星々が瞬く、真夜中。
3月のこの日、サウジにあるキングアブドゥルアジーズ競馬場では、盛大なレースが開催されようとしていた。
――サウジカップデー。莫大な賞金額を誇るドリームレース、ダート1800メートルのサウジカップを主体に、数々の国際重賞競走が行われる。
夜空の下、照明に燦々と照らされたキングアブドゥルアジーズ競馬場は、独特な緊張に包まれていた。
開催される国際重賞は、どれもこれも賞金額が高い。そのため、欧州勢も米国勢も挙って参加したがる。
世界中のホースマンが夢見る一獲千金。誰もがそれに手を伸ばし、掴むか、あるいは届かないか。
あるひとりの騎手が、夜空を僅かに照らす星に手を伸ばす。
しかし握れど握れど空振るばかり。だって、星は決して、掴めるものではないのだから。
「サウジカップデー、か」
握り拳を見つめ、やや残念そうに微笑む騎手は柴義富。
馬主の黃添宗太郎、調教師の松上良洋からの騎乗依頼によって、今この場に立っている。
「星は確かに掴めないよな。それもそうか」
夜空を眺めているうちに、なぜだか星を触ってみたくなった。そんな動機から、義富は虚空に向かって手を伸ばし続けていた。
掴めない、取れない、触れられない。わかっているはず。だが、どうしても触れてみたくなった。ただそれだけだ。
けれども、どういうわけか確信があった。
――
その言葉が、自然と口から零れたのは。
「空に瞬く恒星、か……」
義富が騎乗する時はしばらくして訪れた。
GⅢサウジダービー。ダート1600メートル。
今回それに出走する、三歳馬となったシガーに騎乗している。
ゲート入りは既に済ませている、あとはスタートのタイミングを合わせるだけ。
シガーにとっては三歳初戦。義富は改めて深呼吸する。
――刹那、ゲートが開かれる。
『スタートしました、GⅢサウジダービー! 出走している日本馬はただ一頭、三番人気七番シガーのみ! 鞍上柴義富、今日はどんな手綱捌きを見せるか』
前方には四頭、残りの九頭はシガーより後方。今回のレースでも、義富は安定した先行策を採った。
手綱を握る力が一段と強まる。
シガーからすれば初めての海外遠征。しかしシガーには急な環境の変化に動じる様子はなかった。
むしろ、手綱越しに楽しいという感情が伝わってくるぐらいだ。どうやら杞憂だったようだ。義富は内心で息を吐く。
けれども、本番はここから。
残り1200メートル辺り。マイルレースであったが、ペースは遅いように見受けた。
義富は手綱をほんの少しばかり押す。それを受けたシガーが上がっていく。
二番手まで上がってきたところ、そこでシガーの手綱を引く。
先頭の逃げ馬をマークし、直線で一気に交わす――そう、急遽作戦を変更したのだ。
シガーはとてつもない力を秘めた馬だ。余程の不利を受けない限り、このレースでは負けることがないだろう。
それを信じての、最終直線。
サウジダービー。ドリームレースのひとつが、いよいよフィナーレへと向かう。
『最終直線! 最終直線に入りましたッ! 先頭は逃げ馬を交わしてシガー! 日本のシガーが先頭だッ! これは王道の横綱相撲! 他馬を寄せつけない! 他馬を寄せつけていないッ! 無敗のシガーだッ! もはや勝負決した!
シガー先頭で、今ゴールインッ! シガーが一着! シガーが一着! 鞍上柴義富、これはやった! 日本調教馬の底力を見せつけ、三馬身差でサウジダービーを制したッ!』
勝利のガッツポーズでもしてやろうと、義富が左腕から手綱を離した瞬間――
ピシリ、と不吉な音が義富の耳に響いた。
勝利の喜びから一転、義富の表情がだんだんと青く染まっていく。
シガーを見やると――何事もなかったかのように、歩いていた。
一方で、義富の心境は穏やかなものではなかった。
「シガーは!? シガーは大丈夫なんですか!?」
サウジダービーを終えての競馬場内。
明らかに震えた声音が響く。義富から異変を聞きつけた馬主である黃添宗太郎が、シガーとその調教師の松上良洋のもとに駆け寄る。
良洋は顎を手で擦りつつ、シガーの脚を一瞥する。
「……黃添さん」
「……はい」
宗太郎は息を呑む。
最悪の事態だけは避けてくれ。宗太郎の内心はその言葉でいっぱいだった。
「……次走は、アメリカのケンタッキーダービーを目指しましょう」
「……え?」
「幸いですが、シガーの脚には異常が見られません。一応ですが、次走はケンタッキーダービーにしつつ、帰国し、様子見をしていくのが得策かと……」
「ですが、シガーに何かあってしまったら……」
「……その時は、転厩なりなんなりしていただいて構いません。ですから、まずは5月のアメリカで行われるケンタッキーダービーを大目標にしましょう」
「…………」
後日、日本に帰国してから。
シガーがレースを勝ったというのに、宗太郎の表情は暗いままだった。
荒んだ心を癒やすため、宗太郎はヒシアマゾンなどを繋養している牧場に足を運んでいた。
風が心地よい。だが今の宗太郎には、どうでもよかった。
ある牝馬がいる柵の前で、足を止める。
「後日はドバイ遠征だがどうにも足が重いんだ。どうすればいいんだろうなぁ。よかったら教えてくれないか?
――コロラドダンサー」
――コロラドダンサー(繁殖牝馬)を購入しました。
――シガーのバッドステータスが判明しました。『小さな綻び』
――シガーの次走はケンタッキーダービーとなります。
『小さな綻び』……脚を痛めかけている状態。出走させ続ければ骨折に繋がる危険性も。
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