The great Great GREAT Doctor is Me ! 作:東京<アズマ キョウ>
ドクターinロドスよりもこっちのほうがスムーズに書けたのはダディのせいですきっと(責任転嫁)
◆グロさんの声がナチュラルに中井さんボイスで再現されるのは作者だけ?
それしかできなかった、それ以上しなかった
そのツケの取り立てが、今頃この手に届いてくる
1097年3月、薄曇り。
◆イェラグ◆
アークトス=ペイルロッシュはイェラグのペイルロッシュ家当主である。
霊峰カランドとイェラグに住まう人々を守る
『アークトス』とは、カランドに棲む猛大獣を指す古イェラグ語であり、時を遡れば北方の大国ウルサス帝国の冠である『ウルサス』と語源を同じにするという。
『ペイルロッシュ』とは、風雪を叩きつけられ青く凍り付いてもなお砕けずに佇む大岩のことを指しており、ペイルロッシュ家がイェラグを支える岩盤として歴史を刻んでいることを表している。
アークトス=ペイルロッシュという男は正にその名の体現者としての在り方を
カランドとイェラグのことを第一に思い、霊峰に在らせられるイェラガンドに祈りを捧げ、あらゆる外敵から母なる山脈を守ることを
「……なぁ、アークトス様はどうしちまったんだ?侍女長さんから荷物を受け取ってからずっと部屋に籠っちまってよ」
彼らの首領によって自宅待機を命じられて帰路に就く途中、ペイルロッシュ家の郎党の一人が彼らの直属の兄貴であるグロに恐る恐る尋ねてみるが、尋ねられたグロのほうも頭を横に振って返す。
「俺だって知らねぇよ。だがよ、あれを見た途端に旦那が俺達全員を館から出して帰らせるってんだ。よっぽど重要なもんに違いねぇ」
「まさか、巫女様から直々に何かお恵み下さったとかじゃ?」
「馬鹿野郎!!」
「じゃわばっ?!」
残雪残る道すがら、郎党の中でも新入りの男が思いついたことをいきなり言い出したため、グロは慌ててその男を拳で黙らせた。
イェラグの民全てが敬愛するカランドの巫女の名を理由もなく持ち出すことは、巫女の権威を笠に着た行為とみなされ軽蔑される行いだからだ。
無論、日々の恵みへの感謝や何かの約束事に対して巫女の名を出すといった道徳的なものは不問だが、今回の場合は巫女がアークトスを贔屓にしているという政治的主張につながりかねないのだ。
他家が聞けば皮肉の一つでも飛んでいたか、政治問題化するなら黙して見逃した後に然るべき場所で『巫女の権威の私物化』として非難することだろう。
「適当なこと抜かしてんじゃねぇ、巫女様のことをそう軽々と持ち出すな!」
「すまねぇ、グロの兄貴!」「てめぇはもう黙ってろ!」「お前、もうちょっと落ち着いて物を言えよな」「今度適当なことを抜かしたらグロの兄貴より先に俺がぶっ飛ばしてやるからな!」
新入りが他の郎党にもみくちゃにされる横で、グロはため息をついてから一つ呟いた。
「旦那には何か考えがあるんだ。俺達郎党は『旦那がそれを決めるまで』を待つのも役目なんだよ」
◆ペイルロッシュ・当主の館・アークトスの私室◆
部屋の中にあるのは、時計の振り子が揺れる音と暖炉の薪が燃えて割れる音、そして一人の男。
郎党を部屋のみならず館からも全て退けて帰らせたアークトスは、ただ一人になった館の私室にて腕を組んで沈黙していた。
その様子を見る者がもしも居れば、普段の彼を知る者にとって今のアークトスはまるで違う姿だと思うことだろう。
猛る大獣が豪脚で立ち上がるかのように勇壮な体躯は鳴りを潜め、頭は項垂れ両肩は縮み足は忙しなく竦んでいる。
何が彼を脅かしているのか、いや、誰かが彼の命を彼を狙っているわけではない。
彼の目の前にあるのはただの小箱。
ペイルロッシュ領で
いや、彼にとってそれは『ただの』では決して片づけることができないものだ。
彼が敬する巫女に使える侍女長ヤエルが、直接彼に手渡してきたもの。
アークトスは、一度開封したものの思わず閉じてしまった小箱を再び、恐る恐る開く。
中に入っているものが異常ということはなく、そこには書類とオレンジ色をした卵型の装置が入っている。
アークトスは書類のほうを手に取る。
それに書かれた内容は、ある人物に掛かった費用に関する請求書だ。
普段の彼なら、そのようなものは配下の頭脳担当に任せるか、或いはいきなり送りつけてきたことに無礼千万と憤りを見せていただろう。
しかし、箱の差出人として書かれていた人名、そして差出人の筆跡は彼にとって無視できるものではなかった。
『タチアナ・エフゲニエヴナ・ラリーナ』
彼がペイルロッシュたらんとして切り捨てた、彼の
目を伏せた内容を、もう一度読み通す。
機械的に打たれた文字は、その静的さに反してタチアナの置かれている環境の激しさを記していた。
イェラグ追放後は旧チェルノボーグ、現エッグマンボーグに居住している事。
離別した時はまだ幼かった娘のロザリンが、チェルノボーグ暴動に巻き込まれて救助された事。
タチアナが【鉱石病】に罹患した事。
ロザリンが自身の救助に要した費用とタチアナの治療費のために学業の傍ら働いている事。
イェラグに居たアークトスの知る由もなかった事が書かれている。
書類を机に置き、喉からこみあげてくるものを抑えて深くため息を吐く。
確かにアークトスはイェラグとペイルロッシュ家を優先して妻と娘を追放したが、それは決して虚栄心や悪心あっての故ではなかった。
不遜なるエンシオディス、その親である先代シルバーアッシュ夫婦が鉄道事故で亡くなったことで、当時の彼を取り巻く情勢が外国人であるタチアナの立場を脅かしていた。
周囲が彼女に牙を剝く前に、彼女をイェラグから追放することで生かそうとしたのだ。
しかし同時に、己が望んでタチアナを愛してイェラグに招いたにも関わらず、タチアナが望まぬ追放を成したのも己であることをアークトスは忘れていない。
彼はイェラグの地でタチアナの心が傷つくことを、体が山麓に横たわる凍土のようになることを望まなかった。
だからといって、異邦の地で娘と共に辛苦に塗れ、怒れる者達の暴力に晒され、剰え感染者になることを望みはしなかった。
アークトスは右手で顔を覆い、左手を机に伸ばす。
その先にあるのはこの館にある中でも最も度数の高い酒だ。
普段の彼はこれを気付け、覚醒用に嗜んでいた。
「……っ!」
酒に伸びる腕を下ろし、手を膝につき、口から言葉にならない音を漏らす。
タチアナの足跡は、彼にとって素面では耐え難い衝撃の事実だった。
だが、酒で目を曇らせれば全ての
アークトスはもう一度書類を手に取った。
タチアナ達の現状が述べられた後、本題の請求内容が記されている。
あれから大きくなったであろう娘のロザリンに掛かったこれまでの諸費用と、ロザリン救出に掛かった費用と、ロザリンのこれから掛かる養育費。
それらを一括又は分割での支払を希望すること、金額に不服ないし支払い方法に関して異議がある場合は交渉に応じる旨の請求が記されている。
タチアナに関する請求は記されていなかった。
「っはーっ……」
さもありなん、タチアナという女はそういう女だったとアークトスは思い返す。
彼女は気高く、逞しく、思慮深く、もしも天秤に取るなら自分より娘のことを優先するだろうということをアークトスは判っている。
故にこの請求書は本当に娘のロザリンの為の物なのだろう。
或いは、自身は
「タチアナ、俺は、俺は……」
アークトスは肘を膝に置いて深く項垂れる。
しんとした空気が館の全てを呑み込んでいる。
普段なら館に吹きすさぶ風が今日に限って弱いのは、慈悲なるカランドが今だけは彼のために静かにしてくれているのか、それとも雑音を排して自身の過ちを振り返る
胃袋に鉛を詰め込んだかのような心持ちになりながら、今度はオレンジ色をした卵型の装置のほうを見る。
装置には別に説明書のようなものが備えられており、装置の使い方についての説明が並んでいる。
用途、テレビ会話。
接続先、タチアナ・エフゲニエヴナ・ラリーナ宛。
アークトスは図らずも、遥か遠方にいるかつての妻との接触手段を得てしまった。
卵を手にすると、見た目に反してずっしりとした造りらしく、仮にアークトスが握りつぶそうとしても、力任せに壁に叩きつけてもビクともしないだろう。
無論そのようなことはするはずもないが。
全く、配下や郎党を全員追い出しておいて良かったとアークトスは思った。
こんな様を、ペイルロッシュ家当主がかつての過ちに怯えて震えている様を決して彼らに見せる訳にはいかなかったからだ。
同時に、こんなことを誰にも相談できる訳がなく、こうして独り悩み悶えているわけだが。
彼の精神が、峡谷に満ちる霧のように曇っていく。
からんからんからん。
誰も来るなと命じたはずの館に、ノックベルの甲高い音が入ってきた。
招かれざる音によって、アークトスの精神が一旦この場に戻ってくる。
彼は、霧を払うかのように頭を振って思考する。
さて、来客にどう接するか。
居留守を使うか。
いや、アークトスならば、ブラウンテイルやシルバーアッシュではなくペイルロッシュならば間の悪い来客には正面から応じてとっととお帰り頂くほうが
そう考えた彼は、一旦小箱に書類と装置を戻す。
棚に飾ってある、初代ペイルロッシュがイェラグの人々を襲う獰猛な樹角脚獣を討伐した際に当時の巫女より賜ったとされる勲章と、当主に就く前から彼の愛用している戦斧を身に着けて、玄関の方に向かい扉を開く。
「誰だ?ここをペイルロッシュ家の館だと知ってのことか?」
イェラグの民ならまずペイルロッシュ家に不用意に訪問などせず、またペイルロッシュ家の関係者ならばまずノックベルの後に己が名を名乗る。
となれば、この未知の訪問者はいずれでもない余所者か、或いは他家の礼儀知らずな新入りかのどちらかだろうと考えたアークトスは、威圧感を全身に帯びて訪問者を睨みつけようとする。
「アークトス様、突然の訪問をお許しください」
しかし、扉の前に居たのは第三の人物。
カランドの巫女に仕える侍女長。
カランド山脈に棲む尾獣から採った柔毛を肩に飾り、『イェラガンドの瞳の色を映した』とされるカランド山から採れたターコイズを胸元に提げるヤエルだった。
「これは……巫女に仕えし侍女長が何故此処に?」
アークトスは予想外の人物が来訪してきた事に驚いて思わず礼を取る。
彼程の格であれば侍女長にそこまで畏まる必要はない。
しかし、あの小箱を届けてくれたのが彼女であったせいかどうも普段のような態度を取りづらく、また長くカランドの巫女に仕える彼女に横柄な姿勢見せるのは無性に憚られた。
「(当代の巫女がカランドの巫女就任儀式を成し遂げて以来ずっと侍女長は巫女を支えている……そういえば、この侍女長は先代の頃からも侍女長を務めていたか?いや、今はどうでもいいな)」
ふと湧いた疑問を思考の外に蹴りだしてから、アークトスはヤエルに向き直って尋ねる。
「このアークトスに何用か?ああ、そういえば先の配達の件は感謝する。悪いが今は立て込んでいるのでな、客人をもてなすことは出来ないのだが」
「私も前触れもなくアークトス様をお伺いしております故、その無礼をお許し下さい。実は先の荷物の件でアークトス様にお渡しするものが一つございます」
「何?アレの他にも俺宛に何か送られていたというのか?」
「いえ、そうではなく。アークトス様にとって必要なものであろうと思い、取り急ぎ調べました。どうぞこちらをお受け取り下さい」
そう言って、ヤエルは一枚の紙をアークトスに差し出す。
「……これを、何故?」
紙を受け取り、それに目を通したアークトスは思わずヤエルに問い掛ける。
それは、イェラグとウルサス北方との間に横たわる時差が記されたものだった。
ヤエルにはこれを調べる理由がない。
彼女がアークトスに渡した小箱は厳重に密閉されており、彼女が小箱の中身を確認した痕跡は一切ない。
タチアナがウルサス地方に居る事すら知らない彼女がそれを調べる切欠すらないはずなのだ。
アークトスの疑問に対してヤエルは答える。
「もしもアークトス様が連絡をお取りになられるのであれば、相手もまた連絡を取れる時間帯にしなければなりません。荷物をお届けしたのが私でしたので、アークトス様が相手の就寝している時間に連絡をかけてしまわないよう不躾ながら調べさせて頂きました」
「いや、まぁ、確かに遠方の人物に連絡を取るなら時差は大事だ、いや、俺はそのことを聞きたい訳じゃなく、う……」
ヤエルのズレた
「では、私はこれで失礼します。お手間を取らせてしまい申し訳ございませんました」
そう言って、ヤエルはアペイルロッシュの館を辞そうとする。
「……すまないが、少し待ってくれ。わざわざ俺を慮って知らせに来てくれたのだ。茶の一杯は出さねば無作法というもの。来客用の部屋に案内しよう」
それをアークトスは思わず引き留める。
ずっと独りで悩んでいたせいか、今はただ茶を供する時間程度であっても誰かが此処に居てほしかったのだ。
それも、彼を慕う配下でもなく、油断も隙もないシルバーアッシュやブラウンテイルでもない誰かに。
そんな時にペイルロッシュを訪ねてきたヤエルという存在は、今の彼にとってカランドの導きのようにも感じていた。
「あら、では、ご相伴にあずかりましょうか」
アークトスの提案に、ヤエルは朗らかに笑う。
その笑みに、タチアナのような快晴の如き心地良さを覚える笑みとは違う、雪嵐の最中に差し込む日の光のような安心感を覚えたのはそれだけ心が参っているからだろうかとアークトスは考えてしまった。
◆◆◆
◆ペイルロッシュ・当主の館・来賓室◆
「男手の茶で失礼する。生憎今は館に誰もいないのだ。茶請けの場所も判らんのでな、茶だけになるが許せ」
「いえいえ、ありがとうございます」
アークトスは来賓室にある暖炉の火で湯を沸かし、ざっくばらんに茶葉を淹れて茶を点てる。
茶葉の細やかな分量など考えなくとも、彼は大凡の感覚で十分な量が判る。
そのことに、かつてタチアナに振る舞った時の分量を未だに手が覚えていることに、アークトスはヤエルの見えない所で顔をしかめた。
「頂きます」
「……侍女長なれば、巫女様に茶を点てる事など手慣れたことのはず。それと比べれば俺のそれは非常に雑な淹れ方だろう」
ヤエルが茶に口をつける傍らで、アークトスは彼らしからぬ自嘲を漏らした。
勇猛果敢なペイルロッシュであればそのような振る舞いは家の格を
だが今の館にはアークトスとヤエルしかいないせいか、或いはタチアナへの悔恨のせいか、彼の口からそのような言葉が出る程に彼は弱気になっていた。
しかしヤエルは、雪の如く白い頬にふんわりとした笑みを浮かべて顔を横に振った。
「お気になさらず。香りも素晴らしく、とても美味しいお茶です。それにとても手慣れている様子ですが、それでいて普段はそうしないということでしたら、アークトス様のお茶はきっと誰かの為のお茶なのでしょうね」
『誰か』。
アークトスは心が締め付けられたような気がした。
「そうか?俺としては酒のほうが詳しいし、飲み方や旨いツマミの組み合わせのほうが得意なんだが」
『俺は誰かの為に茶を点てるのではなく、己の為に酒を呑む男だ』
彼の腹の底に淀む黒く翳ったものが、締め付けられた心の隙間から叫んでいる。
アークトスのその
「アークトス様の酒豪振りは曼珠院でも聞き及んでいます。そういえば、初代ペイルロッシュ様はかつて山雪鬼の一つ、人々を酔わせて誘き出す『ヴィノデュラ』相手に飲み比べを挑んで見事勝ちました。酒の強さはアークトス様にもその血が流れているからかもしれませんね」
「ペイルロッシュの偉業が語られているとは、はは、光栄の限りだ。偉大なる父祖は、山雪鬼に振る舞う勇猛さとイェラグの民に振る舞う慈悲でカランドとイェラグを守ったと伝わっている」
「……俺では、到底及ばぬお方だ」
ぎしりと、斑模様の草獣革を張った椅子に深くもたれかかる。
締め付けの奧から、アークトスを蔑む声が漏れだす。
初代ペイルロッシュと比べて、お前は目に見えぬ敵に怯み、守る建前で家族を危地に追いやった臆病者ではないかと。
ペイルロッシュも氷雪の下からお前を嘆いているだろうと、勲章が心臓を縛り付けているような錯覚を得る。
「(やはり、その一杯を飲み終えたら早々にお引き取り願うか)」
くすくすくす。
アークトスがこの場をさっさと切り上げようかと考えた時、唐突にヤエルが笑い出した。
アークトス相手に笑い出すなど、巫女に使える侍女長であろうと咎められる振る舞いのはずである。
しかし彼にとって、その笑いにはどこか落ち込む子供に微笑む母か祖母のようなぬくもりがあった。
「ある日初代ペイルロッシュ様は、イェラグの商人が山獣に襲われているのを助けた礼として地酒を献上された事がありました。彼がそれを一人で飲み干して深酔いしてしまった時に、その様子を見て心配する彼の妻をあわや山雪鬼と見間違えたのです。当然妻を激怒させてしまい、酔いが醒めた後は誠心誠意謝ったものの、結局は頬に大きな『禊』を受けて許しを得ました。何時でも人は完璧な存在という訳ではなく、また夫という存在は妻に頭が上がらないものです」
「お、おぅ……そんな話は初耳だ。まさか、曼珠院にはそのような逸話が記録されているのか?」
「ええ。私、その様子を直に見て……ごほん、失礼、妻の怒りを仲裁した当時の侍女長がその時の様子を書き記した日記を読んだことがありまして。読んでいる私もまるで直に見ているかのよう思える程詳細に記されていました」
「……流石は曼珠院、それほど過去の記録も残っているのか」
アークトスですら聞いたことのない初代ペイルロッシュの逸話。
遥か昔に侍女長が書いたという日記が現存するというのならば、そういうものもあるかもしれないとアークトスはひとまず納得した。
偉大なる父祖、初代ペイルロッシュの
それを語る張本人が、それは穏やかに話したものだから。
有りし日の、とある夫婦の過ごした一幕を、愛おしそうに話したものだから。
アークトスにはそれがひどく羨ましく思えた。
「音に聞こえしペイルロッシュの印象とはまた違うな」
「それはそういうものです。山にある磐の全てが堅く尖っているわけではなく、物によっては丸く磨がれていたり、薄く割れていたりするようなもの。それに山の磐のような威厳ある逞しい男が、粗相して妻の一撃を甘んじて受ける……なんて夫婦の秘密は他所に大きな声で話せるものでもありませんしね」
「……ならば、侍女長。問うが、カランドの岩が岩たる形でないことをどう思う?」
「そうですね……」
アークトスの抽象的な問いに、ヤエルは少し間を置いた後に答える。
「磐が磐らしくなかろうと、それが自然の姿であるならそれは人の心の思うままでいいと思います。ですが、磐の丸い所や脆い所を否定し疎み砕いてしまったならば、いつか磐は形も残らなくなるでしょうね」
「うむ、まぁ、そうか……」
アークトス、ペイルロッシュ……どちら共の名の負う責任に対し『らしくない』今の彼は果たして磐か否か。
それとも、今の彼は未だ妻と娘を追い出したかつての血も涙もない所業を成した男と同じか。
黙り込んだアークトスを前に、ヤエルは二口目の茶を飲んだ。
「一つ、よろしいですか?」
「ああ、なんだ?」
徐ろにヤエルがアークトスに尋ねる。
「ここには
「……」
「その方が何を思っているか。例えば、過去に何か失敗したことがあって、そのことを悔やんでいる場合」
アークトスは黙ったままヤエルの話を聞く。
アークトスの過去の事情を昔の侍女長から聞いたのかもしれない、或いは彼の異常を察知して原因を推測したのかもしれないが、それは些末なことだった。
ヤエルは彼のことを何も指してはいない、ただ『誰か』を挙げて話している。
「できる事はあるでしょう。例えば、やり直す。謝る。無視する。再考して、自身に非がないと決める。過去の失敗の中身はともかく、その男性なら何をできるでしょうか?したいでしょうか?」
「何を、したいか」
男は復唱する。
悔恨に締め付けられていた心と精神が、冬の晴れた夜のような静寂を纏う。
誰もいないかのように、目の前にいるはずの侍女長の気配が希薄に思える。
頑丈な石造の館に居るはずの体が、周りに何一つ物がないカランドの頂に居るような気がしてくる。
カランドの前ではイェラグの民は全て赤子に過ぎず、そこに家名も個人名も存在しない。
男の口がぎこちなく開く。
「……謝りたい。償いたい。例え拒まれても、彼女のために何かをしたい。ああ、自己満足だ。何もできないというのは苦しい。俺は間違えた。何もできない苦しみから逃れるために、何かしてやりたい彼女を外に追い出した。そうして、彼女に苦しみの原因を擦り付けた。それも自己満足だった。俺は自己満足で救われたいだけな男だ。酷く自分勝手だ。だが、それでも、俺は彼女に何かしたい。何もしないことだけはしたくない」
感情の吐露が、男の言葉をばらばらに切り離して口から洩れる。
締め付けた心の隙間から、男の本音が形を整えないまま無様に吐き出されていた。
かちゃり。
音が生まれ、アークトスははっと顔を上げる。
カランドの頂から己の館に戻ってきたような感覚。
当然彼の体は館の来賓室から一歩も動いていないのだが、彼の頭は山頂の澄んだ空気を吸った時のような清涼感で満たされていた。
顔を向ける先には、茶を飲み終えてカップを置いたヤエル。
彼女は微笑んでいた。
アークトスはそれが、まるで隠していた悪事を自ら認めて告白したことを我が子の成長だと喜ぶ母のような顔だと思ってしまった。
「では、謝りに行きましょう」
「は、ハァ?!」
その口から出てきたものは、彼にとって全く予想外のものだった。
アークトスの口から情けない声が出るのを気にすることなく、ヤエルは指を折り数えながら提案する。
「言葉だけでは物足りませんから、お土産やお詫びの品をめいっぱい抱えて頭を下げに行きましょう。腐らないものがいいでしょうね。崖山獣革とか、夏花蜜とか、巣籠チーズとか。初代ペイルロッシュ様も妻に謝る時は山獣の幼毛皮を使ったコートや羽獣の抱卵毛を詰めた枕などをかき集めていました。その時は先だって助けた商人の尽力があったそうですから、こういうのを持ちつ持たれつと言うのでしょうね」
「いや、待て侍女長!事はそう簡単なものではない!」
「そうでしょうか?もしもアークトス様がご友人や部下の方から先のような話を聞いたらどうなさいますか?きっと、こほん、『何をウジウジしている、それでもペイルロッシュの男か!そんなことで悩んでいる暇があったらとっとと動け!』と仰るかと思いますが」
「う、ぐ、ぐぐ……」
ヤエルの似ていないアークトスの物真似に、彼は返す言葉もなかった。
どこか達成感のある顔で鼻をふすーっと鳴らしたヤエルは、自身の胸に手を当てて続ける。
「アークトス様は既に答えを出しておられます。何をすべきかを。でも自信がない、それがペイルロッシュとして正しいものなのか、そして自分が果たしてペイルロッシュとして正しく振舞えているのかが心に
「……ああ、そうだ。そうだった。俺は、ペイルロッシュ家の体裁を言い訳に悩んでいた」
「ですが初代ペイルロッシュ様も失敗したときは正直に謝りましたし、妻へのご機嫌取りもしたのです。既に先達がいて、それが成功例であれば何を責められるというのでしょうか?」
「せ、成功例……?」
「だってそうでしょう?もしも初代ペイルロッシュ様があの時仲直りに失敗なさっていたら、今頃アークトス様はここには居られませんもの」
「あ、あぁ、うーむ……」
曼殊院に伝わってしまったという初代ペイルロッシュの逸話を前に出されては、アークトスには何も返せない。
ヤエルは白く細い指を立てて語る。
「アークトス様も、ただ楽になりたくて、許してほしくて謝ろうとは思っていませんでしょう?たとえ拒絶されても、恨まれ憎まれたとしても、タチアナ様に何かをしたいと思ってのことでしょう?」
「……何もかもお見通しか。曼殊院の侍女長は随分と目がいいらしいな」
「アークトス様のご心痛についてはお察しします。当時は……当時の侍女長もアークトス様とタチアナ様のことで心を痛めましたので。あの時は、そう、『間が悪かった』のです」
ヤエルが部屋の窓から外を見るのにつられて、アークトスも同じく外を見る。
今の館の外は凪いでいるが、当時のペイルロッシュ家はシルバーアッシュ夫妻のことも相まって暴風雪の如き荒れ具合であった。
彼の父やその部下からの猜疑の念には、カランドを流れる山水が凍るかのような冷酷さがあった。
それこそ、アークトスがタチアナのことを庇えば彼女をペイルロッシュを誑かす山雪鬼と断じて排除してしまいかねない程に。
将来の禍根を潰すためにまだ善悪すら知らない子供を手にかけかねない程に。
追放命令を受けてイェラグを出ていくタチアナの背を、アークトスが追いかける事は決して許されなかった程に。
「ですが、今は違います。今のアークトス様には、タチアナ様に通じている道があります。アークトス様の周りにタチアナ様を悪し様に言う方はいません。アークトス様のなさることを拒否して離れるような方はいません。あの時の嵐は過ぎて久しいのです」
「……そうだな。あいつらは、まっすぐな連中だ。単純で考えのない奴は多いが、氷原の泥炭のように濁った奴は俺の郎党には居ない」
「でしたら、あとは踏み出すだけです。踏み出して、謝って、タチアナ様に殴られるか蹴られるかすればアークトス様もすっきりするはずです」
「待て、殴る蹴るは確定だと言いたいのか?」
「なさらないのですか、タチアナ様は?」
「……いや、違いない。あいつは苦難や外敵に遭って蹲る女じゃない。越えるために指をかけてよじ登る、邪魔があれば蹴り飛ばして先に進むような女だ」
「そういえば、タチアナ様はかつては探検家をなさっていたとか」
「ああ、その活発さと快活さが、俺には心地よかった」
アークトスは目を瞑る。
彼と共に領内の視察に赴いた際、タチアナがストック片手にペイルロッシュ領の山野を巡る姿は今でも瞼の裏に浮かぶ位だ。
故にイェラグを追放される時、イェラグから、ペイルロッシュから、アークトスから見捨てられたと理解した時の目が、今もタチアナに宿っているかもしれないことがどうしようもなく恐ろしい。
だが、だとしても、タチアナの目も見ずに何もしないなど彼には出来ようがなかった。
「判った。必要なものや手続きについては俺が確認する」
アークトスの決意を聞き、ヤエルは両手を胸の前で合わせ心の底から嬉しそうにほほ笑む。
「決まりですね、後は打ち合わせあるのみです。あ、でもお気を付けください。タチアナ様に会うのは必ず先に連絡を取って、タチアナ様が『いい』と言ってからです。タチアナ様に内緒で伺って、というのは厳禁です。タチアナ様は此方の都合で振り回されましたので、次の機会は逆にタチアナ様の都合に合わせるべきです。万が一、願っても縋ってもできる事をやりつくしてもなお断られたら、後はもうタチアナ様の要望に従うようにしてください。それが『ケリ』の付け方というものでしょう」
「そう、だな。その通りだ。金言感謝する、侍女長」
「お気になさらず。巫女様ももしも『とある誰かの悩み』をお聞きになれば、同じくその方の背を押してくださったはずです」
「そうか……そうか」
アークトスは腹に落ちたと頷いた。
◆◆◆
◆ペイルロッシュ・当主の館・玄関◆
「ごちそうさまでした、アークトス様。アークトス様のお茶で体が温まりました」
「それは何よりだ。あれには僅かに薬草を混ぜていてな、体の内側から活力を出して芯から温まるようにしているのだ。侍女長の口に合ったようでうれしい限りだ」
「それではお暇させていただきます。アークトス様にカランドの加護があらんことを」
お辞儀をして館を辞去するヤエルの背を、アークトスは玄関から見送った。
心を締め付ける何かは、まだ残っている。
だが、ヤエルが来る前とはうってかわって、アークトスの心には決意が熱を帯びて燃えている。
決して先ほどまでの冷え切って凍り付いたようなものではなかった。
「まずはヴァレスを呼び戻そう。法律だのなんだのは奴に任せるのが一番だ。そして見舞いの品は……グロに言って商人を手配させるか。ある程度目録を整えたら……タチアナと話をしよう」
帰らせた郎党達を呼び戻すため、伝書獣に持たせる伝令を書くべく私室に戻るアークトス。
その背は、少し前までの彼よりも力強く伸びて安定感のある姿だった。
◆感想や改善点などございましたら是非お願いします。
本当はこの話中にタチアナさんと会話するシーンまで行くつもりだったんですけどね…
なんかここで終わらすほうがいいんじゃないかって気もしてます。どないしょ
なお『ヴィノデュラ』は作者オリジナル。ロマンシュ語で『酒』と『ニオイがする』を繋いだ造語なので正確性は一切ありません。
◆ヴァレス……この後『風雪一過』であんなことになるんだったな……。
プレイ当時は納得してたけど、今見返すとやるせない気持ちになっています。