―― Look Back Cinderella ―― 作:なでしこ
思えば、私はいつも誰かを見下していたのかもしれない。同年代のウマ娘たちがうつつを抜かしている間も、夢の中に溺れている時間も、私はただ自分を追い込むことしか考えていなかった。
人はそれを「努力」の一言で片付けるだろうが、にしては重いに決まっている。そう言い切れるほどに、走って走って走りまくった。そして、結果は付いてきた。誰にも負けたことがないという実績とともに、私はカサマツの門を叩いた。特待生という看板を背負って。
ただ私は、この地区で一番の東海ダービーで優勝することだけを夢見てきた。選抜レースで良い走りをしたからと言って、耳障りになる言葉を投げかけてくる同胞たち。気休めにもならない。むしろ不愉快ですらあった。
友人と呼べる存在は居なかった。当然だ。ただの足枷になることは理解していたし、走ることが生き甲斐の私にとっては不要なモノであることには違いなかった。
――だが、上には上がいるモノだ。
自分を追い込んだという点では誰にも負けない自信があった。だけど私は天才でも何でもない。ただ走るのが好きで負けず嫌いのウマ娘というだけ。その事実を、奴は負けを知らなかった私に思い出させてくれた。
才能の母数が違う。加えて、彼女は私と同じかそれ以上に走った。カサマツにおいて誰よりも努力を重ねていたと認めざるを得ない。
それは、誰よりも速くなるのは明白だ。私だって三度戦って、最初こそ勝ったものの、もう二戦は惨敗であった。一戦目も彼女の靴が新品であれば負けていただろうと今になって思う。
私は好敵手を見る目で彼女に接したが、きっとあれは認めたくなかったのだろう。自ら積み上げてきた努力が彼女という存在に崩されてしまうのが。あの呆気なさがこれまでの時間を否定するような匂いを醸し出す。
奴が中央に行ったせいで、東海ダービーを一緒に走ることは無くなった。優勝候補の筆頭が居なくなったのだから、心晴れやかになるはずが案外そうでもなかった。
不思議なモノだ。あんなに友人なんて要らないと思っていたのに。誰かと何かを競う楽しさと心地よさ。結果が二の次に感じるはじめての感覚は堂々と私の中に居座っている。
「――マーチ?」
彼女の居ないカサマツの風。私の前に居たあの匂いはもう無くなっていて、少しだけ寂しいのが本音だ。彼女の切った風は今どこに吹いているのだろう。
奴のことだ。きっと中央で吹き荒らしているに違いない。活躍してもらわないと、私の立場も無いのだから。
「柴崎トレーナー。もう一本いけます」
「東海ダービーは目前だ。自分のレースをすれば勝てる。絶対勝つんだ」
お前が中央で暴れている間、私は夢を叶える。かつて二人で見たあの夢を――。
「随分と雰囲気が柔らかくなったな」
東海ダービーを三日後に控えた練習終わりに、
それは彼も同じなようで、スーツのジャケットを脱いで一つ息を吐いた。黒のワイシャツを捲りながらスポーツドリンクを喉に流し込んでいる。若く、端正な顔立ちでウマ娘からの人気は高いと聞く。
それが藪から棒に何を言い出すのだろうと聞き流したが、恥ずかしながら自覚はあったのでつい口元が僅かに上がった。それを彼は見逃さず、追撃する様に笑った。
「ニュース見たか?」
その聞き方をしてくる時点で、奴のことなんだろう。
「いえ――何かあったんですか」
「初のGⅡで一着だとさ。流石に驚いたよ。ついこの間までここに居たのにな」
なんだその事か――とは言わなかった。彼も珍しく言葉が躍っている。かつての好敵手の話をそんなに楽しそうにするトレーナーが何処にいる。
だが気持ちは分かる。特に印象深いのは、中央初戦。あのレースは、私がカサマツで食らった展開そのものである。重賞とはいえその堂々としたレース展開。ブラッキーエールを差し切ったあの走りは、間違いなく人々の心を掴んだであろう。
日本ダービーへの出走こそ叶わなかったものの、移籍してすぐ世論と中央をあそこまで騒がせたのは紛れもなく彼女の実力。それが誇らしくもあった。
ただ、胸に残る違和感。その正体には気づいているが、あえて考えたくなかった。彼女と戦い、中央への移籍を後押ししたあの日に奴に対する「悔しさ」という感情は捨てたはずなのに。中央で躍動するたびにやってくる波。彼女には負けたくないという、愚直なほど素直な思い。
「フッ。知っているならそう言え」
「なっ、わ、私は何も言っていない」
「顔に出ているぞ。体が冷える前に着替えてしまえ。終わったらミーティングだ」
そう言ってトレーナーは部屋を出ていった。静寂に包まれた部室で、微妙に火照った頬を誤魔化すように体操着を脱いだ。そのまま制服のシャツを羽織る。背中に汗が残っていたせいか、ピタリと張り付く感覚がした。
東海ダービー。出場が決まった時、カサマツの皆は祝福してくれた。「ウチから出るウマ娘が誕生するとは!」なんて言った校長の嬉しそうな顔がやけに印象的であった。
デビュー戦を終えた後も、面と向かって同じことを言ったのに。その時はきっと、本気にしていなかったのだろう。ムカつく話ではあるが、今は別に良い。終わった事だから。
髪を切ってから、随分と風を感じるようになった。邪魔だと思ったことは無かったが、切ってみてやはり長いのは邪魔なのだろうと実感する。乾かす時間もだいぶ短くなったし、今のところ後悔はしていない。
部室の扉が開く音がした。彼は男だ。入る時は絶対にノックを欠かさない。その時点で、入ってきたのは何なのかをある程度察した。
「ういー。お、マーチだけじゃん」
気怠そうに毛先をクルクルしながら言う彼女。ノルンエース。根は捻くれていて面倒な奴であるが、悪い奴ではない。私にも親しく接してくれるし、態度も普通だ。ただ面倒なだけで。
「……ひとりか?」
「そうだけど。何か変?」
「いや……珍しいなと」
普段一緒の二人が居ないせいか、妙に寂しい雰囲気を纏っていた。
「別にいいじゃん。大勢で押しかけるよりはマシでしょ」
「言っている意味がよく分からない」
「マーチって鈍感だよね。そういうとこ」
私が座っていた席に断りなく座る奴に言われたくはない。が、追い出すのも気が引けた。空いている椅子に座って、彼女と向き合う。そういえば、トレーナーは何をしているのだろう。彼女の侵入を許すほど甘くはないはずだが。
「トレーナーなら話つけてる。時間は取らせないから」
「そ、そうか」
「何で分かったのか、って顔してる。だって分かり易すぎるんだもん」
スラリと伸びた脚を組んで、可笑しそうに呆れたような顔をしている。煌びやかに取り繕った雰囲気はこのカサマツでは異様である。だが不思議なもので、見慣れてしまった自分が居る。
「ほら、ダービー近いじゃん? 一応ウチらなりに気を遣ったんだけど」
そうは言うけれど、そもそも何の用なのかが分からないのだ。彼女の言葉の意味が読み取れなくて、呆気に取られる。するとまたクスクスと笑ってみせるではないか。手のひらで遊ばれているようで、良い気はしない。
一通り笑った後、彼女は言った。
「――応援だよ。背中を押したくて来たってわけ」
「最初からそう言えばいいものを」
「マーチってレース前っていつもひとりだし。だから邪魔するのもアレかなーってみんなで話してたわけ」
そこでようやく合点がいった。嫌味の一つでも言い返したかったが、彼女たちの厚意を無下にする気がしたからやめた。
かと言って返す言葉も見つからなくて、視線を泳がす。所々に傷があるカサマツの施設が少し虚しくもあった。
彼女の言う通り、レース前の私はかなり神経を尖らせている。物音一つで苛ついてしまうぐらいには集中を高めたいタイプだ。
だから、その気遣いは素直に嬉しかった。ウチらと言われて頭に浮かんだ二人がそんな発想に至ったのを驚きながら。
「ダービーのこと、ずっと言ってたし。ほら、あの子は出られなかったから」
「だから――」そこまで言っておいて、急に言い淀んだ。どうしたのかと問いかけようとも思ったが、肝心の彼女と目が合うと少し恥ずかしそうに目を逸らされた。
「そ、そんな怒んなくてもいいじゃん」
「いや、そんなつもりはないが」
「別に少し恥ずかしくなっただけだし……」
脚を組み替えて、肘をふくらはぎに置いて頬杖をついている。見るからに生意気な見た目であるが、雰囲気は正反対でそれが少し可笑しい。
「その、マジで応援してるから。カサマツの皆が。あーしに言われたくないかもしれないけどさ、マーチのレースをしたら絶対勝てるって」
きっと、その言葉は真意である。だからこそ、不思議でならなかった。別に
「あぁ。ありがとう」
「……マーチも少し変わったよね。何ていうか」
トレーナーといい、今日はやけに同じことを言われる。別にダービーが終わればまたここに戻ってくるのだ。奴のように「会えなくなる」訳ではない。それなのに、見送られている気分になる。
「それを言えば、君もだろう」
私が
これまではいつも三人一緒であったが、奴と出会ってから変わった――。そういう意味では、彼女たちも私と同じ類なのだろう。
「じ、じゃーね。観戦には行けないけど、テレビで応援するから」
問いかけには答えることなく、そそくさと席を立って部室を出て行った。「なんで私が……」なんて呟いていたが、あれもまた照れ隠しなのだ。少しおかしくて、口角が上がった。
東海ダービー。私の夢。そこで一番になることを思ってここまでやって来た。
状態も良い。メンタルコンディションも落ち着いていて問題ない。後は、当日を迎えるだけである。
唯一の心残りは、奴と走ることが出来なかったこと。もし出走していたら――なんて声を間違いなく聞くであろう。私はそれを否定する。今度こそ、勝つのは私、フジマサマーチだと。
▼△▼△
スタートには誰よりも自信があった。出走側から見てゲートが開くタイミングは読めない。だからこそ、極限まで集中力を高める必要がある。僅かに軋む音を聞き逃さないように。それは私にとって難しいことではなかった。
加えて、私の脚質的にも極めて重要な戦術のピースとなっている。スタートがレース展開を決めると言っても過言ではない。
――出遅れた。
迂闊だった。その可能性を完全に失念していた。スタート前は意識を集中させるせいで、ほんの数秒、体は静止する。その間の僅かな筋肉の硬直。それがゲートオープンと重なって、反応に遅れた。
この出遅れに気付いたのは、きっと柴崎トレーナーだけだ。それぐらいの誤差であるが、完璧をこなさなければこのレースで勝てないことぐらい知っていた。
何故今日に限って――なんて思いとともに砂を蹴り上げる。出走メンバーを見て、第四コーナーまで先頭集団をキープしていれば勝機はあると考えた。
出遅れたものの、第二コーナーを曲がった段階で三番手。大丈夫、盛り返せる、問題ない――。走りながらポジティブな言葉が脳内に浮かんだ。浮かばせた。
カサマツとは違う砂の感触。あらゆるケースを想定してきたつもりだが、やけに気になって仕方がない。
周りのウマ娘たちのペースはどうだろう。先頭とは二バ身程度だろうか。後ろは三バ身程度。比較的はっきりと先頭集団と中団が切り離された展開だ。
(……よし)
名古屋レース場は最終の直線が短い。単純なスピードに絶対な自信があるわけではないから、直線に入ってからスパートを掛けても効果は薄い。だから、その前。最終コーナー寸前で一気に先頭に躍り出る――。それが今日の戦術。今のところ問題なく、ほんの少し安堵した。
あとはこの位置をキープする。粘れ、粘れ! 自身に言い聞かせた。
一周して、第三コーナーを過ぎたあたり。後方で順位に変動はあったものの、私は三番手をキープすることが出来ていた。まさに理想の展開である。だが――そういう時にこそ、イレギュラーは起こることを、私の頭は理解していなかった。
先頭のウマ娘が、私たちの想定よりも早くバテたのだ。明らかに失速し、ジリジリと差を詰めていく。それだけでなく、二番手の表情も苦悶そのもの。コイツも同じようにバテるのは目に見えていた。
心臓が鳴った気がした。鼓動が早くなるのとは別で、本能が叫んだような気が。それはやがて、怖気に近い何かとなって全身に広がっていく。
これは
あと百メートル先までこの状態で――。分かっていた。今ここでスパートを掛けてしまえば、
レース勘には自信があった。その場に応じた適切な判断が出来る絶対の自信。だと言うのに、私の胸は闇に飲まれていくように黒く染まっていくのが分かった。
必死に理性を取り繕うが、誰よりも速く走りたいというウマ娘の本能を抑えるには不十分だった。加えて、スタートを失敗したことによる焦り。それは少しずつ私の体力を蝕んでいた。それが冷静な思考を真っ向から否定する。
内が潰されていたから、外を回って先頭に。なんて思ってもいないことが頭をよぎって、背中には違う意味での汗が浮き出てきた。
(あ……あぁ……!)
私の脚は――加速してしまった。体が言うことを聞かない。抉るように砂を噛んだ。
予定よりも早いスパートになった。たった数十メートル。この
先頭に立って、最終コーナーを曲がる。出来る限り後続との距離を開きたかったが、スパートを掛けてくる差しや追込型のスピードは相当なモノ。そのまま短い最終直線に差し掛かった。
肺が破れそうなほど、呼吸が苦しい。大きく息を吸っただけで失速しそうだったから、浅い呼吸を小刻みにするしかなかった。
砂を蹴りながら自嘲した。このレースは、始まった時からこうなる運命だったのだと。あの段階で既にフジマサマーチのレースでは無くなっていた。
レース中も、普段気にならない事が気になったり、スパートを早く掛けてしまったり――。冷静さを保つどころか、浮き足立っているではないか。
心臓が痛い。鼓動が早くなりすぎて死んでしまいそうだ。我慢出来ず思い切り息を吸い込んで、思い切り吐く。するとガクンとスピードが落ちた。後続とは一バ身ぐらいの差しか無かったから、簡単に差し切られた。ゴールまで五十メートルだった。
もう力は残っていなかった。ただ早くスパートを掛けた
ゴールラインを割った時の快感は一切無くて、観客の歓声も、この青空も、この風も、この匂いも。全ては一着のウマ娘に向けられているのだと悟った。悔しいじゃなかった。情けなかった。
東海ダービー。
ダート一九〇〇メートル。
天候、晴れ。
電光掲示板の上から四番目に灯る私の番号。こんな夢の形を受け入れるのは、少し難しい。もう少し余韻に浸れるモノだと思っていたが、今は「ようやく終わった」と逃げ出したい気分であった。
△▼△▼
控え室に戻ると、待ち構えていたトレーナーと目が合った。初めて見る表情をしている。決して良い意味では無かったから、逃げるように顔を逸らした。
二人には広すぎるこの部屋ですら、今はどうでもいい。ただ終わった事実を受け入れるだけで頭の中は精一杯で、とにかくひとりになりたかった。彼に背を向けるように椅子に座って、タオルを顔に被せる。周りの全てを遮断するように。
「……すまない」
それは私の耳にもはっきり届いた。項垂れていた顔を上げて、振り返る。彼は立ち尽くしたまま、やはり見たことのない表情をしている。
どうして彼が謝るのだろうか。走ったのは私で、私の独断でスパートを早めて、結果四着に沈んだ。
全て私の責任ではないか。むしろ彼の作戦は正しく、遂行出来ていればきっと勝てていた。だから彼が謝罪する意味が分からなかった。
「柴崎トレーナーは悪くありません。全て私のミスです」
「……いや、違う」
「どうして」
「お前のミスを想定していなかった」
その言葉には私が思っていた以上の重さがあった。視線を落として、心底申し訳なさそうに唇を震わせている彼は、必死に取り繕おうとしているようにすら見えて。
「スタートで僅かに出遅れたのが今日の敗因だ。そこの動揺がスパートのズレに繋がった」
やはり見抜いていた。分かってはいたが、そうして言葉にされるとやはりツラいものはある。だがそれから逃げてばかりいれば、奴に追いつくどころかカサマツで永く走ることも不可能だ。
彼は作戦が書かれたホワイトボードを眺めながら、小さくため息をついた。少し考えて。
「言い換えれば、お前がこれまで
そう言うが、それは励ましの言葉では無いことぐらい察する事ができた。証拠に、彼は私の反応を待たずして話を続ける。
「完璧なスタート
言われてみれば、確かにそうだ。カサマツに入ってからのレースは常にスタートを決めて、自分の展開に持ち込む事が出来ていた。
失敗をしていないが為の、動揺。そんなことがあってたまるものかと思いながら。私の疑問は線で結ばれていく。
「失敗はしないに越したことは無いんだ。だからお前は正しい。尊敬に値するぐらいの完璧をこなしてきたのだから」
フォローしたのだろうなと直感が言う。申し訳ないが、別に嬉しくはない。彼も私のことを知っているから、そう思われるのは承知の上のはずだ。もしかしたら、咄嗟に出ただけかもしれない。それならそれで良かった。
「失敗はそれ以外の何物でもありません」
「……それがこの東海ダービーで出てしまったという話なんだ」
自身の脚しか信じてこなかった。自身の感性と練習量は絶対に裏切らないと当然のように思っていて。
神様なんて信じない。最後の最後に勝負を決めるのは当事者だけ。第三者の介入なんてあってはならないモノだ。
だが、神様が居るなら思い切りぶん殴ってやりたい。随分とナメた真似をしてくれる。どうして今日なのか。昨日でも、先週でも、一年前でも良かったではないか。なのに、どうして――。こんな残酷な結末を迎えるために、私は努力したわけではないのに。
「――マーチ」
彼の声で、全身が強張っていたことに気づいた。握り拳はあと少しで爪が割れるぐらいに固くなっていて、咄嗟に力を抜いた。ほんの少し、頭が冷静になった気がした。
こんなに後悔したのは初めてだ。奴に負けた時の感情とは違う。あの時は後悔というよりも悔しさで絶対に負けたくないと強気の感情が心臓の全体を占めていた。
それは叶わなくて、結果中央への移籍を許してしまった。でもそれで良いと思ったのも事実。彼女はカサマツに収まる器じゃないのは誰の目から見ても明らかだったから。だから、後悔と呼ぶのは少し違う。
やり直せるのなら、もう一度――。そう願ってしまうこの感情を後悔と呼ぶほかないだろう。東海ダービーという夢が終わったのだから。
そうだ。結果に後悔しているとばかり思っていたが、そうじゃなかった。私のレースが出来なかったことが悔しいのだ。それをこなしていれば、間違いなく勝てたレース展開だった。何度も頭をよぎるもしもの話。そんな自分に嫌気が差した。
「何度も言うが、これは俺のトレーナーとしてあるまじきミスだ。お前の才能に頼りすぎていたんだ。失敗しないウマ娘は何処にも居ないのにな……」
彼の言葉は震えていた。私に同情しているわけではない。――私と同じだ。伝わってくる後悔の念は空気を震わす。
「もっとメンタルトレーニングをさせてあげれば、勝てたレースだった。本当に……すまない」
立ち疲れたのか、彼はその辺にあった椅子に力無く座った。数分前までの私のように頭は項垂れている。まるで私に頭を下げているようで、気まずい。思わず顔を背けてしまった。
――あーしに言われたくないかもしれないけどさ、マーチのレースをしたら絶対勝てるって
ふと、
彼らも分かっていたから、そうやって私に声を掛けてくれた。でも、私のレースが出来なかった。テレビで見てくれていると聞いたが、きっと失望しただろう。
「トレーナー……?」
――そう思っていた私は、思わず目を疑った。あの冷静な柴崎トレーナーが肩を震わせて必死に涙を堪えていた。
カサマツの皆は、不甲斐ないレースを見て失望するだろうか。これまでの関係性を振り返ってみても、イタズラだったり駄弁ったり。何処にでもいる年頃のウマ娘たちがほとんどだ。
だが、同胞のレースを笑うことはしない。どんなに酷いレースでも、最後は笑って応援している姿を見た。励ましの声を掛けているような奴らなのだ。
―― 自分のレースをすれば勝てる。絶対勝つんだ
―― 応援だよ。背中を押したくて来たってわけ
これは期待なんだ。彼らから私に対しての、大きくて暖かい想い。
誰かの期待なんてどうでも良かった。とにかく自分が速く走る為に全てを犠牲にして、ひとりでトレーニングを重ねてきた。だから、ヒトから期待されたと実感したことがなかった。
私が勝つことで、誰かの為になるのだ。トレーナーにしても、カサマツの皆にしても。私のレースが少なからず記憶に残ることが出来るのなら。
あぁ、どうして。
どうして今になって、彼らの想いに気付いてしまったのだろう。どうして負けたレースの時に限って、神様は気付かせてくれるのだろう。
誰かから期待されることは、嬉しくて、重くて。その期待に応えられないのは、この上なく辛いものだと。今になって。
本当に、私は弱いな。