走り抜けても『英雄』がいない 作:天高くウマ娘肥ゆる秋
あと、今回はいつもより、ほんの6,000文字だけ文字数が多いです。
計16,000文字ちょいですが、16,000pt記念で頑張っちゃったんだなぁ……くらいの感覚でお許し頂ければ幸いです。
2021/11/21 追記
物語の展開上、今話には不愉快な描写が入ります。展開の関係でどうしても回収は後になりますが、テーマの兼ね合い等もありますのでご容赦下さい。
緑の地平へ踏み込む。体が風を切り、一歩一歩が限界の先へと進もうとする。
フェンスやベンチ、
脳裏に
俺とよく似ているのに、少しだけ何かが違うフォーム。少しの違いで、結果的に別物となっている綺麗な走法。
前世の俺は馬だけど、まだ中身は人間だった。だから、馬である
そもそも、
菊花賞で瞼の裏に焼き付いた完璧な走り。俺が先輩方と育て抜いたつもりだった走り。俺こそが先輩方の後継者である──そう誇れる筈だった
ストライド走法とピッチ走法の合わせ技。そんなの、本当にずるいと思う。
ストライドの長さとピッチの速さ──その乗算こそが、俺達競走馬の速さの正体だ。何方かを選べば、何方かが選べない。それが常識なのだ。
一歩を踏み込む。前へと進む。ここの練習場は日が沈むと、大きなスタンドライトが灯るから有難い。
学園でもライトは灯る。しかし、先輩方に練習場を見張られた時には、明かりの無い近所の公園を走っている。真っ暗闇の中を、倒れる限界を見極めながらのトレーニングは……なんと言うか、普通に怖い。明かりが有るだけで、世界が優しくなったように感じる。
今の俺にとっての最高速へ辿り着く。一歩一歩の間隔が均等になって、とっとっとっと音が
背中の関節を小刻みにしならせて、脚を持ち上げる補助をする。ぐんと、重心が前に寄る。体幹がぶれて、バランスを崩す。転ける前に、上体を起こして脚を止める。
また失敗した。どうすれば、俺は
原理だけなら、少し分かる。でも分かるだけで、実際に出来るかは別の問題だ。『英雄』の一端を確かに掴んでいる感覚はあるが、それでも正解が分からない。
今はとにかく、スランプが邪魔だ。自分の元々のフォームだって、少しずつ思い出せなくなる。走りの中で、記憶まで風に吹き飛ばされているのだろうか。俺の見付けるべき
だけど、世の中ままならない。
最近ずっと怠け者をしていたせいで、体が鈍っているのだろうか。まだ全然練習出来ていないのに、酷く疲れてしまった。
折角、沖野トレーナーに頼み込んで、練習終わりから晩御飯までの制限付きで、久し振りの自主練習を許可して貰ったんだ。有馬まで残り十日を切っている。今すぐにでも、もっと……もっと速くならなければならない。皆の誇りにならなければならない。
なのに、俺の体はわからず屋だ。言う事を聞いてくれない。ゆっくりと、尻餅をつくみたいに、芝の上へと座り込んだ。
とても格好が悪い。誰かに見られていたら嫌だなと思う……なんて思っていたのが悪いのか。誰かが小走りで近付いてくる気配があった。
「──ちょっ……だっ、大丈夫!?」
「あっ……えっと、大丈夫。ごめん、格好悪い所見せた」
「いや、勝手に覗いてたの僕だし……と言うか本当に大丈夫? 怪我してない?」
暗闇に灯るスタンドライト。あちこちから影が落ちてくる中で、何となく本人が影そのものみたいなウマ娘。
いつも藍染色の子と一緒に居る少女が、此方へと手を伸ばした。俺は有難くその手を取って、立ち上がる。
感謝を一言述べれば、いやぁ……なんて返事が返ってきて──そのまま、沈黙が始まった。
また、何か怒らせてしまう事をしてしまったのだろうか。影みたいな子は何かを言おうと口をもごもごさせているだけで、何も事態は進まない。
勇気を出して、口を開いてみる。
「えっと……俺に何か用事だったりする?」
「えっ!? あっ、いや、べっつにー? 練習頑張ってるなと思ってね! 特に用事はないよ! うん、ない! それじゃあ、僕はこの辺で──」
「──いや、幾ら何でもここまで来て逃げるのは無しでしょ」
少女が来た方向から声が飛んで来た。目を向ければ、やはりと言うべきか。藍染色の子と、その友達の片割れの姿があった。
藍染色の大きなリボンと、薔薇の絵の髪留め。仄暗いターフでは、二人が着けている装飾品は浮いて見える。
「ぐぬぬぬぬ……でも、思ってた以上に抵抗があると言うか、言ったら取り返しがつかなくなるというか……!」
「ほら、あんたも人の事言えないじゃない。変な拘り変な拘り」
「何をうっ!?」
「じゃあ、アンタは後回しという事で」
ほら、言いたい事が有るんでしょ。そう言いながら、藍染色の子が薔薇の髪留めの子を前へと促す。背筋がぴんっ……と伸びた育ちの良さそうな少女は、「それでは私から」と呟きながら、俺の前へと進み出た。
そして──沈黙。
「いやっ、アンタも!?」
「何と申しますか……こう、いえ。私が間違えているのは分かっております。ですので……はい」
「はい、じゃないわよ。何も進んでないじゃない!」
「そう言ったって、結構覚悟が要るんだよ! そう思うなら君から行きなよ! その間に僕達も覚悟決め直すからさぁ!」
薔薇の髪留めの子が横へと退き、今度は藍染色の子が俺の前に立った。
今度は溜息を吐きながら、口を開いた。
「菊花賞の後、暴言吐いてごめん。でも死ね妖怪ターボポニー」
別に気にしてないから良いよ──そう言おうとして、謝罪の後に続いた暴言に口をあんぐりと開いた。
これはどういう反応をするのが正解なのだろうか。笑えばいいのだろうか。ちょっとこんな経験は初めてで、どうすれば良いのか本気で分からない。
俺が心底困り果てていると、影のような子が目を細めて呆れた顔をした。
「……それ、本当に謝った事になると思う?」
「私の国ではなるわね」
「なりませんよ……幾らサブカルチャー大国の日本と言えど、そんな特殊な謝罪方式はまかり通らない筈ですわ……」
「えっと……コントを見せに来てくれたの?」
「違うっ! 僕らは……あー、もうっ!」
影のような子が、決心を決めた目をして此方へと向き合う。何となく、俺も背筋が伸びた。何を言われるのだろうか。
「菊花賞の後、いけずしてごめんなさい!」
がばっと、勢い良く頭を下げられた。何の事か分からず、暫く脳が停止して──思わず、あっ……と声が漏れる。
「別に気にしてないって言うか……急にファンサービス考えといてって言われて困ったけど、俺も結局何も出来なかったし」
「いや、そっちじゃなくて……いや、そっちもなんだけど……とにかく、嫌がらせしてごめん!」
レース直後で気が立ってたんだ! 本当にごめん!
影のような少女は少しだけ顔を上げてから、そう言って再び頭を下げる。真剣に謝ってくれているのは伝わってくるが、正直何の事か思い付かなくて困ってしまう。
菊花賞の後……と言われても、その時はディープインパクトの走りで頭がいっぱいで、悔しくて、不甲斐なくて、悲しくて……とにかく、まともに物事を考えられていなかったのだ。改まって謝られても、むしろ此方が申し訳なくなる。
頭を上げてくれるよう言おうとして……見事にタイミングを逃した。今度は薔薇の子が頭を下げる。
「あの……私も、申し訳ありません。動画の件、揶揄うのは悪質でした。本当にごめんなさい」
「動画……動画……あ、『ユメヲカケル』の。いや、別に二人とも……三人とも? 全く気にしてないよ、本当に。だから頭を上げて欲しいなって」
頼みを聞き入れてくれて、二人は恐る恐ると言った様子で頭を上げてくれた。
そして、そんな二人へと胸を張り、堂々と反応を返す──藍染色の子が。
「ほら、だから言ったじゃない。こいつにそんな心配要らないって。こいつを誰だと思ってんの」
「いや、なんで君が偉そうなのさ……?」
「貴方は
二人から藍染色の子へと突っ込みが入る。こんな事を引き摺って欲しくない俺としては、少しでも普段通りにしてくれていた方が有り難い。
普段の三人の様子は全然知らないが、菊花賞の時とこの短時間とで、何となく透けて見えるようだった。
しかし、表面上は明るくとも、目がまだ後ろめたそうに垂れている。俺としては、精神年齢がずっと下の少女達にこんな風に接されると、罪悪感でいっぱいになってしまう。
ここは冗談交じりで、良い感じに収めるのが大人の対応と言うやつだろうか。
「えっと……それじゃあ、許す代わりに俺と友達になってくれたら嬉しいなー……なんて」
「ごめん、
「私は別に大丈夫ですが……いえ。私も、やはりまだ敵対者のままでお願い致します。身勝手とは承知の上ですが……」
勇気を出して切り出した
ここまですっぱりと断られるとは思っていなかったので、呆然としながら最後の一人──藍染色の子へと目を向ける。この子に関しては何となく、答えが分かりきっているが。
「こっち見んな」
ああ、そうだよね。君はそんな子だよね。むしろなんか安心した……そう口から出掛けたが、ぐっと飲み込んだ。
この子は名前を覚えるなと言ってきたのだから、パーソナリティを覚えられるのも嫌がるだろう。俺は大人なので、それ相応の判断をしなければならない。
……と言うより、藍染色の子は何となく機嫌が悪いように見えるので、触れるのは賢い選択とは思えなかった。
俺はぼんやりと空を見上げて──雲だらけで真っ平らな空に、心の中で悪態を吐いた。今日は雲が多過ぎて、空が逆にのっぺりして見える。日没直後の暗さが、雲の境目をあやふやにしているようだった。
心の中で溜め息を一つ吐く。顔を戻して、気にしてない旨を再度伝える。
もうこうなっては、居た堪れない空気が出ないよう必死になるくらいしか、俺に出来る事はない。どっちが謝ってるのか分からなくなるくらいの身振り手振りを交えて、友達云々は冗談である事と、菊花賞云々なんて本当に気にしていない事を全力で伝える。
しかし向こうも負けじと謝罪の弾丸を返して来るので、真っ暗なターフの上はいつの間にか、謝罪合戦の様相を呈してしまっていた。
ぼんやりとしたスタンドライトの間接光には似つかわしくない、音域の異なる少女達の声が、賑やかに辺りへと響いている。
今は他に利用者が居ないので、迷惑を考えなくても良い事だけが救いだ。この時間帯は利用者以外立ち入り禁止なので、この薄明かりの下には俺達以外誰も居ない筈である。
沖野トレーナーとの約束の時間まで、まだ少しの猶予があるのに、もうすっかり練習する気分では無くなってしまった──が。
何故だか不思議と、最近では覚えがない程に気分が軽い。
目上の人以外と接したのが久し振りだからかもしれない。本当に何となくだが、居心地が良い。思わず、天然物のポーカーフェイスが崩れてしまいそうな程に。
俺はこうもちょろかったのだろうか。そう悩んで……答えが出ないので、気にしない事にした。
少女達の青春の声が、山間へと溶けて行く。
仲良しグループと言うのは、何となく羨ましい。チームリギルの先輩方は元気だろうか。少しだけ、ホームシックになる。
もし俺が強くて、『菊花賞』で
だって俺は、チームリギルの
リギルの仲間が恋しくなるのは、当たり前だろう。
──そう心で独りごちた瞬間。
そんな俺の独白は、
暗闇に慣れていた目が、一瞬で眩む感覚。これは……カメラのフラッシュだろうか。前世でも嫌いだった、瞬間的な強い光。
その後も数度、かしゃかしゃと音が鳴り、光が瞬きながら近付いてくる。
堪らず、手で目を覆い隠す。すぐ側から、苛立った声が飛ぶ。
「誰だよ、フラッシュ炊いてんの! っていうか、勝手に写真撮んな!」
影のような子の声が届いたのか、シャッター音と光が止む。
恐る恐る光の向いていた方向へと目を向ければ、見知らぬ男性が大きなカメラを携え、此方へと歩み寄って来ていた。胸ポケットでは赤い小さなランプがちかちかと光っている。
俺の勘違いじゃなければ、何処かの記者さんだろう──男性は、そんな風貌をしていた。
「いやあ、すいませんね。偶然凄い場面に
男性が胸ポケットから一枚の紙を取り出し、差し出して来る。暗くて咄嗟には分からなかったが、名刺だった。俺に向けられているので、流れで俺が受け取る。
四人でそれを覗き込めば、そこには『週刊現代ターフ』の文字と、男性の身分と名前が記載されていた。
「……
「おっと、そうでしたか。それは存じませんでしたね。後で施設管理者へ謝罪させて頂きますよ、ええ。私もね、ネットに投稿されている動画で皆さんの姿を見て飛んで来たもんですから、施設の規則まで気が回らなかったもんで」
「えっと……それはご苦労様です……?」
記者さんを労ったら、藍染色の子に背中を小さく捻られた。目を向ければ、鋭い眼差しが返って来る。
頓珍漢な事を言うくらいなら黙っておけ……そう目が物語っていた。俺は口を閉じる事にする。
少しだけ、藍染色の子が俺より前に出た。それを無視して、記者さんは俺へと目を向ける。
「ああっ、お会い出来て光栄ですアフターマスさん! どうやってもトレセン学園さんが取材許可を下さらなかったもんで、こうして直接お伺いさせて頂きました! ご気分を害されたなら申し訳ない!」
「よくもまあ抜け抜けと。あんな糞みたいな記事を書いておいて、こいつに取材しようなんて神経疑うわ。そんなんだからトレセンから出禁にされるのよ、アンタら。お願いだから私達に関わらないでくれない? 厄が移るわ」
「ははっ、これは手厳しい。しかし今日は皆さんにではなく、アフターマスさん個人に取材したくて伺ったんですよ」
「あっそう、でも残念。こいつ含めて、私達全員もう門限なの。後日、きちんと学園やトレーナーを通してから出直しなさい。行くわよ、アンタ達」
藍染色の子が吐き捨てて、練習用コースの出口へと体を向ける。薔薇の髪留めの子に手を掴まれて、俺もそちらへと引っ張られる。後ろからは影のような子が歩幅を合わせて来て、俺の傍に寄った。
……そして、またかしゃりと言う音と、強い光が後ろから飛んで来る。
影のような子が苛ついた様子で、肩越しに後ろを睨み付けた。薔薇の髪留めの子も足を止めて振り向いており、いつもの笑顔が鳴りを潜めている。
「……勝手に写真撮らないで貰えるかな。あと、ウマ娘相手にフラッシュ炊くの止めろ」
「ああ、これは申し訳ない。しかし、私も仕事で此処に来たもんで、僅かなスクープも撮り逃す訳にはいかんのですよ。その為には、夜間の撮影だとどうしてもフラッシュが必要でしてね」
「スクープと仰られますが、現代ターフさんが未成年者を無断撮影する変質者を雇っているという事くらいしか、此処にニュースなんて御座いませんが」
「いえいえ、そんな事ありませんよ。実はですね、弊社の出版物の愛読者から、最弱世代はわざとアフターマスに勝ちを譲ってるんじゃないか……なんて声が挙がってましてね? 我々としましても、これは真実を追及するべきだな……と思い此方へと赴かせて頂いたのです。すると丁度皆さんが仲睦まじそうに為さっていたので、これはもしやと思いましてね」
「……えっ?」
思わず、大きく体を記者さんへと向けてしまう。記者さんは殊更に笑みを深めて、俺へと視線を縫い止めた。
「実際、世間の皆さんがそう疑っても仕方がないでしょう? 無敗の三冠は不可能だ……なんて世論が固まりつつある中で、アフターマスさんのようなウマ娘が生まれる? それはあまりにも都合が良過ぎやしませんか。アフターマスさんのご実家は名家ですし、本当はURAやトレセンと絵を描いたんじゃないですか? ご同期の故障も、アフターマスさんに非協力的なウマ娘を潰す為に画策された事なのでは?」
「──お前ぇっ!」
影のような子が記者さんへと掴みかかろうとする。それをいつの間にか歩み寄っていた藍染色の子と、俺から手を離した薔薇の髪留めの子が掴んで止めた。
俺は……正直、ちょっと現状に置いてけぼりだ。頭が記者さんの台詞を処理し切れていない。俺は今日までずっと本気で走って、それでディープインパクト以外のウマ娘達には勝って来た筈だ。色んな方の手を煩わせてまで伸ばした自力で、
なのに、どうしてそんな事を言われなければならないのだろう。
とても静かな──俺が聞いた事のないくらい静かな声で、藍染色の子は口を開いた。少女の声には震え一つなくて、何を考えているのか分からない。
「アンタ、それ本気で言ってる?」
「おっと、怒らないで頂きたいですね。私の意見ではなく、読者の声と言うやつですよ」
「そう……アンタの所、腐った人間しか集まらないのね。良く分かったわ」
放っておいて行きましょう。藍染色の子が再度そう声掛けを行い──記者さんがそれを邪魔するように口を開く。
「そんな風に馴れ合ってるから、世間からそう思われるんじゃないですか? 結局は、皆さんがそうやって足並みを揃えているから、
「……なんですって?」
釣れた──そう言いたげな顔を記者さんは浮かべる。藍染色の子は、それをぎろりと睨み返した。
びくりとして思わず視線を逸らした先で、スタンドライトがターフの上に落とした影が、ゆらゆらと揺れたように見えた。
「結局の所、いつも最後に行き着く先はウマ娘同士の庇い合いじゃないですか。そんなんだからいつまで経っても、諸外国から日本のウマ娘が下に見られるんですよ」
「アンタ、ウマ娘の事ろくに知らないでしょ。海外と日本とじゃ芝の状態からレース場の形状までまるで違う。なんなら、芝よりダートの方が盛んな国だってあるわ。下に見られる? そんなつまらない事を本気で信じてる方がよっぽど
「本当にそんな事が関係あると思いますか? 今と違って知識も設備もろくに揃っていない時代に、世界と果敢に競い合った先達へ申し訳ないと思わないんですか? 私が思うに、近年のレベルの停滞は、貴女方のそんな弱さが招いていると思うんですよ。いつまで経っても変わらないウマ娘のその姿勢こそが、
徐々に空気が詰まっていく感覚。良くない方向に状況が白熱してしまっているが、俺が口を開くと余計にややこしくなる……それだけは何となく分かるので、静観する。
記者さんがこうも饒舌なのは、少しでも俺達に話をさせて、音声データを集める為だろう。ずっと記者さんの胸ポケットでちかちか光っている赤いランプが、悪意の塊のように感じる。信じられない事に、今の時代は音声さえあれば、切り抜きと編纂で何でも捏造出来るらしい……と、以前ネットで学んだ事がある。
なので、さっきからずっと録音中と思われる
「アフターマスさんもそう思われるから、リギルから
「離脱? そんなのしてませんが……」
「ではどうしてこんな所にいらっしゃるんですか? リギルは現在、別の場所で合宿を行っているじゃないですか。リギルに見限られてスピカに移籍した……そんな噂が流れていますが、それは事実なのではないですか?」
見限られて離脱。そんな未来を想像してしまい、ぞっとする。
確かにこのままディープインパクトになれないと、いつかはそんな未来が来るだろう。だけど、それは今じゃない。まだ来ていない。そもそも俺が此処に居るのは俺の馬鹿さ加減が原因だ。
だから、見捨てられるのは今じゃない……筈だ。
──本当に? もうクラシック三冠も終わったぞ? それでも、お前はディープインパクトに勝てなかったんだぞ? ただの一度も、影さえ踏めずに。
「──煩いな。お前、本当に鬱陶しいよ。ごめん、アフターマス。ちょっと警察呼んで来てくれない? 多分その辺に居るから。それか、誰かトレーナーでも良いんだけどさ」
「……そうやって逃がすんですね? 自分達の
「黙れよ。お前に僕達の何が分かるって言うんだ。外野が口挟むなよ。これは僕達だけの問題だろうが。それにさっきから聞いてりゃ、こいつと馴れ合う? 庇い合う? そんなの僕らがする訳ないだろうが。そんな事したら、僕らは二度とこいつに
影のような子の空気が変わって行くのを感じる。苛立ちから怒気への変遷。空気が熱されていく。
それを──薔薇の髪留めの子が肩へと手を置き、後ろへ下げた。
「一旦、落ち着いた方が貴方らしいですよ?」
「……ごめん。ありがとう」
「最弱世代は、自分の感情もコントロール出来ないウマ娘ばかりなんですね。失礼」
かしゃりと、何度目か分からないシャッター音とフラッシュ。
「ええ、そうですね。レースをバ鹿にされてお行儀良く出来る程、私達も余裕がある訳ではありませんので。貴方はご存知ないかもしれませんが、私達ウマ娘は全てのレースに誇りを賭けて挑んでいますから」
「成程、素晴らしい心構えだとは思いますね。ですが、貴女方の誇りに如何程の価値があるんですか? 所詮は個人の感情じゃないですか。
『ブリーダーズカップ』『インターナショナルステークス』、そして『凱旋門賞』。それらで一度も勝てない事が、近年のウマ娘の弱さを証明しているじゃないですか。
困るんですよ、
そう語る記者さんの目の奥が、確かに見て取れた。俺達を通じて、この人は先輩方すらも馬鹿にしている。
どうしてそんな目をするのだろう。
どうしてそんな目が向けられるんだろう。どうしてこの人は俺を真っ直ぐに見ながら、先輩方を馬鹿にするんだろう。俺には分からない。人の心なんて、分かる訳がない。だって、俺は
だから、答えを教えて欲しいと思う。そんな目を向けずに、何を思っているのか直接言って欲しい。
俺が弱いから?
俺が未熟だから?
俺がディープインパクトの偽物だから?
俺は──次は、
「──おっと。それは違うんじゃねぇかなってアタシは思うぜ」
──強い光を幻視した。それは無機質な光ではなくて、暖かい熱だった。
嵐のようにぐちゃぐちゃな心へと、誰かの声が姿を現す。まるで沈む事を知らないように真っ直ぐな、威風堂々とした声。
薄ぼんやりとした練習場にあっても、世界には希望しかねぇと言いたげな輝き。
そんな誰かの姿が、陰に入り掛けた俺達へと航路を示した。嵐の中の進み方はそうじゃない──そう教えるかのように。
「見てみろよ、この広い海をよぉ! 夏には蝉があっちーなーって鳴き、秋になると米がうめぇって雀が大喜びだ。そんで冬と春には何かがなんか凄い事になる。そんな広い海の向こうで走ってるウマ娘が、アタシらに簡単に負けると思うか? この
『黄金の不沈艦』ゴールドシップ。
俺をずた袋で担いでスピカに連れて来て以来、俺にとってはご無沙汰になる偉大な先輩が俺達の死角から姿を現した。
「ゴールドシップ先……ぱ、い?」
「おう、待たせたな! ちょっと一足早いクリスマスプレゼント取りに行ってたら遅れちった!」
俺達の誰かが、或いは全員が先輩の名を呼ぼうとして──影になってて気付かなかった、何故か不自然に担がれたずた袋を目にして、思わず閉口する。
そんな俺達の心情を知ってか知らずか、虚をつかれた顔の記者さんが気を取り直したように口を開く。目はちらちらとずた袋を見ていたが、視線をゴールドシップ先輩へと固定した。どうやらずた袋は気にしない事にしたらしい。
「これはこれは、ゴールドシップさん。お初にお目にかかります。いつかは貴女にも取材させて頂きたかったんですよ。少しお時間頂けますか?」
「ん? なんだおめー。慌てんぼうなのはサンタクロースの特権だぜ? ちょっとは待ってろよ……っておいおい、これってまさか、噂に聞く
そう言いながら、ゴールドシップ先輩は慣れた様子でずた袋を下ろし、そのまま記者さんの手からするりとカメラを奪い取る。あまりに自然な動きで、記者さんもろくに反応出来ていない。
先輩は、うわすげぇ! なんて言いながら、のっぺりとした空や記者さんをかしゃかしゃ撮ったり、あちこちを弄り始める。
どう考えても白々しいが、本気で感動しているように見えるのは、先輩の人徳のようなものなのだろうか。
呆然とした様子の記者さんが動き始めた──横で、ずた袋がもぞもぞと動いている……というか、ずた袋の口から、人の足が生えて、立ち上がろうとしていた。
しかし、記者さんはそれに気付いた様子がない。
「ちょっ、ちょっと! 何を為さるんですか!? 返しなさい!」
「あっ、悪ぃ悪ぃ。ゴルシちゃんちょっと感動しちまってよ。お詫びにクリスマスプレゼントやるからよ、もうちょい貸しててくれよな」
「大人をバ鹿にするのも大概にしなさい! どうして中央トレセンにはそうも失礼な
「おー、壊しゃしないからそんなに焦るなって。それよりメリークリスマスだぜ、ミスタースクルージ。良い子悪い子元気な子、それぞれにゃそれぞれのサンタさんが来ちまうんだよな。これってビッグニュースじゃね?」
「何を言って──?」
ついに起き上がったずた袋が、人間の腕を生やして記者さんの肩へと手を置いた。
そのままずた袋は脱ぎ捨てられて──中から、沖野トレーナーが姿を現した。
見た事がない笑みを浮かべながら、「メリークリスマス」と引き絞ったような声を出している。とんでもないホラー映像だった。
「ご無沙汰してますね、現代ターフさん。ウオッカとスカーレットの時は本っ当にお世話になりました。所で、現代ターフさんはウマ娘関連の施設には立ち入りが禁止された筈ですが、どうしてこんな所に?」
「スピカの沖野トレーナーですね。ご無沙汰しております。こちらの施設は一般客も立ち入り可と伺っておりますので、別に問題はないでしょう? 何処に行こうと私の自由では?」
「……あくまで貴方個人の自由であると? 成程。しかし、未成年者を何時までも捕まえているのは、自由で済まされる話ではありませんよね。あと、これも」
沖野トレーナーは、先程のゴールドシップ先輩を彷彿とさせる手際の良さで、記者さんの胸ポケットからするりとボイスレコーダーを取った。沖野トレーナーが何処かを押したのか、赤いランプの点滅が消えた。
しかし今度は先程までと違い、記者さんが直ぐに噛み付く。
「貴方まで何を為さるのですか! 直ぐに返さなければ、然るべき場所に訴えさせて頂きますよ!」
「……然るべき場所、ねぇ。すまんが、そんなくそ寒いギャグに付き合ってられる程、俺らは暇じゃないんだよ。後日、ボイスレコーダーとカメラをトレセンとURA経由で返却してやるから、今日はもう帰れ」
「我々メディアにこんな横暴な振る舞いをして、ただで済むとお思いで?」
「ああ、思うね。こちとら散々大事なウマ娘達を傷だらけにされてんだ。いい加減、俺達も我慢の限界なんだよ。なんなら、今から一緒に警察行くか? この辺、アンタらみたいな不審者が出るせいで、巡査がしょっちゅう巡回してんだぜ?」
沖野トレーナーのその一言に、記者さんは苦虫を噛み潰したような顔をした。
「必ず、後悔させて差し上げますよ。民意を甘く見た償いは安くありませんよ」
「お、来た来た。すんませーん、此処にうちの生徒に手を出した変態が──」
「──失礼します!」
ぎりりと歯を食いしばって、記者さんは俺達を睥睨した。そのまま、肩を怒らせながらスタンドライトが照らす場所の向こう側へと去って行く。
辺りは何事もなかったように、静けさを取り戻した。
「──何処かへ行きましたよーっと。そんなに都合良くお巡りさんが来るかってんだ」
沖野トレーナーは呆れたように呟いた。記者さんが消えた方角を暫く眺めて、一つ頷いてから此方へと向き直る。
そして──がばりと、俺達に向けて頭を下げた。さっき似た光景を見たな、なんて考えが脳裏を過ぎる。
「すまん! 施設の防犯を過信し過ぎた! もう二度とあんなバ鹿が寄って来ないように細心の注意を払う! 許してくれ!」
「ちょっ、ちょっと待って下さい! スピカのトレーナーさんは何も悪くないですって!」
「そうそう、どちらかと言えば人目に付くところで騒いでた僕らが悪いんだし!」
「スピカのトレーナーさんには感謝こそすれど、謝って頂く事なんてありませんよ」
「あの……そもそも俺が居たせいであの記者さんは来たみたいなので、むしろご迷惑お掛けしてすいません」
沖野トレーナーは俺の担当ではなく、チームスピカのトレーナーである。他の三人も、全員が俺とは別チームのウマ娘だ。
今回の場合、俺以外の全員は巻き込まれた被害者だろう。謝らなければならないのは、俺だけである。
……そう思って頭を下げたが、静かな視線が幾つも頭頂に突き刺さっているのを感じる。
居た堪れなさを感じて、ゆっくりと顔を上げようとして──ばちこんっ、と背中を叩かれた。痛みに耐えながら背中を叩いた犯人へと目を向ければ、やはりと言うべきか。とても良い笑顔を浮かべたゴールドシップ先輩が、手をひらひらとさせていた。
「ちゃんと謝れて偉い──なんて言うと思ったかばっきゃろお! 今回のはお前はなんも悪くねぇんだよ! むしろ、あんなんに絡まれて良く頑張ったぜ、おめぇらはよ! ほら、良い子にはゴルシサンタさんからちょっと早いクリスマスプレゼントだ! メリクリウスメリクリウス!」
先程、沖野トレーナーが出て来たずた袋へと、ゴールドシップ先輩が手を突っ込む。そして、筆箱くらいの大きさの箱を四つ取り出した。
それを見て、沖野トレーナーがぎょっとした目になる。
「ゴルシ、今それ何処から出した?」
「ああ? んなもんゴル次元空間に決まってんだろ。何言ってんだトレーナー。頭大丈夫か?」
「え、いや……え? ゴル次元空間って何? さっきまで何も入ってなかったよな、その袋」
ゴールドシップ先輩は沖野トレーナーを無視して、俺達に一つずつ箱を渡した。
開けてみ、とジェスチャーを貰ったので蓋を開ける。
そこには、こけしの亜種のような、円柱形の変な人形が入っていた。何故か既視感を覚える。
他の三人に目を向けても、同じ物が入っていたようで、お互いに顔を見合わせた。
先輩へと、代表して口を開く。
「……ゴールドシップ先輩。なんですか、これ」
「何っておめぇ、何処からどう見ても防犯ブザーだろ」
「防犯ブザー!? これ防犯ブザーなの!?」
藍染色の子が目を真ん丸くしながら反応した。
記者さんが来る前の一幕と良い、もしかしたら本当は突っ込み体質の子なのかもしれない。
「あの……えっと、ありがとうございます、ゴールドシップ先輩」
「なんだよ、堅ぇなぁ。ゴルシちゃんで良いぜ、ゴルシちゃんでよ」
「すいません。ゴルシちゃんはもう
ゴールドシップ先輩は目をきょとんとさせた後……妙に機嫌が良さそうに、ばしばし背中を叩いて来る。
さっきよりも力は控え目だが、さっきので背中がひりひりしている為、地味に痛い。
「そうかそうか! 友達にゴルシちゃんが居るのか! ならしょうがねぇな! 特別にゴルシちゃんのゴルシちゃんを、そのゴルシちゃんに譲ってやんぜ! その代わり、きちんとその防犯ブザー持ち歩けよな!」
「ありがとうございます。でも、俺ももう大人なので、流石に防犯ブザー持ち歩くのはちょっと……」
おずおずと、先輩へ防犯ブザーの携帯を辞する。
すると、何故か本日何度目かの静寂が訪れた。
全員の顔を見回せば真顔があり……そして、沖野トレーナーが吹き出した。
「……アフタ、ナイスジョークだ。そうだよな、お前だって大人を名乗る年頃だよな」
「えっ? いや、どういう意味です? と言うか、どうして笑うんですか?」
「いやいや、何でもない。何でもないさ。それより、早く帰って飯だ、飯! 大人になるには、好き嫌いせず食うのも大事だからな! 俺はこいつら送ってから宿に戻るから、ゴルシと先に戻って食べ始めててくれ」
沖野トレーナーはゴールドシップ先輩から先程のカメラを受け取り、そう促した。特に反対する理由はないので頷きを返す。
別れの挨拶をする為、最近何かと縁の多い三人組と向き直った。三人は何かをアイコンタクトで示し合った後、此方へ真っ直ぐな視線を向けて来る。
俺が口を開くより先に、藍染色の子が口を開いた。
「アンタは、今日の事は忘れなさい。
「……善処するよ」
「善処じゃなくて必ずよ。アンタはアンタらしく、呑気に走ってれば良いの。その内、アンタのバ鹿面を拝みに
刺さる様な目線が、薄暗さを裂いて俺へと突き刺さった。
それじゃあね、なんて言いながら、沖野トレーナーと三人組が離れて行く。「また明日」とか「おやすみなさい」とか、そんな言葉すら言いそびれてしまった。こんなんだから友達出来ないんだよなぁ……と肩を落とす。
──今さ、しれーっと『私が』って言ってたけど、あれずるくない?
──そうやって抜け駆けしてると、足を掬ってしまいますよ?
──ふん、出来るものならやってみなさい。一番速いのは私よ。
暗さが増す毎に大きく見える山の威容へと、そんな会話が遠ざかって行く。
彼女達の宿は、スピカが借りている旅館とは全然違う方角にあるようだった。声が殆ど聞こえなくなってから、ゴールドシップ先輩が「そんじゃ、アタシ達も帰るか」と当たり前のように言った。
帰る場所があるのは、良い事だ。例えそれが間借りしている場所であっても。本来の帰る場所が遠くても、良い事なのだ。
──ではどうしてこんな所にいらっしゃるんですか? リギルは現在、別の場所で合宿を行っているじゃないですか。リギルに見限られてスピカに移籍した……そんな噂が流れていますが、それは事実なのではないですか?
……無性に、リギルの部室に帰りたい。誰かの声があって、眼差しがあって、温度があって。
紛い物の俺にも、優しくしてくれた場所。本当は俺が居るべき場所じゃないけれど……それでも、あの輪の中に帰りたい。
だから『有馬記念』を、必ず勝たなければならない。皆の『英雄』になって、勝たなければならない。
それだけが、俺があの場所に居られる方法だから。
いつの間にか、空の雲の隙間から、月が顔を出している。今日の月も、相変わらず欠けている。
風情なんて何処にもない、半端者の月へと……俺は、次の夢の舞台での勝利を誓った。
……月を囲んで光を飲む雲に、くすくすと笑われた気がした。
スピカの先輩方が待つ旅館は、直ぐそこにある。
防犯ブザー音『ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"ア"!エンダアアアアアアアアアアアアアアアアア! モルスァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ! Help you! Just away!』
もうそろそろ有馬記念パートに入りますが、ちょっとトレーナーとしてシンオウを冒険しなければならないので、次回更新は遅くなるかもしれません。