうでもいいか。気まずさを挙げる野党がいないことが問題だわ。葛藤という議論が成立してない。
★嗅ぐのが正義の悪魔★
『第一、気まずかったら押し退けてるだろ。こっちが抱き締めてるわけじゃないんだし』
☆匂いフェチの天使☆
『そうそう。それをしないってことは向こうも満更じゃないんだろ』
こういう場合、天使側が否定とか我慢を主張するはずなのだが、ただただ両方で俺に畳みかけてくる。っていうか悪魔なのに正義ってなんだよ。
★嗅ぐのが正義の悪魔★
『案外、さっきの出来事は現実だったって証拠じゃね? でなきゃこんなに密着したままなわけないだろ』
☆匂いフェチの天使☆
『そうそう。今まで知り合ってきた女子のこと考えてみろよ。折本は元より雪ノ下も由比ヶ浜も、小町ですらこんなに密着したことなんてないし、むしろ期待してるんじゃねえか?』
ああ、確かにな。
もしかしたら本当にあれは現実だったのかもしれない。
今なお、こうして俺の頭を抱えたまま拒絶しないのがその顕れなのかもしれない。
……俺も、それを、期待しているのかも、しれない……。
ってか天使が『そうそう』しか言ってねえ……何でこんなにイエスマンなんだよ。川崎の匂い嗅ぎた過ぎだろ天使。
とはいえ、このまま一党独裁に押し切られてしまっては色々と後悔しそうではある。
言葉にしないで分かろう、解ってもらおうと考えてしまう傲慢さに少なくない自己嫌悪も覚えていた。
そう感じた瞬間、俺の理性が本能の連立政権を上回った。
床に手を突き身体を起こす。「あっ……」と小さな声が漏れ聞こえた気がするが敢えて無視した。
おでこを付けていた時は治まったと思っていたのだが、どうやら気が紛れていただけだったらしい。未だにキィ――ンと響くような鈍痛は下腹部に残っていて眉をしかめた。
「! ……ご、ごめん」
苦悶の表情を悟られたのか川崎が謝罪してきた。いや、まあ痛みは想定外だがある程度は覚悟してたしそっちも恥ずかしかっただろうからある意味痛み分けだ。下種い考えだが跪いて上目遣いの川崎を見下ろすビジョンを網膜に焼き付けられたし、何なら俺得ですらあった。
そう説明できればいいのだが言ったら二撃目が飛んできそうなので負い目を軽くする為、あえてとぼけることにする。
「ホントだわ、俺はお前の妹じゃないんだから、あんな検温されたら恥ずかし過ぎだろ」
「……え?」
「妹のおでこに当てて熱測ったりとかしてんだろ?」
「え、あ、うん、そ、そうだ、けど……そうじゃなくって、えと……え?」
見事に有耶無耶に出来たが、もうひと押しってところか。
「大体、体温計使わないと正確に測れんだろ」
「……どこに体温計あるかまで分かるわけないじゃん」
尤もな話である。初めて上がった家で体温計を探すのはタオルや洗面器よりも困難で、期待通りの返しに内心ほくそ笑んだ。
「あー、そうだったな。んじゃ着替えた後で用意しとくから、悪いがお前は自分の飯作って食っててくれるか? あるもんは好きに使っていいから」
「でも……う、うん、分かった……」
後ろ髪を引かれる思いで部屋を出ていく。
振り返れば、学校ではまず見ることの出来ない川崎の一面ばかりで埋め尽くされていた。普段からこんな振舞いならクラスでも由比ヶ浜と人気を二分するくらいになってたんじゃないかと益体の無いことを考えてしまう。
身体を拭いて着替えると雨音が弱まっている気がした。これなら傘を貸せば川崎が帰ることは可能だろう。そう思うと安堵と共に幾ばくかの寂寥を感じる。
このまま帰せば、今日という日はきっと無かったことになるだろう。
それも一つの選択だ。
だが俺はこのままで終わりにしたくなかった。
× × ×
こんこんこん、という音が聞こえる。
続けて『比企谷?』という疑問の声。
『……寝ちゃったの?』
扉の向こうからそう問い掛ける声は優し気で弱った心に滲み入る。それと同時に後ろめたさも感じた。
聞こえているのに返事をしないから、というだけではない。
鍵のかかっていない扉が開かれる。
「……比企谷?」
「……寝てるの……?」
扉付近からのか細い声は、もし寝ているなら起こさない様にという心遣いを顕している。
徐々に足音から距離が詰まっていくのが分かり、それに比例して鼓動が加速していく。
きしぃ……と椅子の軋む音がした。ベッド脇に腰を落ち着けたのだと分かる。
聴覚に基づいた情報しか入ってこないのは夢現つであった時と同じ、タオルを乗せて視界を覆っているからだ。
あの微睡みの中で味わった夢現つが、どちらの事実であったか知る為に小狡い罠を仕掛けた。
こうして同じ状況を作り出すことで、素直に答えてくれるはずのないあの秘め事をもう一度誘い出せるのではないか。現実のものであったと彼女自身が証明してくれるんじゃないかと期待したのだ。
「……材料、使わせてもらったよ」
言われた通りに自分の分を作って食べたと報告してきた川崎は、俺が本当に眠っていると判断したのか返事を待たず言葉を続けた。
「……一人で食べるのはちょっと侘しかったけど」
「……って、いつも屋上でお昼食べてる時は一人なのに……こんなの、変だよね……」
学校での営みを独白する声音はとても弱々しく、部屋の
川崎はぽつりぽつりと時間を空けて独白を続ける。学校のことや家族のことなど多岐に渡った。
俺達はスカラシップの件と夏期講習の帰りに互いの兄妹姉弟で会ったこと、文化祭で裁縫係に推したこと程度の絡みしかない。その為、一つ一つが短く些細な独白であっても全てが新鮮で彼女を知る機会となった。中でも、大志が小町と二人で出掛けたエピソードは非常に有用な情報である。聞いた瞬間、危うく反応して狸寝入りがバレるところだったが。何もなかったらしいので執行猶予くらいはつけてやろう。
話していくにつれ段々と沈黙の割合が増えていき、その間隔は数十秒から数分までになっていた。
平時は気にならないエアコンの駆動音や徐々に弱まりつつある室外の雨音など、埋もれがちなそれらが合間合間の閑寂により一層際立っていた。その上、乙女座な黄金聖闘士よろしく視覚を封じた今の俺は音に対して極度に敏感だ。自らの僅かな身動ぎで起こる布団やら衣服の衣擦れ、川崎の吐息までもが手に取るように分かってしまう。
だから、息を殺してにじり寄ろうとも俺には分かってしまうのだ。ベッドがぎしりと軋んで沈み込む。この感じだと縁に腰掛けて上体を捻ってこちらを向いていると予想される。
「…………本当に……寝てる、の?」
それはかなり近い位置からの囁きで距離にすると三十センチ以内といったところか。手を付いて身を乗り出すように迫ってきているようだ。
「…………」
「…………」
ぱさりと髪が枕に舞い落ちる。
顔の上に川崎が覆いかぶさっている証拠だ。
息遣いの音だけでなく、じっとりと熱を帯びた吐息が俺の顔を撫でた。
彼女の纏う空気が変化したのが分かり俄かに鼓動が速まっていく。
――あれが現実だったと証明される……!
こちらが見えないことで理性の
だが、結論から言うと…………情事は、起こらなかった。
代わりに俺を待ち受けていたのが想像だにしなかった披瀝である。
つづく