「マサ、ライスシャワーの乗り心地はどうや?」
皐月賞前の最終的な調教のさなか、不意に吉長が正義に問いかける。
いきなり問いを投げられた張本人は、
「ええと……」
躊躇しながらも口を小さく動かす。が、声が喉に詰まったように出てこず、そのまま沈黙してしまう。
けれども答えねばまずい。喉から無理矢理声を捻り出す。
「気性面は乗った感じ、まったく問題ありません。スタミナがずば抜けて高いです。春の天皇賞の3200m、いや、海外の4000mも余裕だと思います。勝負根性もありますし」
「そうか。ってことはステイヤーだな」
「はい。持久戦や消耗戦、長距離ならどの馬にも負けません」
「……2000mでのスピード戦だとどうなると予想している?」
「スピードはあります。ただ、今回はかなりの不利を受けるかもしれません」
正義の口から発せられた予想。それに吉長も小さく頷く。
ライスシャワーという馬は、長距離が本懐である生粋のステイヤーだ。ゆえにもし皐月賞が長距離レースであったのなら。吉長は絶対的な安心と信頼を以て、ライスシャワーと正義を送り出せただろう。
だが現実では、皐月賞は2000mの中距離レースだ。ライスシャワーの適性内になんとか入っているかどうか。
いくら同距離の弥生賞を完勝していても、心に潜む不安だけは拭えなかった。
それから陣営にとって懸念すべき対象がもうひとつ。
「マサ」
「はい」
「ミホノブルボンという馬には徹底的について回れ」
「前年の朝日杯を圧勝した馬ですよね? 血統的には短距離向きらしいですが」
「だからこそだ。現役時代に俺が乗っていたミスターシービーの例なんかがまさにそうだぞ」
「なるほど、確かあの馬も……」
ミスターシービー、という馬名が吉長から出てくる。
三冠馬として日本競馬に名を轟かせた、かの馬も、血統的に鑑みれば短距離からマイル向きなのだ。けれども当時の吉長の手綱捌き、最後方からの破天荒すぎる大まくりで、三冠という覇業を成し遂げた。
「そういうことだ。スプリンター血統の馬からステイヤーが産まれてくることもあるし、逆もまた然り。今回ぶつかるミホノブルボンもそうかもしれねぇ。確信は持てんが」
「わかりました。徹底的に猛追します」
「おう、頼む」
『さあ、今年もいよいよ幕開けの時期となりました。若駒が激戦を繰り広げんとする牡馬のクラシック、その一冠目、GⅠ皐月賞。今年『最も速い三歳馬』の称号を掴むのはいったいどの馬か』
そのアナウンスに釣られるように、場内の熱気は上昇するばかり。
今まさに、クラシック一冠目の火蓋が切られようとしていた。
そんななか、吉長は関係者用の観戦席に着いていた。
しかし落ち着きがなさそうに踵を上げ下げして地面に叩きつけていたり、額に汗が滲んでいるのかハンカチを時折取り出して額を拭ったり。明らかに焦りが顔色に浮かんでいた。
そのせいか、他の関係者からはちょっと距離を置かれており、隣席には誰ひとり座っていなかった。
と、そんな状態にあることを自覚していない吉長の隣席にようやく人が着く。
「吉長先生、遂にですな」
隣席に座り、声をかけてきたのはライスシャワーのオーナーであった。
「ああ、オーナー。ライスシャワーの仕上がりはバッチリですとも。あとはマサとライスシャワーに委ねましょう」
「ありがとうございます、吉長先生」
オーナーは吉長に小さく一礼し、感謝の意を伝える。吉長もそれに応えるように、先とは打って変わって自信に満ち溢れた笑みを浮かべた。
「さて、今日の彼らはどういう競馬をしてくれるのでしょうか」
ははは、と快活に笑いながら、オーナーは期待するかのように零す。
そんな言葉に対し、吉長は腕を競馬場のほうに向けた。
「それは見てからのお楽しみですよ。ささ、そろそろゲート入りです」
『各馬、ゲートインが完了しました』
宣告が場内を巡る。そして、静寂がターフを支配する。
これより催されるは、馬と騎手が一心同体とならなければ勝てない熾烈なる競走。
それの勝者に輝けるはただ一頭とひとり。
クラシックの一冠目、皐月賞。一冠を手にし、続く三冠への挑戦権を得られるのもただ一頭。
その一冠を虎視眈々と狙う者たちは、その時を今か今かと待ち侘びていた。
そして――。
『今、スタートしましたッ! 一番人気三番ミホノブルボン、ポンと飛び出て逃げる態勢。二番人気十五番ライスシャワーは二番手でそれを追走する形』
軽快にターフを駆ける十八頭の競走馬たち。それの手綱を手繰る騎手たち。
このとき、この瞬間。誰もが人の思いを背負っているのだ。
『ハナを華麗に奪ったのはミホノブルボン! スプリングステークスのとき同様、ここも他馬を寄せつけず逃げ切りか!? 外からライスシャワーが被せてこようとしますが、ミホノブルボン鞍上の戸島定博、手綱を押して並ばせないッ! ミホノブルボン、この時点で独走態勢ッ!』
あまりにも逃げ馬として完成されている、究極的で制圧的な独走。
この刹那だけで、ライスシャワー鞍上の正義は悟ってしまった。
――この距離じゃあ、並びかけようとするだけでライスシャワーのペースが乱されるうえ、脚を溜める距離も時間もない!
敗北という二文字が、正義の脳裏に突きつけられた。
心臓の鼓動が速くなり、目の前が真っ暗になりそうになる。
だが正義にもプライドがある。そう、騎手としてのプライドが。
だからこそ、彼は突きつけられても敗北など認めない。騎手たる者がこの逆境を跳ね返さずしてなにが騎手か。
この敗北をどうやってぶち破ってやるか。それしか今の正義にはなかった。
――最終コーナーだ。最終コーナーを回った瞬間に加速させる。それしか、今の俺たちに道は残されていないッ!
『さあ最終コーナー! おっとライスシャワー鞍上の蘆名正義、鞭を打って急加速! そのままなんとミホノブルボンから先頭を奪い取りましたッ! 差は一馬身ッ!』
大歓声に沸く競馬場。誰もがライスシャワーの勝利を確信していた。
『な、なんということだッ! ミホノブルボンが差し返しに迫るッ! 残り100m! ライスシャワー粘る粘る! 残り僅かッ!
ミホノブルボンだッ! ミホノブルボンがアタマ差飛び出たッ! ミホノブルボン、差し切ってゴールインッ!
圧倒的なまでの勝ちっぷり! これが貫禄というものなのか! 無敗の皐月賞馬の誕生ですッ!』
周囲が唖然とするなか、正義は拳を握り、歯を食いしばっていた。
まさしく、あまりにも無情な無念の敗北であった。
――ミホノブルボンが無敗で皐月賞を制しました。
――ライスシャワーが皐月賞二着に入り込みました。次走は日本ダービーとなります。
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