――菊花賞。クラシック最後の冠であり、三歳馬の強靭さを推し量るレース。
菊で彩られたこの冠には、一冠目の皐月賞と二冠目の日本ダービー同様、とある格言がある。
――『最も強い馬が勝つ』。
皐月賞では『速さ』、日本ダービーでは『運』、そして菊花賞では『強さ』。どれも様々な意味が秘められている。
菊花賞というレースは、芝3000mの長丁場に対する対応が求められるレースだ。
精神力、持久力、適応力――あらゆる力による『強さ』が、必須事項である。
それらを併せ持つ馬こそ、菊の冠を戴くに相応しい。
今年度の菊の冠を手にするは、果たして、いったいどの馬か。
菊の女神は、どの馬に微笑むのか。
『最も強い三歳馬』を決定する競走が、今、幕を開ける。
『一番人気、三番ライスシャワー。今年のダービー馬です。前走セントライト記念ではかつて自身を差したアイルトンシンボリを千切って圧勝。この菊花の大舞台でも非常に調子がいいようです。鞍上は前走と同じく谷潤三郎』
黒毛の馬体がゆったりとパドックを闊歩する。吉長とオーナーは、遠目に馬体を眺めていた。
毛艶はよく、足取りも軽く、イレ込んでもおらず。吉長の思う絶好調の域にまで、ライスシャワーを鍛えることができていた。
間違いなく勝てる。吉長のみならず、陣営もライスシャワーの勝利を確信している。
厩務員に引かれるがまま、ライスシャワーは大人しく歩く。
その黒き馬体には、確かな力と光が宿っていた。
しかし吉長の表情は、かなり険しいものだった。
「遂に淀の長い坂を、ライスが超えられるか試される日が来たのですね」
と、唇を結って覚悟をしたような面持ちで、吉長の隣に立つオーナーが言う。
「そうです。ライスシャワーはステイヤーですから、距離自体は余裕で保つでしょうし、坂越えもライスシャワーには苦にならないと思います。ただ……」
「……ただ?」
「……相手関係が、ほんの少し気がかりです」
「それはもしかして、最内枠一番のキョウエイボーガンですか?」
「はい。正直、距離適性範囲内の天皇賞(秋)に出てくるものだと思っていたのですが……」
ううむ、と吉長が唸る。
キョウエイボーガン。以前、葉牡丹賞というレースでライスシャワーに敗北した馬だが、いつの間にか勝ち上がってきてなんとかGⅠ出走にこぎつけたようだ。
そのキョウエイボーガンをなぜ警戒するのか。その理由はキョウエイボーガンの能力というより、撹乱するかのような〝大逃げ〟にあった。
あの馬の大逃げは、自身までもを壊してしまうのではないかと心配するほど、ペース配分を無視し切ったものだ。
展開を乱しまくったあとはターボエンジンを逆噴射させているかの如く、後退していく。それが基本的なキョウエイボーガンの特徴である。
だが、その大逃げへの対処が今回のライスシャワーの勝因に繋がる。もちろん、敗因にも。
「ライスシャワーが勝てるかどうかは、谷とライスシャワーのペース配分と折り合いに懸かっているといっても過言ではありません。逆にいえば、その要素が揃ってくれれば勝てます」
「……鞍上の手綱捌きに懸かっている、ということですね?」
「はい。このレース、谷の手綱捌きに期待するしかありませんな」
「まあ、俺としてはライスシャワーが無事に完走してくれることが一番ですけどね」
互いに苦笑を浮かべる。それでも、馬の無事を願う思いは同じである。
彼らは、そういう意味では気が合うのかもしれない。
「おっ、いよいよ始まりますかね」
「谷もいま乗ってライスシャワーを駆けさせたので、もうそろそろです」
陣営はただただ祈る。ライスシャワーの勝利を、そして無事を。
谷潤三郎はライスシャワーに騎乗し、返し馬としてゲート前まで走らせた。
手応えはいままで乗ってきた中で、一番といっていいものだった。
脚部に異常はなく、足取りも安定している。これといった不安要素は皆無だ。
ゲート前にまで来たところで、係員に引かれ、ライスシャワーはすんなりとゲート入りを完了させる。
他馬もゲート入りを済ませていくのを潤三郎は横目に、ライスシャワーの手綱を握る。
潤三郎にとって初の長距離での騎乗。だが自然と不安は抱かなかった。むしろ自信が、胸の内から溢れていた。
勝てる。自問自答した末に出た言葉は、確固たる自信のみだった。
今日の菊の大輪は貰い受ける。そして、そのときは訪れた。
『――1992年度菊花賞。最も強い馬が勝つと謳われるクラシック最後の栄冠、間もなくスタートしますッ!』
実況の宣告が放たれた一秒か二秒後に、戦いの火蓋は切られた。
『スタートしましたッ! 各馬、ややバラけ気味の出だしとなりました! ハナを切ったのは予想どおり十八番人気、一番キョウエイボーガンッ! 初っ端から後続をぐんぐん突き放すッ!』
やはり大逃げ。キョウエイボーガンが採った作戦は、潤三郎や吉長、他の陣営も予測していたとおりであった。
しかしキョウエイボーガンはどこかで確実に後退していく。そこが仕掛けどころであり、この菊花賞最大の勝負どころだ。
『一番人気、三番ライスシャワー騎乗の谷潤三郎、ハイペースを嫌ってか今日は六番手の位置! それに虎視眈々と外から二番人気十番アイルトンシンボリが狙い澄ましております』
潤三郎は思わず眉を顰める。
ここでも必然といっていいか、アイルトンシンボリから徹底的にマークされていた。
アイルトンシンボリとは最後の坂で決着をつける。キョウエイボーガンが先頭でペースを乱している以上、不利であるが伸び脚勝負を選択せざるを得なかった。
一番の最悪な想定が、アイルトンシンボリより仕掛けがコンマ一秒でも遅れること。これだけはなんとしてでも避けたいところだった。
『1000mを通過! 超ハイペース! 超ハイペースとなりました! さらには馬群も縦長に広がっている! これは追い込み勢にも非常に辛い展開です!』
1000mを通過してもなお、未だにキョウエイボーガンは減速すらせず先頭に居座り続けている。
まだかまだかと、脚を研ぎ澄ます。
各馬、各鞍上が目を光らせる。まるで疲れ切った獲物を喰らわんとする肉食獣のように。
勝負どころは、もうすぐなのかもしれなかった。
ちょうど2000mを通過した頃。
決戦が、幕を開けた。
『ああっと! キョウエイボーガン後退! キョウエイボーガン後退! 一気に後方まで下がっていきましたッ!
ここでライスシャワーが六番手からすぐさままくってきた! やや遅れてアイルトンシンボリも仕掛ける!
残り800mで、ライスシャワーだ! ライスシャワーが先頭に立ちましたッ! アイルトンシンボリ猛追! アイルトンシンボリ猛追! だがライスシャワーも粘る粘るッ!
残り400m! 一騎打ちだ! 完全に二頭が抜きん出たッ! しかし変わらずライスシャワー先頭! アイルトンシンボリとの差は二馬身! これは決まったか⁉ これは決まったか⁉ いや、アイルトンシンボリが迫る! セントライト記念での雪辱を晴らさんとばかりに、追ってくるアイルトンシンボリッ! 抜かせない! 抜かせない! ライスシャワーも抜かせない! あと100m! ライスシャワーに鞭が入った! 谷潤三郎、勝負根性注入! ここは絶対に負けられない! アイルトンシンボリが半馬身差まで迫ったところで――ライスシャワーが先頭でゴールインッ!
ダービー馬だ! 漆黒のダービー馬が二冠を手にしましたッ! 菊の女神は、ダービー馬に微笑みましたッ!』
「やりました! やりましたよ、オーナー! 二冠達成ですよ!」
「ええ……ええ……! ライスが見事に栄冠を掴んでくれました……!」
「観客からのライスコールも凄かったです……このような馬を預けていただいて、もう、なんと言っていいのやら……」
「先頭で駆け抜けるライスシャワーの姿は、俺にからすれば〝ヒーロー〟のように輝いて見えました。ライスシャワーをここまで育て上げてくれたみなさまには、俺からもね、もうね、なんといえば……」
「いえいえ。こちらはあくまで調教をしただけです。と、喜ぶのは口取り式まで取っておきまして。ここでひとつ、提案があります」
「はい、なんでしょうか?」
「ジャパンカップにはスワーヴダンサーが出走しますので、ライスシャワーのほうは有馬記念にしませんか? ファン投票でも上位に来ると思いますし」
「わかりました。では、その手はずでお願いします、吉長先生」
「承りました」
『さあ、最終直線! 皐月賞馬ミホノブルボンが未だに先頭! 三冠馬トウカイテイオーは必死に追うも引き離されているッ! これはもう届かない! まさに究極的な逃げの形! 完璧なレーススタイル!
――皐月賞馬ミホノブルボン、圧勝ゴールインッ! 三冠馬など何するものぞ! 三歳馬ミホノブルボン、秋の天皇賞を三馬身差で制しましたッ!』
――ライスシャワーが菊花賞を勝利しました。次走はGⅠ有馬記念の予定です。
――ミホノブルボンが天皇賞(秋)でトウカイテイオーを二着に降しました。次走はジャパンカップです。
――トウカイテイオーの次走はジャパンカップです。
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