走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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第1話 Aftermath

「──はっ、はっ、はっ……!」

 

 肺が痛む。酸欠気味の全身が痺れる。もはや立っているのか、倒れているのかすらも分からないような疲労感。

 脳に回る酸素が足りていないのだろう。もしかしたら自分を中心にして、本当に世界がぐるぐる回っているのかも知れない……そんな錯覚さえした。

 

 練習場でぽつりぽつりと灯る街灯が、門限を超えても一人で走り続ける()()()()()()ウマ娘をせせら笑っている。

 

 そんな中でさえ、酷使された脚は抗議の声を挙げた。

 故障ではないが、関節部が熱を持っている。急いでアイシングをしなければ、もしかしたら最悪へ繋がる切っ掛けとなってしまうかもしれない。

 

 俺はままならない肉体に舌打ちした。

 同じ人型なら平均的なスペックこそ劣れど、()()()の……人間だった頃の体であれば、こんなに故障しやすくはなかったのに、と。

 ウマ娘の身体スペックは、人間の完全上位互換であるかのように度々語られる。だけど実際はこの世界には居ない()と同様に、フルマラソン等の長距離においてなら人間の方が優れた性能を発揮する。

 少しでも多く走りたい俺にとっては、今は人間のその持久力が羨ましかった。

 

 中央トレセン学園。芝コース用練習場。遠くに見える明かりだけが頼りの暗闇で、ぽつんと一人、転生者。

 滑稽な程に、人生──()生と()()()生を繰り返しても、同じ相手に負け続け、挑み続け、勝つ為に遮二無二走る阿呆の姿がそこにはあった。

 

「なら……あと、一本……」

 

 ぐっと脚に力を入れる。熱の篭った関節は、まるでまん丸い石ころが入り込んだような違和感。

 体力も尽きた今の体ではフォームもばらばらになるだろうけれど、慎重に、それでいてさっきよりも疾く走らねばならない。

 

 ウマ娘の脚は消耗品。だからトレーニングでは負荷の掛かり方に注視しながら、本番であるレースへ向けて調整していく。それこそが鉄則である……と、同じチームの先輩方やトレーナーに再三言われてはいる。

 だけど、俺はそれを守っていられない。守ってお利口さんにしていても、平凡な俺じゃあ勝ちたい()に勝てないから。

 ……そもそもそれ以前に、華々しい経歴を誇る先輩方ですら、()に勝てるかが分からないのだ。

 だから、俺は無理をする。一度で良いから、一着になりたい。ただ、それだけを夢見て。

 

「……ふぅ。それじゃあラスト」

 

 脚の負担を考えて……ではなく。

 恐らくはあと一周コースを回ると、体力切れでぶっ倒れるから。倒れた後は少しその場で休んで、歩けるようになったら誰も居ない寮の部屋へとこそこそ帰る。

 毎日それの繰り返しで、最初の頃は全力で止めにかかってくれていたフジキセキ寮長も、今では幾つかの約束事を守れば大目に見てくれるようになった。それでも怒られる時はあるが。

 

 何にせよ、体力的にも時間的にも、ついでに脚的にも、これが今日走れる最後の一本だ。最後ならば、最高の結果にしなければならない。()がラストランをそうしたように。

 

 俺はぼんやりと痺れる頭を無理矢理動かして、レース用にかちりと意識を切り替える。

 意気軒昂。ありったけの気迫をかき集めて、短く息を巻く。

 

「頑張って自己ベスト更新……行ってみようか!」

「──行かせるわけないだろう、この莫迦者が!」

 

 意識の中にある不可視のゲートががちゃんと開く──直前。

 がちゃん、ではなく、がちり、という音がターフの上に……というか、頭の中に響いた。

 

 不意討ちで訪れた強烈な寒気に、思わず身が硬まる。

 そんな俺へと掛けられる、声の大きさを抑えられた怒声が一つ。同じチームの先輩で、女帝と呼ばれる名馬──の魂を受け継ぐウマ娘、エアグルーヴ先輩だった。

 

()()()()()()! お前は何度言われればオーバーワークをやめるんだ! そもそも今何時だと思っている!?」

 

 冷気さえ漂っていそうな空気に身を竦めながら──断じてエアグルーヴ先輩と目を合わせない為の演技ではない──体力の残量から逆算して、大体の予測を告げる。

 

「11時くらい……じゃないですかね。体力とお月様的に」

()()1()()だ」

 

 えっ。と思い、慌ててペースメーカーにしていた多機能腕時計を切り替える。成程、確かに深夜1時……半に、なりかけていた。何かいつもより暗いなー……とは思っていたが、もう防犯灯を残して街灯は消される時間だったらしい。

 道理で……と思いながらも、咄嗟に言い訳が口を衝く。

 

「あー……えっとですね……スタミナがですね、思ったよりも増えてて、体感時間が狂ってしまっていたようで……成長の代償的な……? ははは……」

「ははは、ではない! そんな言い訳が通じると思っているのか! いつもの時間をとっくに過ぎてるのに帰って来ないと、慌てたフジキセキから連絡が来た時は、まさかと思ったが……!」

 

 わなわなと震えるエアグルーヴ先輩からは、蓄積されて固まったかのような怒気が溢れ出している。

 

 実の所、俺の自主練やりすぎ問題は所属するチームのトレーナーから直々に注意される程度には問題視されており、エアグルーヴ先輩がそれに(かかず)らうのは今回が初めてではない。

 彼女の怒りはご尤もな事であり、全面的に俺が悪かった。

 

 だがそれはそれとして、このままの流れで怒られたくはないので、せめてもの弁明の為──の許可を得るべく、俺はもごもごと口を開いた。

 

「あのぅ、先輩閣下。出来れば弁明のチャンスとか、頂きたいなぁ……なんて」

「……聞くだけ、聞いてやろう」

 

 俺は可能な限りの低姿勢に移行した。

 

「ありがとうございます! いやぁ、流石はエアグルーヴ先輩だ! 実は今日ですね、歴史の小テストがありまして──」

「──らしいな。だが、どうせ不合格だったのだろう? 歴史は何故か何度教えても間違えるからな、お前は」

 

 うぐ、とくぐもった声が出る。実は俺は歴史が──というか、()()()()()()()の教科が苦手だ。中等部レベルの歴史でも()()()()()()()と混ざってしまい、自分でも呆れるくらい問題の答えをよく間違える。

 その為、テストの度にエアグルーヴ先輩やフジキセキ先輩等の、高等部に所属するチームの先輩にお世話になっていた。

 ちなみに10点満点の9点合格で、4点でしたと付け加えた。エアグルーヴ先輩は呆れ返ったような顔を浮かべた。

 

 ……エアグルーヴ先輩の空気が少し軟化した。後輩の駄目っぷりを見て、少し溜飲が下がったのだろうか。

 

 俺の中の孔明──例えばこの世界だと、三国志では司馬遷が司龍遷、馬超が鳳超だったりする。正直、相違点が多過ぎるので覚え切れない──が、今です!と鬨を上げた。

 

「流石のご慧眼、流石はエアグルーヴ先輩。それでですね、再テストの末、チーム練習に遅れてしまいまして──」

「──知っている。その時居たからな」

「……で、ですね。遅れて参加してしまったから、遅れた分を取り戻すべく、東条さんに居残り練習をお願いしたんですが──」

「──絶対に認めないし、今日は諦めてちゃんと休め……と、念押しされていたな。で、どうして休めと言われたお前は今、この時間に練習場に居る?」

 

 鬨の声は孔明の罠だった。やつは裏切り者だった。

 俺の中の司馬懿……ではなく、司龍懿──あれ、芝懿だっけ? ──が、後方腕組み軍師面で『だから言ったのに』と首を振った。

 

「いや、あの……そのぅ……少しでも、速くなりたくてですね……えっと、あの……なんというか……はい。ご迷惑お掛けして、すいません……」

 

 もう言い逃れは出来ない。そう判断して、素直に頭を下げる。

 正直な所、既に先輩方には散々ご迷惑をお掛けしており、先輩方の鬱憤発散になるなら、俺は怒鳴られたり(なじ)られたりするべきだろう……という考えも、頭の片隅にあった。

 それに、今後も自主トレを軽減する気はないので、まだまだ迷惑を掛けてしまうだろうという自信さえあった。どう考えても完全に俺に否があった。

 

 エアグルーヴ先輩は、露骨に溜息を漏らした。

 

「……はぁ。迷惑だとは思っていない。正直、生徒会メンバーとしてはお前の向上心を見習わせたい生徒だって居るほどだ」

「そう言って頂けると幸いです……それじゃあ、仕上げに最後の一本、ぱぱっと走ってきますね」

「ああ、行ってこい──等と言う訳がないだろう! どさくさ紛れにしれっと走ろうとするな! 大莫迦者め!」

 

 エアグルーヴ先輩が俺のジャージの首根っこを掴もうとする。

 俺は俊敏な動きで華麗に避け、レース場に駆け出した──等という事が、今の体力で出来るはずもなく、呆気なく捕まってしまう。

 壮健だった前世──馬の方──に似ず軟弱なこの肉体は、まだまだ鍛え方が足りないらしい。俺は心の中で、更なるトレーニングの増量を誓った。

 

「来い。栗東寮まで送ってやる」

「一人で戻れますって」

「どうだかな。寮までの道程でさえ、お前に自由を与えていては何をしでかすか分かったものではないからな。悪いが、このまま連れて行かせて貰う」

「もう諦めて帰りますって……」

「そう言ってチームメイトを何度撒いている?」

 

 流石にそんな事はしませんよ、とは口が裂けても言えなかった。

 なんなら今日だって、『今日は諦めて寮へ戻り、明日に向けて英気を養うのデース!』と励ましてくれた先輩に嘘を吐いてまで、俺は自主練を敢行していた。

 後輩として──というか人として普通に最低だった。

 

「……先輩、今日も生徒会室に泊まり込みですよね? 俺なんかにこれ以上時間を割いて頂くのは勿体ないですって」

「時間を割いてでもお前を連れ戻す事が優先だと判断した。安心しろ、会長からも同様のご指示を頂いている」

 

 これ以上の練習が出来ないなら出来ないで、寮まで一人で休み休み帰りたかったが、どうやらそれも叶わないらしい。実は脚が既に限界なのだが、ここは精一杯の強がりを発揮するしかないだろう。

 流石に生涯一度の大一番──実は俺は二度目だったりするのだが──が目前に控えてる身で、歩くのも辛いレベルまで練習していた等とばれては、どんな怒られ方をするか分からない。

 

「…………寮まで、先輩のお世話になりまーす」

「初めからそうしていろ。そもそも、お前がこんな時間まで走り続けているのが悪い事を努々忘れるなよ。

 ……それと、脚の具合が悪かったら言え。フジキセキに引き渡すまで背負うくらいはしてやろう」

「了解しましたー」

 

 ジャージの襟を掴まれたまま、涼しい顔と真っ直ぐな姿勢を意識して歩く。

 いやぁ、実は既に脚がぷるっぷるなんですわー。この後、ぶっ倒れる気満々だったから、限界まで負荷がかかるよう調整してたんでー……なんて言う勇気は俺にはなかった。

 エアグルーヴ先輩はシンボリルドルフ先輩のオヤジギャグすら意味を深掘りしようとする程の堅物だ。フジキセキ先輩に引き渡すまで背負う、というのは冗談ではなく、本当にやるつもりの行動なのだろう。

 

 前世では4歳まで立派に生き抜き、前々世でもそれなりには生きた身だ。例え体がちんまい少女になっていようとも、精神年齢が遥かに下の美少女に背負われるのは、精神衛生上遠慮したいのだ。

 ……お説教されたり、心配掛けたりしまくってるんだから今更だろう……という気がしないでもないが、それはそれ。

 そっちは()()の為の必要経費として多少は諦めがつく。

 

「……お前、何か隠してないか?」

 

 こくんっ、と息を飲んだ。

 

「いやいや、流石にこの期に及んで隠し事なんてしませんって」

「ほう? なら証明してみせろ」

「……エアグルーヴ先輩、悪魔の証明って知ってる? 存在しない物の証明をする事なんですけど」

 

 俺は顔をひくつかせながら、頭を巡らせる。理性的なエアグルーヴ先輩がかなり無茶苦茶な事を言っているという事は、何かしらの確信を持っているのだろう。

 何とか話題を逸らして、脚が小鹿ちゃん状態なのを隠し通したい。詰られるのは良いが、心配を掛けるのは出来れば避けたい。まだ中等部に通う現在の俺は、そんなお年頃だった。

 

「……ああ、確かにこれでは無茶振りと言うやつだな」

「そうっすよ、エアグルーヴ先輩。後輩への無茶振りはパワハラですぜ。俺じゃなきゃ泣いちゃいますね。間違いなく」

「成程、忠告感謝しよう」

「先輩がうっかり他の後輩と変な空気になるのを事前に防げて何よりですはい」

「ほう、お前の辞書にも『気遣い』という言葉があったんだな」

「そりゃあもう、ばっちりと!」

 

 よっしゃ、このまま話うやむやにしたろ! と俺の中の畜生がスタンバイした瞬間、何故かエアグルーヴ先輩が女帝に相応しい目付きになった。

 理由は分からないがこれはやばい……と身構えた時には既に手遅れだった。エアグルーヴ先輩が掴むジャージの首根っこに、更なる力が込められたのを感じた。

 

「……エアグルーヴ先輩? 何故か目がめちゃくちゃ怖いんですが、どうされました?」

「お前の辞書に『気遣い』の文字を確認出来たついでに、私からの『気遣い』で一つ、面白い話を聞かせてやろう。

 私の後輩に一人、とんでもない莫迦が居てな。そいつは嘘を吐く時、何故か会話に雑学を混ぜたがるんだ」

「先輩先輩? ジャージの掴まれてる所、徐々に締まってきてて痛いんで、一回離して頂けるととてもとても喜びますけれども──」

「……あとは、妙に言い回しが遠回りになる。ちなみにその莫迦の名前は()()()()()()と言って、近々、そいつの辞書に『反省』の文字を刻み込むべくチーム総出で大掛かりな教育を行う予定なんだ。お前も覚えていて損はないぞ、アフターマス。

 ああ。偶然にも、お前の名前も()()()()()()だったな、アフターマス」

「すっごい偶然ですね。そのアフターマスさんには同情しちゃいますよ。俺と違っておバ鹿な方のアフターマスさんでも、きっと反省するんじゃないですかね。っと、それはそれとしてちょっと疲れたんで先に帰ってま──ぐえぇっ!?」

 

 アフタ勝つから! 絶対逃げ切って勝つから! と叫んだ心の中のツインターボ先輩は、直後に見事な逆噴射を決めた。

 ついでに俺も口から潰れた蛙のような声が逆噴射し、先輩の手を振り切ろうとして踏み出した脚とは裏腹に、俺の体は後ろへと傾いた。

 どうやら後輩ウマ娘が()()を仕掛けようとしたタイミングをエアグルーヴ先輩は読み切っていたらしく、首元を引く力を調整されてしまったらしい。『女帝』と呼ばれるウマ娘の勝負勘は伊達ではなかった。

 

 そのまま俺が見事な転倒と尻餅を決める直前に、エアグルーヴ先輩はするりと俺を助け起こした。そして自然な流れで俺を抱え上げ──って。

 

「先輩」

「どうした、まんまと鎌にかけられた阿呆」

「いや……えっとその……小脇に抱えられるのはちょっと遠慮したいというか……」

「普通に背負われるのは恥ずかしくて嫌なんだろう?私からの()()()だ。遠慮するな」

「これはこれで恥ずかしいんですが……いやまあ、おんぶよりマシ……マシなのかこれは……? とりあえず、降ろして頂けると助かります」

「却下だな」

 

 俺の懇願は、エアグルーヴ先輩に素気(すげ)無く切り捨てられた。

 

 ぷらーんぷらん。だらーんだらん。

 擬音にするとそんな感じだろうか。疲労が限界寸前だった両手脚が、俺の制御下を離れて揺れる。

 エアグルーヴ先輩はどちらかというと背が高い方なので、どちらかと言うと小柄に分類される俺では、先輩に担がれるとどうしてもこうなってしまう。というか、先輩と俺とでは30cm近く身長差があるのでどうしてもこうなった。……おのれ、ノッポめ。

 

「……何か悪口を考えているだろう」

「ちょっと何言ってるか分からないですね」

「……はぁ。もう良い。お前の事だ。どうせしょうもない事だろう」

 

 呆れたように嘆息するエアグルーヴ先輩へ、曖昧な笑いで返答する。

 女帝エアグルーヴ。彼女は驚異の差し脚のみならず、恐ろしい勘まで神に与えられたらしい。

 

「お前、自分で思っているよりも考えが顔に出るからな」

「あっ、はい」

「本当にお前は……」

 

 エアグルーヴ先輩は、先程よりも深い溜息を吐いた。少し、申し訳ない気持ちになった。

 

 先輩が歩く毎に揺れる手足が空を掻く。ジャージの隙間から入り込む空気は、しっとりとしている。

 夏も終わり、もう秋口ではあるが、今年は相変わらず空気が湿気たままだった。そんな空気だからか、気温だってじっとりとした暑気を帯びたままだ。

 来月に控えたレースまでには、少しくらい()()()とした空気になっていて欲しいなぁ、と一人願う。

 

 次のレースこそ、俺は()に勝ってみせる。()の得意なバ場なんて知らないが、俺は良バ場が得意だから、良バ場になるよう良い天気になって欲しかった。湿気た空気に連れられて雨雲がー……なんて、俺としてはご遠慮願いたいのだ。

 バ場は良で、天気は晴。ついでに枠は内。それが俺の『菊花賞』における密かな願いだ。密かな……と冠するには、かなり切実ではあるが。

 

「……アフターマス。一つ、聞きたいことがある」

 

 エアグルーヴ先輩に手脚をぷらぷらとされながら菊花賞のイメージトレーニングを行っていると、先輩から嫌に真剣な声音が飛んでくる。

 先輩の声があんまりにも真剣だったから、俺もきりりとした真顔で「なんでしょう?」と返した。手脚をぷらぷらとされながら。

 ……この状態では、どんなキメ顔作ってもかなり間抜けな絵面にしかならなかった。俺は直ぐにきりっとした真顔をやめた。

 

「どうしてお前はそこまで走る」

 

 あっ、これきっと面倒臭いやつだ。

 

「弥生賞からはじまり、皐月賞。日本ダービー。そして先日の神戸新聞杯。どの重賞レースもとても見事な走りだった」

「どうもです」

 

 自分にも他人にも厳しいエアグルーヴ先輩から頂いた純粋な賞賛は、俺にとってむず痒い──なんてことはなく、俺はひたすらに戦々恐々とした。この後、何かとんでもない事を言われるに違いない。俺にはそんな確信があった。

 ……と同時に、そんな推測が自然と成り立ってしまう自分の駄目さ加減と改めて向き合う。無性に自分が悲しくなった。

 

()()()()()()()()()()。トウカイテイオーやミホノブルボンが成しえなかった偉業に、お前は今、手を掛けている」

「……そっすね」

「今のクラシックの王者は、間違いなくお前だ。アフターマス。()()()()()を被っているウマ娘は、()()なのだ」

 

 先輩には悪いが、俺は辟易とした。手脚の疲れが更に増した気さえする。

 生まれた空気は、思っていたよりもシリアスなものだった。正直、走って逃げたいが、今は手脚をどれだけ必死に動かしたとしても、天翔るウマ娘のモノマネにしかならないだろう。

 この流れは、間違いなく()の話題になる。何が悲しくて、疲れ切ってる時にまで()の話をしなければいけないのだろうか。いや、まあ……以前、うっかり口を滑らせた俺が悪いのは分かっているが、それはそれ。

 現状の俺はどうしたらいいのだろうか。俺の脚は『逃げ』があまり向いていない。模擬レース等でする分には楽しいとは思うが、話題逸らし競走で上手く逃げ切るのは不可能だろう。

 

「……お前が固執している()()()()()()()()()というウマ娘の名は、お前の出走したレースの何処を探しても()()()()()。それどころか、クラシックのみならずシニアやドリームトロフィーリーグ、果ては地方にだって、()()()()()()()()()()()()()()」 

 

 それはそうだろう、と俺は思う。()はこの世界どころか、俺が競走馬だった前世にも居なかった。()()()()()()()()

 

「その上で問う。どうしてそこまで()()()()()()()()()とやらに拘る。業腹だが、お前は会長に並び立つような、リギルの中でも突出した成績を残すだろう。或いは私達が築き上げてきたものを、過去のものにしてしまうかもしれない。その()()()()()()()()()が実在したとして、お前より速いとは私には思えん」

 

 エアグルーヴ先輩の意見に、盛大に歯噛みする。

 伝わらないもどかしさは、走る事しか知らない俺では、持て余す物があった。

 

 ──ディープインパクト。

 

 俺の知る限りの最強馬。馬だった頃の、終生の好敵手……と、俺が一方的に決めたあいつ。いつもいつも、俺を追い掛け、追い抜き、置き去りにして去って行く化け物。

 或いは、俺なんかに()()()()()()()()()()()悲劇の『英雄』。

 そして、前世のみならず、わざわざこっちの世界まで俺を追い掛けて来て、追い抜いていく憎い憎いあん畜生。

 

()は──()()()()()()()()()は、俺より強い(ウマ娘)です。これだけは、絶対です」

 

 俺は先輩へと強く断言する。俺が奴より速いなんて、なんの冗談だろう。もしそうであったなら、俺はここまで苦しんではいない。

 高々、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()如きに、ここまで辛酸を舐めさせられちゃ居ないのだ。

 

 ただひたすらに強い(ウマ娘)。俺と同じ脚質でターフを駆け抜け、俺と似た見た目で風を切り、必ず俺より先にゴールする。

 お前のせいでこの世から消えた自分こそが、お前の完全上位互換だ。

 そう俺に突き付けてくる嫌な奴。前々世におけるスーパースターホース。ディープインパクト。

 

 前世の時から、俺のレースの時だけ現れる、俺にしか見えない出走馬。内枠でも大外でもない所から現れる最強の刺客。

 俺が走ったレースの、真の勝者。

 

()は、何時だって俺より先にゴールします。俺は、一度だって先頭を駆け抜けたことがないんです。だからこそ、次の『菊花賞』こそ勝って、胸を張って名乗りたいんです。『俺が一着だ』って」

 

 前世でも、俺は無敗の二冠馬だった。だけど、本当の無敗の二冠馬はディープインパクトだった。

 前世では、俺は無敗の三冠馬だった。ただの一度も勝利を飾ったことのない、偽物の『無敗の三冠馬』だった。

 

 最初の頃は、何処の馬の骨とも知れぬ俺が、あのディープインパクトに成り代わってしまった罪悪感が存在していた。

 前々世の俺は特別競馬に詳しい訳ではなかったけれど、それでも流石にディープインパクトは知っていた。逸話だってそれなりに見聞きしていた。

 それらの生まれるべき栄光全てを、()()()()()()()()()ではなく転生()アフターマスが生まれたことにより潰えさせてしまった事実に、本気で恐怖した。

 

 だけど、生まれ変わった俺は()()()だった。

 競走馬の闘争本能のようなものなのだろうか。いつの間にか、俺は()に勝つことに執着していた。

 他のやつよりも速いってだけで、スキップしたくなるほど嬉しかった。一回でも負けたら、死にたくなる程悔しかった。何度挑んでも勝てないあいつの前を走り抜けたくて、たった一度の勝利だけが欲しくて。それだけが、俺にとっての全てになっていた。

 俺が俺を褒められる点があるとすれば、そんな中であんなにも()に負けたのに、それでも首を下げなかった事だけだろう。我ながら本当に良いメンタルしてると思う。

 

「……まあ、それに。仮想敵は強ければ強い程良い。そうでしょう?」

「お前の場合は……いや、良い。無粋な事を聞いて悪かった」

 

 エアグルーヴ先輩が口をつぐみ、寮へと続く道を静けさが覆った。秋の夜長に、エアグルーヴ先輩の靴音と、夜更けでも元気な虫達の声だけが響く。何となく、気まずいなぁ……と思う。

 寮の灯りが、少しずつ近付いてくる。

 

「先輩」

「……なんだ?」

「心配かけて、ごめんなさい」

「ふん……なら、次からは無茶なトレーニングはしない事だ」

「それは……前向きに検討して善処します」

「どうだか。ゴールドシップの真顔よりも信用ならないからな、お前のそれは」

 

 エアグルーヴ先輩は辛辣な言葉とは裏腹に、何故か殊更に優しい目をしていた。

 

 そういえばこの人は、トリプルティアラのうちの一つを自分の手で勝ち取った、正真正銘本物の勝ちウマ娘だったなぁ……と、ふと思った。

 

 最初からトリプルティアラ路線を目指しておきながら、最初の一冠目を体調不良で回避せざるをえなかったウマ娘。療養明けにオークスを勝ち取り、母娘でオークス制覇の快挙を成し遂げた傑物。

 にも関わらず、気負い過ぎた過度なトレーニングが原因で脚を骨折し、最後の冠を敗北で逃した『女帝』。

 だけどその後の復帰レースからは全て入着し、幾つもの冠を勝ち取った希代の強者。

 仕舞いにはURAから名指しで表彰された事だってあるのだから、その強さは疑いようもない。

 多くの悲劇を根性で乗り越えたウマ娘、それこそがエアグルーヴ先輩だった。

 

 ──彼女は今、何を感じて、何を見ているのだろうか?

 

「先輩先輩」

「ん? どうした?」

「先輩は……いや、何でもないっす」

 

 俺は口から出かけた言葉を飲み込んだ。

 きっとそれは、俺自身が見付けなきゃいけないもので、先輩が見付けたものとは違う形をしている。そう思ったから。

 

 少しずつ、少しずつ。

 栗東寮の灯り、半分以上欠けた月、和らいでいく夏の面影。

 普段は気にも掛けないもの達が、近付いてくる……それだけで、何故かそれらが無性に気になった。

 

 ──『菊花賞』が、始まる。




続くかは反応次第(小声)
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