それともあるいは――。
――遂にここまで来てしまったか。
オーナーは両腕で空を仰ぐ。
――まさか、本当にロンシャンの空を仰げるなんてな。夢にも思ってなかった。
熱くなる目元を抑え、両頬を叩く。ここからが本当の始まりだからだ。
今、日本の夢が駆け抜ける大舞台が、幕を開けようとしていた。
「ああ――俺の夢が、始まりを迎える」
「マサ、どうした? 今日は絶好調じゃないか」
そのような疑問を抱きながらも、嬉々とした感情を吉長は隠せないでいた。
マサと呼ばれた騎手――蘆名正義が眉を寄せて考える。
「夢見がよかった、からでしょう」
「ほう?」と腕を組む吉長。これは気になっているなと正義は頭を掻きながら口を開く。
「黒毛の馬に騎乗した夢です。夢の中でそいつに激励されましてね」
「黒毛の馬? もしかしてシービーか?」
「たぶん違います。そいつは馬群のハナを切ってたので」
「シービーはよく暴走して前に行きたがってたからな。恐らくシービーだろ」
「だったら夢の中でも鞍上は吉長先生だと思います。もし俺が乗った場合、夢の中でさえ吉長先生にしばかれることになりますよ」
「……俺ってそんなに鬼か?」
「はい。鬼です」
明らかに凹む様子を見せる吉長。それでもすぐに立ち直り、正義の背を強く叩く。
「……勝ってこい。ただそれだけ言わせてもらおう」
「……はい!」
正義は、スワーヴダンサーのいるパドックへと軽い足取りで歩みだした。
スワーヴダンサーに騎乗し、まず真っ先に正義はこう感じた。
「とても落ち着いているな。荒ぶる様子もない。まるで嵐の前の静けさだな」
正義の背に嫌な冷や汗が伝う。エンターテイナーで暴れん坊気質のスワーヴダンサーが非常に大人しく、歩調も蟹歩きではない。
――まずいかもしれない。正義の表情がみるみる強張っていく。
蟹歩きをしたり、嘶いたり、荒ぶった大レースでは大抵圧勝だった。しかし今は落ち着いている。
「……二番人気、か。一応パリロンシャンのクラシックディスタンスを勝ってるんだがなぁ」
「まあいいや」と呟き、スワーヴダンサーの手綱を握る。
GⅠ凱旋門賞。大本命馬は英愛ダービー、キングジョージを圧勝した欧州最強馬ジェネラスだという。
もちろん、正義は声高らかに叫びたい。だがそれがどうした、と。俺たちのスワーヴダンサーこそが最強だ、と。
「馬場はとても重くなった、か。晴れてんのにな」
足下の芝に目を向け、正義は言う。そして確信する。
「ペースさえ維持できれば勝算はあるぞ……」
正義はふとパドックを歩くジェネラスのほうに視線を定める。
――マークする馬はただ一頭。あのジェネラスだな。あれは今まで良馬場で先行して勝っている。しかし今回は重馬場。さあ、どう出る?
――作戦を読まれている。ジェネラスの鞍上を務めるアレン・ムンラは視線を感じながら、最悪の想定を思い起こす。
『……まずい。しかもとんでもない重馬場だ』
誰にも聞かれないような小声で、アレンは呟く。
アレンは改めて作戦を練り直す。
ジェネラスという馬は、馬群の先団につけて抜け出す王道の競馬を得意とする。しかし今回ばかりはそういうわけにはいかなかった。
アレンが口にした通り、とんでもない重馬場なのだ。よほど適性がないと追い込むことが不可能なぐらいに。
さらにアレンに追い打ちをかけるように、そんな適性を有する馬がこのレースに出走している。
――二番人気の仏三冠馬スワーヴダンサー、この馬には要警戒だな。
でも勝つのは僕らだ、と言葉には敢えてしなかったものの、ジェネラスの手綱を改めて握り締めた。
当のジェネラスも、『任せてくれ』と言わんばかりにぶるる、と小さく喉を鳴らした。
『こちら、フランスのパリロンシャン競馬場からお送りします。今年の出走馬は十六頭。ゲート入りの時間となります。
――日本が誇る二番人気スワーヴダンサー、四番に入ります』
ゆったりとした集中しているような足取りで、スワーヴダンサーがゲート入りする。鞍上の正義は落ち着かない様子で辺りをキョロキョロと見回しているが。
『一番人気十番ジェネラス、ゲート入りが完了しました』
一方のジェネラスも、ゆっくりとゲートに入る。
『日本の悲願――凱旋門賞! 今年はそれに日本の仏三冠馬スワーヴダンサーが挑みます! 間もなくスタートしますッ!』
長いようで短い静寂が、ターフを包み込む。そして――、
凱旋門賞の火蓋は切られた――!
『ハナを切ったのは……なんとまさかまさかのジェネラス! 今までの先行策とは打って変わって、いきなりハナを奪いました!』
そのことに、競馬場にはどよめきが満ちていた。
ジェネラス鞍上のアレンは、額に冷や汗を滲ませていた。
そんななか、重馬場状態のパリロンシャン2400mを逃げ切れるほどのスタミナがあるか、アレンはジェネラスを信じる他なかった。そう、これはまさに、一か八かの賭けだ。
――信じてるぞ、ジェネラスッ! お前ならやれるッ!
アレンは全てを、
『日本のスワーヴダンサーはやや後方に位置取った! 芝はとてつもなく重いが大丈夫か!?』
スワーヴダンサー鞍上の正義は、内心で歯を軋ませていた。
正義はジェネラスがいきなりハナを切ることも、逃げることも読んでいたが、それは最悪の想定だった。
今までより前目に着ける先行策を用いてくる。そう読んでいたが、しかし現実では予想よりも大胆な騎乗をしてきている。
現在、スワーヴダンサーは十一番手。だが馬群に横を塞がれており、あまり好ましくない位置であることは、正義もわかっていた。
――まずいな。最終直線までに抜け出せるか?
再び背にヒヤリと冷たいものが伝う。
ゴールまで、あと1700m――。
「あの位置か、本当にまずいぞ」
レースを遠目に眺め、吉長はポツリと零す。
「しっかし、これは予想外だぞ……」
予想外というのは、もちろんジェネラスのことだ。
ジェネラスはスタミナのロスを恐れ、前目に着け、逃げはしない――詰めが甘かったと吉長は猛省する。
「……そうか、重馬場か」
思い出したようにハッと顔を上げる。
まさかこんな基礎も忘れていたとは、と吉長はさらに己を恥じた。
重馬場で馬群に呑まれるのは危険。騎手時代から知っていたことだった。
さらに以前、吉長が確認した過去のレース内容を鑑みると、ジェネラスはスワーヴダンサーのように力で押し切るような馬ではない。どちらかというとスピードで抜け出すタイプだ。
このレースの展開は、間違いなくジェネラスのほうに傾いている状態である。
一方で、スワーヴダンサーは馬群に包まれ最終直線ならば撃沈状態。非常に危うい状況だ。
「頼む、頼むぞ……」
ただただ吉長は「勝ってくれ」と祈るしかない。
ゴールまで、あと1200m――。
「…………」
オーナーは一度も目を離さずに、夢の舞台を駆け抜ける名馬たちを見届けていた。
その中でもやはり、スワーヴダンサーとジェネラスに注目している。
ニヤリ、とオーナーは口角を上げる。
「最終直線。あの二頭はどう動くか?」
顎に手を当てて、予想してみる。
「叩き合いか? ジェネラスが逃げ切るか? スワーヴダンサーが差し切るか?
……駄目だ、全く読めん」
ふう、とオーナーは息をつく。
「さあ、いけるか? スワーヴダンサー?」
ゴールまで、あと800m――。
『各馬、スローペースな展開のまま、
――ハッ、先頭はなんだかいけ好かないあの野郎か。まだ粘ってやがったか。
『直線に入りました! スワーヴダンサーは未だ中団! これは非常に厳しいか!? 先頭はジェネラス! 先頭はジェネラス!』
――ようやく、かよォッ。鞭打つのがおせーんだよ、マサヨシ。
『
――捉えたぜ? 栗色野郎ッ!
『スワーヴダンサーが迫る! ジェネラスに襲いかかる! そのまま最終直線! スワーヴダンサーが躱せ……ない! ジェネラスも意地で躱させない! 一馬身差が縮まらない!』
――悪いが、
――チッ! 意地でも抜かせねぇつもりか!
『スワーヴダンサーが徐々に迫る! 並んだ! 並んだ! 両馬一歩も譲らない! 譲れない! 譲れない想いが、この凱旋門にある!』
――根性勝負だ、栗色野郎ッ!
――臨むところッ!
『互いに競り合う! 互いに競り合っている! 疾風の如き末脚と灼熱のように燃え盛る根性がぶつかり合う! 残り50m!』
――ウオオオオオ――ッ!
――ガアアアアア――ッ!
『二頭もつれたままゴール! 三着とは九馬身も離れている! これは大接戦! 大接戦でゴール! 写真判定だ!』
――……ハッ。
――つ、よい……。
ジェネラスとスワーヴダンサー。二頭は大接戦を巻き起こして、もつれ合ったままゴールインした。
日本では、誰もがスワーヴダンサーが差し切ったと確信した。
欧州では、誰もがジェネラスが粘り切ったと確信した。
結果は――。
「……スワーヴダンサーはとてもいい馬です、オーナー」
「ああ、いい馬だよ。彼は」
「改めて俺を乗せてくださって、本当にありがとうございます」
蘆名正義がスワーヴダンサーから降り、歓声が巻き起こる。
人はみな、あるヒーローの凱旋に沸いていた。
「また来年も挑みませんか? 凱旋門賞」
「そのつもりだよ、マサヨシくん」
「次はジャパンカップだ。頼むよ」
「はい!」
――ジェネラス、日本のスワーヴダンサーとの熾烈な競り合いを制し、欧州三冠達成!
後日の欧州競馬は、大いに盛り上がった。
――データがアンロックされました。
――ジェネラスが燃え尽きました。
――スワーヴダンサーの次走はジャパンカップに定まりました。
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