走り抜けても『英雄』がいない 作:天高くウマ娘肥ゆる秋
お礼の念を込めて、予定より急いで執筆しました。楽しんで頂ければ幸いです。
「──任せとけ……とは言ったものの。正直、どう指導すりゃ良いのかさっぱりなんだよなぁ……」
早朝、自分用に借りている一人部屋にて。
ノートパソコンを乗せた卓袱台の前で、沖野は胡座をかいたまま倒れ伏した。頭で組んだ手に畳の編み目が食い込む。
薄黄色になるほど
ウマ娘達には男一人で寝泊まりする自分よりもずっと良い部屋を借り与えたが、はっきり言って正解だった。この旅館は衛生面こそきちんとしているが、歴史を感じさせる佇まい通りの趣が、そこかしこに見て取れる。
要するに、
そんな骨董品剥き出しの部屋に、二週間も思春期のウマ娘達を放り込み続けるのは精神的に宜しくないだろう。まだ
逆に言えば、宿のおんぼろさを加味しても、此処の温泉の効能は捨てがたかったのだ。
チームスピカは何かと故障に縁があり過ぎるので、ウマ娘の健康には特に気を配る必要があった。
空調で部屋を暖めてはいるが、それでも床の方に近付くに連れて冬の底冷えを感じた。自分が借りた部屋は、間違えても
自分がトレーナー業を半ば辞めていた頃の
日々新しくなる機材や環境、古くなって廃棄せざるを得ない消耗品、ほぼ廃部状態だったが故に雀の涙よりも謙虚になっていた部費。はっきり言って、それらに係る諸々のコストを甘く見ていたと言わざるを得ない。
沖野は国内屈指のトレーナーではあるが、商売人ではないのだ。銭勘定なんて興味すらなかったし、部費が困れば高給取りの自分が自腹を切れば良いの精神で今日までやって来た。それでも、自分なりに算盤を弾いてはいたが、いざウマ娘達の為となるとつい財布の紐が緩くなる。
その結果として、担当ウマ娘達が大活躍して部費が大幅に増額されたとしても──ついでに自分の給料にもそれなりの色が着き始めても──常にチームスピカと自分の家計は火の車だ。
流石に、最低限必要な金銭はきちんと確保しているが……同僚に呆れられても、さもありなん。
結局の所、かつての担当ウマ娘達に見限られて、腐っていた自分が悪いのだ。
「……先行、差し、追い込み。ストライド走法ベースでなら、逃げ以外は殆ど同水準でこなせるってなんだ。スランプに陥った
傍に置いていた、同僚の東条ハナから預かった資料を再度手に取る。もう何度も確認した内容と、昨日計測したタイムを照らし合わせ……思わず、長い独り言を呟いた。
合宿が始まってからずっと頭を悩ませているのは、東条ハナから預かったアフターマスに関してだ。
沖野は思考を整理する為に、続けて考えを口から出す。別に自分以外には誰もいない部屋なのだから、誰かの目を気にする必要は無い。
「スランプ、か。スランプ……ねぇ。……本当にスランプか? 何にせよ、同期のウマ娘達が目の色変えて執着する訳だ。未だに本人が向上心の塊だから、油断したら追い付けなくなるんだもんな」
思い浮かべるのは、合宿が始まってから起きた一幕。アフターマスに謎の発言を吐き捨てて何処かへ行った、藍染色のリボンを着けたウマ娘と、彼女と一緒に居た二人のウマ娘達だ。確か、彼女達もアフターマスと同世代の有力なウマ娘で、メイクデビューの前から将来を嘱望されていた子達だった筈である。
……と言うより、今でこそ『最弱世代』なんて呼ばれるアフターマスと同期のウマ娘達は、基本的に粒揃いだ。最新のトレーニング技術や発展した研究成果を以て育てられた、例外なく
東条ハナが突如スカウトした、実績皆無の無名ウマ娘がメイクデビューを走るまで……彼女達こそが新たな『最強世代』になると、中央のトレーナー達ですら想像していた程だ。
『最弱世代』と呼ばれなければならない程、彼女達は弱くない。
「……せめて、ゴルシかマックイーンが居りゃあ良かったんだがなぁ」
脳裏に過ぎったのは、自分が担当するチームスピカのメンバーである二人。アフターマスが最も得意とする追い込みの名手、ゴールドシップ。そして、アフターマスの幼少期を知るらしいメジロマックイーンだ。
実の所、アフターマスが言うスランプというのは、殆ど交流のなかった沖野には判断が難しかった。
何処となく走り辛そうにしているとは薄らと気付けたものの、試しで計測してみた時計は超一流のそれ。実際の本番で練習と同じ時計が出せる訳ではないが、それにしたって休養明けの一発勝負で出して良いタイムではない。
アフターマスが特殊な走法をする突然変異的なウマ娘であると知らなければ、夜中にでも皆に隠れて練習していたのでは──と、疑う程だ。
……と言うよりも、疑ったからこそ、暖かい屋内へ戻る前にその場で脚を念入りに触診したのだが。結果として沖野が分かった事は、アフターマスが本当にきちんと約束通り休んでいた事と、相変わらず惚れ惚れするトモであるという事の二点のみ。
アフターマスがスピカに同行するようになってから何度か触診を行っているが、そこにあったのは相変わらず
……とにかく、沖野としてはアフターマスに関する判断材料が少しでも欲しかった。
だから、スピカで唯一彼女と同じ追い込み型のゴールドシップと、幼少期の彼女に走りを教えたらしいメジロマックイーンに、今のアフターマスの走りを見て貰いたかったのだ。
肝心要のゴールドシップはメジロマックイーンのリハビリに付き添って──と言いつつ、メジロマックイーンに
せめてビデオ通話でも出来れば良いのだが……メジロマックイーンにはアフターマスへと何かしらの意地と考えがあるらしく、これを拒否。ゴールドシップはよく分からないが、取り敢えず拒否された。
「……どうすっかなぁ」
そもそもの話。アフターマスというウマ娘は、無敗の三冠ウマ娘だ。即ち、ウマ娘の完成形の一つなのだ。発育が極めて悪い点から目を背ければ、だが。
そんな存在が
ウマ娘だって、無限に速くなる訳では無いのだ。やはりどこかで、生き物としての限界を迎える。
だから沖野としては、本気でリニアモーターカーと競い合おうとしたんじゃないか……位しか、アフターマスの心が折れている理由が思い付かない。
『無敗の三冠』とは、日本のウマ娘最強候補の証でもあるのだ。例え海外の伝説的ウマ娘が相手であっても、心折れるまでの惨敗等は起こり得ない……そう、沖野は信じている。
ああでもない、こうでもない、と思考を巡らせる。東条とは既に昨日までの情報共有を終えており、方針も再確認してある。
来年に向けての心身のコンディションを最優先。これに限る。加えて、東条はアフターマスをコントロールし切れなかった為、合宿期間中は沖野主導のトレーニング方針で。
……アフターマスをコントロールし切れなかったと言うよりも。東条の場合、敵の多過ぎるアフターマスの絶対的な味方であり続ける事を選んだだけなのだが。
沖野がアフターマスと結んだ約束。
勝手に自主練習を行えば、先輩のトレーニングを中断してでもアフターマスを止めに入る……実はそれを思い付いたのは、他ならぬ東条だった。
だが、それを東条からアフターマスに伝えた場合、東条はアフターマスにとって絶対的な味方ではなくなってしまう。一度彼女と本気で対立してしまえば、
新しい無敗の三冠ウマ娘は、そう割り切らなければまともに生きられない程には、色んなものに精神を摩耗させられている。
だから、所属チームの担当である東条ではなく、別チームの担当である沖野なのだ。絶対的な味方ではなく、信用出来る
弱いのに強くなり過ぎたアフターマスは、これからも強く在り続けなければならない。彼女を否定する声が、全部霞んで消えるようになるまで。
──だから、リギルから彼女達の後継者を『有馬記念』の直前に預かる沖野は、責任重大だ。
にぃ、と口角を吊り上げ、弾みを付けて起き上がる。
誰だったか。一人前の男はどんな時でも笑ってなけりゃいけない……なんて言ったのは。確か昔の映画俳優だった気がするが、全く以てその通りだと思う。泣き言を言ったって、誰も助けちゃくれないし、むしろ自分は助ける側の
子供達の将来に立ちはだかるものは、問答無用で排除する。教え子達の将来に光あれ。ウマ娘の未来に栄光あれ、だ。
いつも食べている蹄鉄形の棒キャンディーを一本取り出す。偶然、初めてアフターマスに会った日、彼女にあげた人参味だ。ぺりぺりと包み紙を剥がして、咥える。人参の優しい甘味が口内に広がる。
やってやる。この棒キャンディーの甘さみたいに
沖野はそう決意して、パソコンのメール機能を開いた。宛先はゴールドシップ。件名は『頼むから早く来てくれ本当に頼む』。直撮りの動画メッセージで「ゴルシがこの映像を見る時、世界はシルバーウマ娘星人に支配された後だろう……」くらいぶっ込めば、多分面白がって釣れるだろう。無理なら、次の手を考えるだけだ。
アフターマスのスランプ解消に向けて、沖野にも腹案は色々とある。だがやはり、ゴールドシップが居た方が色々と捗って良い。先程の脚質関連でもそうだし、ムードメーカーとしてもそうだ。
ゴールドシップは破天荒な事ばかりしているが、常識を知らない訳では無い。だからきっと、後でしこたま笑われるだろう。だが、一向に構わない。
本当に大切な事の為なら、どれだけだって恥を掻ける。それもまた、大人であるという事なのだから。
■□■
暗い鹿毛の髪。御空色の瞳。色の薄い肌。
髪型は昔から、両親が決めた姫カット。長い髪は殆ど手入れなんてしていないから、毛先はちょっとぼさぼさだ。
酸素が出入りする鼻と口は小振りで、大きな目元はいつも通り眠たそう。仏頂面というよりは、純度の高い無表情。
視線を下げて一糸纏わぬ
腰から下にかけては鍛え抜いているから、かなり引き締まってはいるが、それなりに厚みがある。それでも女性らしい丸みがあるのは、ウマ娘という生き物の体が特殊だからか。多少の無理を承知で鍛えた俺の脚ですら、普段は意外と柔らかい。
胸に行く筈だった栄養が全て下半身に回ったのだろう。脚をとにかく鍛えなければならない俺としては、本当に有難い限りだ。胸に行ってしまっては、空気抵抗が生まれるわ、重しになるわで良い事が全くない。
胴回りには一切無駄がない……と言うより、エネルギーを摂取した傍から消費するものだから、無駄の付きようがない。スピカのお世話になり始めてからは、走らずとも無駄が付かないよう食べる量に気を付けている。
俺の走りにとって、重さは敵だ。吹き飛ぶくらい軽くなきゃ、一歩で遠くに進めない。
「……教えてくれよ、ディープインパクト。俺が見付けるべき自分って何だ? お前じゃない俺って、何だ?」
京都レース場にある銅像を幼くして、色を付けた虚像。風呂上がりだから、それが全体的にしっとりとしていて、服を着ていない。
そんな鏡の中のウマ娘へと問い掛けても、答えなんて返って来る訳がない。そもそも、映っているのは勿論、ディープインパクトではないし……仮にディープインパクトだとしても彼奴は無口だ。答えなんて、この場にはない。
それは分かっているが、俺は俺で困り果てているのだ。ディープインパクトでも競馬の神様でも良いから、たまには俺を助けろよ……と言いたい。不思議な存在という奴は、ちょっと俺に対して殺意が高過ぎると思う。そんな弱音を噛み潰す。
わざわざ朝早くから、俺が誰も居ない旅館の脱衣場で何をしているのかと言うと、自分探しだった。後はついでに、お湯に漬かってトレーニング前の体
沖野トレーナーから、スランプを解くには自分を見付け直せば良い……とアドバイスを貰ったのは良いものの、残念ながら俺には自分らしい自分というものがない。
もしかしたら前世の仔馬時代や前々世にはあったのかもしれないが、正直な話、もうそんなに昔の事を覚えていない。
だから取り敢えず、自分の身体的特徴から何か見付からないかと思い、大きな姿見のある此処へやって来たのだ。
勿論、その程度で自分が見付かるなんて訳もなかったが。
ディープインパクト。
残念ながら俺の思い出の大半は、俺そっくりな此奴に占領されている。我ながらどれだけ
日がな一日、年がら年中。自分そっくりな奴の事ばかり考え続ける自分自身に、ちょっとお近付きになりたくない程は引いた。
……冗談でも
がっくし……と、肩を落として服を着る。
何をやっているんだろうか、俺は。急にアイデンティティに目覚めて、自分探しの旅に出る子供か。自慢の自転車に跨ったまま、迷子になった所を親や学校の先生に保護されるやつ。まんまその通りの精神状態な気がする。
スタンドバイミーを気取るには、些か精神的に歳を重ねすぎているだろうに。記憶が殆ど消え去った前々世を除外したって、前世の四年分は今世の実年齢より大人なのだ。
少年時代特有の無鉄砲な行動力も、青い猫型ロボットも、俺には縁遠い存在である。
脱衣場を出て、部屋に戻る道すがら。廊下から中庭へと出られる引き戸の窓から、空が見えた。
前世でも、よく空を見ていた。と言うより、馬の体で出来る楽しみなんてそれしかなかった。雲が風に崩される様を眺めるか、厩舎の隙間から星空を眺めるくらいしかなかったのだ。たまに見れる月は大体いつも欠けていたし、空の主役は殆ど雲だ。空が酷く懐かしい。
引き戸を開ける。切れるほど冷えた外気に触れて、せっかく解した体が冷え始めるが、それでも空が見たい。寒さは、早朝の仄暗い空でも見える、輝く星が紛らわせてくれる。
風邪は嫌いだから、長くはこうして見ていられないが……ウマ娘は──馬は、寒さに強い生き物だ。だから、多少は大丈夫。
囲いのないこんな空なら、何処まででも思いっ切り自由に走り抜けられそうだと思う。彼処なら暗くて誰も走らないから、きっと誰も見ない。だから俺が気を抜いて、みっともなく走っていても構いやしないだろう。
中央トレセン学園からじゃ見られないくらい、綺麗な空だ。
──誰かの鼻歌と、足音が聞こえる。
「ふふふん♪ ふふふん♪ ふっふっふ〜ん♪ ふふふんふんふふ……って、あれ。アフタじゃん。こんな所で何やってるの?」
振り向いた先にはテイオー先輩が居た。トレセン学園のジャージ姿で、髪は乱れていて頬が少し赤い。スピカのメンバーは全員、俺と違って自主練を禁止されていない。だから先輩方は全員、朝のこの時間帯は練習に励んでいる。この様子だと、今日の分はもう終わったのだろう。
普段なら付いて行ってあれこれと研究させて貰うが、今日は自分探しをするべく、俺は一人で宿に残っていた。
取り敢えず、挨拶で返す。
「お疲れ様です、テイオー先輩。朝風呂を頂いた帰りです。ついでに……散歩中です」
「ふーん? でもそんな所にいると、体が冷えちゃうよ」
ほら、こっちおいでよ。そう言って、テイオー先輩が手招きする。いつの間にか、引き戸から外へと出ていたらしい。郷愁の念に駆られるのも、いい加減にしなければならないだろう。俺にそんな時間はない。
「すいません、ご心配お掛けします」
「いいっていいって。かったいなー。……それはそれとして、アフタ。すんごい冷気纏ってるけど、どんだけ外に居たのさ?」
「えっと……少し?」
「いや、少しって……うーん……ま、良いんだけどさ。でも、風邪引いちゃ駄目だよ?」
「はい、ありがとうございます。気を付けます」
テイオー先輩にお礼を言って、引き戸を閉める。さっきまで俺の全身を覆っていた冬の外気は、窓越しに此方へと手を伸ばすだけになった。
早く部屋に戻って、自分を見付ける手掛かりを探さなければならない。
「……もしかして、なんだけど。昨日トレーナーと話してた事、めちゃくちゃ気にしてる?」
テイオー先輩の指摘に、背筋が震えた。
俺の考えは分かり易いのではなくて、頭上にでも鮮明に浮き出ているんじゃないか……そろそろ、そんな風に疑いそうになる。他の人達は、どうしてそうも人の考えが分かるんだろう。或いは、馬だった俺が鈍すぎるだけなのか。
「図星みたいだね。そんなに難しく考えなくても良いと思うんだけどな。
「そうは言われましても、俺には難しい事です。きちんと探さないと、見付けられそうにないんです」
「うーん……?」
深く深くテイオー先輩は首を傾げた。何かを見透かすように、俺の目をじっと覗き込んでくる。
そして沈黙が生まれて──テイオー先輩は何かを思い付いたように、口を開いた。
「あっ。もひとつ、もしかしてだけどさ。アフタって、誰かになろうとしてる?」
暫し、何を言われたのか分からなかった。テイオー先輩の台詞が俺の中へと時間を掛けて入り込んで……ぐちゃぐちゃに、脳を掻き混ぜた。どうして、分かったのかが分からない。俺はただの一度だって、スピカの方々に
「何を……言ってるんですか?」
「うん、その様子は正解っぽいね。誤魔化さなくても良いよ。なんたってこのテイオー様には、隠し事なんて一切出来ないのだーっ! ……なーんてね。ボクも、少し前まで似たような感じだったんだよね。だから分かったんだと思うよ」
ボクが君を苦手だった理由、ようやく分かったよ。君は昔のボクと似てるんだね。
そう、先輩は微笑む。
「ボクの場合はカイチョー──無敗の三冠ウマ娘、
曖昧に笑いながら、テイオー先輩は頬を掻いた。「ちょっと待っててね」と言って、廊下にある自動販売機へと向かう。テイオー先輩は何かのジュースを二本買って、戻って来ながら片方を俺に差し出した。
お礼を言って受け取ると、じんわりと痺れるような温かさが指先を通る。缶のラベルには『ホッとはちみーレモン』と書かれていた。
「きっと、今の君は何かを言われても、受け入れらんないよね。わかるわかる。そう簡単に受け入れられるなら、苦しくないもんね」
一人でしたり顔で頷くテイオー先輩に、ぽかんとする。先輩が何を判断材料に俺を推し量ったのか分からないが、何となく正しく見抜かれた感覚がある。
「気楽に気楽に……なんて言っても悩むよねー。そりゃそうだ。だから、今は──それ飲んで体温めて、この後のトレーニング……すっごく頑張ろう!」
「……えっ? いやあの、それは勿論……頑張りますけど……」
「うんうん。それで良いと思うよ、ボクはね。……本当は、別の事でアフタと話してみたかったんだけど、もう聞きたい事の答えが分かっちゃったし、良いや。その缶ジュースは、ボクの疑問が解消したお祝いね」
あっけらかんと言い放った先輩は、どうやらあまりこの話を続ける気はないらしい。
もしかしたら、単純過ぎる問題なので呆れたのかもしれない。そうじゃなければ、この場で進展する話ではないのか。
何方にせよ、先輩に倣って俺も話をすぱっと切り上げるべきだろう。よく良く考えれば、先輩の入浴の邪魔になっている。集合時間まで、無限に時間がある訳ではない。
先輩の敷いたレールに乗って、話を曲げる。
「……テイオー先輩のお祝いなのに、俺が奢って貰うんですか?」
「当ったり前でしょ! ボクはトウカイテイオー様だぞ! 後輩にジュース強請るなんて真似、しないよーだ!」
──練習を頑張って速くなろうとする。違うチームに混ざって色んな事を知ろうとする。完全な君はまだ見付からなくても、取り敢えず今はそれが答えで良いんじゃない? 地道に努力する君だって君だ。
それに、ボクが
先輩はそう笑いながら、くるりと後ろを向いた。また後でね、と言って後ろ手を振りながら、浴場へと向かう。来た時と同じ鼻歌を歌いながら。
不屈のトウカイテイオーは、自由気ままに爪痕を残して行った。俺と似ていた……なんて、何の冗談だろう。
なんと言うか……突然、突風に吹かれたような。めちゃくちゃな風が吹いて、雲が綺麗に散ってしまったような。そんな気分だった。
貰った缶ジュースを開けて、少しだけ口に含む。優しい甘さと温められた柑橘の香り。初めて飲むが、中々美味しい。飲料の熱が、喉を伝って体の芯に届く。吸い込む冷たい空気すら、甘くて爽やかに感じた。
ふっ……と、気になって、引き戸の窓から空を覗く。
話してる間に、空は濃紺色から瑠璃色にまで和らいでいる。だから、気付く。さっきまで見当たらなかった温泉の湯煙が、広々としていた空に覆い被さっている。これでは、彼処を走っても楽しくない。
俺が見ていた
俺は、ずれた心の蓋を閉め直した。
何かに化かされたような、でも帰って来られたような。少しだけ、そんな変な心地になった。
以前、アフターマスの外見描写が欲しいと言われていたのですが、此処で出す為に温存してました。