1993年、始動
「明けましておめでとうございます、吉長先生」
「こちらこそ、明けましておめでとうございます」
互いに頭を上げ下げしている宗太郎と吉長正之。
その異様な光景に、通りすがりの厩務員ですら訝しげな視線を向けてしまう。
馬主と調教師。そんな関係であるが、ふたりの友好関係は案外固い。
もちろん、有力馬を預けてもらっているという要因もあるだろう。それでも、宗太郎は正之にかなりの信頼を寄せているし、正之もそれに応えるようにいざとなれば見事な調教で馬を仕上げる。
正之はもともとから豪胆な人間だ。大きい賭けというのも嫌いではない、勝負人気質な者でもある。
スワーヴダンサーの鞍上決めと凱旋門賞出走。この賭けには流石の正之でも肝を冷やした。
しかし、やり甲斐もあった。こういう大仕事には強いのが、正之の長所だ。
はまれば強く、崩れればあっという間――そこに関しては、騎手時代からあまり変わっていない。
だが宗太郎という馬主がいるからこそ、正之は調教師にやり甲斐を見出だせている。
そういった意味では、正之は宗太郎に心底感謝の念を抱いている。
そんな宗太郎がわざわざ吉長厩舎に訪れてきた――恐らく、何かあるのだろうと正之は踏んでいた。
「早速ですが本題を。ライスシャワーの次走に関してです」
やはり、と正之は口角を上げる。
「そう来ましたか。どこに出ます? やっぱり芝3000mの阪神大賞典に行きます?」
「いえ、今回は特殊な海外遠征ローテーションを組もうかと」
「……ほほう? 詳しくお願いします」
「休み明け初戦はGⅡの芝3200mのレース、ドバイゴールドカップです。初海外遠征をお願いしたいのです」
「……なるほど、ステイヤーズミリオンですか」
「やはりお気づきになられましたか」
「ですがそれには、その後、英国に渡って芝4000mのGⅠゴールドカップ、芝3200mのGⅠグッドウッドカップ、最終戦の芝3300mのGⅡロンズデールカップを勝ち抜かねばなりません。かなり過酷な戦いになると思いますが……」
「もし途中でライスに何かあれば、すぐさま出走を取り止めていただいて構いません。むしろそうしてください。何かあった場合、どうしても後悔してしまうので」
「…………」
しばしの間、正之は顎に手を置いて考え込む。
そして、宗太郎に向き直る。
「わかりました。では、そのようにいきましょう」
「ありがとうございます!」
「ライスに何かあった場合、すぐさま遠征は取り止め。鞍上は谷潤三郎のまま。この内容でよろしいでしょうか?」
「はい、今の内容でお願いします。ステイヤーズミリオンを難なく制覇したあとのローテーションはまた話し合いましょう」
宗太郎は咳払いし、言葉を続ける。
「そうだそうだ。吉長先生に預託したい二歳牝馬がいまして」
「おおっ、それはいったい?」
「ヒシアマゾンという馬です。黒鹿毛でなかなかに瞬発力がありそうですよ」
「ぜひ預からせていただけませんかッ!?」
「どっ、どうどう! 掛かってますよ! 吉長先生!」
押し迫る正之に、気圧される宗太郎。
明らかに様子を一変させた正之だが、宗太郎には心当たりがあった。
黒鹿毛で瞬発力のある馬――この要素だけで、正之を興奮させるのには十分すぎるだろう。
三冠馬ミスターシービー。吉長正之という騎手の相棒にして、最大の後悔。
ミスターシービーは瞬発力を武器に三冠を勝ち取った名馬であるし、さらに毛色も黒鹿毛。
牡馬と牝馬という違いこそあれど、耳にするだけではシービーが再来すると思えてしまうのだろう。
そして、かつての無念も晴らせると思っているのかもしれない。
「お願いしますッ! お願いしますッ!」
「わっ、わかりましたッ! ですから預けますって!」
流石はシービーに脳をも撫で切られた男、シービーに関する執着心は一味違った。
宗太郎の言葉がようやく届いたのか、正之は安堵すると同時に慌てて頭を下げる。
「すいません、つい、熱くなってしまって……」
「いえいえ。それほどの情熱を抱くというのは、いいことですよ。驚きましたが」
「……本当にありがとうございます。入厩したら必ず立派に育て上げます」
正之の拳は、力強く握りしめられていた。
必ず、強くする――そう誓いながら。
「あっ、そうそう。そういえば」
宗太郎は思い出したかのように言葉を引き出す。
「今月、新しい一歳馬を欧州から買ったんですよ」
――ココットの92を購入しました。
――ヒシアマゾンが吉長正之厩舎に入厩予定となりました。
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