米競馬史を彩る名馬たちには、悉く早熟性がある。もちろん、例外も存在した。
早熟性がある馬たちは、大抵速さを具えていた。
堅い土で構成されたダートと高速馬場に対応できる馬こそが、米国の馬主たちからは求められていた。
だが先述したとおり、例外というものは常につき纏う。
――シガー。最近そう名づけられた、一年前に米国から輸入された二歳馬を眺めて、牧場長の樫田友彦は首を傾げる。
「馬体がなかなか完成しないタイプか?」
樫田には、この時期になるとアメリカ産馬は基本的に馬体が整い始める頃、という偏見にも近い印象がある。
しかし目の前のシガーはどうだ。
明らかにデビューが遅くなるタイプだった。
ここで樫田はある確信に行き当たる。
「……まさか晩成型か?」
樫田の偏見を打ち砕くような例外。それこそがシガーだった。
けれどもやはり樫田の中では疑問が尽きなかった。
「あんな力強い踏み込みができてなお、まだ未完成というのか?」
思わず身震いする樫田。
以前、馴致が予想以上に早く終わったため、試しに走らせてみたことがあった。
そのときの光景を樫田は鮮明に覚えている。
「パワーとスピード、両方を兼ね具えてるうえにメンタルも根性も他馬とは一線を画している。だが、だが」
樫田にはシガーが恐怖を体現したような魔王に見えてくる。
「この馬は、この馬は」
さらに身体が震える。口もだんだんと回らなくなっていく。
「変態モードになってるぞ、賢者」
その言葉で、樫田は一気に現実に引き戻される。
今、樫田の目の前にいるのは、シガーのオーナーだった。
「こっ、こここここここんにちは、オーナー。こっ、ここここここ――」
「鶏かよ。一旦落ち着け」
「しししししシガーが――」
「落ち着けって。深呼吸深呼吸」
「ヤバいです」
「深呼吸も入れずにいきなり落ち着くなぁ!?」
「あの馬、化け物ですよ。なんで買えたんですか?」
「……たまたま」
「ごまかすな」
「うるせぇ」
軽快なツッコミを叩き込むオーナー。
しかし表情から伺えるのは、明らかな疲労だ。
「そういえば、ライスシャワーの鞍上はどうなりました?」
「吉長先生との相談の末、しばらくの間はマサヨシに決まった。ヨシトミにはある馬に乗ってもらいたいし」
「ある馬? スワーヴダンサーですか?」
「ハハッ、違うぞ。あいつの鞍上はマサヨシのままさ。あとわざと間違えたろ?」
「やっぱりそう来ましたか」
「あとそのスワーヴダンサーで、ここだけの話があってな」
「……ほほう?」
思わず息を呑む樫田。
意を決したようにオーナーは言葉を紡ぐ。
「スワーヴダンサーは復帰戦のジャパンカップがラストランになる」
「やはり、ですか」
「ああ」
オーナーは表情を曇らせる。
申し訳なさそうに、悔やむように。
「すまん。話を変えさせてほしい」
「……わかりました」
「で、ヨシトミなんだが。あの馬の入厩先が決まったら、乗ってもらう予定だ」
指を差し、あの馬がシガーであることを示す。
樫田は納得したように頷くも、すぐに顔を疑問の二文字で埋める。
「入厩先の伝手は?」
「吉長先生以外ない」
「駄目じゃん」
「そこ、素の口調で指摘するのやめて。心臓に来る」
胸元を抑えてダメージを負ったことを表現するオーナー。
そんなオーナーに対し、樫田はあることを口にした。
「これは提案だけどさ」
「うん?」
「紹介するからある調教師さんに預けてみない?」
「俺もそう思ってたところ。その調教師さんって?」
「美浦に厩舎を構えてる。けっこうなやり手かもしれない。今から電話しようか?」
「頼んます」
すると樫田はズボンからどこからともなく携帯を取り出し、早速連絡する。
しばらくし、連絡が終わったのか携帯をズボンにしまう。
「とりあえず、預かってもらえるように話をつけときましたぜ」
樫田はぐっと親指を上げる。『あとは任せた』と言わんばかりに。
「ところで、その美浦の調教師さんって?」
「ああ、確か名前は――、
「へぇー。で、なぜその人と知り合いなんだ?」
「『シガーを預けてもらえないか』って話をされて」
「なかなか見る目あるじゃん」
「でしょうでしょう? 一目で見破ってた様子だったから正直怖かったです」
よし、とオーナーは手を打つ。どうやら腹積もりは決まったようだ。
「後日、その松上さんって方とお会いする。一応人柄も見ておきたいし」
魔王は未だに目を覚まさず。
静かに闘志を内に宿すのみ。
目覚めのときはいったい、いつ訪れるのだろう。
それは誰にも、魔王でさえもわからない。
――データがアンロックされました。
――ライスシャワーの次走の騎手が蘆名正義に決定しました。
――スワーヴダンサーの復帰戦兼ラストランがジャパンカップに定まりました。
――シガーが松上良洋厩舎に預託される予定となりました。
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