走り抜けても『英雄』がいない   作:天高くウマ娘肥ゆる秋

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第12話 臆病な生き物

 陽向(ひなた)のような温かさの、静かな夜中に目が覚める。

 少し前までと違って、この時期にはもう蟋蟀(こおろぎ)の鳴き声は聴こえない。

 

 一つだけ、芯だけ冷たい空気に息を吐く。いつもと違って、すぐ近くから四つの寝息が返って来る。

 規則的に小さく繰り返される息遣いは、紛れもなく鼓動代わりの命の脈動。

 それぞれの音の持ち主は、スペちゃん先輩、テイオー先輩、ウオッカ先輩、スカーレット先輩。俺がお邪魔になっている部屋の本来の借主、チームスピカの先輩方だ。

 

 寝返りを打つ。何となくで決まった俺の布団の場所はスペちゃん先輩の隣で、反対側には誰もいない。体を向けた方向には、(うるし)が所々剥げた年季の入った木目の柱と、ぼろい壁。

 足先より向こうには小さく床の間があって、俺には価値の分からない継ぎ接ぎだらけの花瓶や古寂びた掛け軸……あとは、何故かゴールドシップ先輩のサイン入り金属バットが飾ってある。

 反対の頭上方向にはスカーレット先輩がいて、その隣にテイオー先輩、そのまた隣にはウオッカ先輩。

 この旅館に泊まり始めてからスカーレット先輩とウオッカ先輩は隣り合う事が多かったが、今日は間にテイオー先輩を挟んで眠っている。日中、併走で何方が勝ったかで喧嘩をして、そのまま眠りについたからだ。でも、どうせ明日の朝には何事もなかったかのように仲直りしているので、特に何も問題はない。

 

 目が覚めても誰かが傍にいる安心感。それを嬉しく思いながら眠りに就く。

 

 ──そして、目が覚める。

 

 ウマ娘は、案外神経質だったりする。流石に競走馬程ではないが、五感が普通の人より鋭い分、それ相応に。

 だから、もし俺が余計な物音を立ててしまえば、先輩方の睡眠の邪魔になるかもしれない。

 一人で壁と睨めっこしながら、背中で人の熱を感じ続ける。学園の寮では感じない息遣い。退屈しのぎに心臓の音を数える。とく……とく……とく……と、温かく動いている。それを数えてまた眠りに就く。

 

 ──そして、目が覚める。

 

 眠る時、人が居るのは安心する。でも、やっぱり自分で一人部屋を借りた方が良かったかなぁ……なんて思う。そうすれば、目が覚めた時に部屋をこっそり抜け出して、多少走る事が出来たかもしれない。

 先輩方と同じ部屋では、抜け出したら即ばれる。しくじったなぁ……と思う。自分の睡眠のリズムは熟知していた筈なのに、判断を見誤ってしまった。それでも、俺は布団の中で背中を丸めて眠り……。

 

 ──そして、やっぱり目が覚める。

 

 前世から、夜は大体二十分前後で目が覚める。それを何度も繰り返す。それが俺にとっての普通の睡眠で、人に近い生き物であるウマ娘にとっては異常な睡眠だ。

 夜中に何度も何度も目が覚めるのは、正直体に良くない気がする。俺の発育が悪いのは、この睡眠習慣のせいかもしれない。気付いていても治らないのが、本当に厄介だった。

 

 意識を細くしていく。きちんと眠れないにしても、神経と肉体は休めなければならない。

 太陽が昇ったら、ようやくお待ちかねのトレーニング解禁なのだ。

 実の所、トレーニング自体はもう再開しているが……その内容はずっと(ないがし)ろにして来たライブに関するものばかり。特別コーチを務めてくれたテイオー先輩が顔を引き攣らせるくらいには拙いもの──歌の音程、ダンスのリズムの取り方、感情表現の仕方等──を突貫工事で鍛えていただけだ。後は、休めていた体を再び動かす為の、ウォーミングアップ程度にしかならない緩いトレーニングのみ。

 走りに関するまともなトレーニングは本当に久し振りなのだ。待っていたぜ、この時をよぉー……と言いたい気分だ。

 

 正直、ライブのトレーニングは好きじゃない。踊りだとか、歌だとか、愛嬌だとか……そんな人間的な事を、俺に求めないで欲しい。

 俺は競走馬だ。今でこそ二足歩行してるし、競走馬になる前も二足歩行していたが……それでも俺は、間違いなく競走馬なのだ。走る事以外の、何が必要だと言うのだろう。

 自分よりも速い()に勝ちに行く。それだけが、俺がやる事の全てだと思う。

 後は精々……その自分よりも速い奴が背負っていたものを台無しにした責任。それくらいしか、俺としては求められても困るのだ。

 しかしそもそも、その自分より速い奴にはまだ勝てていない。勝てる気もしない。他の事をしている余裕なんて、俺にははなっから存在しない。他の事を気にしていては、また()()でディープインパクトとハーツクライに置き去りにされる。

 だからライブの事なんて求められても、俺では持て余してしまうのだ。

 

 ……なんて弱気な事を思っているとまたしても眠気の波がくる。

 

 ──そして、目が覚める。

 

 今日は、あとどれくらいで朝の陽射しが差し込むだろう。

 周りに人がいる分、何故だか余計に寂しくなる。気が弱くなる。果たして、俺はこんなに弱かっただろうか。

 外の寒さと暗闇のせいか。周りの人が死んでいるような錯覚を覚えるのは。……きちんと、先輩方の寝息は聴こえているのに。

 

 少しでも早く、賑やかな朝が来て欲しい。

 心を何処かに落として来たように、空恐ろしいくらい、深い夜の闇が怖い。こんなに人の温かさが感じられる真っ暗闇だからこそ、この世界に間違えて生まれた俺が消えてしまいそうなのだ。

 体が地面に溶け込んで、何事もなかったかのように朝が始まる。きっとその時は、俺と入れ替わるようにして、地面の中に居る何かが、俺の体を我が物顔で使うんだろう。そんな妄想が生む、滑稽な恐怖に囚われる。

 

 誰かの声が聴きたい。一人で居ると、どうしようもなく寂しいから。深く眠って逃れてしまいたいのに、俺にはそれが出来ないから。だから、誰かの温度に触れて、自分がまだ此処に居ると確かめたい。

 ディープインパクトという、本来生まれるべきだったウマ娘(競走馬)の居場所を奪ったのは俺だから、そんな事を思うのだって悪い事なのかもしれないけれど。

 だけど、俺にだって心はある。偽物だって、一丁前に感情がある。折角心に蓋をしているのに、暖かくて静かな夜の闇が、勝手に感情を引き出そうとする。自分の中から、普段目を逸らしている()()()()が溢れ出しそうになる。

 いくら俺が悪くても、流石にそれはあんまりじゃないだろうか。せめて心の在り方くらいは、大目に見てくれたって良い筈だ。

 

 こちとら、馬だ。怖がりで、繊細で、寂しがり屋なのが正解の生き物だ。俺の性格とは関係なく、馬は全員そういうものなんだ。

 だから、そろそろ止めてくれ。誰か、俺に声を聴かせてくれ。罵倒でも、怒鳴り声でも、何でも良い。俺を飲み込もうとし続けるこの暖かく静かな夜を、誰か終わらせてくれ。今世は、子供の頃だってこんな思いはしなかったのに。

 

 やっぱりリギル(いつも)の合宿みたいに、時間があやふやになる一人部屋にすれば良かった。

 俺には此処は、場違い過ぎた。

 

 目を強く瞑る。意識が薄れる。暗闇に溶けるように理性が溶ける。

 

 ──そして、また……。

 

 

■□■

 

 

「……だよなぁ」

 

 ゆっくりと日が沈む中で、ゆっくりと、体から速度を消し去っていく。

 有と同じ芝2500mを走り終えて、徐々に上体を起こす。体の動きを()()から()()に切り替えながら、ストップウォッチを持った沖野トレーナーと、首を捻るテイオー先輩へと近付いて行く。

 久し振りに走った感想としては、体が軽い……しかし、案の定スランプは明けていなさそうだな……というものだった。

 

「2分35秒ジャスト。上がり3ハロンは34.1か。競い合う相手もなしに、このタイムは本当にとんでもないな。なんなら、今すぐにでも有で一着争い出来ちまう。……で、テイオー。さっきからずっと首を傾げてるが、何か意見はあるか?」

「うーん……なんだろう? 一ヶ月振りに走ったから……とかじゃなさそうなんだけど、もっと根本的な所が変っていうか……やっぱりなんか走り方が変だと思う」

 

 うぐっ……と、顔には出さず、心に致命傷を負う。

 走り方が変なのは重々承知しているし、俺自身も変だとずっと思いながらも、自分の走りと付き合って来ている。

 なんなら、フォームチェック用に動画を撮って確認する度に、脳裏で赤い狐が「お前の走り方は変だってばよ」と(のたま)うのだから、もはや心当たりしかない。

 赤い狐とドトウの狸、どっちも大っ嫌いだ……そう考えていたら、脳内でエアグルーヴ先輩に引っぱたかれた。語呂が良いからって、先輩を呼び捨てにしたのは許されないらしい。

 

 凹んでいる間に沖野トレーナーが預けていたダウンジャンパーを渡してくれたので、今更ながらに慌てて着込む。体が冷え切って風邪を引くと折角解禁されたトレーニングが出来なくなるし……それ以前に、風邪は本当に嫌いなのだ。

 

 ジャンパーのファスナーを一番上まで上げ切ってから、テイオー先輩へとささやかに反論する。

 

「あの……フォームがへんてこなのは自覚あるので、出来ればからかわないで頂ければ嬉しいです」

「あ、ごめん。からかってるつもりじゃなくて……こう……なんだろう? ちょっと言葉にしにくいんだよね」

 

 更に追加でダメージが入る。困った様に眉を八の字にして、目尻を綺麗に垂れさせるテイオー先輩の姿から、本気で困惑している事が伺えてしまう。

 自覚こそあれど、こうも素直な反応を貰うとちょっと泣きそうだ。

 

「おいおい、どうしたテイオー。お前がどうしてもアフタにアドバイスしたいって言うから同伴させたんだぞ。苛めずに、ちゃんと先輩らしい事を言ってやれ」

「ちっ、違うよ!? 苛めてるとかじゃなくて、本当に言葉にしにくいんだよ! こう……こう……マックイーンがゴールドシップの物真似してる? みたいな……こう……!」

「……すまん、アフタ。どうやら、うちの天才児は好敵手(マックイーン)恋しさにもう駄目みたいだ」

「違っ……信じてよー! 本当にそんな感じなんだってばー!」

 

 うわぁーん! と今にも言い出しそうなテイオー先輩に申し訳なく思いつつも、ゴールドシップ先輩の頭の飾りをマックイーン先生が着けてる所を想像して笑いそうになった。申し訳ないが、とても似合わない。

 それよりもゴールドシップ先輩がマックイーン先生の物真似をした方が似てるんじゃないか? と思ってしまう。二人はあまり似た見た目をしていないのに、今度は驚く程にしっくり来た。不思議だ。

 もしかしたら、ゴールドシップという()()()が、メジロマックイーンと同血統の馬だったのかもしれないな……なんて思う。『メジロ』と名が付いていないだけで、案外兄弟だったりしたのかもしれない。

 その場合は、どちらが年上でどちらが年下だったのだろうか。(いず)れにしても、きっと競馬ファンにとって、さぞや有名な兄弟馬だった事だろう。マックイーン先生とゴールドシップ先輩の脚質は真逆だから、後は年代さえ合っていれば、恐ろしく華のある兄弟レースが出来た事だろう。

 残念ながら俺は競馬には詳しくないので、ゴールドシップもメジロマックイーンも、競走馬としてはとんと知らない。故に、どれだけ頭を捻っても答えは出ない。

 

「そう言うトレーナーだって、何にも分からないんじゃないの!? アフタが言うスランプの原因!」

「俺か? 俺は一応、心当たりは有るっちゃ有るが……断定出来ないんだよな、これが」

「ほら! やっぱり分からないんじゃないか……って、心当たりあるの!?」

 

 耳と尻尾──ついでに指先──をぴんっと立たせて驚いたテイオー先輩以上に、俺は内心で驚いた。

 沖野トレーナーは、国内最高峰のトレーナーが集まる中央トレセン学園の中でも、頭が一つ分以上抜き出た東条さんと同類の天才だ。

 ……それは分かっているが、本当にたった一回走りを見ただけで、スランプを解く足掛かりを見付けられたのだろうか。ずっと考えていても、俺にはこれっぽっちも分からないのだが。

 期待半分、疑い半分で、俺は沖野トレーナーに、()くように尋ねた。

 

「まあ、待て待て。その前に一つ確認したい。アフタ、菊花賞の後、誰かに走り方を見て貰ったか?」

「えっと……色んな先輩に見て貰いましたけど……」

「おっ、そうか。偉いな、走りに貪欲なのは良い事だ。じゃあ、もう一歩踏み込んで聞くが……おハナさんやリギルの先輩──前々から、お前の走りを知ってる人に、一度でも直接走りを見て貰ったか?」

「……それは」

 

 痛い所を突かれてしまった。俺は『菊花賞』の後、ただの一度もチームリギルの身内に走りを見て貰っていない。

 散々、あれこれと色々教えて貰ったのに、結局は走りが完成していなかった。『近代競馬の結晶』──先輩方の正統な後継であるディープインパクトの走りが出来ていなかった。その申し訳無さに、どうしても顔が見せられなかったのだ。

 もしや、身近な所にも相談出来ていないのに、他所様であるうちから答えを教えて貰えると思ってるんじゃねぇ、出直して来い! ……とでも言われるのだろうか。それはちょっと本当に許して欲しいのだが。

 

「おっと、すまん。誤解させちまったか。別にアフタを責めてる訳じゃないんだ。ただ、チームリギルを知るトレーナーとしては、どうしても腑に落ちないものがあってな」

「腑に落ちないもの? というか、心当たりって何?」

 

 テイオー先輩が疑問符を掲げる。俺も続きが聞きたくて、先輩に続いて同じ事をする。

 

「正直、俺自身がちょっと自分の勘に納得していないから、明言しにくいんだが……」

「もうっ! 勿体ぶらずに教えてよ!」

「……いや、どうしてアフタ本人よりお前の方が反応良いんだ? まあ、別に良いんだが」

 

 沖野トレーナーはゆるりと右手を持ち上げた。緩く指が曲げられていて、透明な台本でもあるのかと勘違いしそうになる。

 

「アフタ、お前……つい最近、誰かにぼろ負けしたりしたか?」

 

 びくりと肩が震えそうになった。目も見開きそうになった。俺はそれを必死で抑える。

 俺が今世で負けたのはディープインパクトだけで、奴の存在を迂闊に喋ると面倒な事になる──それは、リギルで思い知っている。

 俺は()()と言い切ろうとして……ちっぽけなプライドが、それを邪魔して来る事に気付いた。

 負けた事実を認められないのは、負ける事よりもみっともなくて……誰もが讃える『英雄』から、遠ざかる行為だ。だから、ディープインパクトの事を(ぼか)してでも、正直に()()と答えるべきだろう。『英雄』の代わりに『英雄』になろうと思うなら。

 ……なのに、()()とも()()とも言えず、口が開かない。

 

「──すまん! そんな訳ないよな! お前が負けてたら、もっと大騒ぎになってるもんな!」

「……ちょっとトレーナー! びっくりするじゃんか! たちの悪い冗談はやめてよ!」

「いやー、悪い悪い。思い当たるアフタの状態がな、レースで惨敗して挫折した、デビュー直後くらいのウマ娘にそっくりなんだよ」

 

 沖野トレーナーは、殊更に大袈裟に肩を竦めた。この様子は多分、口の重い俺を気遣って、有耶無耶にしてくれたんだろう。此処でもまた、人に迷惑を掛けてしまった。

 

「まあ……俺がそういう風に見えたってのは、本当なんだ。負けた相手の走りが目に焼き付き過ぎて、折角育てた走りが信じられなくなる。自分に大勝ちした奴の走りが正解に思えて、そいつの走りをしようとして、結果的に走りがばらばらになる。そんで……負けた相手と自分の()()()を、無意識的にしてしまう」

「そんな事って本当にあるのー?」

「……テイオー。お前は満遍なく規格外の天才だよ、本当に」

 

 訝しむテイオー先輩に、沖野トレーナーは苦笑いを浮かべた。俺は真顔を保って、続きを聞く体勢を続けた──内心の驚きと、やるせなさを飲み込みつつ。

 

「……でも、アフタはシニアクラスに進もうとしてる段階のウマ娘だ。毎年激戦になるクラシック戦線を一人で制覇した、歴史上二人しかいない凄い奴だ。そんなアフタに圧勝出来るようなウマ娘? 実在するウマ娘か、そいつは。そんな馬鹿げた怪物が本当に存在するなら、日本のウマ娘は世界から格下に見られちゃいないし、凱旋門だって呪いをとっくに吹っ切ってるだろうさ」

「まあ、アフタはボクが()()()なれなかった無敗の三冠ウマ娘だもんね」

「ああ。だから何かしらの理由でリギルの誰かが──例えばシンボリルドルフあたりが、模擬レースとかで徹底的に心をへし折ったのかとも思ったんだが。それでスランプに陥ったなら……普段からアフタと付き合ってるリギルの誰かが、頃合いを見て助け舟を出してるだろうしなぁ」

「カイチョーはそんな事しないよ! だってボクに──いや、特に何にもないけどさ……!」

「んん? よく分からんが、すまんすまん。そんなに怒るなって」

 

 それに、もしそうならおハナさんが気付く筈だしな。例え走りを見てなくとも、メッセージでのやり取りやアフタに纏わる噂だけで、十分に判断するだろうさ。

 デビュー直後かシニアかの違いだけなら、そもそも今まで、どうしようもなくなるまで負けた事がなかった……なんて、天才肌のウマ娘にあるあるな話で言い逃れ出来るんだけどな。

 

 そう言った沖野トレーナーを、心の中で賞賛した。

 

 以前、俺がリギルでうっかり漏らしてしまったディープインパクトの事は、おハナさん含めて全員が秘密にしてくれている。俺にとっては大事な問題だから、勝手に誰かへと吹聴したりはしない……そう、全員が言ってくれている。

 今回の俺のチームスピカへの臨時加入に際しても、おハナさんはその約束を守ってくれているらしい。沖野トレーナーに対して、不義理となるかもしれないのに。

 

 そして、その上で沖野トレーナーは言い当てたのだ。俺がどうしようもないくらい負けたという事を。

 俺がレースをすれば必ず世間で噂されるから、世間的には俺が勝った事になっている菊花賞以降、レースを走っていない俺が誰かに負けたなんて、普通なら有り得ない話だろうに。

 ……なのに沖野トレーナーは、わざわざ俺に尋ねるくらいには、その可能性を疑ったのだ。

 俺がたった一人のウマ娘に勝てないと()()()()()()()可能性を。ディープインパクトという、俺にしか見えない最強の競走馬(ウマ娘)を知らないのに。

 

 もしかしたら、沖野トレーナーなら俺のスランプを解く方法が分かるんだろうか。

 生涯戦績全敗の俺が──ディープインパクトの()()()でしかない俺が、虚勢ではなく本気で()()に勝てると、また思えるようになる……そんな方法を。

 

「沖野トレーナー。仮に……仮になんですけれども、もしそれが正解だったら、俺はどうすればスランプが治りますか?」

「うん? そりゃあ、簡単だ。自分を見付け直せば良い。結局は、誰かの姿が重なってるせいで、自分が見えなくなってるだけだしな」

「そうですか……じゃあ例えば、その……自分が元々なかった奴は、どうすれば良いですか?」

「自分がない? それはないさ。自分がないのに走れるウマ娘なんて、一人だって居やしない。それにアフタ──これは仮にお前のスランプの原因が正解だったら、の話だが──お前さん、結構色々と()()を持ってるぞ。だから、アフターマスっていう俺達の知るウマ娘は、きちんと答えを持ってるよ」

 

 仮に正解だったら、だがな。

 お前が何を見て、どういう風に自分を失くしたのかが分からないから、俺達はお前の()()()()()しか出来ないが。悪いな。

 

 そう言って話を終えた沖野トレーナーにお礼を言って、黙り込む。

 自分を見付け直す。どうすれば良いんだろうか。

 俺はそもそも、ディープインパクトに成り代わって生まれた()()()だ。俺の全てを奴が網羅しているし、奴は俺が完成した時の──或いはそれ以上の──存在だろう。

 

 俺が先輩方に教えて貰って、作り上げた走りを、奴は当たり前の様にやったんだ。奴とは違う事をしたと俺が思っていても、その結果は奴の後追いに過ぎなかったのだ。

 そもそも、俺が()()()として走り始めた事自体が、奴の代わりなのだ。

 俺の走りの全ては、奴のものなのだ。奴を俺が消してしまったから、俺は走り続けているのだ──本当に、そうだったっけ?

 

「──よし! じゃあ今からボクと併走してみようよ! 人生の()()()()と走れば、スランプの原因が何であれ、何かしら分かるかもしれないしさ! ねっ、良いでしょトレーナー!」

「勿論、駄目だが」

「だよね! よぉしっ! それじゃあいっちょ、このテイオー様がアフタの走りを──って、なんでぇ!?」

「いや。なんでも何も、アフタに走って貰う前に言った通り、今回はアフタの現状確認の為に走って貰っただけだしな。アフタ、すまんが脚をちょっと見せてくれないか?」

 

 盛大にたたらを踏んで見せたテイオー先輩に、気に掛けてくれた事のお礼を言う。

 そして、そのまま自分のジャージの裾をたくし上げる。太腿の半ばまでを晒し出せば、空気がひんやりとしていて……というよりも、普通に寒い。

 ウマ娘は基本的に寒さに強いのだが、それでも十二月の中旬に外で生脚を露出するのは、かなり堪える。

 

「寒いだろうが、少し我慢してくれ」

 

 しゃがみ込んだ沖野トレーナーのなすがままに、俺の脚が撫でられ始めた。かなり擽ったいが、いい加減に慣れて来た感がある。

 沖野トレーナーは、実は脚フェチなんだろうかと疑う程に、熱心に脚を見たがる。そこに下心がないのは伝わるので、別に良いっちゃ良いのだが……トレーナーは、本当ならこうまでウマ娘の脚を弄りたがるものなのだろうか。東条さんも、実はそうだったりするのだろうか。

 

「……トレーナー。想像以上に絵面が犯罪的なんだけど、大丈夫? この辺、結構お巡りさんが通るらしいよ?」

「テイオー。俺は今、仕事をしているんだ。ウマ娘を支える為の大事な仕事だ。相手が国家権力だろうが何だろうが、どれだけ邪魔されても俺は職務を遂行する。絶対にだ」

「……もうそれ、変態の言い訳にしか聞こえないよー……」

 

 遠い目をしてきょろきょろとし始めたテイオー先輩を尻目に、沖野トレーナーはひたすら脚を撫でたり、揉んだりを続けた。

 テイオー先輩はお巡りさんが居ないかを心配しているのだろう。疚しい事はないから、心配しなくても良いと思うのだが。

 先輩が辺り一帯を見渡し終わった頃に、沖野トレーナーも俺の脚を撫で回すのを止めた。

 

「──惚れ惚れするくらい、バランスの取れた良い脚だ。アフタの()()っぷりからじゃ想像が付かないくらい、最高の脚だよ。本当に」

「……それ、今分かった事じゃないよね? 触る度に似た様な事言ってるよね?」

「いやだって、本当にいい脚──すまん、そんな変態を見る目を向けないでくれ。冗談だから」

 

 よっと……と言いながら沖野トレーナーは立ち上がった。

 

「で、脚の状態だが……中距離走直後の状態でも、俺やおハナさんが心配するレベルからは脱したと判断して良いだろう。上半身が分からないから、これで心置きなく……とは言えないが、一先ずはトレーニングに復帰出来る。もう二度と、日常生活で転び捲るまで体に疲労を蓄積するんじゃないぞ」

「はい、もうしません。先輩方にも、多大なご心配をお掛けしました。以後、健康第一に名ウマ娘を目指そうと思います」

「……悪いが、アフタのトレーニングに関する自重は何があっても信じるなと念押しされてるんだ。それにお前、思った以上に疲れの抜けにくい体質だ。これからも、以前の約束は継続させて貰うぞ」

 

 心の中で舌打ちした。

 今後も、俺が勝手にトレーニングをすると、先輩方が手を止めて俺を抑え込みに来るらしい。スピカと合流してから今日まで、ずっと良い子にして来たと言うのに……こうも信用して貰えないなんてあんまりだ。

 

「まあ、なんだ。元々はお前の体を心配して急遽始まった交流な訳だが……ここまで来たんだ。スランプを治すのにも、きちんと付き合ってやるさ。というか、此処で見捨てたらうちの奴らに何を言われるか分かったもんじゃないしな」

「とか格好付けちゃってるけど? 本当は見捨てる気なんて、最初からないんじゃない?」

「……お前らっていつもそうだよな。俺の事をなんだと思ってるんだ。俺が格好を付けてると、自動でお前らに天罰でも降るのか? たまには、格好良い大人のまま話を終わらせてくれよ……」

 

 にししと笑うテイオー先輩と呆れた様な沖野トレーナーは何と言うか……最高に、信頼関係で結ばれた()()に見えた。

 きっと、テイオー先輩ではなく、他のスピカの誰と並んでも、同じ様に見えて……やっぱり、同じ感想を抱くのだろう。

 俺と東条さんだと、どう背伸びしても子供と保護者にしか見えないので、羨ましい限りだ。

 

「それじゃあ、今日の所は宿に戻るか。あいつらが美味い飯を用意して待ってるからな。アフタは野菜ばっかり食わず、きちんと肉も食えよ」

「……善処します」

「善処じゃなくて、将来の事を考えるなら絶対だ。それと……スランプの事は、俺とおハナさんに任せとけ。二人で相談して、何とか手段を考えてやるさ。だから、絶対に勝手なトレーニングは厳禁だぞ」

「分かりました。信じてお任せします、よろしくお願いします」

「おう、任された」

 

 沖野トレーナーに、深々と頭を下げる。スランプは俺だけではどうしようもないから、解決出来るなら何だってする所存だ。俺はその先に進まなければならないのだから、これからも必要であればトレーニングだって我慢しよう。

 その結果、不安から自分自身を逃がし切れなくなったとしても……必ず、耐えてやろうと思う。

 だって俺は、ディープインパクトに、ならなきゃいけないのだから。

 

「うん……ずっと観察してたけど、アフタって印象に依らず、割かし礼儀正しくて偉いじゃん! ゴールドシップを見慣れてるから、ボクとしてはもっとはっちゃけた方が良いと思うけどね!」

「少なくとも、何処かの小生意気な天才のクラシック時代よりかは、礼儀正しいわな」

「うん? 誰の事? ま、いっか。さて──それじゃあ、皆の所に帰ろっか!」

 

 テイオー先輩の号令で、俺達は帰路に着く。俺の本来帰るべき場所は、リギルの皆の集まる場所なのだが……それはそれとして、此処(スピカ)も居心地が良いのは間違いない。

 

 練習施設の傍に屹立する山々は、日が沈む毎に黒く染まっていく。日本の山は自然が多いから、何だか化け物でも出て来そうだ。

 俺はテイオー先輩と沖野トレーナーに置いて行かれないように、急いで後を追う。

 俺は馬だ。馬は臆病な生き物だから、一人で暗闇に居続けるのは、怖いのだ。例え暗がりから逃げ切れるだけの脚があったとしても……やっぱり、一人ぼっちは怖いだろう。

 俺にはよく、分からないが。




どうしても平均文字数一万文字に拘ると、投稿頻度はお察しになってしまいます。ご容赦下さい。
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